横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

フローレンス人とホモ・サピエンス

フローレス人から我々ホモ・サピエンスについて考えてみた話です。

 

 

フローレス

 フローレス人は、インドネシアフローレス島で骨が発見された、ヒト属の一つです。
 
2003年に発見されました。

その最大の特徴は、成人でも約1mと見られる、小柄な体型です。
発見された当初は、子供の骨だと思われていたようです。

年代的には、当初は1万年ぐらい前まで生きていたと考えられましたが、現在では10万年~6万年前とされています。

新種かホビット

 脳の大きさが、同地域で見つかっている有名なジャワ原人よりも小さい事と、その低身長から、昔からの呼び方で言うと猿人と呼ばれていた、さらに古いヒト属から分かれた別系統の種では無いかと言う説も出ました。

しかし、これについては、フローレス人以外にアフリカの外で猿人とその近縁種が発見されたことはないので、考え難いという事になります。

丁度、同時期に話題となっていた映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の登場人物から、ホビットが発見されたという事で、話題にもなりました。

さすがにそれは有り得ない訳ですが、そうなると、彼らはどこからやって来たのかという事になります。

島嶼化したジャワ原人

 結論から言うと、これまでの研究によると、どうもジャワ原人から分化したという事のようです。

脳容積と身長の件については、いわゆる島嶼化によって、ジャワ原人が小さくなったと考えられるようです。

島嶼化ですから、フローレス島という物理的に孤立した島で生活しているうちに、小さくなったという訳です。

その説を補完するように、小型のゾウなどの島嶼化の結果とみられる動物も共存していたことが分かって来ています。

孤立した島のような環境に移り住み、その影響を他の動物達と同じように受けて、小型化を起こしたのです。

ところで、ホモ・サピエンスすなわち我々は、例えば太平洋の島々に渡り住んでも島嶼化を起こすという事は有りません。

この違いは何処に有るのでしょう。

残るは言語

 ジャワ原人は勿論、フローレス人も、二足歩行を行い、石器のような道具を作り、ある程度火も使っていました。

それでも、彼らは自然の一部であり、自然に影響するのではなく、自然の影響を受ける立場であった訳です。

すると、残る特徴は、言語という事になりそうです。

もっとも、原人にどの程度の言語能力が有ったのかは分かっていません。

とは言っても、他に有力な候補は見当たらないので、今のところ、言語の獲得こそが、我々を我々たらしめたものだった可能性が高いと言えそうです。


 2回目のワクチン接種を受けたのですが、意外や意外、打った部分の筋肉痛は前回ほどでなく、その他にも副作用は全く有りませんでした。


ではでは

中国王朝との戦い

中国王朝との戦いについて考えた話です

目次

歴史上の戦い

 歴史的に見ると、中国王朝の軍と戦った事は、それ程多くありません

有名な白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍と戦いました。

中国王朝の軍隊と戦ったという事になるのですが、実際には百済の援護と朝鮮半島での立場を守るための戦いであり、唐と正面切って事を構える気は無かったと思われます。

その次に、中国王朝の軍と相まみえたのは、いわゆる元寇の時になります。

これについては、説明するまでもなく、モンゴル王朝の元が日本に攻めてきたという図式になります。

細かく見ると、文永、弘安の二度に渡って攻めて来たのですが、一度目の文永の役の後、時の政権鎌倉幕府は、報復に出ることもなく、二度目の弘安の役を迎えることになります。

つまり、完全に防衛戦だった訳です。

直接戦いを仕掛ける相手では無かった

 そして、これらの戦いの前後では、遣隋使、遣唐使日明貿易などに見られるように、良好な関係を築くことが、基本方針で有ったと考えられます。

日本から見ると、中国王朝は、直接戦いを仕掛ける相手では無かったのです。

その背景には、前回の記事でも考えたように、彼我の1000年以上の文明の差が有ったのではないかと言うのが、私の見立てです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

勿論、いつまでも1000年の差を保ったままで、両国の歴史が進んで行いった訳はなく、日本側も追いつき追い越せで、その差を縮める努力をしたことは確かでしょう。

しかし、その事実以上に、中国にはかなわないという、心理的な枷が有ったように思われます。

やはり秀吉は特異か

 そうなると、秀吉の唐入り構想が特異なものに見えてきます。

まあ、さすが秀吉、考えることが違うという事にするか、一部でも言われているように、年を取ってボケの影響が有ったとも考えられます。

確かに秀吉がらみの話にしても良いのですが、秀吉にそう考えさせた背景が有るのではないかと思うのです。

上で触れた、日本側に有った枷を外す役割を担ったものが有ったのではないかと言うのが、今日の話の肝になります。

火縄銃の影響

 それは、火縄銃では無いかというのが、私の仮説です。

ご存知のように、火縄銃は、1543年に種子島ポルトガル人によりもたらされました。

ここで注目すべきは、ポルトガル人、すなわち西洋からもたらされた技術だったという点です。

勿論、当時のヨーロッパは大航海時代であり、火縄銃は日本だけでなく、アジア全域に持ち込まれたはずです。

なので、日本のみが優位な立場に立った訳では無いという事になります。

しかし、ポイントは、中国も含めてアジア全域にほぼ同時にもたらされたという点です。

その点だけを見れば、中国との間に差がない状況に立ったと言えるわけです。

その後、戦国時代という実戦で長足の進歩を遂げ、秀吉の時代には他のアジア諸国と比較して、有数の軍事力を持つに至りました。

枷が外れた

 スタートがほぼ同じだったわけですから、それ以前の彼我の歴史の差は関係ありません。

そう考えていたわけではないでしょうが、無意識のうちに、中国に対する心理的な枷を外していたのではないかと思うのです。

その事と、秀吉という稀有な存在が相まった結果が、唐入りを目指した朝鮮出兵だったのでは無いでしょうか。


 唐入りは、秀吉の死もあって失敗に終わる事になり、それもあってか、その後の徳川政権は、内向きの政権運営に終始することになります。
結果的には、枷が完全になくなるには、アヘン戦争により清が英国に打ち負かされることが必要だったと言うことなのだと思います。


