横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

感染症対策も災害対策だ

 感染症対策について考えた話です。

 

 

大丈夫なんでしょうか

 最近、さすがにチョット怖くなってきました。

現状の国の対応を見ていると、状況に右往左往しながら、とりあえず対応しているようにしか見えないのが、怖い所です。

一部で言われているように、当初は、オリンピックへの影響を考えて、なるべく状況を矮小化して見せていた、と言うのならまだしも(それはそれで良いわけでは無いですけど)、どうしたらいいのか想定外だったのであれば、由々しき事です。

株式投資に例えると、明らかに、相場が反対に動いてしまって、対処法を決めていないために、損失を確定したくなくて損切り出来ずに、ずるずると損失が拡大するという、典型的な負けパターンにダブって見えるんですけど。

PCR検査

 例えば、何かと話題になっているPCR検査です。

現状、今回の新コロナウィルスのような、新たな感染性のウィルスによる感染症が出現したときに、検査方法としてはPCR検査しかないことは分かっていたはずです。

それが、中国での発生確認から月単位で経過しているのに、いまだに一日に3800件の検査しか出来ないというのは、理解出来ないだけでなく、恐ろしさを覚える程です。

こんなものは、当然、各県で今出来る以上に検査できる体制を立ち上げられるように、前もって平時に準備しておくことが出来た筈です。

これが、それほど厳しい見方でないことは、MERSでの経験をもとに体制を整備してきたらしい韓国での、ほぼ我が国の10倍の検査数という、現状での検査状況を見れば明らかでしょう。

事程左様に、現状の政府の対策は、お寒い状態と言わざるを得ません。

この経験を生かすには

 とは言え、こうなってしまった以上、現状はこれ以降何とか頑張ってもらうしかないので、ここは、今回の経験を踏まえて、次の感染症発生にどう対応するかを考えてみました。

肝は、ウィルス感染症という、ある意味特殊な出来事に引っ張られるのではなく、今回のような出来事を、大規模な災害だと捉える事が大事ではないかという事です。

結局、風水害や地震などと同じで、影響が多方面にわたり、個人では如何ともし難いという点では、同じだと思うんですよね。

という事で、やるべきことは、以前の記事で災害について書いたように、今回の事を検証した上での、徹底的な行動計画の作成とその公開だと思います。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

まあ、コンテストをやるかどうかは別にして、公開をして、広くレビューを受け、常に内容の更新をするようにすべきだと思います。

官僚システムは、PCR検査における、融通の利かない対応を見れば明らかなように、やるべきことが決まっていれば、その通りにきちんと実行する能力は高いので、前もって行動計画を明確にしておけば、今回のような事態は避けることが出来るでしょう。

そして、我々も、防災情報と同様に、感染症対策関連の情報も、常識になるように努力すべきでしょう。


 勿論、常に予想の上を行く災害が発生する事は有るので、その時には、今現在それが必要なように、政治判断が必要になるんですけどね。


 ではでは

 

 

 

 

マスク!マスク!マスク!

 マスク不足について考えた話です。

 

有りませんねぇ

 まあ見事なまでに、マスク有りませんね。

近所のドラッグストアでは、毎日開店前に行列が出来ているようです。

新型インフルエンザの時もそれなりに逼迫したとは思うんですけど、
医療機関まで不足しそうだというようなことは、無かったような気がするんですが。

やはり、最大の共有源である中国が、最悪の感染に見舞われて、日本に輸出する能力が無くなってしまったのが原因でしょうか。

マスクは必要なのか

 マスクの有効性に関しては、色々と言われていますが、今のところ概ね、ウィルスを完全に防げないものの、感染している人が、クシャミなどによるウイルスの飛散を防ぐ事により、うつすことを防げると考えられているようです。

しかし、今回のウィルスは、発症前にも感染させる可能性が有ると言われています。
そうなると、うつさないようにするにしても、自分が感染しているのかどうか分からない状態でも、人に移すかもしれないので、いつからマスクを使えばいいのか分からないということになります。

結局、理想的には、全ての人間がマスクをするのが、良いという事になりそうです。

現実問題として

 そうは言っても、全員がマスクをするとなると、毎日1億枚以上が必要になる訳です。

これは明らかに現実的ではないでしょう。

政府は、付焼刃的に、生産設備への補助金などを出すことに拠って、生産量を増やすように促しているようです.。
そうはいっても、メーカーとしても、事態が収束した後の過剰設備が怖いわけで、おいそれとは動かないでしょう。

使い捨てで無ければ

 何か解決法は無いでしょうか。

問題は、現状の普通のマスクが、使い捨てであるために、一日に1億枚と言う量が必要になるという事だと思います。

という事は、再利用可能なものを考えればいいことになります。

洗濯や、哺乳瓶のように煮沸や、次亜塩素酸で消毒が出来るような素材で作ればいいわけです。

もし、形状の保持が難しいという事であれば、次のようなものの内側に、口と鼻を覆う部分を取り付けるようにして、再利用するようにするのです。

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画像引用元:Amazon 【8連装空孔: 2層構造仕様】吸発汗&内側メッシュ 黒フェイスマスク2019モデル『蒸れない・息苦しくない』改CRAFT


