『古事記』と継体王朝の関係に関する話です
事績が記されていない天皇が
欠史八代と言うのが有ります。
記紀の記述の中で、系譜が記述されているが、その事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを指します。
事績が記されていないことから、実在しないのではないかと考えられています。
中国の歴史に匹敵する古い歴史が有るように見せかけるために、付け加えられたという訳です。
『古事記』の内容を見ていくと、欠史八代と同じように、系譜が記述されているが、その事績が記されない天皇が、ほかにも存在しています。
第27代安閑天皇から第33代推古天皇までです。
実在しないのでしょうか。
そんな訳は無く、『日本書紀』にはその事績が記されています。
しかも、この七代は、『古事記』の最後の部分であり、作者から見て、最も近い時代の天皇達と言うことになります。
作者が、その情報を知らなかったはずはなく、明らかに、故意に事績を記述しなかったと思わざるを得ません。
第26代は継体天皇
継体天皇に関しては、以前の記事で、天皇の地位を簒奪して、新王朝を開いたのではないかと考えました。
その継体天皇に関しても、『古事記』では、応神天皇の5世孫と言うこと以外には、ほとんど事績が書かれておらず、唯一、九州で起こった磐井の乱のみとなっています。
つまり、『古事記』の作者は、継体王朝の天皇に関しては、ほぼ事績を書いていない訳です。
なぜ事績を書かなかったのか
前の記事で、『古事記』は、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたと考えました。
売り込むためには、継体王朝に対する功績を強調する必要がある訳ですが、作者は、事績を書き込むことが出来ない状況にあったのではないでしょうか。
それは、作者が、物部氏の一族だったためだと考えます。
唯一書かれた事績である、磐井の乱で功績のあった者は、乱を収めた物部荒甲大連と大伴金村連になります。
さらに、第31代用明天皇の後継を巡っても、蘇我氏と対立した挙句、大連の物部守屋が戦死することになり、物部氏は政治の中枢から外れることになってしまいます。
事績を書き込むことにすると、これらの事も書かざるを得なくなってしまう訳です。
加えて、山背大兄王の祖母は物部氏と伝えられており、蘇我氏に対抗して、山背大兄王を物部氏が支持し、再び敗れたとも考えられます。
以上のような状況のもと、継体天皇の代における、磐井の乱以外の事績を全て省くことにしたのだと思います。
継体王朝の開祖である、継体天皇との関係のみにすることで、正当性を示すことにしたのでしょう。
継体恩顧の忠臣という訳ですが、残念ながら蘇我氏の力が強く、『古事記』の効果はなく、天武天皇の御代に、物部氏から改めた石上氏が復権するのを待つことになり、『古事記』は表舞台に出ることはなかった、という事ではないでしょうか。
やはり、継体天皇で王朝が変わったのだと思います。
ではでは