横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

蝦夷の戦闘技術の謎

蝦夷の戦闘力について考えた話です。

 

 

平安武士と蝦夷

 「歴史探偵 平安武士と蝦夷」という番組を観ました。

大和朝廷をその戦闘力で苦しめた、東北地方の蝦夷ですが、坂上田村麻呂に敗れます。

その後大和朝廷支配下にはいりますが、その戦い方の元となる戦闘技術が東国の地で源氏、平氏などの王臣子孫に伝播した結果、武士が生まれたという内容でした。

武士の始まりに関しては、前々回に取り上げたばかりです。
結構こういった偶然が重なることがあるのが、不思議な感じがします。

 

yokositu.hatenablog.com

 

私の仮説は、軍団廃止後に取り入れられた健児が、後の武士につながるのではというものでした。

それに対して今回の番組は、源氏、平氏といった上からの武士の始まりについての話という事になります。

上からなのか、下からなのかというあたりは、一度考えて見たい話ですが、今日のポイントはそこではありません。

それは、大和朝廷を苦しめ、後に源氏、平氏に取り入れられるような戦闘技術そのものについてです。

蝦夷の戦闘技術

 その蝦夷の戦い方がどんなものかというと、騎射術だというのが番組の主張でした。

読んで字のごとく、騎馬すなわち馬に乗りながら、射すなわち弓を射る術という事になります。

イメージしやすいものとしては、流鏑馬でしょうか。

騎馬で突撃しながら弓を射るという、機動性と高い攻撃力を誇るものと言えるでしょう。

これに対して、当時の朝廷側は歩兵が主たる攻撃力でした。

これが、蝦夷が朝廷を苦しめることになり、後に源氏、平氏が習得することになった、蝦夷の戦い方です。

なぜ東北の地に

 そうであるならば、大きな疑問が生ずるのです。

それは、この時代に東北の地に騎射術が、なぜ存在するのかというものです。

そもそも、『魏志倭人伝』に「牛馬なし」とあるように、古来日本には馬はいませんでした。

その後古墳時代以降に、おそらく大陸から朝鮮半島経由で西日本に持ち込まれ、全国へと広がっていったと考えられます。

そう考えると、その伝播の最終地点ともいえる東北地方に、中央からやって来た高級貴族が持っていないような戦闘技術があるはずがないのです。

にもかかわらず、存在したのはなぜか。

どこからやって来たのか

 その戦闘技術は、騎射術ということで、流鏑馬のようなものかと書きましたが、少し異なる点があります。

それは、使用する弓が長弓の所謂和弓ではなく、短弓だという事です。

 

引用元:原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 | 考える野帖

騎馬と短弓という事で有名なのは、モンゴル軍を始めとする大陸の遊牧民でしょう。

蝦夷の戦闘技術は、大陸からもたらされたのか、または蝦夷大和朝廷に対抗するために求めたのかは分かりませんが、大陸から直接導入されたものなのではないでしょうか。

そのため、大和中央にはない技術が存在したのです。

それをもたらしたのは、当時大陸の日本海沿岸にあった国「渤海」だったと思われます。

渤海」と大和朝廷は使者を遣り取りする関係でしたし、日本海経由の航路も開拓されていたようです。

軍団が廃止された時にも、対蝦夷陸奥国出羽国と共に、佐渡島が残されたのは、この当時の日本海経由の往来が活発であったことを物語っています。

その中で、大和朝廷の対抗勢力とも関係を持っておこうという「渤海」の思惑もあったかもしれません。


 蝦夷から短弓の騎射術を導入したにも関わらず、今使われているのは長弓である和弓なんですよね。これも謎です。


ではでは

 

海の民考

海の民について考えた話です。

 

 

海の民

 「古代文明 同時崩壊のミステリー」というTV番組を観ました。

紀元前1200年ごろに東地中海周辺で大規模な社会変動が発生し、ミケーネ文明、ヒッタイトなどの幾つかの古代文明が崩壊した原因を考えるというものでした。

一般的にこの出来事は、「前1200年のカタストロフ」と呼ばれています。

その原因のポイントとして取り上げられたのが「海の民」です。

この時期に「海の民」と呼ばれる集団が、東地中海地域を荒らし回ったことが古代文明崩壊の一因だったというわけです。

謎の海の民

 ところで、この「海の民」がどこからやって来たのか、どんな集団だったのかは、実のところよくわかっていないのです。

それ以前に、実のところ当時「海の民」という呼び方もされていませんでした。

1881年にガストン・マスペロというフランスの考古学者が、この当時各地に出没した集団を「海の民」と呼んだのが始まりということです。

しかしながら、エジプトには海から船に乗って攻めて来た集団と、当時のファラオのラムセス3世が戦った記録があり、海からやってくる戦闘集団がいたことは確かなようです。

海の民の正体

 その「海の民」の正体ついては、研究により当時の該当地域の気候が乾燥していたことが分かったという事から、それにより生活基盤を失った者たちの一部が船を使った武将集団化したというのが、番組の主張でした。

