横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

禅とひらめき

禅とひらめきについて考えた話です

 

 

今日は禅についてです

 前回までの記事で、お釈迦様の悟り周辺とひらめきの関係について見て来ました。

 

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今日は、もう少し身近な(何しろお釈迦様は2500年前ですからねえ)禅とひらめきの関係について考えてみます。

禅宗は基本的

 お釈迦様の悟りに至る話を考えると、現在日本に有る多くの仏教諸派の中では、禅宗がその基本的な教えに最も近いのではないでしょうか。

といっても、その他の宗派が劣っているとかいう意味ではありません。

仏への道には様々な辿り方が有るに違いないのでしょうが、その中でも、お釈迦様がたどった方法に最も近いのではないかという意味ですので念のため。

出家して寺院の中で戒律を守って生活をしながら、もっぱら坐禅という形式の瞑想をするというのが、禅宗の形になるかと思います。

これは、一度このブログの記事でも考えたように、お釈迦様が初転法輪で説かれた、悟りに至る方法論である「八正道」に忠実なものと言っていいでしょう。

 

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心身を正した上で瞑想を行うというのは、まさにお釈迦様が悟りに開いた時の状態に近いという事が言えると思います。

曹洞と臨済

 ここまで書いてきた禅の形は、禅宗の中でも「曹洞宗」と呼ばれる宗派のものになります。

それに対して、禅宗にはもう一方の雄(こんな言い方が良いのかどうかは分かりませんが)、「臨済宗」という宗派も有ります。

臨済宗」においても、出家して寺院での生活と坐禅という基本は変わりません(勿論細かい違いはあるようですが)。

話は少しそれますが、通路の方を向いて坐禅しているのは臨済宗、壁の方を向いて坐っているのは曹洞宗と考えていいらしいです。

基本的なところが同じならばその大きな違いは何処に有るかというと、「臨済宗」の「公案」という事になります。

公案

 「公案」とは、修行僧が与えられる問題です。

「両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。」(隻手の声)
 のようなもので、その答えを考える事になります。

お釈迦様が悟った時の事を考えれば、寺院での生活と坐禅で事足りているような気がします。
その証拠に、「曹洞宗」ではそれで完結している訳です。

ならばそれに加える形で存在する「公案」にどんな意味が有るのでしょうか。

公案と考え抜くこと

 私は、この「公案」の存在は、悟りが瞑想の中でのひらめきで開かれると考える事で、理解できるのではないかと思うのです。

デフォルト・モード・ネットワークによるひらめきには、それ以前に対象について考え抜いていることが必要だと考えました。

 

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上記の「隻手の声」のように、「公案」は普通答える事の困難な問題となっています。

考えても考えても答えは見つかりません。

結果、それについて考え抜くことになるのです。

その上で、坐禅の瞑想の中でひらめきが起こるという訳です。

公案」は、ひらめきの起こる条件を強制的に満たすためのものだという事になりそうです。

とは言え「曹洞宗」で修行を行う人も、悟りを開くために出家した訳ですから、その事について考えていない訳ではない筈で、要は程度問題という事になるでしょうか。

やはり悟りに至る道は色々とあるのです。


 とは言っても、ろくでもない考えには、ろくでもないひらめきしか無いのでしょうけどね。


ではでは

お釈迦様と躊躇

お釈迦様が悟りを開いた後に関する話です

 

前回の記事

前回の記事は、お釈迦様が悟りを開いたのは、瞑想の中でデフォルト・モード・ネットワークが働いた上で、何らかのきっかけによりひらめいた結果だったのでは無いかという話でした。

 

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今日は、そう考えると、お釈迦様が悟りを開いた後の行動の理由の説明がつくのではないかという話になります。

教え広めることに消極的

 そのお釈迦様ですが、悟りを開いたのち、かなりの期間それを教え広めることに消極的だったという話があります。

その理由としては、あまりにも常識に反する内容なので、教えても無駄だと考えられたという話が伝わっています。

しかし、教えても分からないからというのは、理由になっていないと思いませんか。

しかも、考え直すきっかけが、仏法の守護神梵天に繰り返し説得されたためという事になっています(梵天勧請)。

さすがにこの辺りは、後世の創作という感じがします。

後付けの理由付け

 最終的には布教をしているわけで、あえてこんな話を作る必要はないと言えばない訳です。

どうやら悟った直後に教え広めることを躊躇したという事実があって、良く知られた話だったという事だったのでしょう。

それが布教に影響しないように後付けで理由を考えたのが、梵天勧請だったと考えれば納得がいきます。

さすがに、おまえら凡人に教えてもどうせ分からないだろうから、無駄な事はしないよ、というのはまずいですよね。

なぜ躊躇したのか

 お釈迦様は、6年の苦行の後の瞑想により悟りを開いた訳で、悟りに関しては深く考えていたと言う事で良いでしょう。

そして、私の考えでは、瞑想中にデフォルト・モード・ネットワークが働き、何らかのきっかけによりひらめいたという事になります。

ところが、悟りに関してひらめいた瞬間に、それが言葉で説明が出来ないものだと分かったという事なのではないでしょうか。

せっかく苦労を重ねてここまで考え求めてきた挙句、答えが手に入ったはいいが、それは言葉で説明できないもので、教えることができない、だから教えない、という事だったのです。

教えられないものを教えるには

 何とかならないかと考えるのに必要な時間が、教えを始めるまでの期間だったのではないでしょうか。

それを後世の人は、梵天勧請の話にしたという事でしょう。

その結果たどり着いたのが、その物自体について説明が出来なくても、それに至る方法は教えることが出来るという結論だったのです。

そして行われたのが、かつて苦行を共にした5人に対して行われた最初の教えである初転法輪に始まる教えだったのではないでしょうか。

これが、初転法輪での教えが、四諦と八正道という専ら悟りに至る方法論だった理由だったのでしょう。


 ところで、最初に躊躇したというのは本人しか知らないはずなので、弟子あたりに問わず語りとかで話したという事なのでしょうか。


ではでは

お釈迦様とひらめき

お釈迦様とひらめきについて考えた話です。

 

 

前回の記事に続き

 前回の記事では、天才のひらめきとデフォルト・モード・ネットワークの関係について考えてみました。

 

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デフォルト・モード・ネットワークを働かせるだけではなく、それ以前に対象について深く考える事も必要では無いかと考えました。

