横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

狗邪韓国について(前編)

狗邪韓国の位置について考えた話(前編)です

 

 

狗邪韓国は倭か韓か

 狗邪韓国は、『魏志倭人伝』に記されている、邪馬台国までの旅程の中で、最初にに出て来る倭(倭人)の国です。

その部分の原文と日本語訳を引用します。

「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

「郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。」

引用元:魏志倭人伝 - Wikipedia

最初に出てくる倭(倭人)の国だと書きましたが、この辺りは議論の有るところとなっています。

問題は、「到其北岸狗邪韓國(その北岸の狗邪韓国に至る)」という記述に有ります。

「その北岸」をどのように解釈するかによって、狗邪韓国の立場がまったく逆になってしまうのです。

1.文字通り、倭の北岸と考えて、狗邪韓国が倭の北の端の国だとする。
  つまり倭の国。
2.北岸を倭の北の対岸、または倭の海の北と接する海岸と考える。
  つまり韓の国。

狗邪韓国は、倭なのでしょうか、韓なのでしょうか。

韓伝から考えると

 『魏志倭人伝』は、正確には『三国志』中の「魏書」第30巻「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称なのですが、東夷伝の中には、韓について書かれた部分(以下『韓伝』)も当然存在します。

その『韓伝』には、当時の朝鮮半島の国について次のように書かれています。

「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。」

引用元:魏志倭人伝 - Wikipedia

馬韓辰韓弁韓」の三国に分かれていると言っている訳です。

もし狗邪韓国が、韓なのであれば、ここに記述が無ければならないはずです。

それが無いという事は、狗邪韓国は倭の国だという事になります。

北岸と言うからには

 狗邪韓国が倭の国という事は、北岸の意味するところは、倭の北岸だと言えそうです。

さらに、北端とかでなく、北岸と書いているからには、やはり実際に北の海岸だったという事なのでは無いでしょうか。

朝鮮半島の南部で、北側に海岸が有るという事なので、陸続きではあり得ません。

ではどう考えるのかというと、朝鮮半島の南に有る島だと考えれば条件を満足しそうです。

島の北側の、朝鮮半島に面した側の海岸だと考えるわけです。

更に、そこから1000里の海を渡ると対馬に至るのですから、単里で考えれば、対馬から約70キロ程度の距離にある島という事になります。

地図でこれらの条件に合う島を探して見ると、どうやら巨済島が当てはまりそうです。
 

f:id:t_arata:20220317201700j:plain

引用元:https://www.sankei.com/gallery/20170410-SDNMIP45MZKAJO2QV5W2U6RSPQ/

 

私的には、狗邪韓国は巨済島に有ったというのが結論です。


 理屈は通っているように思うのですが、実は巨済島だとすると、上記の『韓伝』の他の記述と矛盾すると言う問題が有ります。
そのあたりは次回に。


ではでは

「記紀」「その他六国史」関連まとめを作りました

 

 気が付いたら、『日本書紀』関連の記事が多くなってきたので、『古事記』、『六国史』の残りも含めてまとめをつくりました。

「記紀」「その他六国史」関連まとめ - 横から失礼します

ついでと言っては何ですが、メインコンテンツと言いながら最近メンテしていていなかった邪馬台国関連も、抜けていた記事を追加しました。

「邪馬台国」関連まとめ 

 

 

「記紀」「その他六国史」関連まとめ

記紀」「その他六国史」関連の記事のまとめです

 

 

古事記』関連

 『古事記』に関しては、従来考えられている天武天皇によって作られた国内向けの歴史書という見方とは異なるのではないかという考えと、それから派生する話になります。

『古事記』は何時、何のために書かれたのか

古事記と継体王朝

『古事記』と『日本書紀』

 

日本書紀』関連

 『日本書紀』に関しても、その成立に関する従来の説とは異なる観点から、その編纂の背景について考えた話(その1~3)と、その事から派生する話(その4~5)となります。

『日本書紀』が編纂された目的 その1

『日本書紀』が編纂された目的 その2

『日本書紀』が編纂された目的 その3

『日本書紀』が編纂された目的 その4 

『日本書紀』が編纂された目的 その5 

『日本書紀』が編纂された目的 その6 

さらに、宮中で行われた「日本紀講筵」という行事を通して、『日本書紀』の編纂にかけられた期間について検討しています。

「日本紀講筵」から『日本書紀』を考える(前編)

「日本紀講筵」から『日本書紀』を考える(後編)

日本書紀』に関する区分研究からも、その編纂に関していくつかの点について考えています。

『日本書紀』の区分と「日本紀講筵」

『日本書紀』の区分と画期

その他にも、邪馬台国との関係で、『日本書紀』の内容についてもいくつか記事を書いていますので、良ければそちらも見ていただければと思います。

「邪馬台国」関連まとめ 

 

「その他六国史」関連

 日本における「正史」である「六国史」の内、『日本書紀』を除く5つについて、主に「何のために誰が編纂させたのか」という観点から考えた記事となっています。
加えて、「日本の正史」について及び、なぜ「六国史」で終わったのかについても考えています。

