横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『日本書紀』創られた日本 103 -仏教公伝と崇仏・廃仏論争2-

『日本書紀』創られた日本 103 仏教公伝と崇仏・廃仏論争についての話2です

 

 

崇仏・廃仏論争

 前回は、いわゆる崇仏・廃仏論争について考えました。

本ブログでは、『日本書紀』に記されている百済との関係は、実際には九州王朝と百済の間のやり取りであり、大和政権との関係にミスリードされているとの立場を取っています。

この事は、当然百済から仏教がもたらされたという、いわゆる仏教公伝にも当てはまります。
仏教公伝は、百済から九州王朝に行なわれたのです。

そうなると、百済からもたらされた仏教について、欽明天皇が「これを礼するべきか」と臣下に問いたいう話も作り話で、それに対する返答から始まったとされる、蘇我氏と物部氏との間の論争も無かったということになります。

元々、対立構造が無かったところに、天皇の問いから始まる話を創ることで、蘇我氏に崇仏派、物部氏に廃仏派というイメージを付けることが目的だったのではないか、という話でした。

その後の両氏

 そうなると疑問は、なぜ蘇我氏に崇仏派、物部氏に廃仏派というイメージを付けることが必要だったのかという事になります。

ただし物部氏については、欽明天皇の問いに対して、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対していることから、廃仏というよりは天孫の子孫たる天皇を中心とする体制を守るイメージだったように思えます。

必要な理由を考えるにあたって、先ず論争以降の両氏について見てみます。

蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役で、蘇我馬子が物部守屋を滅亡させたことにより、蘇我氏の勝利で終わることになります。

その後、蘇我氏の一強時代となりますが、結局乙巳の変で、中大兄皇子らによって馬子以来の蘇我本家は滅亡させられてしまいます。

なぜ必要だったのか

 以上の両氏のその後と、中大兄皇子(天智天皇)の兄弟の系図のなかで『日本書紀』が編纂されたことを考えると、両氏のイメージ付けの必要性が見えて来るように思えます。

中大兄皇子が滅ぼした蘇我氏に対して、単なる権力抗争という事だけではなく、天皇を中心とする体制を揺るがす一族だというイメージを付けるためだったのではないでしょうか。

それを打倒して天皇中心の体制を守ったのが、『日本書紀』を編纂した血統なのだというわけです。

そのために、蘇我氏に滅ぼされた物部氏との間に、対立構造を創り出したのです。


 その後天智天皇の血統のみが続いていくことになるのは、歴史の皮肉でしょうか。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 102 -仏教公伝と崇仏・廃仏論争-

『日本書紀』創られた日本 102 仏教公伝と崇仏論争についての話です

 

 

百済との関係

 前回までの2回の記事で、百済と大和政権の関係について見てきました。

基本的には、『日本書紀』に見られる百済との関係は、実際には百済と九州王朝の間で行われたものであり、それを大和政権との間のものとしてミスリードする形で創られた話だと考えられるというものでした。

『日本書紀』にある、欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から、仏像や仏典が「献上」されたとの記述、いわゆる「仏教公伝」も、実際には九州王朝に対してのものだったという事でした。

その中で、九州王朝に仏像や仏典が贈られたという話をミスリードすることで、蘇我氏と物部氏の対立話にすり替えたのではないかと書きました。

今回は、その辺りをもう少し考えて見たいと思います。

仏教公伝

『日本書紀』によれば、552年に仏像や仏典が「献上」された
際に欽明天皇は、「これを礼するべきか」と臣下に問いたとなっています。

しかし、「献上」そのものが九州王朝にされたものだと考えているわけですから、この話のようなことは全くなかったということになります。

これは前にも書きましたが、大和政権における天皇は、天孫の子孫のわけで、その存在そのものが宗教的なものといってもいいものです。

その天皇が、いくら百済の王が公式に献上してきたものだからといって、単なる宝物とかならいざ知らず、仏教という異教に関してどうしたらいいか聞いたりするという話を、なぜわざわざ作ったのでしょう。

崇仏・廃仏論争

 この先、欽明天皇の「これを礼するべきか」という問いに対して、受容の立場の蘇我氏と反対の物部氏が、それぞれの意見を表明するという話になっています。

それ以降両氏が対立したと考えられて来ました。
いわゆる「崇仏・廃仏論争」です。

この対立構造こそが、天皇まで持ち出して創り出したかったものだと思います。

この「崇仏・廃仏論争」については、近年の研究で物部氏の氏寺と思われる遺構が発見されたりして、疑義が呈されています。
「崇仏・廃仏論争」などというものは、なかったのではないかということです。

元々、対立構造が無かったところに、天皇の問いから始まる話を創ることで、蘇我氏に崇仏派、物部氏に廃仏派というイメージを付けることが目的だったのです。


 「排仏」、「崇仏」という言葉自体が江戸時代に造られたもののようで、まんまと編纂者の思う壺というところでしょうか。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 101 -百済に関する記述2-

『日本書紀』創られた日本 101 百済に関する記述2についての話2です

 

 

百済に関する記述は

 ここまでの話で、白村江の戦い、五経博士、仏教公伝を代表とする、『日本書紀』における百済関係の記述は、いずれも実際には大和政権での出来事ではなさそうだと分かって来ました。