つまり、「海の民」はどこかの地域からやって来た特定の集団ではなく、様々な地域から逃れて来た寄せ集めだったのです。

確かにそう考えれば、当時の記録に明確な言及の無いのも当然という事になります。

「海の民」とう名称は、かなり的を得ていたという事になりそうです。

部分的には正しいが

 確かに「海の民」によって、東地中海地域の各地が襲撃されたのは確かだと思われます。

だからと言って、それだけで多くの文明、都市が壊滅したというのはどうなんでしょうか。

本ブログでは、太陽活動と多くの歴史的事象には関係があると考えています。

「前1200年のカタストロフ」についても、古代ギリシャとの関係を考える中で取り上げています。

 

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具体的には、次の図で分かるように、エジプト極小期と呼ばれる太陽活動の極小期で各文明の崩壊が発生したと考えています。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

つまり、単に東地中海地域の乾燥という問題ではなく、地球的な規模の気候変動により、広範囲の社会基盤が影響を受けていたのです。

その中の一部の者たちが、地中海で武装勢力として活動したのが「海の民」であり、当然陸上で活動した集団もあったはずです。

さらに、それら集団の襲撃を受けた側も、気候変動の影響を受けていたでしょう。

これらの複合的な要因により、いくつかの国、都市が滅ぶことになったのだと考えられます。

「海の民」は、その要因の一つだったのです。

統一するような中枢の無かった「海の民」は、その後の太陽活動の上昇に伴う社会システムの再生の中で、吸収されていったのでしょう。


 「海の民」は烏合の集で、残念ながらカリスマ的なリーダーはいなかったという事でしょうか。


ではでは

健児と武士

健児と武士について考えた話です。

 

 

軍団は廃止したが

 律令制と共に導入された軍事組織である軍団制ですが、桓武天皇により廃止されることになります。

その理由については、それまでの天武系の行って来た施策の否定を目的としていたのですが、その背景に律令制の導入が終わり軍団が必要なくなって来たこともあったと考えています。

 

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とは言っても、それまで存在していた軍事力がいきなり無くなると、その地域の情勢を不安定化させる恐れがあるのは、十分に考えられるところです。

そういったこともあったのか桓武天皇は、天武系の施策である軍団を廃止しつつも、その代わりに「健児」という軍事力を造ったのです。

軍団と健児

 軍団の代わりに導入された健児ですが、両者の最大の違いは、その対象者に在りました。

軍団に徴兵されるのは、正丁(21歳以上60歳以下の健康な成年男子)三人につき一人が自動的に挑発され、その能力等には関係が無かった。

それに対して健児は、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた20歳以上40歳以下の者を対象としていた。

さらに、このようにして選ばれた健児については、租庸調のうちの庸調が免除されていました。

つまり、土地持ちの武力を提供することを主とする人の集団が誕生したことになります。

これが、武士の起源の一部を形成していたのではないかというのが、今日の話のポイントです。

武士の起源

 私がまだ学校に通っていたころには、武士の起源については、在地領主から発生したとする説で、概ね次のようなものだったと思います。

武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。
引用元:武士 - Wikipedia

しかし現在では、この説の特に「在地領主が自衛のために武装した」というあたりについては否定的に捉えられているようである。

吉野ヶ里遺跡を見ても分かるように、そもそも古代からの損は自衛のための武装をしているものなので、こ時代の在地領主だけが突然武装したわけでは無いのです。

つまり、源氏、平氏のような上部構造は問題ないとしても、それを支える在地の専門職としての武士の起源がよくわからないという事になります。

健児が起源だったのでは

 この在地の武士の起源として、健児が当てはまるのではないかというのが、今回の仮説です。

上にも書いたように健児は、「土地持ちの弓馬に秀でた武力を提供することを主とする人の集団」でした。

これは、そのまま武士と呼んでも、それほど違和感はありません。

しかも、庸調が免除されていいたわけですから、子弟に継承させようとするインセンティブも働いていたことになります。

これらが組織されたものが、在地の武士団だったのではないでしょうか。


在地の武士は、その起源からして自らの土地を守る「一所懸命」を、その根底に持っていたという事になります。


ではでは

藤原氏の強み

藤原氏の強みについて考えた話です。

 

 