ではでは

日本と中国との差

日本と中国の差について考えた話です

 

 

中国との関係

 以前の記事で、日本で長きに渡って、天皇を中心とするシステムが機能してきた背景には、その元となった中国で、皇帝による支配という形態が変わることなく続いたのが遠因では無いかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

近代、現代の中国の状況と、日本との関係を考えると、この点に関しては、そこまで言うのはどうかなという気もするかもしれません。

しかし、近世までの日本にとっては、中国は、現代の我々が考える以上に、影響力が有ったと思うのです。

シンクロニシティ

 前回の記事を書いた後に、やはり中国の歴史は凄いと思わせる番組を見ました。

まさに「シンクロニシティ」とでもいうような感じで、こういったタイミングで、関係する情報に行き当たるのは、最近良くあるのですが、不思議な感じです。

番組は、中国紀行で、歴史上の場所を尋ねるといった感じのものでした。

その中で出て来たのが、長平でした。

長平の戦い

 その昔、中国に趙という国が有り、その名も趙括という武将がいました。
名将といわれた趙奢の子で、幼い時から兵学書に学び、その知識は、父の趙奢を論破するほどだったようです。

その趙括は、長平の戦いと呼ばれる戦いで戦死してしまいます、その時趙が失った兵力は、なんと40万人と伝わります。

さすがに40万人というのは、中国お得意の「白髪三千丈」の類だと思いますが、趙が一敗地にまみれたのは確かなようです。

そして趙括は、理論だけで実践がまるでだめだったことから、「紙上に兵を談ず」という故事成語を残すことになりました。

さて、この長平の戦いの相手は、秦国でした。

秦と言っても、かの始皇帝ではなく、その3代前の昭襄王の時代で、紀元前260年の事になります。

つまり、中国では、紀元前260年の時点で、すでに趙括のような知識だけの人物を生み出すほど、兵法書の類が存在していたという事です。

彼我の差

 これは、日本から見れば、驚くべきことと言わざるを得ません。

この時点から、500年程経って、やっと日本は邪馬台国の時代という事になります。

その時点でも、まだ文字による記録は、日本には存在していません。

しかも、長平の戦いの時点で、春秋戦国時代は500年程続いています。
勿論それ以前の周の時代には、すでに文字が使われていました。

文字という一点だけを見ても、中国と日本には、その時点で1000年以上の差があった事になります。

その後の日本の歴史は、この彼我の差をいかに埋め、克服していくかが課題だったとも言えると思うのです。

少なくとも、常に中国の存在を感じていたに違いないのです。

従って、その中国の統治システムの変化にも、現代の我々以上に、敏感だったと思われるのです。


 そう考えると、唐入りを構想した秀吉は、やはり別格という事でしょうか。


ではでは

ハエの季節となりました

ハエについて考えた話です。

 

 

ハエの季節になりました

 今年も暖かくというか、猛烈な暑さの季節となりました。

こうなると、いつものようにハエもやって来るわけです。

さすがに、昔のように飛びまわているという事も無くなり、蝿帳などを使う事は無いのですが。

それでも、食事を作っていると、気が付くと一匹か二匹が、周りを飛び回っているという事があります。

今年も来るようになったなと思っていたのですが、先日有る事に気が付きました。

それは、ハエのやって来るのに、パターンが有るのではないかという事です。

ひょっとしたら、作っている食事の内容と関係が有るのでは無いかと思ったのです。

こんな食べ物が好きです

 私自身は、魚は全般的に比較的好きな方なのですが、特に好きなのが、アジの開き等の、干物のように加工したものが好きです。

そんな中でも、最近はまっているのが、煮干しです。

それで取ったダシももちろん嫌いでは無いですが、特に電子レンジでチンして食べるのが好きなのです。

チンするだけなので、比較的手軽な干物等に比べても、さらにお手軽という事で、まあまあの頻度で食べることになったりしています。

煮干しをチンするとやって来る

 どうやら、ふと気が付くと、この煮干しをチンした日にだけ、ハエがやって来ているような気がしたのです。

確かに、煮干しをチンすると、その香りはかなりのものが有ります。

その日は、寝るころになっても、キッチンに匂いが残っているほどです。

それに引き付けられてやって来るという事なのでしょうか。

これは、調べてみるのも面白そうです。

少しだけ調べてみました

 という事で、本当にそうなのか少しだけ調べてみました。

先ず、大前提として、ハエのやって来るのは、ほぼ夕飯の準備をしている時だけというのが有ります。

これについては、活動する時間帯が有るのか、昼間は暑すぎるのかのどちらかなのかなと思っていました。

ただし、煮干しのチンとの関係で考えてみると、昼食に作ったことはほとんどないという事実も有ります。

ひょっとしたらと思い、昼にも作ってみました。

結果は、今のところ2日しかやっていないですが、両日ともハエはやって来ませんでした。

さて夕方の方はというと、過去一週間で、4日間作ったのですが(結構病みつきなのです)、そのうち3日にやってきました。

残りの3日は、予想通りにやってこないという結果になりました。

これは決まりでは無いかという気もするのですが、1日こなかったことや、その他に作ったものとの関係については、残念ながら、今のところはっきりとはしません。

一応の結論

 我が家の近所には、煮干しチンの匂いに引き付けられるハエがいることが示唆された

 


 世間は夏休みという事で、大人の自由研究もどきでした。

 


ではでは

日中の歴史上の統治体制

日本と中国の歴史上の統治体制について考えた話です

 

 

律令制は中国のみ?

