『日本後紀』について考えた話です
目次
『日本後紀』
『日本後紀』は、桓武天皇の治世の途中までを記録した形の『続日本紀』の後を受ける形で、桓武天皇の残りの治世と、平城、嵯峨、淳和の、三代の天皇の治世について纏めたものとなります。
淳和天皇の後を継いだ、仁明天皇の在位中の841年に完成しています。
これまで本ブログで考えて来た事から類推すると、仁明天皇またはその時の権力者の意向で作られたという事になります。
仁明天皇系図
何はともあれ、仁明天皇と『日本後紀』で取り上げられた天皇の関係を見てみましょう。
引用元:仁明天皇 - Wikipedia
一見して明らかなように、『日本後紀』に纏められた、平城、嵯峨、淳和の三代の天皇は、いずれも、その先代の桓武天応の子息で有り、兄弟の間で譲位が行われたという事になります。
皇位継承に絡んだ過去の事例から考えると、素直に嫡子へ継承するということがなく、いかにも皇位継承の争いが続いたように見えます。
安定していた治世
現実は、嵯峨天皇が退位後も、上皇として仁明天皇の治世の途中まで存命で有り、影響力を保ったために、政治的には安定した期間だったようです。
そのような状況の中で、仁明天皇の皇太子には、淳和天皇の息子の恒貞親王が建てられました。
またしても嫡子では無かった訳です。
さて、仁明天皇の時代に権力を持っていたのは、藤原良房でした。
彼も、藤原氏の伝統を踏襲するかのように、妹の順子を仁明天皇の中宮とします。
そして、その二人の間に、狙い通りに男子(後の55代文徳天皇)が生まれていました。
この後の文徳天皇への皇位継承の実現と正当化の一助とするために、編纂されたのが『日本後紀』だったのではないでしょうか。
皇位持ち回りの打破
なんとか兄弟間での皇位の持ち回りのような状況を打破して、嫡子相続という形で、自分の甥を天皇につけることにより、権力をゆるぎないものにしようと考えたのだと思います。
それを裏付けるかのように、『日本後紀』が841年に完成した後、長きに渡って君臨した嵯峨上皇が842年に亡くなると、承和の変が起こり、恒貞親王が廃され、後の文徳天皇が皇太子となります。
良房の思惑通りに事は進んだのです。
大筋は、こういった経緯だと思われるのですが、残念ながら『日本後紀』に関しては、応仁の乱の混乱により、全40巻中の10巻しか伝わっておらず、加えて、淳和天皇の代の部分は全て欠けてしまっています。
従って、上記のような事を正当化するような内容が、淳和天皇の代の記述に有ったはずなのですが、その事を確認するための、肝心かなめの部分が欠けていて、確認の仕様が無いという事になっています。
何というか、隔靴掻痒の感は否めず、スッキリしません。
何処かの旧家の蔵辺りから、ひょっこりと写本でも出て来ませんかね。
ではでは