これは、『日本書紀』では九州王朝の存在を消すために、その行った出来事を大和政権が行ったことへとミスリードする内容とする、という編集方針に基づくとも言えます。

つまり、実際にはこれら全てが、九州王朝での出来事だったのです。

百済との様々なやり取りをしたのは、大和王朝ではなく、九州王朝だったのです。

奇妙な点が

 しかし、もしそうだとすると少し奇妙な点があるのです。

それは、以上の百済関連の話については、朝鮮側にほぼ記録がないという点です。

これまで見て来た百済関連以外の、ミスリードだれたと考えられる出来事には、主に中国王朝の正史を中心に、それに対応する大陸側の記録が存在しました。

しかし、百済関係には、直接の相手である朝鮮にも記録が見当たらないのです。

相手側に記録がないのに、わざわざミスリードするための話を創り出す必要は無いように思われます。
九州王朝を滅ぼし、その記録を抹消すればいいだけの話です。

それにもかかわらず、実際には『日本書紀』にミスリードするための話が残っています。

なぜでしょう。

裏の取れた情報

 前にも書きましたが、大和政権は、九州王朝を滅亡させた際に九州王朝側に在った記録を始めとしたさまざまな資料を入手したはずです。

さらに、滅亡した百済からの亡命者達から、九州王朝と百済との間のやり取りなどの情報を手に入れることも出来たでしょう。

そして、これらの事により得られたのが、『日本書紀』に引用されている逸文としてその存在が知られる『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』だと思われます。

『日本書紀』の記述は、それらの情報を基にしたものと考えられます。
実際に在ったと確認した出来事を基にしているのです。

という事は、朝鮮側の記録に原因が有りそうです。

朝鮮側の記録

 ここまで朝鮮側の記録が無いと言ってきましたが、そのとき念頭に在ったのは、『三国史記』です。

『三国史記』は、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの歴史書で、現存する最古の朝鮮史書となります。

その『三国史記』に、『日本書紀』にある記述に対応する、百済と倭との話が出てこないのです。

しかし、上で見たように実際には存在した可能性が高いのです。

『三国史記』は、高麗時代の1145年完成とされています。
つまり、『日本書紀』の約400年程後に編纂されたということにまります。

当然、『日本書紀』に百済がどう取り上げられているかについても、情報が入っていいたはずです。

大和政権に対して従の立場で書かれていることを、認める事は出来なかったという事なのではないでしょうか。

意外と、実際の百済と倭(九州王朝)の関係も、それほど当たらずも遠からずという事だったのかもしれません。

その結果、『三国史記』には記述が無いのです。

という事で、『日本書紀』にしか出てこない百済との関係という、不可思議な状況が出来上がったのです。


 『日本書紀』編纂者も、まさか朝鮮側に記録が残らないとは思わなかったのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 100 -百済に関する記述-

『日本書紀』創られた日本 100 百済に関する記述についての話です

 

 

百済と大和政権

 ここまで、白村江の戦いの前後の状況に関して見て来ました。

『日本書紀』では、百済滅亡後に起こった復興運動への支援要請に対して、その派兵のために斉明天皇以下政権中枢部挙げて九州の地に移ったと記述されています。

そして、白村江の戦いにおいて大敗北を喫することになるのです。

これに対して本ブログでは、白村江で唐・新羅連合軍と戦ったのは、九州王朝であると考えました。

斉明天皇以下の大和政権は、その敗北の混乱を突いて九州王朝を攻め、最終的に滅ぼしてしまったのです。

そうであるならば、大和政権と百済の間には、これまで考えられてきたような様々な関係は無かったことになります。

今回は、その辺りを改めて考えて見ます。

百済との関係

 『日本書紀』における百済と大和政権の関係は、ほぼ神功皇后による三韓征伐から話が始まります。

それ以降も、百済と大和王朝の関係は、大和朝廷を上位とする上下関係に在ったことをうかがわせる記述になっているように、私には見えます。

白村江の戦いに関しても、百済最後の王である義慈王の王子である豊璋が滞在しており、百済復興のため軍勢を付けて帰国させたのも虚偽で、実際には九州王朝に居たのではないかと書きました。

三韓征伐、白村江の戦い関連以外での百済との関係を示すもので有名なところと言えば、「五経博士」と「仏教公伝」でしょうか。

五経博士

 五経博士は、継体天皇期以降交替で何人かの儒教学者が派遣されたというものですが、これを『日本書紀』では百済が「貢」したと記述しています。

この話が『日本書紀』編纂に際して創られたものだとするには、交代の話、出てくる人物名等かなり具体的にすぎるような気がします。

それに対して、彼らによる具体的な事績はほとんど記述されていないという事も有ります。

おそらく、九州王朝に派遣されたというのが実際の話であり、それを対応する天皇期の話として組み込んだものと思われます。

仏教公伝

 『日本書紀』に、欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から、仏像や仏典が「献上」されたとの記述があり、これをもって「仏教公伝」とされています。