 日本の律令制ですが、勿論中国のそれを手本としてます。

具体的には、唐の時代の制度を参考とした様です。

少し話は逸れますが、唐としては、皇帝が制定したものが律令であり、周辺の国家に制定させなかったらしいです。

明確に律令制が施行されたことがわかっているのは、日本だけのようです。

どうも許可を得ていたわけでは無いようです。

さすがに中華思想の本家本元の面目躍如と言ったところでしょうか。

日本の律令制の特徴

 その日本の律令制ですが、唐のものをそのまま取り入れたわけではありませんでした。

色々と日本の事情に合わせて変更された部分が存在します。

中でも、決定的な違いと考えられるのが、皇帝と天皇の権限です。

中国の皇帝は、何度もこのブログに出て来ましたが、天の天帝から命を受けて地上を統べるという建前になっていますので、人間が作った律令を越える存在という事になっています。

つまり、場合によっては、皇帝の命は律令を超越するという事です。

これに対して、日本においては、太政官が発議して、太政官議政官の合議で上奏する形式で、天皇の権力が制限されていました。

これは、それ以前の大和政権が、有力氏族の連合体的な性格であった事を反映しているとも考えられているようです。

この事は、結局日本には科挙の制度が導入されなかったことにも、見て取れそうです。

江戸時代まで続くことに

 いずれにしても、この事が、それ以降の藤原氏を始めとする権力を巡る構造をもたらしたと考えられそうです。

その結果、天皇を中心とした権力の枠組みが続くことになり、戦国時代に天下を目指すものが、京都を目指す原因になった、と考えたのが前回の記事でした。

 

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その後の、豊臣政権は、関白になったのでそのものずばりですし、徳川政権も、征夷大将軍となって幕府を開いたという事で、江戸時代もそうだったという事になります。

結局千年以上の長きに渡って続いた訳ですが、上記のような事に関して調べているうちに、中国が、その原因とまでは言いませんが、遠因ぐらいになったのではないかと思いつきました。

中国も続いていた

 改めて考えてみると、中国は、その律令制を参考にした唐どころか、それ以前の歴代の王朝から始まって、最終的には清王朝に至るまでの長きに渡って、常に、皇帝がいて、統治を行うという形式でした。

天命による易姓革命という大枠に変化が無かったとも言えるわけです。

勿論、日本が常に中国の制度を後追いしてきたわけではありませんが、さりとて関係が全く無かったわけでもないでしょう。

常にその動向を気にかけていたはずです。

その中国が、統治体制の大枠に関してほぼ変化が無かったという事は、それを基にした日本の制度を変化させるきっかけのようなものが、もたらされることが無かったとも言えます。

これが、日本でも長きに渡って、天皇を中心とした体制が続いた、隠れた遠因なのでは無いでしょうか。


 やはり、なんだかんだと言っても、この地域において、中国の影響を無視した歴史は考えられないという事でしょうか。


ではでは

昔思った疑問への解答

昔思った疑問に対する解答を考えた話です

 

 

昔思った疑問

 中学生の頃だと思うのですが、日本史で戦国時代の授業を受けていた時に、ある事を疑問に思ったのです。
それは、どうして天下統一を目指す武将が京都を目指すのだろうという疑問です。

そんなことしなくても、自分の領地を中心にして周辺を攻め取っていくか、同盟を結ぶかして、最後に残った者が天下を統一する事になるんじゃないのかと考えたのです。

その事を、その時の教師に質問したのかどうかは、いまとなっては記憶も定かでは有りません。

いずれにしても、疑問に対する答えは得られないままでした。

といった事を、このブログで戦国時代について取り上げた時に、思い出しました。

今回は、その長年に渡る(と言っても、その間のほとんどの期間忘れていたのですが)疑問に対する、私なりの解答です。

長く続いた藤原時代

 日本の時代区分について考えてみた記事で、藤原時代が400年続いたことになると書きました。

 

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その間、支配体制は、一貫して天皇を頂点とした律令制でした。

もちろん、公地公民制から荘園公領制のような変化を筆頭として、制度が変質していったという事は有るのですが、支配の枠組みとしてのシステム自体は維持されて行きました。

逆に言えば、藤原氏がシステムの維持を図ることにより、その権力を保ったとも言えるかもしれません。

そのため、藤原時代の末期にもなると、天皇を中心とする統治システムが長きにわたって続いたために、社会の在り方として、あまりにも当然の事になってしまっていたのではないでしょうか。

現在に置き換えて考えると、関ヶ原以降ずっと徳川政権が続いているようなものですからね。

権力は移っても

 例えば、その末期には、武力部門を担当することで、武家が台頭してくることになりますが、その筆頭ともいえる平氏は、結局、そのシステム内での栄達を目指しました。

その平氏を倒したのは、勿論源氏ですが、その源氏は、一見鎌倉に拠点を構え、異なる支配体制を築いたかに思えますが、実際には、征夷大将軍という官職に任命されたものでした。

武家政権としてその後を継いだ格好の室町幕府も、同様に征夷大将軍という立ち位置でした。
加えて、その拠点も京都に戻っています。

結局、律令制をベースにした、天皇を頂点とした統治システム内での権力争いが続いていたという事になります。
言い方を変えると、それ以外の考え方は思い浮ばなかったとも言えるのではないでしょうか。

問題の戦国時代は

 さて、室町時代の次が、若かりし私が疑問に思った戦国時代です。

その戦国時代については、以前の記事で取り上げました(その時に、はるか昔の疑問を思い出したのですが)。

 

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シュペーラー極小期が原因の天候不順による農業不振により、経済破綻が起き統治システムに綻びが生じたのが、戦国時代の原因だと考えました。