藤原の四家

 藤原氏の強みを考えるにあたって、先ず奈良時代から平安時代にかけての、藤原氏と権力についてを極簡単に見てみます。

藤原不比等が権力の座に就くことから始まります。

その死後その息子達の藤原四兄弟がそれを継承します。

四兄弟は、それぞれ一家を成し、南家、北家、式家、京家の藤原四家と呼ばれるようになります。

四兄弟は、同時期に国政を担う地位を占め権力を握ります(藤原四子政権)。

その藤原四子政権は、天然痘の流行(天平の疫病大流行)により4兄弟が相次いで病死してしまい、終焉を迎えることになります。

その後の四家

 その後台頭したのが、南家の藤原仲麻呂です。

権力を握った仲麻呂でしたが、孝謙太上天皇道鏡と対立し、藤原仲麻呂の乱で敗死します。

これによりいったん権力の座を追われた藤原氏ですが、式家の藤原百川や北家・藤原永手により盛り返します。

百川や永手は、桓武天皇の父で天智天皇嫡流光仁天皇を推したとみられます。

天武系から天智系への切り替わりに藤原氏が関係していたのです。

その後、平安時代になると式家、南家は衰退し、北家が反映することになります。

その最盛期が藤原道長という事になります。

争う四家

 藤原四家は、その本当のところは分かりませんが、藤原四子政権では方向性を一にしているように見えます。

そのまま、各親の後を継承していく形で政権が続いていくような形になればよかったのかもしれませんが、天然痘により四家共に当主を失ってしまいます。

その結果、四家が権力争いを行うことになってしまいます。

そのため、彼らの中では四家のどこが権力を掌握するのかが最も重要なことになったと考えられます。

そのことは、仲麻呂の時代まで連綿と続いてきた天武系の天皇との関係を、光仁天皇を担ぐことであっさりと覆したことを見ても明らかです。

天皇家よりも、式家、北家のことの方が重要だったのです。

このことが背景にあるからこそ、前回の記事で見たような、桓武天皇による天武系の歴代天皇の行ってきたことの否定、またはそれ以上の結果を残すことで、天智系の正当性を担保するという施策を行うことが出来たのだと考えられます。

 

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藤原氏の強みとしての四家

 以上見て来た藤原四家の互いに権力争いを行うという在り方こそが、藤原氏が長きに渡って権力中枢で繁栄した理由ではないかと思うのです。

各家の繁栄こそが重要であるからこそ、天武系から天智系への乗り換えに見られるように、それまでの行いを否定することも出来る。

この四家あることによる柔軟性こそが、藤原氏の強みだったのではないでしょうか。


 天然痘による藤原四兄弟の死が無ければ、これほどの長期に渡る繁栄は無かったのかもしれません。


ではでは

平安時代の始まり

平安時代の始まりについて考えた話です。

 

 

軍団の廃止

 前回の記事は、奈良時代の終わりに行なわれた、軍団の廃止についてでした。

 

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軍団は、律令制を全国的に導入するための軍事的な圧力を加えるために設置されたと考えています。

その軍団が、一部の軍事的脅威の残る地域を除いて廃止されたという事は、とりもなおさず設置の目的であった律令制による中央集権的な体制が、出来上がったことを示すのでは無いかという話でした。

廃止しなくても

 確かに、廃止されたという事から考えると、当初の目的が達成されたという推論が成り立つことにはなります。

然は然り乍ら、廃止までする必要が無かったともいえるわけです。

一般に、一度持った軍事力を放棄するというのはあまり例はありません。

軍事力こそが権力の源であることが多いからです。

それにも関わらず軍団の廃止は行われました、なぜでしょうか。

廃止したのは桓武天皇

 軍団を廃止したのは、桓武天皇で792年のことでした。

桓武天皇といえば、平安京への遷都ですが、2年後の794年のことでした。

桓武天皇は、これら以外にも、親政により様々な施策を行っています。

例えば、あの有名な征夷大将軍坂上田村麻呂による蝦夷の征討なども、桓武天皇の時代に行なわれました。

また、『続日本紀』の編纂も命じたとされています。

桓武天皇は天智系

 このように様々な施策を行った桓武天皇ですが、奈良時代を長く治めて来た天武天皇の系統ではなく、天智天皇に連なる天皇でした。

このことが、上記の様々な施策の背景にあったのではないかと考えられるのです。

それは、天武系の歴代天皇の行ってきたことの否定、またはそれ以上の結果を残すことで、天智系の正当性を担保する事だったとおもわれます。

軍団の廃止は、天武系による施策の否定のために、軍事力すらも捨てたことになります。

蝦夷の征討は、天武系の歴代天皇が成し得なかったことです。

その仕上げが、平安京への遷都だったのでしょう。

明らかに、天武系が造り上げて来たものを全て捨て去るためのものだったと考えられます。

改めて考えて見ると、その名称「平安」というのは、文字通りこののちの世の平安を願うというものでしょうが、その裏には、それまでの世が平安で無かったと言っているともいえるわけです。

そして以前の記事で書いたように、『続日本紀』の編纂は、天武系の徳の無さを指摘するとともに、平安京への遷都の正当性を示すものだったのです。

 

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桓武天皇の施策の多くは、天武系とは違う事を示すことが目的だったのす。

 
 もっとも、平安時代の始まりとしているのは後世の人間であって、桓武天皇は新たな時代を始めたとは考えていなかったと思いますが。


ではでは

軍団廃止考

軍団の廃止について考えた話です。

 

 

軍団の成立

 古代日本における軍団については、律令制の導入との関係から、その成立過程について書きました。

 

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それまでの大和政権と各地の勢力との間の冊封的体制を、中央集権的体制への移行するための施策だったのではないかというものでした。

先ず、畿内紀伊半島、旧九州勢力の元々の大和政権の勢力範囲に軍団を導入します。

それを一元的に運用することによる軍事力を背景に、周辺の地域から順次体制への参加を交渉、参加した地域での「軍団」の整備、一元的な運用と交渉、を繰り返すことで、全国を体制に組み込んでいきます。

勿論、ただ軍事的に圧をかけるだけではなく、参加した場合の国司以下の官吏への任命という見返りを提示したと考えました。

飴と鞭で律令体制というフォーマットへの組み込みを図ったのです。

軍団の廃止

 そんな軍団ですが、桓武天皇により陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国を除いて廃止されることになります。