日本の正史 

『続日本紀』その1 

『続日本紀』その2 

『続日本紀』その3 

『日本後紀』

『続日本後紀』 

『日本文徳天皇実録』 

『日本三代実録』 

なぜ『六国史』で終わったのか 

『日本書紀』の区分と画期

日本書紀』の区分と画期について考えた話です

 

前回の記事

 前回の記事は、「日本紀講筵」で漢文の読み下し方が講義された部分が、『日本書紀』のどの部分かという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』の区分に関する研究から、第13巻までの漢文が、初歩的な文法・語彙の誤りが多く見られることから、日本人によるものであるとされている点から、13巻までが「日本紀講筵」の対象ではとした訳です。

さらにその事が、『日本書紀』の編纂が従来考えられてきた約40年ではなく、もっと短期間に行われた事を示す傍証の一つになるのではと考えました。

第13巻と第14巻の間

 さて、この第13巻までと第14巻以降については、その漢文の違い以外にも、語句の使い方等様々な点で差異が見られる事が明らかになっています。

様々な観点から分類されているにも関わらず、その多くで第13巻と14巻の間で分けられるという点が共通しているようなのです。

ちなみに、第13巻は允恭天皇、第14巻は雄略天皇の話とそれぞれなっています。

これらの事から、古代史の上で雄略天皇以前と以降で大きな変化があったのではないかと考えられているようです。

具体的には、『記紀』に見られる専制君主的な記述などから、それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとするといった事が考えられています。

しかし、もしそうだったとしても、それまで日本人が行ってきた記録を、中国人に任せるのを始めとしたの、様々な変更を行う事になる理由が無いように思われるのです。

専制支配体制を確立したのは、中国人の住む場所では無く、日本列島ですからね。

一つの仮説

 色々と考えているうちに、一つ仮説を思いつきました。

それは、「画期が有ったのは日本ではなく中国だ」というものです。

画期が有ったとされる雄略天皇は、『日本書紀』の記述から西暦に換算すると457年に即位したという事になるようです。

同時代の中国はどうなっていたかというと、その少し前の442年に北魏華北を統一しています。

南には東晋の後を受けた宋があり、この後隋が統一するまで中国は南北朝時代が続くことになります。

つまり、本ブログで邪馬台国の東進の原因となったと考えている、大動乱の五胡十六国時代が約150年続いたのちに、とうとう収拾されたという事になります。

この出来事こそが、画期の正体だったのではないかと思うのです。

安定した時代になったので

 南北に分かれてはいますが、それまでの五胡十六国時代に比べると安定した時代だったと考えられます。

特に、南の宋では、北の北魏華北の統一に追われている前後は、比較的平和だったようです。

それを示すように、この時代から所謂「倭の五王」が使者を送る様になります。

つまり、中国との交流が復活したということで、中国から人や物がやって来るようになったと考えられます。

これは、中国の最新の技術、学問を身に付けた人材がやって来るようになったことを意味します。

その人材が登用されて、記録を作成する仕事にも就いたという事なのではないでしょうか。

そのため、それまでの記録と一線を画す水準のものが残されることになったのです。

それを現代から見ると、その時代に何か重大な画期が有ったかのように見えるという事なのだと思います。


 画期が有ったのはわが国ではなく中国で、その実態は五胡十六国時代の終焉なのではないかという話でした。


ではでは

『日本書紀』の区分と「日本紀講筵」

日本書紀』の区分と「日本紀講筵」の関係についての話です

 

 

日本書紀』と「日本紀講筵」

 前回までの2回の記事で『日本書紀』の編纂期間について書いて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

yokositu.hatenablog.com

 

完成してすぐにその読み下し方を講義する「日本紀講筵」が行われたことから、その
編纂は、従来考えられて来た約40年ではなく、もっと短い期間で行われたと考えました。

短かいことで全てを新たに書き起こす時間が無く、古い時代の文章がそのまま引用されたために、同時代の宮廷人に読むことの出来ない部分が出来たので、「日本紀講筵」が行われたという訳です。

では、実際にはどのあたりが読みにくかったのでしょう。

それは「日本紀講筵」の内容を確認すれば一目瞭然なはずなのですが、残念ながら、書紀完成の翌年に行われた「日本紀講筵」の内容の直接的な記録は残っていません。

その上、その次に「日本紀講筵」が開かれたのは約90年後であり、その時の講義の対象は30巻全体に及んでいるようです。

90年後には、すでに全体が講義対象となってしまっているのです。

そのあたりを、他の面から考えて見よう思います。

日本書紀』の区分論

 『日本書紀』は30巻から成りますが、その文章に使われている語句の傾向など様々な観点から、いくつかのグループに分類出来ると考えられており、多くの種類の区分論が展開されています。

日本書紀』の編纂が、従来のように約40年の期間をかけて編纂されたと考えると、当然関わった人の数も多く、分担して編集されたと考えるのが妥当でしょう。

そのため、担当した人間の漢文に対する習熟度合いや、各人の書く文章の特徴などが各巻に反映されることとなったと想像が出来ます。

結果、『日本書紀』がいくつかのグループに分類される、と考えられているわけです。

漢文の分析による区分

 その一例の、使われている漢文の分析からは、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが多く見られることから、第13巻以前の巻には、中国語を母語としない人、すなわち日本人が関わったと考えられているようです。

