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『古事記』は何時、何のために書かれたのか

 『古事記』の成立時期と目的に関する話です

 

 

何時書かれたのか

 『古事記』に関しては、以前から気になっていたことが有ります。
それは、その記述が、なぜ推古天皇までなのかという事です。

 『古事記』は、その序文の記述によれば、天武天皇の命により、稗田阿礼帝紀旧辞を覚え、それを元明天皇の命を受けた太安万侶が編纂したものとなっています。

帝紀は、通常歴代の天皇あるいは皇室の系譜類と考えられています。
とすれば、天武天皇稗田阿礼に命じたときには、その先代の第39代弘文天皇まで記録されていたはずです。

それを稗田阿礼が覚えて、編纂したのならば、弘文天皇までなければおかしいことになります。
なにしろ、序文によれば、稗田阿礼は、一度見れば覚えることが出来、忘れることが無かったようですから。

それが、推古天皇までしかないという事は、『古事記』本文は、推古天皇の代から程なく書かれた可能性が高いという事を示しているのではないでしょうか。

この事は、『日本書紀』ではすでに消失している仮名遣いが、『古事記』本文に見られることとも符合します。(推古天皇は、『日本書紀』より100年程前の時代の天皇となります)
なお、序文には、同仮名遣いは全く使われていません。

という事は、天武、元明の両天皇に命を受けたという事は有り得ず、『古事記』の序文は、後に付け加えられたものと言う事になります。
後世に、何らかの理由で『古事記』本文を利用しようとして、権威付けのために、天皇からの命を受けたように装ったものではないでしょうか。

何のために書かれたのか

 では、『古事記』本文は、なんのために書かれたのでしょうか。

推古天皇の次を決めるにあたり、推古天皇が継嗣を定めていなかったため、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子=舒明天皇 )と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄王)による皇位継承争いが起きたとする説が有ります。(下図参照)

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引用元:舒明天皇 - Wikipedia

 

結果、田村皇子が第34代舒明天皇になる訳ですが、そうなると山背大兄王を支持していた勢力は不遇を託つことになります。

そういった中で、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたのが、『古事記』本文だったのではないでしょうか。

推古天皇時代までの記録の中で、自らの功績と正当性を示すことに拠り、復権の一助としたのだと思います。


 その後、本居宣長に見いだされるまで、ほとんど表舞台に現れなかったことを考えると、残念ながら、あまり役には立たなかったのかもしれません。


 ではでは