陸奥国出羽国は対蝦夷佐渡国渤海などへの備え、西海道諸国については対中国と考えらることから、軍事的な備えが必要な地域を除いて廃止したことが分かります。

これは逆に見ると軍団が、純粋に対外的な軍事力のためだけではなくそれ以外の理由で導入されたことを示しているとも言えそうです。

それが、各地域の勢力を律令制への組込みだったという事になります。

廃止されたという事は

 そして、そういった軍団が廃止されたという事は、その地域では当初必要とされた理由が無くなったことを示していると考えられます。

つまり、律令制というフォーマットへの各地域の勢力の組み込み
が完了し、もはや軍団による鞭が必要なくなったという事になります。

軍団は701年の大宝律令による規定により始まり、桓武天皇による廃止は、792年のことでした。

その間91年に渡って存続したことになります。

一世代20年とすると、四世代以上経過しているわけです。

これほどの期間があれば、当初軍団の導入を背景に律令制に組み込まれた各地域の勢力も、その地位の世襲を重ねることにより既得権益化していったと考えられます。

もはや大和政権に対抗する勢力では無かったのです。

それによって、中央集権的な基盤が出来上がり、軍団の必要性は薄れていった結果なのだと思います。


 794年が平安京遷都ですから、奈良時代律令制による中央集権化の導入から完成までの時代だったという事になります。


ではでは

生成AIと英語の勉強

生成AIと英語の勉強について考えた話です

 

 

生成AI

 生成AIについては、本ブログでも何回か取り上げていますが、その最近の進歩の度合いは、もうすでに付いて行くのが困難というレベルです。

つい先日もTVニュースで、異なった母国語のグループが、生成AIを用いて同時通訳しながらWEB会議を行うというのをやっていました。

これはもう機械を介する必要がある点を除けば、ほぼ某アニメの「翻訳こんにゃく」ではないですか。

空飛ぶ車も出来そうですし、4分の1ほど過ぎてはしまいましたが、やっと昔夢見た21世紀がやって来たといったところでしょうか。

個人的にはあまり必要性が無い

 そんな生成AIですが、実のところ私個人としては、それほど必要性があるわけでは無かったりします。

既に退職して仕事もしていないので、報告書や提案書といった書類というものを作ることは無いですし、それ以外で普通の生活で必要になることも無いと言っていいでしょう。

しいて言うならば、このブログの文章を作成することぐらいですが、それは何か違うような気がしますし。

やはり普及はあちらからか

 それでも生成AIの流れは、否応なしに身の回りに溢れてくるのでしょう。

例えば、身近という事でもないのですが、最近になってAmazonで本を探していると、結構頻繁に生成AIを利用したと思しき大人向けの写真集が検索結果として示されるようになりました。

別にどうこう言うつもりはないですが、登録時のテクニックなのか、様々な検索ワードに引っ掛かるようにしているようで、少しばかり鬱陶しかったりするわけです。

ビデオの普及時と同じことが、生成AIでも見られるという事でしょうか。

それでも英語の勉強

 そんな生成AIですが、個人的には唯一思いついた使い道が、英語の勉強に使うというものでした。

この辺りは、Amazonでも生成AIに英会話の相手をさせる、といった内容のものが見られたりします。

しかしながら、生成AIとやり取りできるぐらいなら苦労はしません。

下手の横好き趣味の英語の私を舐めてもらっては困ります。

そんな中で思いついたのが、独り言での勉強法に利用するというものでした。

My独り言を生成

 ご存じのように独り言での勉強法というのは、日常の出来事、感想などをとにかく独り言でつぶやくことで、英語のアウトプット量を上げて、英語を習得しようというものです。

これも先ほどの生成AI相手の英会話と同じように、右から左に英語でつぶやけるのならば苦労は無いのです。

それを助けるために、「朝から晩までシリーズ」を筆頭に様々な、一日の行動などを英語で表したものが上梓されています。

しかし、これらのものはどうしても、一般的にありそうな平均的な内容にならざるを得ません。

例えば現在の私は、通勤をすることは無いですし、そもそもオフィス内でのやり取りも無いわけですから。

勿論、退職者の一日なってものを扱ったものはありません。

そこで生成AIです。

生成AIを使って一日を英語にしていけば、My独り言の出来上がりです。

これならば、自分の生活そのものですから、その英語をつぶやく機会が圧倒的に増加するという事になります。

しかも、コストパフォーマンスもいう事なしです。


 同時通訳出来るのだから英語の勉強は必要ないと言われそうですが、あくまでも趣味という事で。


ではでは

ブルシット・ジョブから

ブルシット・ジョブから考えた話です。

 

 