それに対して第14巻以降は、漢文としては正しい代わりに、日本人だったら間違えないような内容が有る事から、中国語を母国語とする人が書いたのではないかとされているようです。

この区分を、従来の考え方では、上記のように編纂に複数の人間が関わった結果とします。

しかし、編纂に40年もかけたのならば、いくらでも校正の時間が有ったはずです。

ここは、もっとシンプルに、『日本書紀』の基となった資料に元々こういった差異があって、時間が限られたためにそのまま引用されたと考える方が自然でしょう。

そして、この第13巻までの日本人が書いたと思われる部分が、日本人が書いたが故の文法・語彙の誤りにより、当代の人々にはかえって読み難くくなっていたのではないでしょうか。

その部分が、「日本紀講筵」で講義の対象となったと考えれば、納得が行くと思うのですが。


 という事だとすると、13巻と14巻に書かれた時代の間で、いかにも何かあったように思えますが、どうなんでしょう。


ではでは

「日本紀講筵」から『日本書紀』を考える(後編)

日本紀講筵」から『日本書紀』を考えてみた話(後編)です

 

 

日本紀講筵」の行われた謎

 前編は、『日本書紀』が漢文で書かれているにもかかわらず、漢文の読み書きが必須で有ったと考えられる同時代の宮廷人に、その読み下し方を講義する「日本紀講筵」が行われたのが謎だという話でした。

リンク:「日本紀講筵」から『日本書紀』を考える(前編)

しかし、実際に読み下し方を講義していたのですから、現実に読めない部分があった事は間違いない事になります。

この点について、前編では、約40年と考えられている『日本書紀』の編纂期間程度では、書かれた文章が読めなくなることは、常識的に考えて有り得ないだろうと考えました。

例として、現時点で考えると40年前は昭和の終わりごろであり、その頃の文章が読めないという事は無いだろうということです。

古文、漢文の授業

 ところで、40年とは言わず、さらに遡るとどうでしょう。

江戸時代以前まで遡ったとすると、その頃の文章を簡単に読んだり、意味を取ったりすることは難しくなります。

そのため、古文や漢文の授業という形で、その時代の言葉の使い方、意味について学ぶ事になります。

それの『日本書記』版が「日本紀講筵」という事なのではないでしょうか。

『日本書記』に、当時の宮廷人から見て、そのままでは言葉使いが理解できない古い文章が存在しており、それを理解出来るようになるために、現代の古文、漢文の授業に相当するものを受けたという訳です。

編纂は短時間だった

 これはどう考えれば良いのかという事になりますが、ポイントは編纂にかかった時間に有るのではないかと思うのです。

もし従来考えられているように、編纂に40年という時間が使われたので有れば、纏めるに当たって、文体が古くて読みにくいものをそのまま書き写すのではなく、読み下せるように書き換える時間は十分に有ったはずです。

そうなっていないという事は、『日本書紀』が従来考えられているよりは、短期間で纏められたものだという事を示しているのではないでしょうか。

日本書紀』は『帝紀』や『旧辞』などの昔から纏められてきたものを原資料として編纂された訳ですが、時間がないことからそのままもって来て形を整えるだけになってしまったのです。

そのため、古い時代の資料から持ってきた部分は、当代の人たちには読み難いものになってしまったので、「日本紀講筵」が行われることになったという事なのではないでしょうか。

日本紀講筵」が傍証に

ところで個人的には、『日本書紀』は、藤原不比等が自らが築き上げた権力構造の正当性を示すために編纂させたと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

さらに編纂は、老齢の域に達した不比等が、自分亡き後の藤原家を見据えて行った事だと考えました。

そのため、編纂のために許された時間は少なく、そのことが『日本書紀』の特徴にも表れていると考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

これらの考えの一端を、今回の話は裏付けていると思うのですがどうでしょうか。


今回は、「日本紀講筵」の存在が、『日本書紀』の編纂過程を反映しているのではないかという話でした。


ではでは

「日本紀講筵」から『日本書紀』を考える(前編)

日本紀講筵」から『日本書紀』を考えてみた話(前編)です

 

 

まるで漢文の授業

 「日本紀講筵」は、『日本書紀』の成立後から平安時代にかけて宮中で行われた『日本書紀』に関する講義です。

現代の歴史の授業のように、学生に対する教育としてならまだ分かりますが、国史について、同時代人それも宮廷人に講義を行うというのはどういう事でしょう。

個人的には、『日本書紀』が天皇政権の内部的な資料である「帝紀」などを基に編纂されたために、一般的にはその内容を知られていなかったので、国史としての内容を公式なものとして知らしめるために、講義が行われたぐらいに考えていました。