そして、その混乱からの回復過程が、戦国時代と聞いて思い浮かべがちな、桶狭間以降の流れだった訳です。

結局システムの踏襲だった

 そんな中で、各大名が目指したのは、これまで当然のように慣れ親しんできた、既存の統治システム内での権力の掌握だったのでは無いでしょうか。

その表れが、権力を望むものが、こぞって京都を目指すという形だったと思うのです。

その結果天下を統一した豊臣秀吉が就任したのが、関白という従来の統治システムの官僚機構のトップとも言える地位だったというのが、その事を示しているのではないでしょうか。

結局、全国的な動乱の時代で有った戦国時代をも、天皇を中心とした統治システムは命脈を保って、生き延びたという事になります。

という訳で、若き私が思った疑問に対する答えは、「みんなそういうものだと思っていた」というものになります。

言い方を変えると、あまりにも当然で、それ以外の方法を誰も考えもしなかった、という事になるかと思います。


 ワクチン接種後の腕の痛みは、接種の翌日がピークで、3日目には無くなりました。
2回目の接種の時には、翌日に予定を入れないようしようかと思っています。


ではでは

最近気が付いたこと

最近気が付いたことの話です

 

 

瞑想をやっています

 以前に、仏教について記事を書きました。

 

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その時に色々と調べた事も有って、それ以降、瞑想の真似事みたいなことをやる様になりました。

と言っても、やったりやらなかったりの、トンだ生臭なのですが。

そんな瞑想ですが、すこし前にやっている時に、アレッと思う事が有ったのです。

アレッと思った事

 ご存知のように、瞑想では、なるべく何も考えない状態を目指します。

以前の記事でも出て来た、「定」の状態です。

とは言っても、勿論そんな状態には程遠く、瞑想をやっているほとんどの時間、何かを思い浮かべているというのが、本当の所なんですが。

それでも、考えていることに気が付いて、また呼吸に集中しようと努力する訳です。

その流れのひとつで、アレッと思ったのです。

考える時に、左から見て考えているなと。

左から考える

 目を閉じて瞑想をしているのですが、その時に何かを考え始めると、その内容を映像で見ているような感じになります。

その時に、その映像を、左から見ているような感じなのです。

映画館で例えると、スクリーンに向かって、左半分の何処かの座席から見ているような感じなのです。

右から見ようと思えば見られるのですが、意識しないとその状態を維持するのが難しいのです。

視線と嘘

 面白いなと思って、チョット調べてみたのですが、そのものズバリの情報には行き当たりませんでした。

タダ、少し関係が有るかなと思ったのが、「視線で嘘を見抜く」という話です。

人は、記憶を思い出している時にはその人から見て左上を、記憶にない事を想像している時には右上を見る、らしいのです。

そのため、右上を見ている時には、嘘をつくために考えを巡らしている可能性が高いという訳です。

なるほどと思って、確認してみたのですが、瞑想中に過去の事を思い出しても(もはや瞑想では無い気もしますが)、右側から見るような事はないようです。


今回の話に特に結論やオチは有りません。


 コロナワクチンを打った箇所の痛みのせいで、腕の可動範囲が非常に狭い状態なので、今回はこの辺で。
ワクチンが早く早く行き渡って、コロナが下火になることを願うばかりです。


ではでは

日本の時代区分

日本の時代区分について考えた話です

 

 

日本の時代区分

 日本の時代区分というと、一般的には、奈良時代平安時代鎌倉時代などと、大まかに言って、その当時の政治的な中心のようなものがあった地域を名称として使っているという事になります。

その付け方に、何らかの明確な基準は有りません。

そのため、室町時代は、平安時代と同じ京都(平安京)に有ったので、足利義満の花の御所が有った地名を名称とするという、いささか苦しいことになっていたりします。

権力との関係が見えにくい

 また、それぞれの時代で、権力がどうなっていたのかという事と一致していなかったりしてややこしいです。

例えば、平安時代末期には、平氏の政権が出来るのですが、全く時代区分とは関係が有りません。

次の源氏の政権と比べて、いささか不公平じゃないですか。

平氏は幕府を作らなかったからだという見方もあるかもしれませんが、後の豊臣秀吉は、幕府を開かず、関白になったのですが、信長とまとめて安土桃山時代と呼ばれていますしね。

学術的区分

 一方、学術的には、古代、中世、近世、近代、現代という区分が使われているようです。

この区分の基準は何かと思って調べてみても、いまひとつ良く分からないのです。

例えば、中世はざっくり言うと、荘園が有った時代という事のようですし、近世は、秀吉の太閤検地により始まり、近代は、幕末から明治維新に始まると言ったように、明確な基準は無いように見えます。

因みに、近代の終わりは、先の敗戦という事のようです。

どうも、明治以降に輸入された西洋史での時代区分に、少なからず影響を受けたという背景も有るようです。

中国は明解

 ひるがえって、お隣中国を見てみると、その基準は明確で、各王朝の建てた国の名称が、時代区分となっています。

隋、唐、宋、元、明、清といった具合です。

これは、このブログでも何度か出て来たように、天帝による易姓革命という考えが背景に有るという事になります。

天命から次の天命までが一つの時代という訳です。

そういった考えがなく、一系の天皇が続く日本では、当然そんな基準は成り立たないという事なります。

氏族名を使って

 中国の王朝交代に代わるものとして、わが国では、権力を取った氏族の名前を使うというのはどうでしょうか。

藤原時代、平(たいら)時代、源(みなもと)時代、北条時代、足利時代・・・という感じにするのです。

こうする事により、後は、これらの氏族がどのような背景で権力を行使し、または衰退したのかという観点で考えていくことにより、ストーリーとして理解し易い気がするのですが。

勿論、全てこれで行くことは出来なくて、例えば戦国時代はそのまま使う事になりそうですし(中国にも戦国時代は有りますしね)、藤原時代以前は、どう考えるかといった点も有りそうです。

明治以降も、特定の氏族が権力を持っていた訳ではないので、どうするかは難しいところです。

少なくとも奈良時代から江戸時代まではカバー出来そうです。

 