ブルシット・ジョブ

 しばらく前から「ブルシット・ジョブ」という言葉を見聞きするようになりました。

「ブルシット・ジョブ」は、人類学者のデヴィッド・グレーバー氏がその著書の中で提唱した概念で、その訳書が4年程前に出たことで広まったて来たようです。

その意味するところは、「社会に何の影響ももたらさず、働く当人も意味がないと感じている仕事」だそうです。

その割合が、富裕国の37~40%にも及ぶかもしれないという内容も、十分にセンセーショナルでした。

加えて、「ブルシット・ジョブ」の和訳が、「クソどうでもいい仕事」というインパクトのあるものだったのも、一因のような気もします。

確かに、退職した身で振り返ってみれば、意味の無い仕事をやったり、やらせたりしていた人たちについては、自分も含めて色々と思い当たる節があり過ぎですが。

労働は美徳

 グレーバーは、美徳の源としての仕事は最近の考えであり、勤労を美徳とするプロテスタントの考え方がその背景にあると考えているようです。

個人と社会全体の利益のために労働に励むこと働くことこそが、善行であるとする考えです。

この考え自体は間違ってはいないでしょうが、問題は労働の中身です。

その多くが労働をすること自体が目的となり、必要でもない「ブルシット・ジョブ」を生み出しているということでしょうか。

その原因は

 そうなってしまった原因は、労働の目的である個人と社会全体の利益の中身にあるのではないでしょうか。

現在の社会において個人と社会全体の利益は、資本の拡大再生産という事になるでしょうか。

言い換えれば、お金をたくさん稼ぐことが美徳であり、成功者というわけです。

以前の記事で、このお金こそ問題の根源ではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

問題は、現代社会においては、お金が無いと生活していけないという事なのです。

本来ならば、農耕を取り入れることに拠り担保されるはずの、基本的な生活にもお金が必要なのです。

結局、お金を得るためにすべての人が仕事をすることになります。

お金さえ得られれば、仕事の内容は「ブルシット・ジョブ」でもいいわけです。

お金を得ることが、人生の目的なのです。

やはりベーシックインカム

 これに対する解決策として、グレーバーはベーシックインカムを提案しているようです。

ベーシックインカムについては、本ブログでも考えています。

 

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やはり、全員で全員の基本的な生活を支える事に立ち返るというのは、考えてみる価値がありそうです。


が、問題もあります、ベーシックインカムの考え方は、あくまでも先進国の一部の富裕国では可能化もしれませんが、全世界に適応することは難しそうなんですよね。


ではでは

ヒトはなぜ歌うのか

ヒトがリズムにのることについて考えた話です。

 

 

ヒトはなぜ歌うのか

 番組表で「ヒトはなぜ歌うのか」というのを見つけた時に、それはヒトが言葉を使うからだと反射的に思いました。

私の愛する演歌も歌詞が無ければ、あの世界観を感じることは無いでしょう。

それを歌うという事についても、話す延長だと考えれば良いんじゃないかと。

話すと一言でいっても、ピッチ、アクセント、長さなど変化させる部分は多くあり、その先に歌があると考えれば、言葉の使用こそがポイントなのではないかというわけです。

番組を観て

 実際に番組を観てみるとその内容は、上で考えていたのようなものと少し違うものでした。

テーマの一つは、歌詞のある歌を歌うといったものではなく、もっと単純な「ビート(リズム)予測」についてでした。

ヒトは、ビート(リズム)が繰り替えされると、その先を「予測」するようになるのです。

いわゆる「リズムに乗る」という事かと思います。

番組では、どうしてヒトが「リズムに乗る」ことが出来るのかという点を考えていきます。

言語ではない

 これまで、「リズムに乗る」ことの出来るのはヒトだけだと考えられてきました。

ところが、2009年にスノーボールという真っ白なオウムが、有名になります。

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明らかに、ノリノリですよね。

ヒトに近いチンパンジーは、多少は可能なようですが、ヒトほど明確に「リズムに乗る」ことは出来ない様です。

さらに驚くことに、赤ちゃんでも「リズムに乗る」という事があるようなのです。

脳波を観察しながら、繰り返すドラムの音を聞かせて、ところどころで音を抜くと、その部分で脳波に変化が観測されたのです。

つまり、赤ちゃんは「リズムに乗って」おり、それを外された部分で反応したと考えられるわけです。

これらのことから、言語の有無以前のもっと本能に近い部分で、「リズムに乗る」という事が行われている可能性が示されたことになります。

二足歩行

 ここまで番組を観て、一つの仮説を思いつきました。

それは、二足歩行が「リズムに乗る事と関係があるのではないかというものです。

ヒトも、オウムを含む鳥も二足歩行です。

チンパンジーは、完全ではないですが、二足で歩行することがあります。

その不完全具合が、可能だが人ほどではない「リズムに乗る」能力という事だと考えられそうです。

二足歩行との関係は

 ヒトや鳥の二足歩行はの特徴として、普通に歩くときは「動歩行」だという特徴が挙げられます。

「動歩行」というのは、重心を滑らかに動かしながら移動するもので、前のめりに倒れ掛かりながら進んで行くように見える歩き方です。

言い方を変えると、次々に前に歩を進めないと前のめりになってしまうという事になります。

つまり、歩を進めるのに「リズム」が必要という言い方も出来そうです。

体の前方への倒れに合わせてリズムよく足を動かさないと、上手く歩けないのです。

これこそが、本能的に「リズムに乗る」ための機能が、ヒトや鳥に備わっている理由なのではないでしょうか。

ヒトは、二足歩行だから、歌うようになったのです。


 この仮説からすると、カンガルーも「リズムに乗る」ことが出来そうなのですが。


ではでは

軍団考

軍団について考えた話です。

 

 

大宝律令というフォーマット

 以前の記事で、壬申の乱で権力を奪取した天武天皇の政策について書きました。

 