ところが、改めて調べて見ると、講筵では『日本書紀』の漢語の訓読が主要な内容だったようなのです。

勿論、その内容についての話もあったようですが、ほとんどはどうやってその文章を読み下すのかというものだったのです。

これではまるで、高校の漢文の授業ではないですか。

漢文は必須だった

 最初の「日本紀講筵」は、『日本書紀』完成の翌年には行われたようなので、完成直後から読めないという声が有ったこと伺わせます。

しかし、これはチョットおかしな話なのです。

上にも書いたように、「日本紀講筵」は宮中で行われた講義です。

という事は、その講義を受けるのは、宮中に参内出来る立場の者という事になります。

その人たちが、漢文を読み書き出来ない筈がないのです。

何しろ、当時はまだ平仮名などという便利なものはないわけで、文章は、公的私的にかかわらず、全て漢文で書かれていたのです。

その読み書きを学ぶことは、将来宮中に参内するようになると考えられる立場の人間にとって、必須だったはずです。

なぜ、その人たちに対して講義する必要があったのでしょうか。

それでも読めない部分があった

 それでも読み方を講義するからには、彼ら宮廷人には『日本書紀』に簡単には読めない部分があったという事になります。

編纂に長い期間掛かったためだという事はないでしょうか。
特に初期に使われていた言葉が古くなって、分からないという可能性です。

一般には、『日本書紀』の編纂には約40年かかっていると考えられています。

確かに40年というのは短くはない期間ではありますが、その程度の昔に書かれた文章が読めなくなるということは考えられないでしょう。

昭和の終わり頃に書かれた文章は、表現に古いものを感じるとかの違和感は有っても、読めないという事は有りませんよね。

これは考え難いようです。

そもそも新たに国史として作られた書物の文章が、当代の宮廷人に読めないという事は普通に考えておかしな話なのです。


疑問にまみれたまま続きます。


ではでは

その後の英語、日本語、英語の順で

英語の学習法についてのその後の話です。

 

 

9ケ月前だった

 少し前に記事を、と思ったのですが、この記事を書くにあたって見てみたら昨年の5月に書いていました、なんと9ケ月前です、感覚としてはせいぜい半年ぐらいかなと思っていたのですが、あっという間に月日は過ぎていきますね。

時の流れの不思議は改めて考えるとして、9ヶ月前に次のような記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

題名そのままに、英語、日本語、英語の順で作られているYoutube上の英語教材が、独習用にいいんじゃないかというものでした。

普通は別々に行わなければならない、リスニングと、音読またはシャドーイングのスピーキングの練習が一度に出来そうだと思ったわけです。

加えて、それだけで完結しているので、ながら学習にもピッタリだと考えたのでした。

記事の最後に書いたように、屁理屈先行の実践不足な下手の横好きなので、これまでのように途中で飽きるかなと思ったのですが、今回は今日に至るまで続くという事になりました。

結果はいかに

 我ながらよく続いてるというところでしょうか。

先ず、現在実際に使っているのはこれになります。

www.youtube.com

英語、日本語、英語の順では無いのですが、記事でも取り上げた、英単語の「92%」をカバーする英単語リストNGLSの例文付きというもので、上の記事を書いた後にみつけたものです。

これを、家事などの作業中に、ながら再生しています。

で、その効果の程はどうなんだということですが。

自己採点にはなりますが、ざっと全体の8割ぐらいは覚えているというところでしょうか。
例文に関しては、そこそこといったところでしょうか。

良かった点など

 ながら再生しかしていないにもかかわらずにこの割合は、なかなか良いんじゃないかでしょうか。
少なくとも、私的には大満足です。

何より良い点は、ながら再生するだけなので、時間的だけではなく、精神的にも負担がほぼ無かった事です。

もちろん、記憶しようという努力もほぼしませんでした。
それどころか、作業しながらなので、意識が別の方に行っていることも多くなりがちでした。

回数をこなしたからか

 これはなかなか興味深いです。

記憶に関しては、以下のような記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

脳が、どのようにして記憶しているのか考えた話ですが、回数をこなす事が重要なのではないかというのが結論の一つでいた。

今回の事は、ながら再生をすることで、図らずも回数をこなすことになった結果、記憶出来たと考えることが出来るかもしれません。


 記憶もののコツは、記憶しようとするのではなく、回数をこなして脳に記憶してもらうという事なのかもしれません。


ではでは

縄文という見方

縄文という見方について考えて見た話です。

 

 

土偶について

 縄文時代について、特に土偶に着目して記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

yokositu.hatenablog.com

 

何らかの祭祀を執り行っていた人物を、人形として形作る事で、その力を常に身近に置いておこうとしたものでは無いかと考えました。

その話の中で、様々な形態がある点については、今の祭りにも多様性がみられることを根拠として挙げました。

土偶は多様

 その時にも引用した変遷図が下のようなものでした。

 

