壬申の乱以降について考えた話です。
これまでの記事
少し前に、壬申の乱について記事を書きました。
白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた天智天皇が、その後の連合軍による侵攻に対する恐れを背景に、各地の勢力を兵力として利用しようとします。
大和政権との関係が冊封的なものであった各地の勢力は、結局唐・新羅連合による侵攻も無かったこともあり、そういった天智天皇に反発します。
それに目を付けた後の天武天皇が起こしたのが、壬申の乱だと考えました。
権力は奪取したが
結果として天武天皇が権力を奪取することになりましたが、かといって従来の冊封的体制を踏襲する気は無かったようです。
権力奪取後の幾つかの出来事を見ると、冊封的体制からより中央集権的な体制への移行を画策していたのではないかと思われるのです。
先ず、政治体制としては、要職に皇族をつけたのが特徴の、皇親政治と呼ばれていますが、実質的には天皇専制の体制で、変革を推し進めることを可能にするものでした。
次に、そのために体制のフォーマットとしてとも考えられる、律令の制定を目指し、即位10年に詔を発しています。
後、細かい話ですが、即位5年に「又外国人欲進仕者、臣連伴造之子及国造子、聽之」とあり、外国人の登用をするように勅しています。
「外国人」について一般的には大和政権の中枢部があった畿内以外の国の人と解釈されていますが、そのまま素直に大和政権以外の冊封的関係にあった別の国の人と考えれば、これも各地の勢力を体制に取り込む政策の一環と取れます。
律令を目指すが
律令という統治のためのフォーマットを作成し、その体制のなかに各地の勢力を取り込むことを図ったわけですが、どうやら一筋縄ではいかなかったようです。
各地で権力を掌握していた勢力を、軍事的に征服することもなく、天武政権の下に組み入れようとするわけですから、反発も強かったと考えられます。
そのこともあってか、律令の制定は天武天皇の在位中にはならず、次の持統天皇に託されます。
その結果造られたのが「飛鳥浄御原令」です。
ただし、名称を見てわかるように、「律」は無く、「令」のみでした。
律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)という事ですから、冠位、組織などの器は出来ても、刑法が無く、各勢力に対する強制力は無かったことになります。
抵抗が強かったことがうかがわれます。
最終的には
結局のところ、天武天皇が目指した体制は、さらに次代の文武天皇の701年に制定された「大宝律令」で初めて実現されたという事になります。
最も、各地の勢力がどこまでこの新たに造られた体制に組み入れられることを是としていたかは分かりません。
そのあたりが、この時代を考えるポイントのような気がしています。
「律令」を作ったからよろしくねと言っても、日本全国がそろってはいそうですかとはならないと思うのですが。
ではでは