『日本文徳天皇実録』について考えた話です
『日本文徳天皇実録』
六国史5冊目ですが、名称を見て一目瞭然、『続日本後紀』に続いて、文徳天皇のみを対象とした一代記です。
という事は、仁明天皇から文徳天皇に続いて、文徳天皇から次の清和天皇への皇位継承にも、正当性を示さなければならない事情が有ったと考えられることになります。
前回の記事で、先代仁明天皇から文徳天皇への皇位継承に絡んで、『続日本後紀』が、急遽仁明天皇一代記として編纂されたと考えました。
時の権力者藤原良房の甥である仁明天皇が皇位についたわけです。
さらに、その仁明天皇には、良房の娘・明子が入内しており、男子を産んでいます。
まさに、万々歳だったはずです。
仲が悪かった
良房にとって誤算だったのは、甥であり娘婿でもある、仁明天皇との折り合いが良くなかったという事だったでしょう。
その大きな理由の一つは、やはり後継者問題だったようです。
良房としては、当然外戚の地位を狙っているので、娘の産んだ男子を後継者にと思っている訳です。
問題は、その男子が、仁明天皇の第四皇子だったという事に有ります。
仁明天皇としては、長男を後継者にしたいと考えていたようです。
まあ、親としては普通の感情ですよね。
しかし、実際に皇太子になったのは、第四皇子でした。
その時、僅かに生後八か月でした。
明らかに、良房の圧力だったと考えて間違いないでしょう。
これでは、悪くなるなという方が無理という感じですよね。
決定的な対立では無かった
最終的に仁明天皇は、皇太子となった第四皇子、後の清和天皇に譲位する代わりに、その清和天皇の皇太子に自分の長男を立太子しようと図りますが、長男の安全を危惧して断念をします。
対立が、抜き差しならない所まで行ってしまったようにも見えますが、改めてよく考えてみると、皇太子である良房の孫への皇位継承については譲歩して、しぶしぶでしょうが認めているとも取れます。
良房側としては、このまま何もしなくても、次に皇太子が天皇に即位するのは決定事項なので、何も問題は有りません。
即位後に、誰を皇太子にするかについては、この仁明天皇の例を見ても明らかなように、何とでもなる訳ですから。
仁明天皇の死により
そんな状況の中、仁明天皇が突然の病により亡くなってしまいます。
31歳の若さでした。
勿論、践祚して清和天皇に成ったのは、良房の孫である皇太子でした。
わずか9歳での即位でした。
仁明天皇の望んだ彼の第一皇子は、皇太子になることは有りませんでした。
良房の兄の長良の娘高子と清和天皇の間に出来た、第一皇子が後に立太子することになります。
特に問題はなさそうだが
こう見て来ると、仁明天皇と良房の仲に問題はあったとはいえ、皇位継承に関しては問題が無いように思えます。
にも拘わらず『日本文徳天皇実録』は編纂されました。
これは、良房になにか後ろめたいことが有った事を伺わせます。
今も昔も、やましい事が有る人間は、言わなくても良い事まで語りたがるものです。
それは、ズバリ、仁明天皇の暗殺でしょう。
しかし、確かに仁明天皇は突然の病でなくなるというのは、いかにも怪しいのですが、上で考えたように、直ぐに暗殺をしなければならないような状況には無かったと考えられます。
それなのに、暗殺しなければならないような原因とは何でしょうか。
年齢が問題だった
それは、良房の年齢だったのだと思います。
仁明天皇が亡くなった時に、良房は54歳で、後に権力を引き継ぐことになる息子の基経は22歳でした。
歴史的な事実としては、良房は68歳まで生きているのですが、それはあくまで結果論です。
この時の良房としては、一般常識的に考えて人生も晩年になり、息子もまだまだ権力を継げる程でなく、権力を継承していくことに焦りがあったと思うのです。
文徳天皇は31歳とまだまだ若く、この先いつ何時心変わりをしてもおかしくありません。
自分が生きている間に、権力の継承を明確にしておくために、暗殺により清和天皇への皇位継承を図ったのでは無いでしょうか。
おそらく、周りにもそういった疑いを持たれていたのでしょう。
それらを払拭、または押さえつけるために、文徳天皇の一代記の編纂を、息子の基経に行わせたのです。
結局藤原良房は、図らずも三冊の国史を、そのうち二冊は天皇の一代記として、編纂することになってしまったという訳です。
ではでは