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引用元:土偶 | 新美術情報2017

改めて見ると、その多様性の大きさに驚かされます。

ところで、この変遷図は縦軸が、土偶の発見された地域を表し、下の中部・東海から最上部の北海道まで北上する形で表示されています。

横軸は、発見された時期を表し、左の縄文草創期から右端の弥生前・中期までの順で並べられています。

縄文草創期から晩期までの縄文時代は概ね1万3000年間!!と考えられているようです。

つまり土偶と一括りにされているものは、ほぼ日本列島の東半分で1万3000年に渡って作られたものになる訳です。

であるならば、変遷図にあるような多様性は有って当然でしょう。

むしろ、同じようなものしか発見されていなかったら、そのほうが驚きでしょう。

縄文という括り方

 これらを、縄文という概念で一括りにして考えるから分かり難くなるのではないでしょうか。

例えば私は、縄文時代と言えば「火焔型土器」の時代だという感じを強く持っていました。

ところが、「火焔型土器」は、縄文中期の新潟県信濃川流域地域を中心に多く発見される、時期的にも地域的にも限定されたもののようなのです。

縄文時代に、皆が皆作っていたわけでは全然ないのです。

それを基に、縄文人の精神的ななにかを反映しているとかいっても、説得力なさそうですよね。

せいぜい、ある時代と地域に住んでいた人々の精神的な何かを反映している、という程度では無いでしょうか。

日本列島という地理的な広がりと、1万3000年という時間的な長さの中で、縄文として一括りには出来ないと思うのです。


 まあ私が、ちゃんと縄文時代について調べもせずに、印象で考えていたというだけの話ではあるんですけども。


ではでは

紙はドンドン溜まる(押入れ攻略編)

紙類の整理法を使った、押入れの中に溜まった紙類の処理についての話です

 

 

次は押入れの中

 チョット前に、郵便物などの紙類の整理法について記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

出来る限り分類はせずに、処理済のものを年ごとにまとめて保管することにして、処理の手間を最小限にするというのがポイントでした。

記事の終わりの方で、この方法で、これまで押し入れに突っ込んでいた過去の大量の紙類を整理出来そうだと書きました。

今日は、その押し入れ内にある過去分紙類ダンジョン攻略に関する話です。

淡々と処理するだけだが

 出来る限りシンプルで納得出来る整理法を考えたつもりなので、後はそれに従って淡々と処理をしていけばいいだけです。

とはいうものの、簡単にしたとは言っても、押入れの中にはそれなりの時間が掛かる量が有る訳で、なかなか取り掛かる踏ん切りがつきませんでした。

そのための時間を確保しないといけないですしね。

そもそも、はいそうですかと出来るようならば、そもそも現在のような押入れの中の状況にはなってない訳ですよ。

と言い訳ばかりしていても、何も解決しないので、攻略法を考えることにしました。

要は、取り掛かるのに負担のない方法を考えればよさそうです。

そうすれば、後は時間を何とかすれば、取り掛かる事は出来そうです。

という訳で、色々と試行錯誤していたんですが、なかなかこれといった方法をおもいつきませんでした。

辿り着いた方法は

 最終的に、とある方法を思いつきました。

辿り着いた方法はこうです。

・最も居る時間の長い炬燵の席から手の届くところに、紙類や処理するのに必要なものを全て用意しておく。

・何らかの理由で席を立ち、戻って来た時に、いくつか決めた数量の紙類を処理する。

つまり、日常の動きの中で処理をしていこうというものです。

こうする事により、取り掛かるのに負担が無いというか、慣れてしまえば、日常の動作の一部に出来そうなので、取り掛かるという感じが限りなく無くせそうです。

また、後で何とかしようと考えていた、処理する時間についても、毎回戻って来た時に処理する量を1つとか2つと少なくすれば、1分、2分の単位で済みそうなので、考えなくてもいい事になります。

しかも、席を立って戻るというのは、一日で2~3回という事は無く、それなりの回数あるはずなので、一日に処理出来る数もそれなりのものになりそうです。

やってみた

 始めるのも簡単なので(なにしろ、炬燵の席の横に1セット置いておけばいいわけですから)、すぐにやってみました。

最初は、処理を忘れてしまう事も多々あったのですが、何日かやっている間に慣れました。

戻ってきた都度処理する数を、最初は2つという事にしたのですが、気が付くと沢山やっているという事も度々でした。

さらにうれしい誤算だったのは、処理の行為自体が、面倒というよりは意外に息抜きになったりもする事です。

どうもこの方法が、私には正解のようです。


 遠からず、押入れの中のものは片が付きそうな気配なのですが、そうなったらそうなったで、手持ち無沙汰にならないかが逆に心配になって来ました。


ではでは

霜焼けの個人的解決

霜焼けの個人的解決についての話です。

 

 