 奈良時代から江戸時代終わりまでで約1200年弱なんですが、今回の時代区分だと、そのうち最初の約400年は藤原時代になります。
藤原氏恐るべしですね。

 


ではでは

なぜ『六国史』で終わったのか

六国史』以降に「正史」が作られなかった理由について考えた話です。

 

 

疑問

 わが国には、天帝による「革命」により王朝が交代するといったような世界観は有りません。

そのため、その「革命」の必然性を示すために作られた、中国の『二十四史』のようないわゆる「正史」を編纂する必要性は有りません。

さらに大和政権は一系の天皇家が続いていることから、王朝の交代そのもの無く、そういった意味でも、「正史」は必要ない事になります。

では、わが国の「正史」とされている『六国史』は何のために編纂されたのでしょうか。

という疑問から、『日本書記』から『日本三代実録』まで、その編纂理由を考えて来ました。

結論とさらなる疑問

 改めて振り返ってみると、『六国史』のいずれも、権力を握った藤原氏とその藤原氏と関係の有った天皇の正当性を示すために編纂されたということになりそうです。

その後、藤原氏は支持の表舞台から退くことになり、その結果『六国史』の後に、新たな史書は編纂されることは有りませんでした。

ということになれば、きれいに纏まるところなんですが、現実はそんなに甘く有りません。

日本三代実録』の関係者である藤原基経の後も、藤原氏、その中でも藤原北家が優位を保ち続けます。

そして、百年以上後の藤原道長の時代に最盛期を極めることになります。

あの、「この世をば」から始まる歌を詠んだ道長です。

藤原北家の時代が連綿と続いたのです。

では、なぜ『六国史』の後に「国史」は作られなかったのでしょうか。

律令制の時代だった

 天皇も、当然の事ですが、連綿と続いています。

すると残るのは、正当性を示すためという目的だけです。

正当性を示す必要性を無くすような状況が生じていたのでしょうか。

『六国紀』の編纂時期から、道長の時代も含め、当時の国家体制は律令制でした。

中国唐の制度を基に、天皇を中心とする官僚制度などの国家体制を構築したものです。

官職の独占

 その官僚制度ですが、貴族政治が進展していくにしたがって、特定の官職を特定の氏族が独占、世襲するようになります。

代表的なのが、ご存知藤原氏で、藤原北家が長らく権力を継承したことにより、摂政・関白は藤原北家が独占し、後に五摂家に分かれ、その権利を継いでいくことになります。

ちなみに、五摂家以外に唯一関白の地位に付いた例外が、あの豊臣家らしいです。

その他にも、安倍清明で有名な陰陽師のトップ陰陽頭には、安倍氏賀茂氏が就くといった具合です。

さて、そうなると、ある氏族に生まれたこと自体が就任の条件になる訳ですから、その正当性を示す必要性は全くない事になります。

さらに、その後の武家の時代は、「勝てば官軍」で、改めて正当性云々を主張する必要は無かったと考えられます。

という訳で、『六国史』以降に「正史」が作られることは無かったという事だと思います。


 いやぁ、『六国史』がらみは、藤原だらけですが、なかなか面白かったです。


ではでは

記憶の仕方

記憶の仕方について考えた話です。

 

 

面白い記事

 記憶に関連した、チョット面白い記事が有りました。

nazology.net

同記事によると、ピアノの練習のような新しいスキルを習得する場合、頻繁な休憩を行うと効果的な上達ができるという事のようなのです。

詳しくは記事を読んでもらうとして、試験の方法は次のようになります。

 1.簡単な数列を10秒間で出来るだけ入力する。
 2.10秒間の入力と10秒間の休憩を1セットとし、35セット行う。
 
その結果、入力している間に上達は見られなかったのが、休憩するたびにスキルの向上がみられたのです。

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引用元:練習中ではなく「頻繁な休憩」がスキルを上達させると判明 - ナゾロジー

 

その原因は、同時に行った脳波の測定から、練習中に似た波形が休憩中に高速に何度も繰り返されていることに有ると考えられました。

本人が休憩していると考えていた間に、脳内部では高速に何度も復習をしていると考えられるのです。

色々な記憶

 さて、記憶に関しては、現在の所おおむね次のように分類されています。

f:id:t_arata:20210701221502g:plain

引用元:記憶のモデル | 勉強のプロセス

 

ここまで書いてきた内容は、この中の「手続き的記憶」に関する話という事になります。

「意味的記憶」も同じ

 ところで、よく勉強に関連して、記憶力が悪くて困るといった時の記憶は、「意味的記憶」です。

その「意味的記憶」についても、英語で例文を覚える時などに、午前中は上手く覚えれなかったのに、午後になってもう一度やったらすんなりと覚えられたとか、一晩寝たらなぜか覚えていたとかいったことが有ります。

という事は、この2種類に分類されている記憶も、内部処理としては、同じようなことをやっているらしいという事になりそうです。

残りも同じ

 実は個人的には、「エピソード記憶」に関しても、同様の処理をしているのでは無いかと思っています。

エピソード記憶」については、意識的に記憶するという事をおこなわなくても記憶してしまうと考えられる訳ですが、実は脳の内部的には、同じように無意識に繰り返しす事により、記憶されているのではないか思うのですが。

ただし、そのきっかけが何なのかは、よく分からないのですが。

のこる「プライミング」に関しては、無意識の記憶だけに確認は難しそうですが、ここまで来れば、これも同じように処理されている可能性は高いと思われます。

記憶の基本的処理

 つまり、多少強引ですが、これまで分類されてきた様々な記憶は、内部処理的には同じように取り扱われているという事になります。

短期記憶から長期記憶への変化は、元も基本的な処理で、その先の処理がそれぞれ異なる進化を遂げてきたのかもしれません。

それに合わせて、脳が複雑化してきたという事は無いでしょうか。

回数をこなせば

 と色々妄想は膨らむばかりですが、最後にもう少し現実的な事を一つ。

結局の所、今回分かったのは、意識的か無意識的かにかかわらず、回数をこなす事によって記憶されているらしいという事です。

無意識に回数をこなさせる方法は、今回の内容からでは分からないので、当面は意識的に回数をこなして、短時間か一晩かは別にして、休憩を取れば、効率的に記憶できる可能性が高いという事になりそうです。


