『続日本紀』について考えた話その1です
『続日本紀』
『続日本紀』は『日本書紀』に続く『六国史』第二の正史という事になります。
文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものとなります。
797年に完成しました。
編纂は、前半部と後半部に分けられると考えられているようです。
前半部は、文武天皇から、孝謙天皇の治世までを扱う形で作られたと思われています。
後半部は、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。
前半部は誰が
ところで、私は、我が国の正史である「六国史」については、王朝の交代こそ無かったが、その時々において、正当性を主張したい者によって編纂されたのではないかと考えています。
前半部と後半部それぞれについて、正当性を主張したい理由を持った人物について考えてみたいと思います。
先ず前半部ですが、文武天皇から孝謙天皇までという事なので、次代の淳仁天皇の時代に編纂されたという事になります。
ところで、この時代の権力は、藤原仲麻呂に有ったと考えてよさそうです。
前半部は、仲麻呂が作らせたのでしょうか。
淳仁天皇と仲麻呂
仲麻呂の権力の源泉は、何と言っても、淳仁天皇の先代孝謙天皇の母であり、先々代の聖武天皇の皇后であった、光明皇后(藤原家出身)の後ろ盾に有りました。
血縁関係としては、仲麻呂の父藤原武智麻呂と光明皇后は兄妹であるので、甥と叔母という関係になります。
仲麻呂は、聖武天皇の遺言に反する形で、孝謙天皇の皇子に後の淳仁天皇を推した上に、自らの長男で故人の真従の未亡人を妻にさせる(もうチョット意味が分かりません。小説ならリアリティが無さすぎだとでも言われそうです。)といった形で、権力を固めていきました。
そして、孝謙天皇が譲位して、淳仁天皇が誕生することにより、仲麻呂の権力も頂点を迎えることになります。
なぜ完成しなかったのか
こういった状況を正当化して、次代に継承するために、仲麻呂が主導する形で、後に『続日本紀』の前半部となるものの編纂が行われたと考えられます。
途中で、後ろ盾で有った光明皇后が亡くなった事も、影響していたかもしれません。
もちろん仲麻呂としては、前半部を作るつもりでは無かったはずです。
にもかかわらず前半部だけで形にならなかったのは、仲麻呂が、例の道鏡との対立から、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」を起こした末に、権力を失ったことによって、中断せざるを得なかったためだと思われます。
次回は、後半部分についての予定です。
ではでは