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そのポイントは、それ以前の各地の勢力との間の冊封的体制を、大和政権による中央集権的体制への移行を画策していたというものでした。

その体制のフォーマットとして律令制を採用しようとしたのですが、それが最終的に結実するのは、二代後の文武天皇による大宝律令だったわけです。

フォーマットを作っただけでは

 上の記事でも少し書きましたが、大宝律令によってフォーマットは作ったわけですが、それに各地の勢力のすべてが、はい分かりましたと言って組み込まれるというのは考え難いのです。

しかし、歴史上は最終的に大和政権の中央集権的な体制が作られています。

勿論、豊臣秀吉による全国制覇のようなことは起きていません。

では、何があったのでしょう。

「軍団」について考えることで、そのあたりを説明出来るのではないかというのが今回の話になります。

軍団というシステム

 ここで取り上げる「軍団」は、大宝律令で規定された軍事組織で、大和政権が徴兵、維持を行う、地方の政治機構から独立している点にあります。

一般に、それ以前には「国造軍」と呼ばれる中央・地方の豪族が維持している軍事力があったと考えられています。

ところで本ブログでは、「国造」は、冊封的関係にあった各地の勢力に、大和政権が授けたものだと考えています。

 

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つまり、「国造軍」は、大和政権のコントロール下にはない軍事力という事になります。

律令制下に組み込まれるという事は、大和政権のコントロール下の軍事力を認めるという事になり、容易に認められないものだったはずです。

どうクリアしたのか

 それをクリアした過程は、次のようなものではなかったかと考えます。

先ず、大和政権の勢力範囲に「軍団」を導入します。

具体的には、畿内紀伊半島、旧九州勢力の勢力範囲といったところでしょうか。

それを一元的に運用することによる軍事力を背景に、周辺の地域から順次体制への参加を交渉、参加した地域での「軍団」の整備、一元的な運用と交渉、を繰り返すことで、全国を体制に組み込んでいったのです。

勿論、ただ軍事的に圧をかけるだけではなく、参加した場合の国司以下の官吏への任命という見返りを提示したと考えられます。

「軍団」は、軍事力の強化と律令制の導入という、一石二鳥のシステムだったのです。

納得しない勢力も

 元々の勢力範囲の周辺から徐々に体制化を進めていったわけですが、当然否とする勢力も出て来ます。

それの大規模なものが、720年の隼人の反乱と724年の蝦夷の反乱という事なのだと思います。

いずれも、大和政権からは遠く、元々冊封的ですらなかったと考えることも出来そうです。

加えて、701年に大宝律令を制定してから、それを全国に展開するのに20年以上かけても、いまだ完遂していなかったという事になります。


 反乱というのは、あくまでも大和政権側の理屈ですよね。


ではでは

前方後円墳と冊封的関係

前方後円墳冊封的関係について考えた話です。

 

 

前方後円墳×可視化テクノロジー

 TVで「デジタル・アイ  新発見続々! 考古学×可視化テクノロジー」という番組を観ました。

題名にもあるように、考古学的な遺物にレーザーやX線などを使用することにより、肉眼では見えない情報を取り出して可視化することが可能になり、新たな発見が生まれているという内容でした。

その中に、前方後円墳をレーザーで計測をして可視化するというものがありました。

ドローンに計測用の機器(3000万円!!)を取り付けて計測します。

この時、特に天皇陵とされている前方後円墳は立ち入りが禁止されているので、上空を飛ぶことはせずに周辺を飛びながら計測するのだそうです。

レーザーによる測量と言えば

 レーザーによる計測(LiDAR技術と言うそうです)と言えば、このブログでも以前の記事でお世話になっています。

計測値を用いて作成される赤色立体地図というものから、卑弥呼の墓について書いています。

 

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その地形的特徴から宇佐神宮卑弥呼の墓であり、さらにその形状から前方後円墳は、卑弥呼の墓へのオマージュでは無いかと考えました。

今回の発見は

 さてその前方後円墳について、今回の番組で取り上げられた発見は、同時期に造られたものの設計が異なっていたというものでした。

従来の説では、大和政権が各地の権力者に、大和政権への従属の証として大和政権の大王(天皇)の墓の設計図を与え、これに基づいて日本各地に同じような形状の前方後円墳が造られたと考えられています。

これが、大和政権が全国に勢力を伸ばしていったことを示しているというわけです。

しかし今回の研究で、同時期に異なった設計で造られていたという事になれば、これらのことは無かったという事になります。

つまり、大和政権が前方後円墳と共に全国に覇を唱えていったという事はないのです。

冊封的だったと考えれば

 こういたことを基に、研究者は大和政権の性格について、力によって支配するというものではなく、「入りたいやつは入ってや」という緩い部活のようなものだと解説していました。

これは、本ブログで考えている、大和政権とその他の勢力の関係が、支配被支配という関係ではなく、中国と周辺国のような冊封的なものだったという説そのものではないでしょうか。

冊封的な関係を結ぶために畿内使節を送ってきたはずです、その時に見た巨大な大王の墓を見て、その情報を各地に持ち帰った結果が、全国的な前方後円墳の分布になったのです。


 やはり、前方後円墳は一種の流行りものだったのです。


ではでは

天武天皇と日本書紀

天武天皇日本書紀について考えた話です。

 