 もちろん、どうやって回数をこなすのかが大きな問題なんですけどね。


ではでは

港と湊とヤマト

港と湊からヤマトについて考えた話です

 

 

港と湊

 久しぶりの邪馬台国がらみの話です。

ふと、「港」と「湊」に違いは有るのか無いのか気になって調べていたんですが、Wikipediaで、次のような記述を見付けました。

湊(みなと)は「水の門」を意味し、『古事記』や『日本書紀』では「水門」と書かれる。
引用元:湊 - Wikipedia

つまり、川や海の水に向かって開かれた門のような場所なので、「水門」と書いてミナトという訳です。

それが現在では、「湊」として使われているという事のようです。

因みに、「港」に関しては、同じページに

古くは、港湾施設のうち水上部分を「港」、陸上部分を「湊」と呼んだ。

との記述が有りました。

昔は、ミナトの水の部分を「港」、陸の部分を「湊」と区別していたようです。

それが、今では同じ読みで、ほぼ同じ意味で使われていると考えていいようです。

山の門

 さて上に書いたように、「ミナト」が「水の門」であるならば、「山の門」は「ヤマト」ではないかというのが今日の話のポイントです。

昔は、山への入口にあたる場所を、「山の門」から「ヤマト」と呼んでいたのではないか。

その中の一つに邪馬台国が有り、倭人が「ヤマト」と言ったのを聞いて、中国人が「邪馬台」と当て字したのでなかったか。

私の説では、その邪馬台国が東遷して、大和(ヤマト)になるという事になります。

ヤマト=邪馬台

 そう考えて調べると、有りました。

チョット長くなりますが、引用します。

奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない。
引用元:倭 - Wikipedia

「山門(ヤマト)」が山の入口で、その一つに邪馬台国が有ったと考えるのも、それほど的外れではないようです。

山門郡

 上の引用中に出て来る筑紫の「山門」というのは、福岡県の山門郡の事で、邪馬台国の候補地の一つとなっています。

山門郡は、平成の大合併により、郡そのものが現在は有りませんが、大体柳川市みやま市の辺りとなるようです。

位置的には、福岡県でも南西部(赤丸:筆者追記)に位置し、有明海に面しています。

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引用元:福岡県 都道府県から地図を検索|マピオン

 

その周辺を、以前の記事でも使ったこのとある赤色地図で見てみましょう。

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出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

有明海から上陸して、山間部に入っていく入口で「山門(ヤマト)」という事が分かります。

宇佐はヤマトか

 では、私の推す宇佐はどうでしょうか。

同様に、赤色地図で見てみます。

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出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

どうでしょうか、水辺に面しているわけではありませんが、左右の狭隘部分を通って宇佐神宮から南の山間部に入っていく入口という事で、十分「山門(ヤマト)」と言って良いのでは無いかと思うのですが。

 


最後の結論に関しては、本人的には納得しているのですが、身びいきのバイアスが有るという批判は甘んじて受けます。

 


ではでは

思いもかけず中国大返し

思いもかけず中国大返しについて考えた話です

 

 

大坂冬の陣図屏風

 TVで歴史関連の番組が有る時には、基本的に録画しておいて見ることにしています。

いつものように、溜まったバックログを消化していたんですが、思いもかけずに、中国大返しに関係する情報を見つけたので、それについての話になります。

そのバックログは、NHKの「英雄の選択」という番組の、「大坂冬の陣図屏風」に関する回でした。

再放送で、最初の放送の時に見た記憶があるので、見るともなしにBGM代わりに流していました。

大坂冬の陣図屏風」とは、その名の通りに、大坂冬の陣の情景を屏風にしたものですが、原本は失われて、下絵のみ伝わっているようです。

それを、彩色して復元したことにより、新たな謎が出て来たという事で、それについての番組になります。

最大の謎は、豊臣家滅亡後に豊臣方優勢の場面を描く屏風がなぜ作られたのか、そして作らせたのは誰なのかという点になります。

秀忠も候補者

 発注者に関しては、豊臣側、徳川側それぞれに色々と候補者が出て来るのですが、その中に、徳川2代将軍の徳川秀忠も登場します。

徳川側のそれも将軍なのにどうしてという事ですが、その原因は、関ヶ原の戦いに遡ります。

秀忠は、関ヶ原の戦いの時に、途中の信州上田城真田昌幸を攻めあぐね、開戦に間に合いませんでした。

そこで、本隊を任された大坂冬の陣では、名誉回復を図るべく臨んだのですが、結局中心となったのは家康でした。

そこで、あえて、豊臣優勢の絵図を描かせたのではないかという訳です。

今回の眼目は

 発注者が秀忠だという説は、なかなか面白いのですが、今回の眼目はそこに有りません(ここまで引っ張ってなんなのですが)。

問題は、大坂冬の陣での秀忠の行動を説明した部分に有りました。

上にも書いたように、秀忠は、汚名挽回とばかりに気合十分で臨んでいました。

その気合が空回りしてしまったのか、6万の軍勢を率いて出陣したのですが、異常に早く軍を進めたというのです。

そのスピードは、江戸から今の愛知県豊橋までの290キロを、なんと6日!で行軍したらしいのです。

もっとも、京都についた時には、兵は疲労困憊で、家康はひどく御立腹だったらしいですが。

より具体的な例が

 中国大返しに関しては、それに関する記録が無いのは、当時の人間から見れば、それほど特筆すべき事では無かったからだという論を展開しました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところが、上記のように、疲労度は別にして、6万の軍勢が290キロを6日で行軍可能だった訳です。