今回の記事は、そういったひらめきの話が、お釈迦様が悟りを開いた話に通じるところが有るのではないかという話になります。

お釈迦様の悟りまで

 何はともあれ、初めに、お釈迦様の悟りに至るまでをおさらいします。

お釈迦様は、紀元前5世紀ごろの北インドに王子として生まれました。

王族としての恵まれた生活の中で、避けられぬ老病死について悩み、その解決のための真理を求めて出家します(いわゆる「四門出遊」です)。

出家をしたお釈迦様は、その後6年にわたって苦行を行ったのですが、苦行で体を痛めつけても、真理にいたることは無いと思い至りました。

そのため、苦行を中止してブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、「悟り」に至るのです。

ひらめいたのではないか

 この話を、前回の天才のひらめきの話に当てはめてみましょう。

先ず、出家してから6年間は苦行を行ったわけですが、その間何も考えずに修行していたという事は有り得ず、当然答えを求めて考え続けていたはずです。

そして、苦行に見切りをつけた後、瞑想を行う事によって悟りに達します。

すると、天才とひらめきの話との対比からすると、瞑想の中でひらめいたのではないかと考えられることになります。

瞑想とデフォルト・モード・ネットワーク

 瞑想の形式には色々とありますが、その多くで共通に出てくる方法論として、頭の中の雑念を無くしてその時に起きている目の前の事柄、例えば呼吸など、に集中するというものがあります。

ただ、雑念を無くせといわれても、容易でないのはご存知の通りです。

考えないようにすればするほど、雑念が湧いてきます。

それに対しては、無理やり消そうとはせずに、浮かんできた考えを客観的に観察したうえで、集中に戻るといったことが推奨されます。

考えてないのに浮かんできて、それを客観的に観察するという事なので、その雑念を生み出したのはデフォルト・モード・ネットワークと考えられそうです。

瞑想は、意識的にデフォルト・モード・ネットワークを働かせる方法論と言えるかもしれません。

きっかけでひらめいた

 ところで、前回の記事で書いたように、ひらめきが起きるには、ニュートンの場合のリンゴのように何らかのきっかけも必要になります。

以前に記事で書いたように、悟りにも、きっかけが必要らしく、お釈迦様にもきっかけが有ったようなのです。

 

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やはり、お釈迦様は、瞑想によりデフォルトモードネットワークを働かせたことで、悟りに関するひらめきを得たのではないかと思われるのです。


 結局、深く考える事なく瞑想だけを行うだけでは、悟りを開くことは困難だという事になりそうです。
勿論、瞑想を行う事に意味が無いわけでないことは言うまでもないのですが。


ではでは

天才とひらめき

天才とひらめきについて考えた話です。

 

 

前回の記事に続き

 前回の記事は、NHKーBSPの「ヒューマニエンス40億年のたくらみ」という番組の「”天才”ひらめきのミステリー」という回にゲスト出演した将棋のプロ田中寅彦九段の話から、将棋も囲碁と同じように芸術かもしれないと考えた話でした。

 

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今回の話は、一応番組の内容がらみの話になります。

番組の内容の一部について考えていたら、最後の最後で意外な人物に繋がりました、という話になります。

もっとも、その人物はある意味天才とも言えるので、意外では無いのかもしれませんが。

とにもかくにも、先ず番組の内容から考えてみます。 

デフォルト・モード・ネットワーク

 近年になって、人間の脳は、ものを考えている時よりも、風景をぼんやり眺めている時のような、従来は働いていないと考えられていた時に、実は活発に活動していることが分かってきました。

これを、「デフォルト・モード・ネットワーク」といいます。

また、この状態の時にアイデアが出やすいという事も分かってきました。

このことと、天才のひらめきに関係が有るのでは無いかというのです。

アルキメデスニュートン

 その例として、アルキメデスニュートンが取り上げられました。

入浴中に「浮力の原理」をひらめいたアルキメデスと、庭でリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」をひらめいたニュートンの、いずれもリラックスして、ボーッとした状態だったともいえるという訳です。

なるほどといった感じはします。

京都に有る「哲学の道」も、そういった方面から説明出来るのかもしれません。
散歩している時には、何かを考えているようで、何も考えていないというのは、ありがちですからね。

ただボーッとするだけでは

 それでも、この話にはもう少し考えなければならない点が有ると思うのです。

早い話が、風呂に入るなり、庭を眺めたり、近所の道を散歩したりして、だだボーッとするだけで、天才的なアイデアがひらめくので有れば、そこら中に天才があふれていそうなものです。

だいたい、風呂であれば、私も毎日のように入っているわけで、とっくに天才と呼ばれてもよさそうなものですから。

残念ながらとういか当然というか、現実はそうはなっていません。

必要な要素

 考えるに、その他にも必要な要素が有るのでは無いかと思うのです。

それは、アイデアがひらめいた問題について、それ以前から考えていたという事です。

アルキメデスは、王様から王冠の真偽を判定するように求められていましたし、ニュートンは、なぜ惑星が太陽の周りを回っているのか考えていました。

いかに天才でも、何もない所から魔法のように、「浮力の法則」や「万有引力の法則」が頭の中に浮かんで来た訳では無いのです。

勿論、問題について考える事が出来る程度の知識も必要です。

その上で、その事について考え抜いていたという事です。
 
そして、ボーッとしていた時に、デフォルト・モード・ネットワークが働いてひらめきが訪れたという訳です。

考えも無しに風呂でボーッとしている私には、ひらめきは訪れないという事です。


 という事なんですが、ここまで考えて、ある人物の話に関係しているのではないかと思ったのです。
それは、お釈迦様です。
という訳で、次回はお釈迦様の悟りとひらめきについてです。


ではでは

田中九段の見ている将棋

田中九段の見方から将棋について考えた話です。

 

 

関連情報が現れる

 ブログに、何かのテーマで記事を書いていると、不思議とそれに関連する情報が、TVや新聞を始めとして、身の回りに集まってくるように思える時というのが有ります。

まあ実際には、記事を書くことによりそちらに意識が向かうので、最初から存在していた情報が目に付くようになる、といった理由だとは思うのですが、結構驚くことが多いです。