 

前回の記事と天武天皇

前回の記事では、遣唐使日本書紀編纂の関係について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

703年の遣唐使での中国側の対応を受けて、時の権力者藤原不比等が通史の必要性を感じ、編纂を命じたのが『日本書紀』ではないかという話でした。

ところで、一般的に『日本書紀』については、天武天皇が編纂を命じて始まったと考えられています。

703年の遣唐使は、文武天皇の御代の話になります。

つまり、前回の記事の内容では、天武天皇は『日本書紀』には関係ないと言っていることになります。

今回は、天武天皇と『日本書紀』の関係について、改めて見てみたいと思います。

『日本書記』の記述

 天武天皇が『日本書紀』の編纂を指示したとされるのは、その『日本書紀』の天武天王10年に、川島皇子以下12人に対して命じた点を根拠としています。

これが『日本書紀』の編纂を命じたという事であれば、問題も無いのですが、実際にはそうではありません。

そのあたりを確認するために、実際の記述を見てみたいと思います。

「丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。」

「令記定帝紀及上古諸事」とありますから、『帝紀』と『上古諸事』が対象であり、『日本書紀』でありません。

最も、『帝紀』と『上古諸事』を編纂したものに『日本書紀』という名称を付けたという事も無いとは言えませんが。

一過性の作業だった

それよりも注目すべきは、そのあとの「大嶋・子首、親執筆以錄焉」という記述です。

これは普通に読めば、「大嶋・子首が自ら筆を執って記録した」といった意味になると思われます。

そこで記録されたのは、直前の「令記定帝紀及上古諸事」で定められた内容という事になります。

つまり、「令記定帝紀及上古諸事」は、この時だけで完結した作業だったと考えられます。

この後何十年も続く『日本書紀』の編集作業がこの時始まったわけでは無く、当然天武天皇も『日本書紀』には関係がないことになります。

何を定めたのか

 では「令記定帝紀及上古諸事」で何を定めたのでしょうか。

先ず考えられるのが、壬申の乱で倒した大友皇子の扱いについてではないでしょうか。

もし壬申の乱の時点で大友皇子が即位して天皇天皇という呼び方はまだなく、大王かもしれませんが)となっていれば、天武天皇はそれに弓引いた逆賊となってしまいます。

それを回避するために、大友皇子の即位を無かったことにする修正について定めたわけです。

もう一つ考えられるのは、白村江の戦いの直前に滅ぼした、九州にあった政権の取り扱いについてです。

元をたどれば邪馬台国という同じルーツを持つ九州の政権について、どのように取り扱うかを定めたという事になります。

「上古諸事」とあるので無くはないかとも思いますが、その対象となる期間の長さから考えても、その場で決めるのも困難だと思われ、可能性は低いかもしれません。


それにしても、わざわざ「親執筆以錄焉」と書くという事は、字を書くこと自体が珍しかったのでしょうか。


ではでは

遣唐使と日本書紀

遣唐使日本書紀の関係について考えた話です。

 

 

信じてもらえなかった

 前回の記事では、「大宝律令」後の遣唐使について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

大宝律令」制定によって、大和政権を中心とする国家のシステムを造った上で、白村江の戦い以来の唐との関係を正常化するのを目的として703年に遣唐使を派遣したという話でした。

その結果、特に断交されることもなく、その目的は一応達せられたといってもいいでしょう。

ただ、使者による「日本」という小国が「倭」を併したという話は、中国側に信じてもらえなかったようです。

このことが、「日本書紀」編纂のきっかけになったのではないかというのが、今日の話になります。

日本書紀」については

 「日本書紀」については以前に、当時の実質的な最高権力者である藤原不比等が編纂させたという内容で記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

彼が造り上げた権力構造を守るために、文武天皇の即位の正当性を「日本書紀」により示そうとしたのです。

その時に、「史記」を参考に、通史という形を採用したのだと考えました。

目的の一つではあったが

 確かにそういった思惑もあったことは否定出来ないでしょう。

しかし一方でよく考えて見ると、それだけで権力構造を確固たるものに出来るわけでは無い、というのもまた確かでしょう。

つまりそれだけでは、通史を編纂するという動機としては不十分とも言えそうです。

そう考えると703年の遣唐使において、「日本」に関する使節の話を、中国側が信用しなかったという事が、通史を編纂するきっかけになったのかもしれません。

帰国した遣唐使から、中国側の対応について報告を受けた藤原不比等は、ショックを受けたと思われます。

大宝律令」を制定し、律令体制という国家の体制を整えた上で、満を持して遣唐使を派遣したはずです。

その結果が、信用できないという中国側の対応だったわです。

不比等は、「日本」の正当性を示すための通史の必要性を感じて、編纂を命じたのです。

史記」を手本に

 そしてその手本として、「史記」を採用しました。

史記」を手本とすると、必然的に現体制の正当性を示す形になります。

この場合現体制は、遣唐使を派遣した文武天皇という事になります。

現体制の天武天皇は、徳があるからその地位を継承したのだという形で編纂されることになります。

そのため「日本書紀」は、文武天皇の前代持統天皇までが纏められたものとなたのです。

しかしながら、文武天皇が707年に25歳の若さで亡くなってしまい「日本書紀」が間に合わなかったのは、不比等にとっても誤算だったに違いありません。


日本書紀」編纂理由に関する自説の修正案という話でした。


ではでは

大宝律令後の遣唐使

 