その際に欽明天皇は、「これを礼するべきか」と臣下に問います。

これはどうなんでしょう。

そもそも、ヤマト王朝は天孫降臨から始まったということで、神の子孫の訳です。

それはあくまで神話だという事だとしても、鬼道を行った卑弥呼が始まりだったりするわけです。

いずれにしても、宗教的なものと深く関係しているのは間違いのない所です。
この事は、現在の天皇の在り方を見ても明らかでしょう。

その天皇が、いくら百済の王が公式に献上してきたものだからといって、単なる宝物とかならいざ知らず、仏教という異教に関してどうしたらいいか聞いたりするでしょうか。

この後、蘇我氏と物部氏が対立をして「崇仏論争」が起きたことになっています。

九州王朝に仏像や仏典が贈られたという話を基に、蘇我氏と物部氏の対立話にすり替えたのではないでしょうか。


 ところで、以上の話は朝鮮側にはほぼ記録がないんですよね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 99 -九州王朝の都-

『日本書紀』創られた日本 99 九州王朝の都についての話です

 

 

九州王朝の都

 前回は、斉明天皇以下の大和政権が白村江の戦いの後を狙って攻め込んだ九州王朝の都が、大宰府の下に眠っているのではないかという話でした。

これも前回書きましたが、大宰府は、白村江の戦いの後に大陸からの侵攻を防ぐために大和政権が造って命名したものであり、斉明天皇達が攻め込んだ時には存在していませんでした。

当然、その地は大宰府とは呼ばれていなかったのです。

今回は、その九州王朝の都がどのように呼ばれていたのかから、色々と考えて見ます。

『隋書俀国伝』

 九州王朝の都は、白村江の戦いの後に大和政権が滅ぼしたのですから、直近の情報としては唐の記録という事になります。
しかし、残念ながら唐の正史『旧唐書』には、その記録は有りません。

その前の王朝隋の正史『隋書』の「俀国伝」には次のようにあります。

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
「俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。古(いにしへ)は云ふ、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。」
引用元:https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

「邪靡堆に都する。」と書かれています。
さらに、「すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。」と続きます。

倭国の都の名前は、「邪靡堆」だと言っているわけです。

国ではなく都 

 大和政権がこの時点すなわち遣隋使を派遣した時点で、全国を統一していたという立場では、これを「魏志いうところの邪馬臺」すなわち邪馬台国が、「邪靡堆」すなわち大和になったと考えます。

しかし、邪馬台国の一部が畿内に東遷し、残った勢力が九州王朝になったと考える当ブログの立場では、都を定めてその名を「邪靡堆」としたと考えます。

引用した文章の最初の方に、「魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。」とあるのは邪馬台国卑弥呼を連合の王として担いだ三十余国の事でしょう。

これと、先の「邪靡堆に都する。」という文を見る限り、『隋書俀国伝』の編者は、国と都を使い分けていると見ていいでしょう。

残った人々が「邪靡堆」と名付けた

 五胡十六国の動乱が海を越えてくるのを恐れて、邪馬台国の中枢部の人々が東に逃れた後、残った人々は先祖伝来の地を守るために結束します。

それが九州王朝となり、その過程で後の大宰府の地を都と定め、魏の役人に「邪馬台」と書かれた元の連合の名前を付けたのです。

元々争いあっていた三十余国が、纏まるために担ぎあげたのが邪馬台国で、決して支配的な地位にはなかったはずです。
その名を九州王朝の名とするのは、良しとしなかったのでしょうか。

その代わりに、都の名として遺したということなのかもしれません。

それを今度は、隋の役人に「邪靡堆」と書かれたわけです。


 「邪靡堆」と、あくまでも貶める字を当てるという点は一貫しており、さすが中国です。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 98 -斉明天皇の赴いた先2-

『日本書紀』創られた日本 98 斉明天皇の赴いた先についての話2です

 

 

敵は大宰府にあり

 前回は、白村江の戦い敗戦による混乱の最中にある九州王朝を叩くことを目的に九州に赴いたと考えられる、斉明天皇率いる大和王朝の侵攻目標について考えました。

 

引用元:Google map

その居所となった二つの宮の比定地が、中間市と田川市付近であるとの仮説から、その西にある大宰府を東から回り込む戦略だった可能性が考えられるという話でした。

大宰府と言っても

 ただしそうは言っても、そもそも大宰府は、白村江の戦いの後に大陸からの侵攻を防ぐために大和政権が造ったものであり、斉明天皇達が攻め込んだ時には存在していません。

その大宰府と呼ばれている場所に在ったものこそ、九州王朝の都ではなかったかと思っています。

九州王朝が送った遣隋使に対して、隋から使者として裴世清が派遣されます。

『隋書俀国伝』にある裴世清による帰国後の報告と思われる記述を見ると、壱岐から竹斯国に着き、その東の秦王国に行った後、倭国からの迎えが来て都に行くとあります。

竹斯国は筑紫に比定されており、博多湾周辺と考えられています。

ここまたはその東の秦王国から倭国の迎えと共に行き、ほどなくして都に着いたわけですから、それほど距離があったわけでは無いでしょう。

裴世清は、博多湾沿岸から迎えに案内されて、現在の大宰府に在った都に向かったのです。

上の地図で見ても分かるように、大宰府は博多湾から20キロ程の位置に有り、矛盾は無さそうです。

水城の年代

 大宰府と言えば、天智天皇により造られた防衛施設「水城」も有名であるが、近年の研究により次のようなことが判明している。

 

大宰府の前面に築造された水城の築造は3層あり、放射性炭素年代測定により、最下層が西暦100年~300年頃、次の層は西暦300年~500年頃、最上層は西暦510年~730年頃となっている。
引用元:大宰府 - Wikipedia

