目次
前回の話
前回の記事では、壬申の乱後について考えてみました。
壬申の乱で勝利した天武天皇が目指したのは、それまでの冊封的な各地の勢力との関係を、より中央集権的なものにするというものでなかったかというものでした。
そのために律令制の導入を目指しましたが、在任中には叶わず、最終的にそれがなったのは、2代後の文武天皇によって制定された「大宝律令」だったという話でした。
今回は、その「大宝律令」制定後の遣唐使について考えて見たいと思います。
703年の遣唐使
「大宝律令」の制定は701年ですが、翌702年には遣唐使を派遣しています。
この遣唐使については、以前の記事で取り上げています。
「旧唐書」によれば、我が国からの使者は、「倭国」と「日本国」の2つの国から、次のような年に送られたとされています。
倭国
631年、648年
日本国
703年、713年、753年、760年、804年、806年、839年
本ブログでは、九州と大和の2つの政権が、白村江の戦い前まで並立していたと考えていますが、上の記述も根拠の一つになっています。
このうちの「日本国」からの703年のものが、大和政権が702年に送ったものと思われます(出発の翌年に到着したわけです)。
「大宝律令」の制定により国内の体制が一応整った形になったことから、663年の白村江の戦い以来の唐との関係を正常化するのが目的だった考えられます。
「倭国」を併した「日本」
この703年の時に、「日本国」の使者は初めて「日本」という名称を使ったとされています。
さらに、この「日本」は元々小さな国であったが、「倭国」を併したのだと主張したようです。
これはひょっとしたら、白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦ったのとは別の国だとミスリードしたかったという事なのではないでしょうか。
703年という事は、663年の白村江の戦いから40年経っているわけで、上手く誤魔化せると考えたのかもしれません。
結果的には、中国側に疑われて終わったようですが、特に断交されたということもなかったので、ひとまず目的は果たしたという事でしょうか。
しかし、「倭国」と「日本国」と別項になっているように、中国側には別の国だという事は認識されていたようですが。
唐としては、白村江の戦いで大勝しているわけで、東夷の小国に対して、こちら側が考えるほど大したことだとは思っていなかった、ということなのかもしれません。
典型的な、「案ずるより産むが易し」だったということでしょうか。
ではでは