今回もそんな感じの話です。

録画バックログの消化

 録画したTV番組の大量のバックログをせっせと消化していたのですが、その中にNHKーBSPの「ヒューマニエンス40億年のたくらみ」という番組の「”天才”ひらめきのミステリー」という回がありました。

天才のひらめきを、脳科学も絡めて考えてみようといった内容の番組です。

番組自体も面白い内容で、考えさせられるところは有ったのですが、そのあたりは、何れ記事にするかもしれませんが、ここで話題にするのは、ゲストの話に関してになります。

ゲストは将棋のプロ

 ゲストとして呼ばれていたのは、プロの将棋棋士田中寅彦九段でした。

藤井壮太3冠の神の一手に見られるような、コンピューターの計算力をも超えているように見えるプロ棋士の考え方と、天才のひらめきに関連性が有るよ、という事なのかなと思って見始めました。

番組が進み、田中九段はこう言ったのです。

「アマチュアの方は算数をやっているような感じ、プロは音楽か芸術をやっているような感じ。」

更に、指し手の読み方について、こう続けました。

「絵画を見ているような感じで、そこに行き着くんです。」

将棋も芸術か

 これには、かなり驚きました。

以前の記事で、囲碁が芸術の一種である事が、囲碁の分かりにくい理由では無いかといった話を書きました。

 

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それに対して、将棋に関しては、そういった要素は少ないと思っているのですが。

将棋では、駒に種類が有って、各駒の働きも決まっています。
更に、開始時点の駒の配置も固定ですし、目的も相手玉を取るというように明確です。

これは、普通に考えれば、最初から最後まで理詰めで行けると思うじゃないですか。

算数をやって行く

 田中九段に言わせると、まんまと私も算数をやっているという事のようです。

プロ棋士、しかも九段にこういわれては、身も蓋もありません。

それでも、囲碁でも考えたように、理屈でゴールに至る道も有ると考える事にします。

算数もコンピュータ並みになれば話は別、ということもあるでしょうから。
(コンピューター並みには、とてもじゃないが出来ないというのもまた事実だったりしますが)


 SF作家のアーサー・C・クラークの言葉に「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というのが有りますが、それをパクらせてもらうと、「充分に発達した理屈は、芸術と見分けが付かない」といったところでしょうか。(なんの根拠も有りませんが)


ではでは

 

囲碁と将棋(全体像全体編)

囲碁と将棋について考えた話(全体像全体編)です

 

 

全体像まとめ

 前回まで5回に渡って、囲碁の全体像をどう捉えるか、それを踏まえて何を学ぶべきかという話を書いて来ました。

そこで今回はまとめというか、こうやって勉強していこうかな、できたらいいな、やりたいなというものになります。

尚、今回のシリーズでは、将棋に絡めて囲碁を考える形で考えて来ましたので、将棋の場合についても考えてみます。

 

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序盤

 大前提として、「布石」を一つに固定します。

「布石」を初期配置込みの打ち方と捉えて決め打ちすることにより、「どこから打って良いのか分からない」問題を回避します。

さらに、一つに固定することにより、初期に必要な勉強量が限定されると期待されます。

基本的には、一つに固定した「布石」の方針に基づく理想的な形にするために、必要な「定石」を勉強します。
次に、それを核にして、関係する「定石」に広げていきます。

今のところ、個人的には「布石」として「三連星」で行こうかなと思っています。

「黒の三連星」ですから、「白い悪魔」が来てもそこそこ戦えるのでは無いかと。

固定した「布石」の方針に沿った形が出来上がったところまでが序盤という事になります。

将棋では、「戦法」を一つ決めて、それに関わる「定跡」を学ぶということに相当します。

 

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中盤

 序盤に続く中盤では、固定した「布石」の方針に従って作り上げた形を基に、その方針に沿って、相手の陣地を減らし、自分の陣地を減らされないように、攻めと守りを行う事になります。

ところで、残念ながら中盤には、序盤の布石や定石と言ったものに相当する、定型化された手順のようなものは有りません。

それでも、局地的な戦い方については、その共通点を抜き出して、パターン化とまではいかないまでも、大まかな考え方のようなものは作られています。

「模様の消し」、「荒らし」、「打ち込み」といったものになります。

これらの方法論を勉強し、それを使って攻守を行います。
 
これ以上攻めたり守ったりするところが無くなった時点が、中盤の終わりとなります

同様の理由で、将棋においても、局地戦に対する考え方が、「飛車先の攻め」、「端攻め」、「囲い崩し」のような形で作られており、それについて学んでいくという事になります。

 

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終盤

 お互いの地が決まった時点から終盤に入ることになります。

その終盤では、各々の地の間ん境界線を確定していくことになります。

これを、「ヨセ」と呼びます。

終盤では「ヨセ」を学ぶことが中心となります。

将棋では、どこからが終盤かは難しい所が有りますが、テクニックとしては、相手玉を詰めに向かって追い詰めて行く考え方(大まかに「寄せ」と呼ばれている)を学ぶ事になります。

 

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全体を支えるもの

ここまで、序盤、中盤、終盤と学ぶべきことを見て来ましたが、それらはほぼ考え方を学ぶといった側面が基本になる様に見えます。

当然、考え方に基づいた打ち方も出て来るのですが、その内容を眺めていると、その全てを支えているテクニックが有る事に気付きます。

それが、「詰碁」と「手筋」になります。

これらのテクニックと考え方が、全てのベースになるという事で、最優先の課題になります。

この辺りが、囲碁の上達法として「詰碁」が良く挙げられる原因なのでしょう。

将棋では、同じように全てのベースのテクニックと考え方として、似たようなものとしての「詰将棋」「手筋」というものがあり、これらを最優先で学んでいくことになります。

 

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こう見て来ると、囲碁と将棋という、一見するとあまり似ていないものに対するアプローチの仕方が、意外と似たものになっているのが興味深いです。


さあ、私の考える囲碁と将棋の学び方の方針は出来ました。後はやるだけです。
そこがいつも最大の問題なのですが。


ではでは

囲碁と将棋(全体像終盤編)

囲碁と将棋について考えた話(全体像終盤編)です

 

 

