『日本書紀』創られた日本 103 仏教公伝と崇仏・廃仏論争についての話2です
崇仏・廃仏論争
前回は、いわゆる崇仏・廃仏論争について考えました。
本ブログでは、『日本書紀』に記されている百済との関係は、実際には九州王朝と百済の間のやり取りであり、大和政権との関係にミスリードされているとの立場を取っています。
この事は、当然百済から仏教がもたらされたという、いわゆる仏教公伝にも当てはまります。
仏教公伝は、百済から九州王朝に行なわれたのです。
そうなると、百済からもたらされた仏教について、欽明天皇が「これを礼するべきか」と臣下に問いたいう話も作り話で、それに対する返答から始まったとされる、蘇我氏と物部氏との間の論争も無かったということになります。
元々、対立構造が無かったところに、天皇の問いから始まる話を創ることで、蘇我氏に崇仏派、物部氏に廃仏派というイメージを付けることが目的だったのではないか、という話でした。
その後の両氏
そうなると疑問は、なぜ蘇我氏に崇仏派、物部氏に廃仏派というイメージを付けることが必要だったのかという事になります。
ただし物部氏については、欽明天皇の問いに対して、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対していることから、廃仏というよりは天孫の子孫たる天皇を中心とする体制を守るイメージだったように思えます。
必要な理由を考えるにあたって、先ず論争以降の両氏について見てみます。
蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役で、蘇我馬子が物部守屋を滅亡させたことにより、蘇我氏の勝利で終わることになります。
その後、蘇我氏の一強時代となりますが、結局乙巳の変で、中大兄皇子らによって馬子以来の蘇我本家は滅亡させられてしまいます。
なぜ必要だったのか
以上の両氏のその後と、中大兄皇子(天智天皇)の兄弟の系図のなかで『日本書紀』が編纂されたことを考えると、両氏のイメージ付けの必要性が見えて来るように思えます。
中大兄皇子が滅ぼした蘇我氏に対して、単なる権力抗争という事だけではなく、天皇を中心とする体制を揺るがす一族だというイメージを付けるためだったのではないでしょうか。
それを打倒して天皇中心の体制を守ったのが、『日本書紀』を編纂した血統なのだというわけです。
そのために、蘇我氏に滅ぼされた物部氏との間に、対立構造を創り出したのです。
その後天智天皇の血統のみが続いていくことになるのは、歴史の皮肉でしょうか。
ではでは