 

 

最下層の西暦100年~300年頃というのは、正に邪馬台国の頃であり、古くから防衛上の要衝であったことが伺われます。

次の層の西暦300年~500年頃というのは、本ブログが邪馬台国の東遷が有ったと考えている時代であり、九州に残った勢力が九州王朝となり、五胡十六国の混乱が大陸から波及してくることを危惧して、防衛を強化したものと考えられます。

また、この時にこの地を都と定めたのではないかと考えています。

そして、最上層の西暦510年~730年頃は、天智天皇によるものということになります。
西暦510年からということを見ると、それ以前に唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて九州王朝が増強したことも考えられそうです。
天智天皇は、それをうまく利用して造営したのかもしれません。

九州王朝

 これまで本ブログでは、様々なところで九州王朝の存在を主張してきました。

それに対して、考古学的な裏付けは無いに等しいという現実が有ります。

特にあれだけ大陸との間に関係が有る王朝にもかかわらず、それなりの規模が有ったはずの都の遺跡が発見されていないとう問題があります。

しかし、上で見たように九州王朝の都が水城を防衛施設として存在したとしたら。
そして、九州王朝を滅ぼした大和政権により、その地に水城も利用して大宰府が作られたとすれば、その都の痕跡が見つからないのも当然という事になります。

大宰府の地下に九州王朝の都が眠っているのです。


 秀吉の大阪城のように跡形もなく作り替えられたのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 97 -斉明天皇の赴いた先-

『日本書紀』創られた日本 97 斉明天皇の赴いた先についての話です

 

 

斉明天皇の赴いた先

 斉明天皇、中大兄皇子を始めとする当時の大和政権の中枢部は、百済の滅亡を受けて、九州の地に赴きました。

これに関して『日本書紀』では、再興を期す百済を助けるための援軍を送るためとされています。

それに対して本ブログでは、百済に出兵したのは九州王朝であり、その敗戦の混乱に乗じて九州王朝に攻め込んだのだと考えています。

今回は、以上の仮説を背景として斉明天皇が居を構えた、磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮について考えて見ます。

磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮の比定地

 引用元:Google map

 斉明天皇が移った、磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮の比定地に関しては、その考古学的な証拠の無さから確定はしていないようですが、一般的に、磐瀬行宮については福岡市内、朝倉橘広庭宮はその名から朝倉市と考えられています。

磐瀬行宮の福岡市内についてはまだしも、朝倉橘広庭宮の朝倉市というのはどうなんでしょう。

百済に援軍を送るための拠点としては、内陸に入り過ぎているのではないかなと思ったのです。

秀吉の朝鮮出兵に際しての拠点名護屋城を見ても分かるように、普通もっと海よりに創るのではないでしょうか。

というのが、大和政権の百済援軍を疑った理由の一つでもありました。

異なる比定地
 
 磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮の比定地としは他にもあるのですが、そのなかでも気になる場所が有ります。

それが、磐瀬行宮の仲間市、朝倉橘広庭宮の田川市というものです。

上の地図で確認すると分かるように、福岡市と朝倉市の比定地から見て東に位置しています。

内陸という意味では田川市も変わりませんが、東という点が、本ブログの考える大和政権による九州王朝への侵攻という仮説で考えると意味を持ってくるように思えるのです。

東の意味

 九州王朝の中心地がどこにあるのかは正確には分かりませんが、本ブログとしては博多湾から近いところではないかと考えています。

そうだとすると、磐瀬行宮の福岡市内、朝倉橘広庭宮の朝倉市というのは、敵前上陸からの直接侵攻ということになってしまいます。

それに対して東に位置する磐瀬行宮の仲間市、朝倉橘広庭宮の田川市であれば、直前上陸を避けた海岸から上陸し内陸に進み、最終的に田川市に拠点を構え、横から、または後まで回り込んで攻める、という戦略が見えるような気がするのです。

横から、または後まで回りこんで攻めるのはどこでしょうか。

ズバリ、大宰府ではないでしょうか。


 次回は、大宰府について考えます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 96 -白村江の戦い6-

『日本書紀』創られた日本 96 白村江の戦いについての話6です

 

 

白村江の戦いの解釈

  前回までで、白村江の戦いに関して、これまで本ブログで考えて来た解釈を大きく転換することになりました。

従来は、唐・新羅連合軍による百済滅亡を受けて、連合軍の力を背景にした九州王朝の侵攻を恐れた大和王朝が、先制攻撃により九州王朝を滅ぼした上で朝鮮半島に派兵し大敗したのが、白村江の戦いだと考えて来ました。

それに対し、『日本書紀』の編集方針に立ち返って考えると、九州王朝が行った唐・新羅連合軍との戦いを、無かったことには出来ないので、大和政権が行った事としてミスリードするために創られたのが『日本書紀』の記述なのではないかと考えたのでした。