霜焼けに悩んでいた

 退職してからは、毎日の生活リズムを始めとして色々と変わったのですが、中でもそんなこともあるのかと思った事の一つが、霜焼けです。

霜焼けは、子供の頃にはよくなっていたような気がするのですが、会社勤めの間になった記憶はありません。

それが何故か退職した年の冬から、足の指が霜焼けになるようになったのです。

それ以来、毎年の冬になると、霜焼けに悩まされるという事が続いてきたのですが、ついに今冬になって解決法を発見したので、その話になります。

原因を考える

 霜焼けは、寒さのために血行が悪くなり生じる炎症であり、手足など血管が細い四肢末端に発症しやすい、といった感じのものです。

年を取ってきて、血の巡りが悪くなって来たかとも思いましたが、それにしても、退職した年から急にというのは、さすがに違うだろうとも思いました。

そうなると、退職したことによる環境の変化が関係していると考えざるを得ません。

やはり寒さが関係しているのでしょうか。

確かに、全館に暖房が入っていた会社とは違い、家ではピンポイントでしか温めていないということは有ります。

退職した最初の冬には、日中に家にいると寒いんだと思ったものです。
勤めている時にも、休日には家にいたのに、そんなこと考えたことも無かったんですけどね。

かといって、家丸ごと温めるのも大変なので、靴下とかルームシューズとか色々と試してみました。

結果的には、いずれも最終的には、霜焼けを防ぐ事は出来ませんでした。

ほかにも気になったのが、左足だけ霜焼けになることです。

当初は、退職した事で通勤などが無くなり、その結果として運動不足になった事が原因かとも思いました。

そうだとすると、左足だけ運動をしなくなったなんてことは勿論ないわけで、やはりよく分かりません。

原因が分かった

 という感じで原因についてはよく分からず、ここしばらく冬になると霜焼けに悩まされていたのですが、今冬になって、急転直下解決する事となりました。

昨年、今冬初めての寒波がやって来た日に、今年も霜焼けの季節が来たなどと思いながら、立ち仕事をしていた時に、左足だけ冷えている事に気が付いて、同時に霜焼けの原因についても閃いたのです。

右足重心が原因ではないかと思いついたのです。

昔から、立っている時に、右足に重心が寄って体重が掛かり気味なのは知っていましたが、それと霜焼けとはまったく結びついていなかったです。

しかし考えてみれば、右足に体重が掛かっている事で、左足は遊んでいる状態になっているわけです。
そのため、筋肉もあまり使われていないという事で、筋肉からの熱が少なく、結果として冷え易いと言う事が言えそうだと思ったのです。

という訳で、今冬は、立ち仕事をする時に、出来る限り両足を使うようにしました。

その結果だと私は思っているのですが、ここまで霜焼けにはなっていません。

以上、意外な事が霜焼けの原因だったという話でした。


 最近続いた寒波でも霜焼けにならなかったので、嬉しくなって書いてはみたものの、この先の寒さでなったらがっかりですが、多分大丈夫でしょう。
多分ね。


ではでは 

続・土偶とは何だったのか

前回に続き、土偶について考えた話です。

 

 

モデルが有った

 前回の記事は、土偶は祭祀を行う人物をモデルにとしたものではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

祭祀の際に、神のような超自然的な存在に扮し、そのものとなった姿形を写し取ったのではないかと考えました。

そうすることで、祭祀の時だけではなく、常に身近に置くことが出来るという訳です。

我々にとっての、お札や、お守りのようなものだったかもしれません。

今日の記事は、このように考える事で、土偶に関する様々なことを説明出来るのではないかという話になります。

 

f:id:t_arata:20220206215631j:plain引用元:土偶 | 新美術情報2017

 

人間?、女性?、男性?

 先ず、人型の形状について考えて見たいと思います。

祭祀を行った人物を写し取ったと考えるわけなので、土偶は人間を模ったものになります。

ではよく言われるように、女性をデフォルメしたという点についてはどうでしょうか。

これは、祭祀を行っていたのが女性で有ったという事を示しているという事でしょう。

さらに、男性をデフォルメしたものも有るように見えるのは、祭祀を行っていたのが女性だけでなく、男性の場合も有ったという事になります。

不思議な形状の意味

 次に、宇宙人にも見える、頭部を始めとした不思議とも言える形状については、勿論祭祀を行う時にそういった仮面や扮装をしていたのを反映していると考えます。
これは、現在の各地の祭りにおける多様性を考えれば、様々な形態がある事もうなずけそうです。

その中に、植物や貝に似たものが有っても、それ程おかしい事では無いでしょう。
もっとも、どうしてその形になったかについては、統一した説明は困難でしょう。
基となった各祭祀の在り方は、その意味するところも含めて、それぞれの地域、時期により、別個に様々な経緯を経て作り出されたものだと考えられるからです。

同様に、何のための物だったかについても、単一の理由で解釈するのは難しそうです。
現在でも、お札やお守りに様々な目的が有る様に、土偶にも様々な意味、目的が有ったのだと思います。

一部の土偶で、分布範囲や時期が連続しており、形態が次第に変化していくように見えるものが有りますが、これも一定の地域で祭祀の有り方が変化した事によると考える事が出来そうです。

なぜ壊されているのか

 最後に、土偶の特徴として、遺跡から発見される時に破損していることが多い事が挙げられます。
更に、ゴミ捨て場のようなところから発見されることも非常に多いようです。

上でも書いたように、土偶はお札やお守りのようなものだった訳です。

現在でも、お札やお守りなどはゴミとしてそのまま捨てるのは、なんとなく気持ちが悪いですよね。

何らかの理由で廃棄する事になった時には、そのままの形ではなく、壊すことにより単なる物に戻した上で廃棄したということでは無いでしょうか。

これが、一部を明らかに壊された形で、土偶が発見されることが多い理由でしょう。


 祭祀の中には、宇宙人との邂逅がその始まりだったものがある、という事は無いですかね。


ではでは

土偶とは何だったのか

土偶について考えた話です。

 