終盤はどこから

 このシリーズも最後の終盤という事になります。

ここでも、中盤と同様にどこからが終盤なのかという事から考えてみたいと思います。

中盤のように考えると、中盤が終わったところから終盤が始まるという事になります。

当然、中盤は何処で終わるのかという問題に帰着します。

将棋では

 ここでも、同様に将棋から考えてみます。

と言いたいところですが、これがなかなか難しいのです。

今回改めて将棋の終盤をどう説明しているのか、いくつかのサイトで見てみたのですが、概ね「お互いが相手玉への攻めていく段階のこと」といった感じでした。

これは、分ったようで分からない説明では無いでしょうか。

そもそも、将棋は相手玉を取ることを目指しているゲームなので、全ての手が相手玉への攻めの一環だと言えば言えそうです。

例えば、私は、囲い崩しを中盤の攻防の一環と捉えています。

ところが、囲い崩しを終盤の入口と説明しているサイトもあるわけです。

人によって、捉え方が違うと言っても良いように思われます。

囲碁では

 それに対して、囲碁の方は、もう少し分かり易いと言えそうです。

囲碁では、「ヨセ」を行うのが終盤という事でいいと思います。

では、どうなったら「ヨセ」に入るのか、つまり中盤が終わるのかは、言葉で詰明すると比較的明確です。

自らの陣地を広げるために相手の石を攻め、陣地を狭められないように守るのが中盤でした。

 

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という事で、これ以上攻めたり守ったりするところが無くなった時点が、中盤の終わりで、そこからヨセに入る事になります。

「ヨセ」とは

 では「ヨセ」とは何か。

囲碁の「ヨセ」は、最終的に境界線を確定させる作業という事になります。

前々回の理解阻害編で、完全に囲わなくても陣地になった(地になった)と考える事が出来るので、その時点でほかの地点の攻防に移るといった内容について書きました。

 

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そして、対戦が進んでこれ以上攻防する場所が無くなったという局面になります。

その時点では、上に書いたように、まだ地になったと考えているだけの部分があるので、そこの部分の境界線を定めて、最終的に囲って行く作業が、「ヨセ」という事になります。

「ヨセ」はテクニカル

 そして対象が境界という事で、その形態も有る程度限られることになるようです(よく分からずに書いています)。

複数の「ヨセ」が有る場合に、どこからヨセるのかといった問題も有るようですが、これもある程度理屈で対処できるようです。(さらに分かりません)。

という事で、「ヨセ」はどちらかというとテクニカルな問題になり、そのあたりを学んでいくことになります。

そのため、プロ同士の対戦などで、「ヨセ」の段階になると、鬼のような速さで打つといった事が見られたりします。

そしてここでも、理解阻害編でも見たように、地の確定には最善の手を打つことが前提になっているので、詰碁と手筋の技能が重要になるのです。


結局、理屈では分かっていても、実際にそれを判断して対処出来るようになるのは、それなりの訓練が必要だという良くある話なのでした。


以上で終盤は終わりです。
次回は、全体像をまとめてみたいと思います。


ではでは

囲碁と将棋(全体像中盤編)

囲碁と将棋について考えた話(全体像中盤編)です

 

 

中盤はどこから

 さて今回の記事は中盤についてというわけですが、先ずそもそもどこからが中盤なのかがよく分かりません。

野球のように、一試合が9回裏表と決まっている場合には、1回から3回までが序盤、その次の3回が中盤、最後の3回が終盤という事で明解です。

それに対して、囲碁や将棋ではそのようなものは無いので、どこからが中盤なのかよく分からない事になります。

あえて言えば、序盤が終わったところから始まるのが中盤という事になるでしょうか(言い換えただけのような気もしますが)。

では、序盤は何処で終わるのでしょうか。

将棋では

 今回の一連の記事は、将棋に絡めて囲碁を理解するベースを考えてみよう、という趣旨で書いていますので、先ずは将棋で考えてみます。

先に、泣きを入れておくと、将棋に関しても偉そうなことを言えるほど分かっているわけではないので、以下の話は、私が勝手にそう思っているだけの程度の話という事ですので。

将棋の序盤では、対戦者双方がそれぞれの採用した戦法に従って、攻めと守りのための陣形を整えて行くという事になります。

従って、双方が、概ね当初に想定した形になるところまでが序盤という事になり、それ以降実際に攻防が始まるのを中盤の始まりと考えます。

勿論、急戦を選択したり、形を整える途中でミスをしたりすると、形を整えるまでも無く戦いが始まることは有りますが。

囲碁に当てはめると

 以上を囲碁に当てはめてみます。

序盤編で、将棋に習って布石を一つに絞り、その方針に基づいて打っていく事にしました。

 

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従って、その方針に基づいた石の布陣になった時点で序盤が終了すると考えることにします。

相手の出方や、こちらのポカで、途中で戦いが始まる事もあるという点も同様です。

布石の方針に基づいて

 という事で、いよいよ中盤になる訳ですが、考え方の基本は、選択した布石の方針に基づいて打つと考えます。

ここまでの序盤で、選択した布石の方針に従って布陣を作ってきたわけですから、それに基づいて攻めを開始するという事になります。

当然、相手が有る事なので、相手からの攻めも有る訳ですが、それに対して守る時にも、方針に合う形で守ることを心掛けるという事になります。

こうする事により、局地戦に注意が向きすぎて、全体を見忘れてしまうと言ったことが減る事も期待されます。

そんなにうまくいくことばかりでは無いでしょうが、ここでも序盤と同じ様に、理想的な展開から初めて、それ以外の変化へと、勉強の手を広げていくという感じでしょうか。

中盤は定型化されていない

 ところで、残念ながら中盤には、序盤の布石や定石と言ったものに相当する、定型化された手順のようなものは有りません。

これは、隅や辺のある程度限定された場所での打ち方に比べ、盤面全体が対象となる中盤は、ほとんど無限とも言える変化があり、全体の流れをパターン化出来ないという事が有るようです。

この辺りは、序盤は固定された初期配置から自陣付近で駒組を進める、将棋でも同じことが言えます。

しかし、局地的な戦い方については、その共通点を抜き出して、パターン化とまではいかないまでも、大まかな考え方のようなものは作られています。

将棋では、「飛車先の攻め」、「端攻め」、「囲い崩し」のようなものです。

囲碁では「模様の消し」、「荒らし」、「打ち込み」といったものになります。

中盤では、こういった相手の陣地を減らし、自分の陣地を減らされない方法論を基に攻めたり、守ったりすることになります。

ただしこれらのものは、上に書いたように考え方であって、手順が定型化されたものでありません。
実際に行う時には、ここでも、詰碁や手筋の問題でトレーニングした技能が必要になる事になります。