大宝律令制定後の遣唐使について考えた話です。

目次

前回の話

 前回の記事では、壬申の乱後について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

壬申の乱で勝利した天武天皇が目指したのは、それまでの冊封的な各地の勢力との関係を、より中央集権的なものにするというものでなかったかというものでした。

そのために律令制の導入を目指しましたが、在任中には叶わず、最終的にそれがなったのは、2代後の文武天皇によって制定された「大宝律令」だったという話でした。

今回は、その「大宝律令」制定後の遣唐使について考えて見たいと思います。

703年の遣唐使

 「大宝律令」の制定は701年ですが、翌702年には遣唐使を派遣しています。

この遣唐使については、以前の記事で取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

旧唐書」によれば、我が国からの使者は、「倭国」と「日本国」の2つの国から、次のような年に送られたとされています。

倭国
 631年、648年
日本国
 703年、713年、753年、760年、804年、806年、839年

本ブログでは、九州と大和の2つの政権が、白村江の戦い前まで並立していたと考えていますが、上の記述も根拠の一つになっています。

このうちの「日本国」からの703年のものが、大和政権が702年に送ったものと思われます(出発の翌年に到着したわけです)。

大宝律令」の制定により国内の体制が一応整った形になったことから、663年の白村江の戦い以来の唐との関係を正常化するのが目的だった考えられます。

倭国」を併した「日本」

 この703年の時に、「日本国」の使者は初めて「日本」という名称を使ったとされています。

さらに、この「日本」は元々小さな国であったが、「倭国」を併したのだと主張したようです。

これはひょっとしたら、白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦ったのとは別の国だとミスリードしたかったという事なのではないでしょうか。

703年という事は、663年の白村江の戦いから40年経っているわけで、上手く誤魔化せると考えたのかもしれません。

結果的には、中国側に疑われて終わったようですが、特に断交されたということもなかったので、ひとまず目的は果たしたという事でしょうか。

しかし、「倭国」と「日本国」と別項になっているように、中国側には別の国だという事は認識されていたようですが。

唐としては、白村江の戦いで大勝しているわけで、東夷の小国に対して、こちら側が考えるほど大したことだとは思っていなかった、ということなのかもしれません。


 典型的な、「案ずるより産むが易し」だったということでしょうか。


ではでは

壬申の乱後考

壬申の乱以降について考えた話です。

 

 

これまでの記事

 少し前に、壬申の乱について記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた天智天皇が、その後の連合軍による侵攻に対する恐れを背景に、各地の勢力を兵力として利用しようとします。

大和政権との関係が冊封的なものであった各地の勢力は、結局唐・新羅連合による侵攻も無かったこともあり、そういった天智天皇に反発します。

それに目を付けた後の天武天皇が起こしたのが、壬申の乱だと考えました。

権力は奪取したが

 結果として天武天皇が権力を奪取することになりましたが、かといって従来の冊封的体制を踏襲する気は無かったようです。

権力奪取後の幾つかの出来事を見ると、冊封的体制からより中央集権的な体制への移行を画策していたのではないかと思われるのです。

先ず、政治体制としては、要職に皇族をつけたのが特徴の、皇親政治と呼ばれていますが、実質的には天皇専制の体制で、変革を推し進めることを可能にするものでした。

次に、そのために体制のフォーマットとしてとも考えられる、律令の制定を目指し、即位10年に詔を発しています。

後、細かい話ですが、即位5年に「又外国人欲進仕者、臣連伴造之子及国造子、聽之」とあり、外国人の登用をするように勅しています。

「外国人」について一般的には大和政権の中枢部があった畿内以外の国の人と解釈されていますが、そのまま素直に大和政権以外の冊封的関係にあった別の国の人と考えれば、これも各地の勢力を体制に取り込む政策の一環と取れます。

律令を目指すが

 律令という統治のためのフォーマットを作成し、その体制のなかに各地の勢力を取り込むことを図ったわけですが、どうやら一筋縄ではいかなかったようです。

各地で権力を掌握していた勢力を、軍事的に征服することもなく、天武政権の下に組み入れようとするわけですから、反発も強かったと考えられます。

そのこともあってか、律令の制定は天武天皇の在位中にはならず、次の持統天皇に託されます。

その結果造られたのが「飛鳥浄御原令」です。

ただし、名称を見てわかるように、「律」は無く、「令」のみでした。

律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)という事ですから、冠位、組織などの器は出来ても、刑法が無く、各勢力に対する強制力は無かったことになります。

抵抗が強かったことがうかがわれます。

最終的には

 結局のところ、天武天皇が目指した体制は、さらに次代の文武天皇の701年に制定された「大宝律令」で初めて実現されたという事になります。

最も、各地の勢力がどこまでこの新たに造られた体制に組み入れられることを是としていたかは分かりません。

そのあたりが、この時代を考えるポイントのような気がしています。


律令」を作ったからよろしくねと言っても、日本全国がそろってはいそうですかとはならないと思うのですが。


ではでは