九州王朝が白村江の戦いに敗れ勢力を削がれたところを、大和政権が侵攻し、滅ぼしたのです。
その時、斉明天皇は命を落とすことになったのです。

百済との関係

 もし、そうだとすると、百済との関係も見直さざるを得ないことになります。

つまり、それに関係した百済絡みの話も作り事だったという事になりそうです。

百済最後の王である義慈王の王子である豊璋が滞在しており、百済復興のため軍勢を付けて帰国させた、というのを筆頭に百済関係のもろもろは無かったという事になります。

ちなみに、中国、朝鮮いずれの記録にも、義慈王の王子が日本に来ていたという話は、どこにも出て来ません

その他にも、百済の滅亡に至る経緯などが比較的詳細に記述されていたりします。
これらも、全くの作り話なのでしょうか。

百済、九州王朝の滅亡で

 大和政権は、白村江の戦いの後に九州に攻め込み、九州王朝を滅亡させたと思われるのですが、その時に九州王朝側に在った記録を始めとしたさまざまな資料を入手したはずです。

さらに、百済が最終的に消滅して事により、亡命して来る人達も少なくなかったはずです。

これらの人、ものから、百済滅亡の詳細、九州王朝と百済との間のやり取りなどの情報を手に入れることが出来たのでしょう。

そして、これらの事により得られたのが、『日本書紀』に引用されている逸文としてその存在が知られる『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』なのでしょう。

その中の九州王朝と百済の間のやり取りを、大和政権との間のものへとミスリードした結果が、『日本書紀』の記述という事になります。

結果、百済の滅亡の経緯が比較的詳細に記述されているのです。

このように考えると、豊璋は九州王朝に滞在していたのことになるのですが。


 そもそも、『旧唐書』、『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊などはいても、豊璋は出て来ないようです。
このそのものずばりでは無いという感じが、いかにも『日本書紀』らしいといえばらしいんですが。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 95 -白村江の戦い5-

『日本書紀』創られた日本 95 白村江の戦いについての話5です

 

 

白村江の戦いで大敗

 前回考えたように、どうやら白村江の戦い関連の記事に関しても、『日本書紀』の編集方針は一貫しており、大和政権へのミスリードがされたと言えそうです。

白村江の戦いを実際に行なったのは九州王朝であり、それを大和政権が行ったようにミスリードしたのです。

さらに、その大敗により九州王朝が滅亡したのではないかという話でした。

大敗で滅亡

 大敗で滅亡ということなのですが、普通に考えて、海外に派兵を行い、その派兵先で大敗したとして、それだけで王朝が即滅亡となるとは考えにくいでしょう。

次に考えられるのが、白村江の戦いに続いて、唐と新羅の連合軍に九州本土まで攻め込まれてしまった、という状況でしょうか。

しかし、これに関しては、唐側、新羅側のいずれの記録にも、そういった話は出てこないので、実際には九州への進行は無かったと考えられます。

こう考えてくると、やはり大和政権による侵攻を考えたくなります。

白村江の戦いによる弱体化と混乱に乗じて侵攻し、滅亡に追いやたという仮説です。

侵攻の実際

 このように、大和政権は実際には白村江の戦いの後に九州王朝へ攻め込んだと思われるわけですが、『日本書紀』の編集方針では九州王朝は無かったことになっていますから、あくまでも白村江の戦いは、大和王朝が行ったものにしなければなりません。

そのために、百済への援軍派遣ということで、白村江の戦いより前に九州へ赴いたという話にしたのです。
あくまでも、九州王朝などは無く、百済に援軍を送り、白村江で戦ったのは大和政権というわけです。

さすがに、白村江の戦いでの大敗を無かったことにすることは出来なかったのでしょう。

やはり大和政権は

 ところで、ここまでの話の内容からは、ミスリードするために創り出した話の中に有るような、天皇以下の大和政権中枢部が揃って九州まで赴かなければならに様な要因は見当たりません。

百済を助けるための援軍派遣という事であれば、適当な人物、名目を保つという事ならば中大兄皇子辺りが行けば済む話ではないでしょうか。

それどころか、天皇が赴いた先で亡くなってしまうという話にわざわざする意味は無いように思います。

この辺りは、本当にあった話ではないのでしょうか。


 やはり、この当時の大和政権にとっては、ここで九州王朝を叩くことが、自らが生き残るための総力を挙げた戦いだったのです。


ではでは

 

 

『日本書紀』創られた日本 94 -白村江の戦い4-

『日本書紀』創られた日本 94 白村江の戦いについての話4です

 

 

ミスリードされたかも

 前回までで、白村江の戦いに絡んだ、日本国内の状況について見て来ました。

基本的には、百済滅亡後の唐・新羅・九州王朝の侵攻を恐れて、大和政権が先制して九州王朝を滅ぼし、その勢いを駆って朝鮮半島に進行するも、白村江の戦いで一敗地に塗れてしまったというものでした。

同時に改めて関係する情報の見直しもしていたのですが、その中で、以上のような見方とは異なる見方も可能なことに、いまさらながら気が付きました。

白村江の戦いは大和政権が行ったのではないかもしれません。

改めて編集方針

 ここで、改めて本ブログで『日本書紀』の編集方針と考えているものの内、今回の話に関係するものを確認しておきます。

1.大和政権は、初代神武天皇の時代から一貫して日本を統治する政権である。

2.邪馬台国、九州王朝の存在は認めない。

3.中国、朝鮮の記録に現れる倭の事績に関しては、大和政権のものとしてミスリードする。

これらの方針を念頭に、神功皇后、呉国との関係、聖徳太子、大唐との関係などについて、ミスリードのために創り出された話ではないかと考えて来ました。

それに白村江の戦いを照らし合わせると、実際には九州王朝が行った白村江の戦いを、大和政権が行ったようにミスリードしている、という事になるではないですか。

九州王朝が滅亡したのは

 前回までは、九州王朝を滅ぼした大和政権が白村江の戦いを行ったという前提で考えて来ました。

その前提に至ったのは、『旧唐書』の記述からでした。

最初2回の遣唐使が倭国からのもので、3回目以降は日本国から送られてくるようになったという記述から、倭国を九州王朝、日本国を大和政権と考えれば、2回目と3回目の間に倭国すなわち九州王朝が滅んだからだと考えたからでした。