 

土偶を読む』に触発されて

 縄文時代の遺物を代表するものとして、あの有名な火焔型土器と、これもまた良く知られた遮光器土偶を代表とする様々な土偶が、双璧と言っていいでしょう。

その土偶に関しては、昨年に竹倉 史人氏の『土偶を読む』という本が出て話題を振りまきました。

何しろ、従来当然のように土偶について語られてきた、女性をデフォルメしたものだという見方に真っ向から異議を申し建てた上に、植物や貝などの食料をモチーフとしたものだというものだったので、賛否取り交ぜた反応が多く見られました。

私的には、なるほどとそりゃないだろうが入り混じって、全てに納得は出来ないというところでしょうか。

ただ、触発されたことは確かで、改めて土偶について考えてみて、なんとなくこんなことなんじゃないかという仮説にたどり着いたので、その話になります。

代表的な土偶を見て見ると

 まず、代表的な土偶の変遷図をご覧ください。

 

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引用元:土偶 | 新美術情報2017

これを見ると、左下あたりのものをみると、確かに女性らしいものも有りますが、単純に女性がモチーフと言うだけでは苦しいように見えますよね。

かといって、植物や貝がモチーフかというと、それらしいものも有るというところでしょうか。

中には、いっそ宇宙人だと言われた方が、納得出来そうなものも有ります。

ざっくりと人型という以外に、全体を通しての共通のモチーフなどは見られないように思えます。

だだ人型と言っても、全体に女性、男性に関わらず、ただ単に人間をデフォルメしただけのものでは無いようにも思えます。

それよりも、「仮面の女神」と呼ばれるものも有る様に、仮面をつけるか、または何らかの扮装をしているように見えるものが多いように感じます。

この、仮面や扮装というところから、一つの仮説を思いつきました。

モデルが有ったのではないか

 それは、実際に仮面を付けたり、扮装をした人物をモデルとして作られたものではないのか、というものです。

一般的に土偶は、縄文時代に祭祀が有ったことの証拠として語られることが多いです。
祭祀に使った道具だと考えられるという事です。

しかし実際には、土偶に見られるような、仮面を付けたり扮装をした人物が行う祭祀が先にあったのではないかと思うのです。

その人物は、現在でも各地の祭祀などで見られるように、仮面を付けたり扮装をしたりすることにより、神またはそれに類する超自然的な存在になったのだと思います。

例えば、秋田の有名な「なまはげ」は、見た目から鬼だと思いがちですが、実は災いを祓いにやってくる来訪神である、といった具合です。

そして、仮面や扮装は、草木などの周りに有るものを使って作ることが出来るので、土器を作る技術、即ち土偶を作る技術が現れる以前から有ったと考えられます。

土器を作る技術を手に入れた時にそれを使って、神となった人物の像、即ち土偶を作ればその力を常に身近に置いておけると考えたのではないでしょうか。


 残念ながら、縄文時代に宇宙人がやって来ていたという事ではなさそうです。


ではでは

紙はドンドン溜まる

すぐに溜まってしまう紙類の整理法についての話です

 

 

紙類は溜まりがち

 郵便物なんかの紙類って、あれよあれよという間に溜まりますよね。

一旦片付けても、机やテーブルの上とか、さらには床の上とかに、あっという間に小山が出来てしまいがちです。

生来めんどくさがりな質なので、片付けと言っても、溜まってきて邪魔になってきたら、まとめて押入れに突っ込むという事でお茶を濁して来ました。

それが、昨年末にある資料を探し出す必要性に迫られて、押入れの中を探し始めた結果、部屋中に紙類が散乱するという惨事になってしまいました。

くだんの資料は、3時間!程で見つかったのですが、さすがにこれは不味いと思いました。

という訳でこの年明けから、紙類の整理について試行錯誤をした結果、それなりの方法にたどり着いたのでその報告です。

一度解決しようとした

 実は、紙類の整理については、かなり以前に一度トライした事が有ります。

野口 悠紀雄氏の「超」整理法というものが話題なったことが有りますが、それを流用すればいけるんじゃないかと考えたのです。

「超」整理法は仕事の案件ごとに、A4書類の入る角封筒に関係書類を入れて、表にラベリングして棚に並べるというものです。

そして、新規に作ったものや使ったものは左の端に戻すようにします、こうする事であまり必要で無いものが、右の端に集まって来るので、必要に応じて処分するなりすることで、常に必要なものが左から並ぶという事になります。