これに比べれば、秀吉の中国大返しにおける、2万の軍勢による10日で200キロは、全く常識的な範囲の行軍という事になりそうです。

その程度の事だったのが、その後に秀吉が天下を取ったために、「中国大返し」と呼ばれるれる事になってしまったということなのでしょう。

 


 今回の番組の初回放送は2019年8月のようですから、まだこのブログで「中国大返し」を取り上げる前になります。
だからなのか、秀忠の行軍の件は、全く不意打ちでした。
その時の興味の対象でないと、こうも記憶に残らないものなんですねえ。

 


ではでは

『日本三代実録』

日本三代実録』について考えた話です

 

 

日本三代実録

 六国史の最後となりました。

これも名称から判る様に、清和、陽成、光孝の56代から58代の3代の天皇について纏められたものとなります。

これまで見てきた他の六国史と同じように考えてみましょう。

編纂を命じたのは、光孝天皇の次代59代宇多天皇です。

ここで、時の権力者はとなるところなのですが、チョット問題が有ります。

宇多天皇が887年に即位した時点での権力者は、藤原基経でした。
史上初めて関白となった人物です。

しかし、四年後の891年に亡くなってしまいます。

それに対して、宇多天皇が編纂を命じたのは、はっきりとはしていないのですが、編纂を命じられた人物の官位から、893年か894年と考えられているようです。

そうなのです、基経の死後に編纂が始まったことになるのです。

宇多天皇自らが望んだ

 基経が亡くなった時、彼の長男時平はまだ21歳であり、権力を引き継ぐには若過ぎました。

そのためか、基経の死後、摂関を置くことはなく、宇多天皇の親政となりました。

その親政を支えた一人が、あの菅原道真で、『日本三代実録』の編纂にも名を連ねています。

もっとも、その道真は、最終的に大宰府に流され亡くなってしまうのですが、それはまた別の話です。

という事で、『日本三代実録』の編纂は、宇多天皇自らが望んだもののように思われます。

三代の天皇

 ここで、関係する天皇系図をご覧ください。

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引用元:宇多天皇 - Wikipedia

 

日本三代実録』で取り上げられた、三代の最後の光孝天皇の代で、皇統が移動していることが分かると思います。

更に、三代の天皇の出自を見てみます。

清和天皇 父:文徳天皇、母:藤原明子(藤原良房の娘)
陽成天皇 父:清和天皇、母:藤原高子(藤原基経の同母妹)
光孝天皇 父:仁明天皇、母:藤原沢子(藤原基経、高子の伯母)

文徳、清和と、良房、基経親子にとって外戚としての権力の源とも言える皇統が続いていたのに、それを継続できなかったのは、基経と陽成天皇の母高子の間の関係に有ったようです。

二人は兄妹でしたが、関係が悪かったようなのです。

そのため、どちらの側も、相手に利するような人物に後を継がせるのを良しとせず、結果として選ばれたのが、光孝天皇という事になります。

一応、基経、高子のいとこにあたるので、藤原氏の一族ではありました。

皇統の移動と『日本三代実録

 光孝天皇は、そのあたりの背景から、自分の後には陽成天皇の弟がなると考えていたようですが、基経と高子の関係からか、皇太子が決まらないまま、病気になってしまいます。

そのため、結果的には自分の息子を立太子させることになります、後の宇多天皇です。

こうして、図らずも皇統が移動することになりました。

そして、上記したように、基経は、宇多天皇が即位して早々に亡くなってしまいます。

そうなると、宇多天皇にとっての心配は、基経と牽制しあっていた形の高子側の出方ということになります。
再び、皇統を基に戻そうとする可能性を無視出来なかったでしょう。

日本三代実録』は、これらの動きを封じるべく、光孝、宇多の皇統の正当性を示すために、編纂されたのだと思います。


 兄妹げんかも、「骨肉相食む」ところまで行ってしまうと色々と大変なのは、今も昔も変わらないという事でしょうか。


ではでは

『日本文徳天皇実録』

日本文徳天皇実録』について考えた話です

 

 

日本文徳天皇実録

 六国史5冊目ですが、名称を見て一目瞭然、『続日本後紀』に続いて、文徳天皇のみを対象とした一代記です。

という事は、仁明天皇から文徳天皇に続いて、文徳天皇から次の清和天皇への皇位継承にも、正当性を示さなければならない事情が有ったと考えられることになります。

前回の記事で、先代仁明天皇から文徳天皇への皇位継承に絡んで、『続日本後紀』が、急遽仁明天皇一代記として編纂されたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

時の権力者藤原良房の甥である仁明天皇皇位についたわけです。
さらに、その仁明天皇には、良房の娘・明子が入内しており、男子を産んでいます。

まさに、万々歳だったはずです。

仲が悪かった

 良房にとって誤算だったのは、甥であり娘婿でもある、仁明天皇との折り合いが良くなかったという事だったでしょう。

その大きな理由の一つは、やはり後継者問題だったようです。

良房としては、当然外戚の地位を狙っているので、娘の産んだ男子を後継者にと思っている訳です。

問題は、その男子が、仁明天皇の第四皇子だったという事に有ります。

仁明天皇としては、長男を後継者にしたいと考えていたようです。
まあ、親としては普通の感情ですよね。

しかし、実際に皇太子になったのは、第四皇子でした。
その時、僅かに生後八か月でした。
明らかに、良房の圧力だったと考えて間違いないでしょう。

これでは、悪くなるなという方が無理という感じですよね。

決定的な対立では無かった

 最終的に仁明天皇は、皇太子となった第四皇子、後の清和天皇に譲位する代わりに、その清和天皇の皇太子に自分の長男を立太子しようと図りますが、長男の安全を危惧して断念をします。