という事で、各論がいまいちで、漠然としか理解していない人間による、漠然とした中盤の話でした。


ではでは

囲碁と将棋(全体像理解阻害編)

囲碁と将棋について考えた話(全体像理解阻害編)です

 

 

中盤の前に

 前回までで、囲碁の序盤についての捉え方と学ぶ方向性については一応終わりました。

 

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今回は本来ならば中盤についてという事になるのですが、その前に、もう一つ考えておきたいことについて書きたいと思います。

前回までの記事に絡んで「布石」、「定石」について調べた訳なんですが、その中で考えた、囲碁の入門者が分からなくなる理由の一つでは無いかと思った点と、それに対して何を学べば良いのかという話になります。

ケイマでシマリにコスミ

 「布石」について調べていると、次のような打ち方が出て来ます。

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引用元:【囲碁の星の基礎】星で隅を守る方法 | いごすけや

これを、言葉で説明すると、「星に、ケイマでシマリを打って、さらにコスミに打った形」とかになり、「星小ゲイマジマリにコスミ」と呼んだりするようです。

その後にありがちな解説が、「これで隅の地(陣地)が確定したので」や「隅が治まりました」と言った感じのもので、さらに「この後、他の隅や辺に向かいます」と続いたりします。

名称が分かっても

 ここで、用語とかは関係なく、石の配置だけを見て納得出来たり、用語の意味を調べて、石の配置と照らし合わすことで納得出来て先に進めれば問題は有りません。

私などは、用語の意味を調べて照らし合わせても、どうしてこの石の配置で地が確定するのかが分からず、気になって先に進めません。

この辺りが、入門レベルの人間には囲碁がとっつきにくいと思う理由の一つではないかと思うのです。

どう見ても、左上の隅の部分には、白が石を打てるところがあるじゃないでか。

それでも、他に回っても大丈夫と考えるのはなぜか、そのあたりをハッキリしたいのです。

なぜ地が確定なのか

 と考えていたら、そのあたりを説明してくれているサイトを見付けました。

それが、上図の引用元のサイトです。

どうして、3つの石だけで左上の隅が地なのかは、その記事を読んで見て下さい。

結論的には、白が打ってきても、双方最善を尽くすと下図のように、白は最終的に全て取られる形になり(死んでいると呼びます)、結果として黒の地になるので、3つの石を打った時点で黒の地とみなすという事なのです。

f:id:t_arata:20210919212748p:plain

引用元:【囲碁の星の基礎】星で隅を守る方法 | いごすけや

理屈は分かったが

 という訳なんですが、まだまだ問題が残ります。

「最善を尽くすと下図のように」、「白は最終的に全て取られる形になり」という部分です。

結局、何が最善か分からないといけないですし、図のようになった時点でなぜ白は取られることになり、その結果黒の地になるのかも分からないといけないのです。

今回のパターンでは、引用元の記事で懇切丁寧に説明されているのでいいのですが(他にも分かり易く説明している記事が多く、このサイトはお勧めです。)、他にも出て来る同様なパターンを全て覚えるというのは、現実的ではありません。

「手筋」と「詰碁」の問題

 そのために考えられたのが、「手筋」と「詰碁」の問題という事のようなのです。

「手筋」の問題は、局所的な最善手を見出せるように(と私は捉えています)、「詰碁」は、取られてしまうかどうか(「死活」と呼びます)を判断出来るように、それぞれ訓練するための問題となります。

しかも、囲碁が、地を作って、その大きさを競うゲームで有る以上、今回のような状況は、序盤、中盤、終盤全てで頻出する事になります。

全体像に基づく勉強のほかに、ベースとなる技能の訓練としての「手筋」と「詰碁」の問題を解くことが必要だという事です。

奇しくも、将棋にも「手筋」と「詰将棋」という、同じような形式のものが存在しており、興味深いところです。


以上、「手筋」と「詰碁」の問題を解くことが重要だという事を、自分に納得させるための話でした。
次回は、本線に戻って、中盤の話のはずです。


ではでは

囲碁と将棋(全体像序盤編その2)

囲碁と将棋について考えた話(全体像序盤編その2)です

 

 

前回の記事では

 前回の記事に続いて、序盤編の続きとなります。

 

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全体像などと大袈裟に書いてますが、実際のところは、ど素人の私が、いまいちよく分からない囲碁の一局を、将棋の一局の進行にな無理矢理なぞらえて、その後の学び方の方向性の基となる骨格のようなものを、考えてみようといった内容になります。

前回の記事では、最初に盤上に何もない所から始まる囲碁の捉え方として、序盤の「布石」を、将棋の「戦法」に初期配置の打ち方を含めたものだと、考えることにすれば良いのでは無いかという話でした。

更に、将棋でも良く推奨されている、得意な「戦法」を一つ持つと良いという考え方に習って、「布石」を一つに絞って、初期配置以降を決め打ちすることにより、序盤の分かり難さを回避しようとも考えました。

今回の話は、その後の部分という事になります。

「戦法」では

 将棋の「戦法」では、どの「戦法」を選んでも、そのベースに、どのような攻め方、守り方で戦っていくのかという方針が有ります。

囲碁の「布石」にも、特に名前がついているようなものには、全く同じように、どのように戦っていくのかというベースとなる方針が有ります。

当然、その方針に従って打った時に目指す、理想的な進行のパターンが有ります。

先ずは、その理想的な進行を、「布石」の基本的な考え方を理解しながら覚えることにします。

「定跡」と「定石」

 将棋の「戦法」にも当然同じように理想の進行が有り、それを「定跡」と呼んでいます。

それに対応するのが、囲碁では「定石」という事になります。

「定石」は全部でいくつあるのか分からない程(今現在も増え続けているので)多いらしいのですが、先ずは、一つに絞った「布石」の理想的な進行に必要な「定石」から覚えていくことにします。