それに加えて、2回目と3回目の遣唐使の間に発生した白村江の戦いの直前に、派兵のために大和政権の天皇以下の中枢が全て九州に向かったという、『日本書紀』の記述を考慮すると、大和政権による九州王朝の征討と白村江の戦いという仮説が成り立ちそうだと思い付いたのです。

それに対して、白村江の戦いが九州王朝によるものだとすると、その大敗こそが、九州王朝滅亡の原因だったという事も考えられそうです。


 どうやら私もまんまと『日本書紀』の編集にミスリードされてしまったという事かもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 93 -白村江の戦い3-

『日本書紀』創られた日本 93 白村江の戦いについての話3です

 

 

前回の話

 前回は、白村江の戦いの背景について考えてみました。

日本国(大和政権)-百済、倭国(九州王朝)-新羅という関係で保たれていた均衡が、百済の滅亡により崩れてしまい、その勢いで新羅、唐、倭国の連合軍により攻め込まれることを恐れた日本国が、倭国に先制攻撃を掛けたと考えらえる、という話でした。

それにしても、百済が滅亡して、その復興の援軍を頼まれたということがあったにしろ、いきなり全面対決ともいえる形での倭国への侵攻には、どうしてそこまでしたのかという疑問もないわけではありません。

百済が滅亡したと分かった時点で、守りに徹するという選択肢もあったはずです。

百済の復興は、日本に滞在していた王子に亡命政権を作らせるなどして、捲土重来を期させるという手もあるわけで。

何が急がせたのか

 そもそも、唐、新羅、倭国の連合軍に攻められる危険といっても、九州から畿内まで攻めてくるのは、瀬戸内海をせめのぼってくるとしても、長大な縦深陣地と考えれば、それほど簡単ではないように思われます。

にもかかわらず、日本国は守りに入ること無く、天皇以下の政権中枢部自ら倭国に攻め入りました。

という事は、日本国はこの時点で畿内まで攻めて来られる可能性が高いと思っていたことになります。

連合軍の戦力を非常に高いとみていたのかもしれません。

もしくは、九州までの西側の防御に不安があったという可能性も考えられます。

影響力は低かった

 『日本書紀』によれば、百済の要請があってから船を作って、博多に赴いたという事で、途中の勢力が加わったというような記述もありません。

これは、その当時の日本国すなわち大和政権が、『日本書紀』の内容から考えられているような、全国に君臨する中央集権的なものではなかった事を示しているのではないでしょうか。

もっと緩い、各地の勢力の集合体のようなものであったのかもしれません。

そもそも、九州には倭国があるわけですし、倭国以外の各地の勢力が全て日本国側であったとも考えられませんし、それよりもその他の勢力は、日本国とどちらに付くかを様子見していた可能性もありそうです。

日本国が守りに徹して、唐、新羅、倭国の連合軍が攻めてきたら、雪崩を打ってそちらに付いてしまう恐れがあったのかもしれません。

そのための天皇以下政権の中枢部による、倭国への先制攻撃だったのではないでしょうか。

生き残るためのギリギリの選択で、結果的にそれに勝ったという事なのかもしれません。


 この時点での大和政権の権力基盤は、普通考えられているよりも脆弱なものだったのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 92 -白村江の戦い2-

『日本書紀』創られた日本 92 白村江の戦いについての話2です

 

 

前回の話

 前回は、白村江の戦いに至るまでの経過について考えました。

白村江の戦いが、『日本書紀』にあるような単なる友好国百済の再興のための戦いだけではなく、その前段階として大和王朝が九州王朝に戦いを仕掛けた全面戦争ともいえるものがあったのではないか、という結論でした。

今回は、百済の援軍要請から始まったと思われる話が、なぜ九州王朝との全面対決となったのか考えてみたいと思います。

以降、『旧唐書』の表記に従って、大和政権を「日本国」、九州王朝を「倭国」と呼ぶことにします。

当時の朝鮮半島、日本

 先ず当時の朝鮮半島の状況を見てみたいと思います。

 

引用元:百済 - Wikipedia

 

このころの朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の3国が鼎立する時代でした。

その中の百済と日本国はと、百済の王子が滞在するほどの友好関係にありました。

その百済と国境線が接している新羅は、どうだったでしょう。

『旧唐書』「倭国伝」によると、631年に倭国は唐に使者を送ります、それに対して唐からも使者が倭国に送られたのですが、その使者が倭国の王子と諍いを起こし、返書を伝達することなく唐に帰ってしまうという事が起きます。

