『日本書紀』と「日本紀講筵」
前回までの2回の記事で『日本書紀』の編纂期間について書いて来ました。
完成してすぐにその読み下し方を講義する「日本紀講筵」が行われたことから、その
編纂は、従来考えられて来た約40年ではなく、もっと短い期間で行われたと考えました。
短かいことで全てを新たに書き起こす時間が無く、古い時代の文章がそのまま引用されたために、同時代の宮廷人に読むことの出来ない部分が出来たので、「日本紀講筵」が行われたという訳です。
では、実際にはどのあたりが読みにくかったのでしょう。
それは「日本紀講筵」の内容を確認すれば一目瞭然なはずなのですが、残念ながら、書紀完成の翌年に行われた「日本紀講筵」の内容の直接的な記録は残っていません。
その上、その次に「日本紀講筵」が開かれたのは約90年後であり、その時の講義の対象は30巻全体に及んでいるようです。
90年後には、すでに全体が講義対象となってしまっているのです。
そのあたりを、他の面から考えて見よう思います。
『日本書紀』の区分論
『日本書紀』は30巻から成りますが、その文章に使われている語句の傾向など様々な観点から、いくつかのグループに分類出来ると考えられており、多くの種類の区分論が展開されています。
『日本書紀』の編纂が、従来のように約40年の期間をかけて編纂されたと考えると、当然関わった人の数も多く、分担して編集されたと考えるのが妥当でしょう。
そのため、担当した人間の漢文に対する習熟度合いや、各人の書く文章の特徴などが各巻に反映されることとなったと想像が出来ます。
結果、『日本書紀』がいくつかのグループに分類される、と考えられているわけです。
漢文の分析による区分
その一例の、使われている漢文の分析からは、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが多く見られることから、第13巻以前の巻には、中国語を母語としない人、すなわち日本人が関わったと考えられているようです。
それに対して第14巻以降は、漢文としては正しい代わりに、日本人だったら間違えないような内容が有る事から、中国語を母国語とする人が書いたのではないかとされているようです。
この区分を、従来の考え方では、上記のように編纂に複数の人間が関わった結果とします。
しかし、編纂に40年もかけたのならば、いくらでも校正の時間が有ったはずです。
ここは、もっとシンプルに、『日本書紀』の基となった資料に元々こういった差異があって、時間が限られたためにそのまま引用されたと考える方が自然でしょう。
そして、この第13巻までの日本人が書いたと思われる部分が、日本人が書いたが故の文法・語彙の誤りにより、当代の人々にはかえって読み難くくなっていたのではないでしょうか。
その部分が、「日本紀講筵」で講義の対象となったと考えれば、納得が行くと思うのですが。
という事だとすると、13巻と14巻に書かれた時代の間で、いかにも何かあったように思えますが、どうなんでしょう。
ではでは