勿論、ただ丸覚えするのではなく、なぜそう打つのかを理解しながら覚えます。

答えから攻める

 ここで理解の方法として、前回の記事でも書いた「答えから攻める」を行います。

例えば、布石の考え方として「一隅、二シマリ、三ヒラキ」というのがあります。

こういったものが出て来た時に、隅だとか、シマリ、ヒラキがどういったものかを確認するだけでなく、なぜそれらを打つのかも調べます。

といった感じで、出来る限り背景となる理屈を遡って、基本的なところから考えるようにします。

そうすることで、一つに絞った「布石」を基に、「布石」と「定石」の考え方を学ぼうという事です。

これで、習熟が進めば、応用も出来るようになるはずです(よね)。

相手の有る事なので

 囲碁は、相手の有るゲームなので、当然理想的な進行になるとは限りません。

むしろ、そうでない場合の方が多い事は、将棋の進行を考えても、容易に想像がつきます。

そのため、「戦法」の「定跡」を勉強していても、変化が沢山出て来ることになります。

「定石」についても、そういった変化を学んでいくことが次のステップという事になります。

キリがないので

 もっとも、変化はこれで終わりという事は無いので、全てを前もって学んでおく事は出来ないと考えられます。

という事で、代表的なものを対象とする訳ですが、その時の考え方としては、一つに絞った「布石」の背後に有る方針に沿った対応を学んでいく事にします。

方針を変更するようなものは、取敢えず無視するという事です。(よく言う、「これも一局」ということになるでしょうか)

そうしないと、いつまでたっても序盤から先に進めないことになってしまいそうです。

一通り打てるようになってから、必要に応じてという事にします。

イメージとしては、一冊の将棋の戦法書を、中盤の戦いが始まる前のところまで習熟するといった感じになるでしょうか。


以上で、序盤編は終了です。
次は中盤という事ですが、将棋でも明確に分かっているとは言い難いのですが、どうなりますことやら。

ではでは

囲碁と将棋(全体像序盤編その1)

囲碁と将棋について考えた話(全体像序盤編その1)です

 

 

囲碁の序盤は布石

 囲碁の序盤は「布石」と呼ばれます。

「布石」という言葉は、「将来のために配置しておく備え」といった意味で、普通に「布石を打つ」というような使い方がされますが、この囲碁用語が元になっているようです(だから、「布石」は「打つ」ものなんですね)。

勿論、囲碁でも「将来のために配置しておく備え」のような捉え方をされているという事になります。

「布石」が終わる段階で、自分が有利になるように、石を配置していくのが「布石」即ち序盤という事になります。

とはいいながら、何が有利なのかが分かっていれば苦労は無く、そもそも何をどうしたらいいのか分かっていないという現実が有ります。

将棋の序盤は戦法

 分からないと言うばかりでは先へ進まないので、将棋の方から考えてみます。

将棋も実は初期配置が決まっていて、制限が有るとはいえ、どの駒を動かすかは自由です。

しかし、一般的に序盤は、「四間飛車」や「矢倉」などのいわゆる「戦法」に従って駒を動かします。

「戦法」とは、長い年月の中で作り上げられてきた、有効な攻めおよび守りの手順や陣形のセットと言えます。

つまり、「布石」だと言う事が出来そうです

という事で、囲碁も同じように考えれば、良いのではないかと思うのです。

囲碁には初期配置が無い

 ところで、将棋では下図のように、駒の配置が決まっています。

 

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引用元:将棋の駒の初期配置と並べ順|将棋ルール.com - 将棋のルールから覚える初心者向け入門サイト

 

それに対して、囲碁では、配置も何も全く何もない状況から対戦が始まります。

そのため、初手からどうしたらいいのか分からない、という悩みにもなるのですが。

次に、囲碁の開始から六手進んだ盤面の一例を見てもらいます。

 

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引用元:布石(ふせき)の意味|やさしい囲碁入門講座 - 囲碁ルール解説サイト

 

この状態で、ざっくりと右側が黒の領域、左が白の領域と考えれば、上下と左右の違いは有りますが、将棋と同じように考えられそうでないでしょうか(上下になる様に並べるのも可能です)。

「布石」を、初期配置も含めた「戦法」だと考えれば良さそうです。

一つに絞る

 将棋では、初心者向けの教え方として、「戦法」を一つに決めるという事がしばしば推奨されます。

囲碁でも同じように、最初は「布石」を一つに絞ることにします。

どう打てばいいのか考えるのではなく、決め打ちから入りましょう、という訳です。

こうする事で、囲碁が分かりにくい原因の一つである、「どこに打ったら良いかわからない」問題を、ある程度避けて通ることが出来そうです。

有名どころから選ぶ

 開始時点から、どのように石を並べても、全て「布石」と呼ばれますが、将棋の「戦法」のように、有効と考えられるものには、名前のついたものが有ります。

「二連星」、「中国流」、「秀策流」といったものです。

一つ選択するにあたって、名前の付いたものの中から選ぶことにします。

ちなみに、上図の「布石」には「三連星」という名称がついています。

黒では「黒い三連星」になる訳で、強そうじゃないですか。

冗談はさておき、この時に、好みに合わせて何を選んでも良いわけですが、出来れば有名どころの中から選らんだ方が、有名な分世間に出回っている情報量が多いので、なにかと都合がいいんじゃないかという事です。

答えから攻める

 「布石」を一つに絞って初手から決め打ちをしたら良いんじゃないかという話でしたが、決してその打ち方を丸暗記するという意味ではありません。

そんなことをしても、対戦相手が、こちらが覚えた手以外の打ち方をしてきた時に、対応が出来ないことになってしまいます。

考え方としては、受験勉強などで言われる、「答えから攻める」という事をやるのです。

実際の「布石」の各打手から逆に、その背景に有る考え方を理解していくようにするのです。
「三連星」であれば、初手に対して、「どうして星から打つのか」を調べ、理解するといった感じです。

理屈から答えを考え出すよりも、答えから理屈を理解する様にすれば、効率的だという事です。


 思いのほか長くなってしまいました。
という訳で、次回も序盤が続きます。


ではでは

 

前の記事

yokositu.hatenablog.com

 

囲碁と将棋(全体像導入編)

囲碁と将棋について考えた話(全体像導入編)です

 

 

前回までの囲碁の話

 前回まで、四回に渡って、TVで見たらチンプンカンプンだった、から始まった囲碁の話を書いて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

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yokositu.hatenablog.com

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結局最後は、特に全体像が把握し易い入門編を、誰か分かる人が作ってくれないかなあという、このブログで良くありがちな他人任せというオチでした。