唐と倭国の間の外交関係が、ギクシャクしたものになってしまったわけです。

その後648年になって、倭国は、直接使者を送るのではなく、新羅に上奏文を言づけて来ます。

つまり、倭国と新羅は、ギクシャクとした唐との間の執り成しを依頼できるような関係だったのです。

この当時の朝鮮半島南部と日本には、倭国-新羅、日本国-百済という二つの対立構造が有ったことが伺われます。

百済が滅亡して

 そういった状況の中、百済が唐と新羅に攻め滅ぼされてしまいます。

保たれていた均衡が崩れてしまいました。

日本国にとっては、まずいことになりました。

最悪の場合、唐、新羅、倭国の連合軍に攻め込まれる可能性が出て来たのですから。

その結果として取った対応策が、倭国への先制攻撃だったわけです。

そして、倭国を滅ぼしただけでは、その後に唐、新羅の援助で復活するかもしれないという恐れから、そのまま朝鮮半島に進軍したのでしょう。

結果は、再び防波堤にともくろんでいた百済の復興どころか、大敗北を喫することになってしまったわけです。

百済からの要請に対する大和政権の過剰とも思える反応は、九州王朝の存在があったからなのです。


 その後の唐と新羅が攻めて来なかった歴史を知っているから、朝鮮半島まで行かなくてもと思ってしまうんですよね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 91 -白村江の戦い-

『日本書紀』創られた日本 90 白村江の戦いについての話です

 

 

2つの国からの遣唐使

 前回は、遣唐使について考えてみました。

唐の正史『旧唐書』には「倭国」と「日本国」という個別の項目が建てられており、当時の日本に2つの勢力があったことが分かります。

「倭国」は631年から648年までに2回、「日本国」は703年から839年までで7回、それぞれ使者を立てたことが記されています。

したがって、『日本書紀』の648年までの遣唐使に関する記述は、「倭国」すなわち九州王朝からの使者の話を、「日本国」すなわち大和政権からの使者の話にミスリードするための、作り話の可能性が高そうだという話でした。

さらに、最終的には九州王朝が存続しなかったことを考えると、648年から703年の間にこれら2勢力の間に何かがあって、その結果大和政権が残ったと考えられそうです。

それが、その期間に起こった歴史的事件「白村江の戦い」に関係しているのではないかというのが今回の話です。

白村江の戦い

 「白村江の戦い」は、大和政権が唐・新羅に滅ぼされた百済の再興を助けるために出兵し、朝鮮半島の白村江で大敗してしまったというものです。

その経過を『日本書紀』の記述で見てみます。

660年  百済滅亡の報がもたらされる
     日本に居る百済王子の招請及び援軍要請と受諾
661年  斉明天皇崩御 皇太子(後の天智天皇)称制
663年  白村江の戦い

このあたりに関しては、以前から違和感がありました。

なにしろ、途中で天皇が亡くなって、皇太子の称制状態であるにもかかわらず朝鮮半島まで出兵して、負けてしまっているわけです。

百済の王子が滞在しているような関係であったとはいえ、滅亡後の復興を頼まれて、ここまでやるものでしょうか。

斉明天皇は九州で亡くなった

 さて、斉明天皇は途上で亡くなってしまったのですが、そのあたりをもう少し詳しく見てみたいと思います。

661年3月 斉明天皇 磐瀬行宮(博多)に着く
661年5月 斉明天皇 朝倉橘広庭宮(朝倉市)に移る
661年6月 伊勢王亡くなる
661年7月 斉明天皇が崩御
661年8月 皇太子喪を行い、磐瀬行宮に返る
661年10月 天王の遺体難波に帰る

斉明天皇は、畿内ではなく九州で亡くなったのです。

伊勢王(どのような人物か詳しくは分かりませんが、王ですから、それなりの立場の人物と考えられます)、や皇太子もいたようですので、ほぼ政権中枢部が九州まで来ていたことになります。

単に援軍派遣をするためであれば、そこまで必要はないはずです。
それなりの人物を派遣軍のトップに据えて、送り出せばいいのではないでしょうか。

九州には別勢力が

 ところで、これまでの記事で見てきたように、この時九州には大和政権とは別の勢力、九州王朝と呼んでいる存在が有ったはずです。

とすると、上の記述も単に百済への援軍派遣のために九州にやって来たというだけではない、違う意味を持ったものに見えて来る気がするのです。

大和政権が、九州王朝に戦いを仕掛けたと考えるとどうでしょうか。

大和軍は博多から上陸したのです。

天皇以下中枢部が来ているわけですから、お互いの存続を賭けた全面対決と言っていいでしょう。

その司令部として造られたのが磐瀬行宮です。

その後戦線は内陸へ進み、5月には博多から南東に約30キロの朝倉橘広庭宮(朝倉市)に司令部がありました。

そんな中、伊勢王が戦死します。

次いで、斉明天皇も倒れてしまったのです。

その後、称制した皇太子の元、九州王朝(倭国)を駆逐し(既にほぼ決着のついた状態だったかもしれませんが)、余勢を駆る形で朝鮮半島まで進軍しますが、白村江で一敗地に塗れることになって(海戦でしたが)しまったのです。


 次回は、今回の話の背景をもう少し考えてみたいと思います。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 90 -遣唐使-

『日本書紀』創られた日本 90 遣唐使についての話です

 

 