個人で仕事をしているわけでは無いので、仕事毎に仕分けず、適当に分類して、角封筒に入れていけばいんじゃないかとと考えたのです。

分類したのが良くなかった

 結果から言うと、上手くいきませんでした。

最大の問題点は分類することに有りました。

分類した時には、当然それで正しいと思っているのですが、極端な話、しばらくするとどういう基準で分類したかが曖昧になってしまうのです。

その結果、ある書類が必要になった時に、その書類がどう分類されているのかが分からないという、本末転倒なことになってしまうのです。

また、その分類された状況を維持する事自体が、新たな仕事になってしまうという何をやっているのか、分からなくなったということもありました。

という訳で、今回は、出来る限り分類はしない、もしするとしてもその方法が一貫した条件に基づくもので有る事を目標としました。

今回行き着いた方法

 その結果、現在のところ、次のような分類に落ち着きました。

未確認
未処理
処理済
廃棄(当月)
廃棄(前月)
取説・保証書

先ず新たに発生した紙類は未確認に入ります。
出来れば発生時に、その他のどれかに分類するのがベストですが、そうも行かない時には一旦未確認に入れます。

未処理には、内容を確認した上で、請求書等のような何らかの対応が必要なものが入ります。
忘れないように、手帳のカレンダー(期限の有るもの)とToDoリスト(当面期限の無いもの)で管理します。

処理済には、それ以上対応が必要でなく、保存しておくものを入れます。

廃棄(当月)には、最終的に廃棄しても構わないと判断したしたものを入れます。

廃棄(前月)は、毎月初に入っているものを処分し、廃棄(当月)のものを移します。
結果、廃棄対象は最大直近二ヶ月分を保存することになります。
これは、以前に一度、いらないと思っていたものが必要になり、慌てたことがあったので、こうなっています。

処理済については、一年分を一纏めとして保存することにします。
過去の紙類が必要になった時には、ほぼどの年のことなのかは分かるだろうという事で、こうなっています。

取説・保証書については説明の必要は無いでしょう。

これで、未確認に結構溜まる事はありますが、今のところ回っています。

何よりも、処理済を年単位で纏める事にしたことによって、これまで押入れの中にため込んでいたものの処理をやろうという気になっています。
とにかく、保存しておくものか捨てても良いものかを判断して、保存しておくものは対応する年の処理済に入れればいいので、取り組み易いのです。


とはいうものの、押入れの中には、無限に続くのかってぐらいあるんですけどね。


ではでは

 

犬はなぜ最初に友となった

犬が、他の家畜や、何より猫よりも先に飼いならされたのはなぜか考えた話です。

 

 

犬が一番最初に飼いならされた

 前回の話で、オオカミを飼い馴らして、現在の犬になった経緯について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

オオカミの子供が可愛かったので連れて帰ったのが、始まりでは無いかと考えました。

もしそうだとするならば、同じ事はそのほかの飼いならされた動物、馬、牛、豚、羊、鶏、そして勿論猫にも当てはまるはずです。

何しろ、子供が可愛いというのは、全ての動物に共通ですからね。

ところが、実際にはこれらの中で、犬だけが一歩先んじて飼いならされたようなのです。

犬に関しては一万二千年前の女性の墓から子犬の骨が見つかっており、その時期までには飼いならされていたと考えられています。

一方その他の動物に関しては、前後は有るものの概ね一万年前以降に飼いならされたと考えられているようです。

この差は何処から来たのでしょうか。

家畜は草食

前回の記事では、オオカミの子供が飼いならされた要因として、彼らが元々、群れで生活する動物だったことが有るのではないかと考えました。

実はもう一つその要因では無いかというものがあります。

それは、オオカミが肉食だという事です。

その当時の人類は、狩猟採集生活をしていたわけですから、肉食のオオカミの子供に与えるには、自分たちの食べ物を分け与えればよかったのです。

それに対して、馬、牛、豚、羊、そして鶏は、みな草食なのです。

狩猟採集に加えて、彼らの餌も採ってこなければならないことになります。

一般に草食動物の食べる量は、草の栄養価が低いために、大きなものになります。

これは、狩猟採集民には負担が大きすぎたのでしょう。

そのため、彼らが飼いならされるのは、農耕生活となった1万年前以降となったと考えられるのです。

猫は肉食

では、現代のペットで犬と並んで双璧の、猫はどうでしょうか。

猫は、遺伝的研究により、リビアヤマネコが基になっていることが分かっているようです。

ところがリビアヤマネコも肉食なのです。

従って、オオカミと同じで、餌の問題は無かったと考えられます。

そのため、リビアヤマネコの子供を連れ帰った者もいたと思われます。

しかしオオカミと違って、リビアヤマネコは単独行動をする生き物であり、人間の間で生きるのにはあまり向いていなかったと考えられます。

とは言っても、現在でもそうですが、そのあたりが好きだという人もいたでしょう。

それでも、オオカミとは違って、人間の狩りを手伝うような事は無かったという点で、その飼育が広がるという事は無かったのでしょう。

それを裏付ける様に、猫も、犬以外の家畜と同様に、農耕が始まってから飼育が始まったと考えられているようです。

これは、ネズミなどから農作物を守るという役目を果たすことが出来る事から、飼育されるようになったと考えられているようです。


まあ、先だろうが後だろうが、どちらも居てくれてありがとうですよね。


ではでは