とはいいながら、記事を書いているうちに、将棋に絡めて全体像を考えてはどうだろう、というものがぼんやりと浮かんで来ているので、それをハッキリさせることにお付き合い願おうという趣向になります。

将棋は多少分かる

 将棋に関しては、全体像らしきものについて、囲碁よりは多少知っているつもりでいます(正解かどうかは分かりませんが、自分が納得出来れば良いと思っています)。

まあ、その全体像に従って実戦を行おうにも、それを支えるはずの技術が全くダメで、とんだヘボ将棋な訳ですが。

そんな中、今回囲碁について、色々と調べているうちに、いくつかのことが、将棋になぞらえると分ったような気になると思ったのが取っ掛かりになります。

それならば、囲碁を無理矢理将棋に寄せて理解してみたら、全体像が多少分かるのではないかと思ったのです。

似た用語が多い

 囲碁と将棋には、意外と字面または読みが似ている用語が多いという事が有ります。

実戦を行う事を、囲碁でも将棋でも共に、「対局」と言いますし、それぞれの実戦を「一局」と呼ぶのも共通です。

「一局」を「序盤、中盤、終盤」と分けて捉えるというのも同じです。

囲碁には「定石」というものがありますが、将棋には「定跡」が有ります。
読みはいずれも「じょうせき」になります。

次に、どちらにも「手筋」が有ります。

「詰碁」と「詰将棋」という、いずれも「詰」を冠した用語が有ります。

将棋の「寄せ」に対しては、囲碁では何故かカタカナの「ヨセ」となります。

意味するところも似ているので

 しかもこれらの用語は、当然細かい意味は異なっているものの、大まかには似た内容を表しています。

例えば、将棋の「桂馬」と囲碁の「ケイマ」という用語が有ります。

将棋の「桂馬」は駒の名前ですが、囲碁の「ケイマ」は、将棋の「桂馬」の動き方そのものを指しているといった感じです。

こう見て来ると、極々大雑把に言って、囲碁も将棋も、それぞれの用語に関する内容を、部分的に同じような捉え方をして来ているように見えます。

であれば、その集合体としての全体像も、似た解釈でいいのでは無いかと思うのです。


 という訳で、次回は「序盤」について考えてみたいと思います。


ではでは

囲碁について(理路整然編)

ど素人が囲碁について考えた話(理路整然編)です

 

 

囲碁は芸術

 前回の話は、実は囲碁は芸術ではないかというものでした。

そのため、ど素人から見ると、その説明が初心者に対して厳しいんじゃないかと思えるものも、芸術であるために、そもそも全てを言語化する事が困難であることが原因ではないかというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

理屈先行の芸術オンチの私としては、囲碁は向いていないかなというところなのですが、それで終わるのも面白くないので、もう少し理屈をこねてみようというのが今回の話になります。

囲碁は芸術だとしても

 前回の話では、囲碁AIが、絵や音楽などの感覚的でアートなジャンルが得意なディープラーニングにより強くなったことから、囲碁もその本質は、芸術なのではないかと考えました。

前回の話で引用した記事の筆者(プロ棋士七段だそうです)は、そこから、囲碁を感覚的にとらえることで、人間にも可能性が開けているのではないかという意見のようです。

私は、同じ話から、論理でのみ動くコンピューターが、人間よりも強くなった訳ですから、理屈を積み上げていく先にも可能性が有るのではないかと思ったのです。

一見すると、全く相反した結論のようにも思えますが、私的には、ゴールへ至る道がいくつかあるという事なのでは無いかと思っています。

理屈先行も出来る入門編

 という訳で、理詰めで納得しながら学べる、こんな入門編が有ったらと思うのですが。

まず、基本のルールを説明します。

その次に、すぐに実戦譜の説明に入ります。

囲碁一局を提示した上で、その過程で現れる各論に入って行けば、何を何のために学ぶのかが、分かり易いのでは無いかという、考え方です。

各論から積み上げるのではなく、全体像から始めて、各論に細分化して行くという事にすれば、最終的な形を考えなくていいという訳です。

前回と同様に、絵画で考えてみると、作品を決めて模写をするという事になるでしょうか。

その上で、各論を出来る限り、理論的に掘り下げていけば、完全とは言わないまでも、かなりの程度理路整然としたものが出来るのではないでしょうか。

模写で例えると、とにかく模写をするという事では無く、その過程で、色使い、筆使い、構図等々の各論を学びながら、模写をする事にするわけです。

一手毎に

 全体像としての一局を提示する訳ですが、基本的に一手毎に説明を入れます。

何を狙った手なのか、用語も交えて説明します。

例えば、「一手目:黒は右上隅の星に打ちます。」というような感じにします。

そして、WEB上ならば、右上隅、星の部分を、それぞれの説明へのリンクにすれば良いですし、書籍ならば、後方に説明を纏めるようにします。

このようにして最後まで説明していくのですが、こうする事により、感覚的に分かる人などは、各論まで確認しに行かなくても、この部分だけで納得することも有るでしょう。

私のように、いちいち理屈をこねて納得したい人間は、必要に応じて各論をたどれば良いわけです。

まず全体像が分かる

 何れにしても、最後まで行けば、囲碁で何をどのように行うのかの全体像が分かる事が期待できると思うのです。

しかも、上手く作れば、その時点で、布石を一つと、いくつかの定石、手筋、死活と詰碁、ヨセ等(ほかにも重要な各論が有るかと思うのですが、私の付焼刃の理解度はこの程度です)についてもある程度分かる事になります。

しかも、各論が個別にではなく、全体像の中で位置付けられて理解出来るのです。

要は、何が分からないかが分かる様になるのです。

もっとも、知っているからといって、実際に使えるかどうかは別でしょうけど、初心者としては結構なレベルと言えるのではないでしょうか

その後は、実戦を行っても良いですし、各論を深堀しても良い事になります。


プロの皆さんの力で作ってもらって、日本棋院のホームページ辺りに載せてもらえば、興味を持ったのに、入門の部分で分からなくて止めてしまうのを、減らすことが出来るのではないかと思うのですが。


 最後は、このブログではありがちな、人任せパターンでした。
次回から理路整然と実践編に突入する、事は有りませんので悪しからず。


ではでは

囲碁について(琴棋書画編)