遣隋使と小野妹子

 前回は、小野妹子について考えてみました。

遣隋使が大和政権から派遣されたのではなく、九州王朝の王により派遣されたという前提から、『日本書紀』に書かれた「大唐」への派遣はミスリードするための作り話であり、その使者とされる小野妹子も架空の人物ではないかという話でした。

その「大唐」への派遣ですが、有名な小野妹子以降にも、犬上御田鍬らを派遣したと『日本書紀』にあります。

しかし、『隋書』側には、倭からの朝貢についての記述に年の若干ズレがあるものの、小野妹子同様犬上御田鍬に関する記述は在りません。

どうやら、この派遣に関してもミスりードの為の作り話というこ話になりそうです。
犬上御田鍬についても、実在が疑わしいということになります。

ところが『日本書紀』によると、犬上御田鍬という人物は、この後に第一回遣唐使の大使として派遣されているのです。
ただし、『日本書紀』の記述では、あくまでも「大唐」に派遣された事になっていますが。

実在でないと思われる人物が派遣されたことになるわけです。

遣隋使と同様に、遣唐使も見直す必要がありそうです。

旧唐書には2つの国が

 遣唐使を見直すということですが、これまで見てきたように『日本書紀』の記述は問題が多いので、やはり中国側の記録を見てみることにします。

その唐の歴史書『旧唐書』を見ると、確かに使者は派遣されて来たという記録はあるのですが、それよりも根本的な情報があります。

『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本国伝」の2つが存在するのです。

「日本国伝」には、「日本国は倭国の別種である」と明確に別のものだと記述されているのです。

これは、ここまで遣隋使の背景として考えて来た、九州と畿内の二つの政権の併存状態という見方と一致するといえます。

使節に関する記述

 「倭国伝」と「日本国伝」の2つから、派遣されてきた使節に関する年をまとめると次のようになります。

倭国
 631年、648年
日本国
 703年、713年、753年、760年、804年、806年、839年

日本国の記述の中には、阿倍仲麻呂、吉備真備、空海などの明らかに大和政権に関係する人々が出てくるので、日本国が畿内の大和政権になります。

とすると、倭国が九州にあった九州王朝ということになります。

上の年号をみると、最初の2回は九州王朝から使者が派遣されていることが分かります。

やはり『日本書紀』の犬上御田鍬による第一回目の派遣を含めた703年以前の記述は、倭国すなわち九州王朝からの使者の話を日本国すなわち大和政権からの使者の話にすり替えるための、作り話の可能性が高そうです。

もっとも、『日本書紀』の編者に言わせれば、「唐」ではなく「大唐」に送ったと書いてあるじゃないか、と言われそうですが。


 さすがに、大和政権が遣唐使も送っていない、という事は有りませんでした。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 89 -小野妹子-

『日本書紀』創られた日本 89 小野妹子についての話です

日本書紀の遣隋使は

 ここまで、『日本書紀』に書かれた厩戸王(聖徳太子)の話は、中国の歴史書『隋書』の記述による倭からの使節、所謂遣隋使を、大和朝廷が派遣したものとミスリードするための創作であることを見てきました。

つまり、『日本書紀』の推古天皇の御代に遣隋使を送ったという話は、全くの作り話だったということになります。

この時に派遣されたとされているのが、あの男性なのに名前に子が付き、加えて字こそ違うが「イモ」の子という、子供が一度聞いたら忘れない小野妹子になります。(おそらく、卑弥呼、聖徳太子と共に、「三大日本古代史で名前の知られている人物」でないでしょか。)

もっとも『日本書紀』には、遣隋使すなわち「隋」に使者を送ったとは書いて無く、「大唐」に派遣したとなっています。

これは、『日本書紀』に一貫して見られる、中国の文献に現れる倭に関する記述そのままズバリではなく、あくまでもほのめかす内容でミスリードするという手法により、「大唐」とされているのだと思われます。

裴世清が来たので

 ところが、『隋書』に裴世清を勅使として派遣したとあるので、話は簡単に済まなくなったのでしょう。

勅使となれば、正式な返書があるはずです。

しかし、裴世清が実際にやって来たのは、九州だったわけで、大和政権に返書があるはずもないのです。

そこでひねり出されたのが、これまた有名な、返書を百済で奪われてしまいました、という話なのでしょう。

本当にこんなことがあれば国家間の大問題ですが、その後百済に対して何らかの対応が取られたということもなさそうです。

そもそも、『隋書』にはそのような話は全く出て来ません。

とにかく、正式な返書が大和政権側に無いことの言い訳としか考えられません。

小野妹子は

 さて、『日本書紀』における隋(大唐)への派遣に関する話全てが作り話とだとすると、その話の中で派遣されたことになっている小野妹子についてはどう考えたらいいでしょう。

私は、小野妹子もこのために作り出された人物ではないかと思っています。

そうではなく、当時実際に存在した人物だったとしたらどうでしょう。

小野妹子は後に「大徳」という冠位に就いたとされています。

あの「冠位十二階」の最高位です。

実在であるならば、子孫も含めた一族がいたはずです。

親書を奪われるという失態を犯すような作り話の当事者とすることは、いろいろと問題が生じたはずです。

わざわざ、作り話にそんな人物を持ってくる必然性は無いように思います。

やはり、小野妹子はいなかったのです。


 そもそも、冠位十二階はその実在が疑わしいわけですから、「大徳」になったという彼についても、そういう事なのではないでしょうか。


ではでは