対立が、抜き差しならない所まで行ってしまったようにも見えますが、改めてよく考えてみると、皇太子である良房の孫への皇位継承については譲歩して、しぶしぶでしょうが認めているとも取れます。

良房側としては、このまま何もしなくても、次に皇太子が天皇に即位するのは決定事項なので、何も問題は有りません。

即位後に、誰を皇太子にするかについては、この仁明天皇の例を見ても明らかなように、何とでもなる訳ですから。

仁明天皇の死により

 そんな状況の中、仁明天皇が突然の病により亡くなってしまいます。
31歳の若さでした。

勿論、践祚して清和天皇に成ったのは、良房の孫である皇太子でした。
わずか9歳での即位でした。

仁明天皇の望んだ彼の第一皇子は、皇太子になることは有りませんでした。

良房の兄の長良の娘高子と清和天皇の間に出来た、第一皇子が後に立太子することになります。

特に問題はなさそうだが

 こう見て来ると、仁明天皇と良房の仲に問題はあったとはいえ、皇位継承に関しては問題が無いように思えます。

にも拘わらず『日本文徳天皇実録』は編纂されました。

これは、良房になにか後ろめたいことが有った事を伺わせます。
今も昔も、やましい事が有る人間は、言わなくても良い事まで語りたがるものです。

それは、ズバリ、仁明天皇の暗殺でしょう。

しかし、確かに仁明天皇は突然の病でなくなるというのは、いかにも怪しいのですが、上で考えたように、直ぐに暗殺をしなければならないような状況には無かったと考えられます。

それなのに、暗殺しなければならないような原因とは何でしょうか。

年齢が問題だった

 それは、良房の年齢だったのだと思います。

仁明天皇が亡くなった時に、良房は54歳で、後に権力を引き継ぐことになる息子の基経は22歳でした。

歴史的な事実としては、良房は68歳まで生きているのですが、それはあくまで結果論です。

この時の良房としては、一般常識的に考えて人生も晩年になり、息子もまだまだ権力を継げる程でなく、権力を継承していくことに焦りがあったと思うのです。

文徳天皇は31歳とまだまだ若く、この先いつ何時心変わりをしてもおかしくありません。

自分が生きている間に、権力の継承を明確にしておくために、暗殺により清和天皇への皇位継承を図ったのでは無いでしょうか。

おそらく、周りにもそういった疑いを持たれていたのでしょう。

それらを払拭、または押さえつけるために、文徳天皇の一代記の編纂を、息子の基経に行わせたのです。


 結局藤原良房は、図らずも三冊の国史を、そのうち二冊は天皇の一代記として、編纂することになってしまったという訳です。


ではでは

もう一度中国大返し

中国大返し」について、もう一度考えてみた話です

 

 

以前の記事

 秀吉を語る上では、外すことの出来ない「中国大返し」については、以前の記事で考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

私の基本的な立場は、秀吉が10日間で二百数十キロを取って返して、明智光秀を打ち負かしたという事実は有るにしても、それが巷間言われているような、常識では考えられない速度での行軍だったというような事は、無かったのではないかというものです。

誰が考えたのか、「中国大返し」という秀逸なキャッチコピーに惑わされているだけじゃないかという訳です。

TVで見た説

  先日も大返しを扱った番組をやっていたので、勿論見たのですが、その番組内で新説として取り上げていたのは、船を使ったというものでした。

武器や武具などの装備一式を着けたままで高速で移動するのは難しいので、装備一式は船で別に送ったのではないかというのです。

一見すると、なるほどその手が有ったかとも思います。

以前の記事にも書いたように、そんなに無理な移動では無かったというのが私の考えなのですが、百歩譲ってそうだったとしても、これはあり得ないでしょう。

なぜなら、前方には信長を討った明智、後ろには毛利という状況で、2万とも言われる軍勢が、丸腰で移動する事は考えられないと思うのです。

途中、周辺の勢力が、秀吉の軍が丸腰で移動しているのを見たら、襲いかかってくることも十分考えられる訳ですから。

当然、秀吉の軍は戦闘態勢を整えながら進軍したはずなのです。

記録が無いのが原因で証拠

 今回の海上輸送を始め、中国大返しについては、その実現方法に関して様々な説が唱えられる訳ですが、その原因は、ひとえに大返しに関する記録が殆どないという事に有ります。

番組を見ながら、この記録の無い事こそが、秀吉の行ったことが、「中国大返し」と言われるほどの大袈裟なものでは無かったという証拠になると思いつきました。

無かったから無いという当たり前の事なんですが。

もし本当に有ったとしたら

 今度は二百歩譲って、中国大返しが有ったとしましょう。

すると、秀吉軍が、常識ではあり得ないほどのスピードで行軍してきたという事になります。

その事実を前にして、全国の戦国大名はどう思ったか考えてみましょう。

当然、ぜひともその方法を知りたいと思ったはずです。

敵対する大名より早く導入できれば、先制攻撃を仕掛けることが出来るかもしれません。

反対に、先に知られれば、思わぬ攻撃を受けることになるかもしれません。

全ての大名が、競ってその方法を知りたがったと思うのです。

記録が残った、はずだ

 そして、その方法を入手した後は、当然記録に残したはずです。

その結果、「太閤神速行軍の法」とでも名付けられて、兵法として伝わっていてもおかしくは有りません。

いやいや、秀吉側は当然秘密にしたに違いない、という反論も有るかと思いますが、それでも少なくとも秀吉の家臣は知っていたわけですから、彼らが記録に残したはずです。

しかし、現実には兵法はおろか、大返しに関する記録そのものが殆ど在りません。

という事は、やはり「中国大返し」は、実際には常識の範囲内の行軍だったという事を物語っているのではないでしょうか。


 勿論、信長死すの報を受けた後の、秀吉の判断力と行動力の非凡さというのは否定出来ないですけどね。


ではでは