ど素人が囲碁について考えた話(琴棋書画編)です

 

 

身勝手な考え

 前回の話は、ど素人が、囲碁の教え方について、もうチョット言語化して、分かり易く言うとかみ砕いて、教えてくれても良いんじゃないかと、身勝手な話をするというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

しかし、どうやらそれは、全くの見当違いだったかもしれない、というのが今回の記事のポイントになります。

面白い記事

 身勝手な思いと共に色々なサイトを渡り歩いていたところ、面白い記事に行き当たりました。

チョット長くなりますが、引用します。

囲碁AIがアートな理由

思えば、私が囲碁はアートだと再認識したきっかけは、囲碁AIでした。これまでの囲碁AIは、どちらが勝っているかをゲームの途中で判断するのが難しいために、なかなか強くなりませんでしたが、ディープラーニングを導入したことで、この課題を解決するに至りました。

ディープラーニングが得意なのは「画像を認識する」というもの。囲碁の場合も例外でなく、棋譜をまるでQRコードのように、そして大量(アルファ碁の場合は数千万局)に学習し、局面の特徴を捉えられるようになりました。それにより、ゲームの途中でもどちらが勝っているかを判断できるようになったのです。ほかの分野でも、絵がかけたり作曲ができたり……人間の特権だと思っていた感覚的でアートなジャンルがディープラーニングは得意です。

引用元:| 日興フロッギー

 

琴棋書画

 引用元の記事でも触れられていますが、古来「琴棋書画(きんきしょが)」という言い方が有ります。

それぞれ「琴=音楽」「棋=囲碁」「書=書芸」「画=絵画」を示しています。

文人が嗜むべき4つのものを表しており、四芸とも言われています。

昔から言葉としては知っていましたが、四芸については、文人も学問だけでなく、色々出来た方がいいよぐらいに考えていました。

ところが、上の引用を踏まえると、四芸は、四つの芸術という意味をもっていることになりそうです。

そうなのです、囲碁も芸術という事になります。

そう考えれば、様々なことが腑に落ちそうです。

芸術であれば

 芸術という事であれば、ゴールの形が明示されていないのは当たり前という事になります。

芸術作品を生み出すという目的は有っても、では何が芸術かと言われれば、明確にこれだというものを明示するのは難しいという訳です。

詰碁や手筋といったものについても、例えば絵画で考えてみると、デッサン、絵の具の使い方、筆遣いといった個別のテクニックに対応すると考える事が出来そうです。

それら、個別のテクニックについては、具体的に説明出来ても、それらを使う事と、どういう絵を書くのかは別の事なのは明らかです。

しかも、その結果としての絵については、説明出来そうで、出来なかったりします。

棋譜並べについても、同様に考えると、絵画における模写に相当するという事になるでしょうか。

怠ったのではなく出来なかった

 囲碁についても、各々の人が、こういうものだと分かっていても、それを言語化出来なかったのでは無いでしょうか。

大上段に振りかぶった言い方をすれば、言葉にしにくいものを表現するのが芸術という事です。

先達たちが言語化を怠っていたのではなく、囲碁も他の芸術のように、いわく言い難いものであったのです。

ということは、何をどう作るのかを決めるのは、自分だという事になりそうです。


 理屈先行型の芸術オンチの私としては、困った結論になりましたが、爆発する琴棋書画と共に、次回に続きます。


ではでは

囲碁について(曖昧模糊編)

ど素人が囲碁について考えた話(曖昧模糊編)です

 

 

五里霧中の中にも

 前回の記事は、いい年になって囲碁に取り組んでみたら、さっぱり意味が分からなくて、五里霧中だという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後も、色々な情報を、あちらを少しこちらを少しと、分らないままにカジリ散らしていたのですが、その中でなぜわからないかが、少し見えてきたような気がしてきました。

どうも囲碁に関しては、言語化があまりされていないのではないかと思うのです。

用語は多いが

 とは言っても、囲碁を知っている方は、何をバカなことを、用語は多いじゃないか、と考える方もおられるでしょう。

確かに、囲碁に関する用語の数は多いです。

例えば、同じ色の石が2つ並んでいる形に対して、周りの状況によって、チョット思いつくだけでも、ナラビ、ノビ、オシ、ヒキ、サガリ、と様々な呼び名がついています。

実際には、まだまだ色々ありますが、私の知識が追い付いていっていません。

将棋と違って、白黒の2種類しかないので、その並び方に対して細かく名前をつけることで、似たような状況の識別をする時に、効率よく出来るという事なのだと思います。

2つの石のような単純な形では、上手くいっていると思うのですが、より複雑な状況を示すときに、言語化が不足しているのでは無いかと思うのです。

複雑な状況

 勿論、それら複雑な形にも名前はついています。

例えば、形、模様、外勢、壁、厚み、などなど他にも多々あります。

これらについても、それぞれ説明が有るのですが、これが一向に要領を得ないような気がするのです。

例えば、形ですが、これは一応ある程度の数の石の並びに対して、形が良い、形が悪い、などと使うのですが、その基準に関しては、曖昧模糊としているように感じられるのです。

説明を読んでいくと、いくつかの例が示され、経験を積むことで、良し悪しの判断が出来るようになります、といったことになることが多いような気がします。

これは、経験を積んで、そのあたりが分かっている人間同士にとっては、形が良い悪いという一言で、状況を共有出来るという事で、分からない人間に客観的に説明出来るようには、言語化がされていないでは無いかと思うのです。

その他の用語も多くは、分っている者同士の認識の一致を助けるためのものと考えると、その説明が、初心者に対する説明になっていない感じが、腑に落ちるのです。
だからと言って、分かっていない私には、やっぱり分からないという事になるのですが。

棋譜並べ」

 他にも、言語化があまりされていないという事を示す一例として、初心者の勉強法に「棋譜並べ」がよく勧められる事も挙げられます。

棋譜並べ」はプロ棋士の勝負や、過去の名人の勝負を、記録に従って、そのまま並べていくというものです。

特に初心者の内は、分かっても分からなくても、ただ並べるのです。

そのうちに、「囲碁の打ち方」が分かる様になる、とか書いてあります。

理屈ではなく、分るものだと考えられているのです。


チョット初心者に優しくないんじゃないかと思うのですが。
曖昧模糊とした気持ちと共に、次回に続きます。


ではでは