このままでは、若干世紀末な感じが否めないですが、そこは色とデザインでどうにでもなると思うので、問題ないでしょう。

口と鼻を覆う部分を、あらかじめ複数用意しておいて、消毒しながら、ローテーションで使うようにするのです。
外側の部分も、アルコールや、次亜塩素酸で消毒するようにします。

当然花粉症にも対応できるはずなので、通常は花粉症用として展開すればいいと思います。

 

 画像を見ると、エーと思うかもしれませんが、黒いマスクにも慣れてきたように、すぐに慣れると思うんですけど。(慣れますよね?)


 ではでは

英語の発音全体像の捉え方

 英語の発音の全体像の捉え方についての話です。

 

 

もやもやしていた英語の発音

 英語の発音に関しては、以前もチョット書いたように、ヒアリングに問題が有り、「発音できないものは聞き取れない」と言う話もあるようなので、色々とそれなりにやっているつもりです。

でもですね、以前から、いわく言い難いもやもや感が有ったんですよね。

知識としてはだんだんと増えてくる訳です。
rとlの違いとか。
イとエの間のような /æ/とか。
4種類のアとか。
その他、もろもろの事を覚える訳ですが、今一つピンと来ないところが有ったのです。

ニューエクスプレスプラスにヒントが

前回ニューエクスプレスプラスがらみの記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そのためにニューエクスプレスプラスの内容について調べている時に、もやもやの原因に気が付きました。

その時見ていた、ニューエクスプレスプラスのスペイン語の発音に関するページを引用します。

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引用元:amazonなか見!検索よりキャプチャ

これは、子音の発音に関するページなので、母音のe、iは有りませんが、一応アルファベット順になっているのが分かると思います。

そうです、アルファベット順に、まとめればいいんだと思ったのです。

アルファベット順で全体像を

 考えてみれば、英単語はアルファベットからできている訳で、それぞれのアルファベット側から、発音をまとめれば、全体像が見えて来そうだと思った訳です。

英語の発音と言うと、解説書の多くもそうだと思うんですが、母音がいくつで、子音がいくつあると言った話から始まって(一応母音が17!で子音が21と言われているようです。)、発音記号と共に、一つずつ解説されていくという形式が多いかと思います。

それぞれの解説に代表的な単語が示されて、それで覚えるという事になる訳ですが、それ以外の単語はどうなんだ、という事になる訳で、キリがないんじゃないかと言う恐れが、もやもやの正体だったのです。

ここまで引っ張って来て申し訳ないですが、個人的には、いろんな所からの情報をまとめて、作りつつあるところで、お見せするほどのものはありません、悪しからず。

子音に関しては、概ねこれでいいかなと言う感じなんですが、母音をどうまとめようか思案中です。

しかし、明らかに、作った部分に関しては、見通しが良くなった気がします。
どうも発音の全体像がと言う方は、一度考えてみても面白いかもしれません。


 それにしても、母音はややこしすぎませんか。
なんで、Long VowelとShort Vowelなんかあるのか、スペイン語の爪の垢でも煎じて飲んでほしいですよね。(爪が有るかどうかは、知らないですけど。)


 ではでは。

 

 

英語にも初級入門書を

 もっと英語に取り組み易く出来ないかという話です。

 

 

ニューエクスプレス

 ニューエクスプレスと言う、白水社が出している語学入門書のシリーズが有ります。
現在は、ニューエクスプレスプラスと言う、リニューアル版に切り替わりりつつあるようですが、これがなかなかすごいのです。

先ず何といっても、言語数が、40以上あります。
中には、ラテン語や古典ヘブライ語と言った、使う相手の心配をしなければいけないようなものも有ります。
しかも全て、CDの音声付きです。

全て同じフォーマットで作られています。
白水社のサイトから引用します。

「ニューエクスプレスプラス」シリーズの構成

  • ○○語ってどんなことば? 最初にことばの特徴や話されている地域などをご紹介します。
  • 文字と発音 文字の読みかたや発音のコツをやさしく解説。
  • 本文 全20課で、見開き2ページに会話・和訳・単語、次の2ページに文法説明があります。
  • 練習問題 2課ごとに2ページ、解答は同じ見開きですぐに確認できます。
  • 単語力アップ・表現力アップ テーマ別の単語と表現のコーナーで会話もバッチリ。
  • 単語リスト 出てきた単語が載っているので、辞書なしでも始められます。


引用元:ニューエクスプレスプラス - 白水社

 

例として、フランス語のページサンプルを引用します。

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引用元:ニューエクスプレスプラス フランス語 - 白水社

こんな感じで、20課有り、一冊で一通り初級は卒業できるようになってます。

英語が無い

 これは、文章量と、語彙量が少ないとはいえ、私が以前の記事で欲しいと書いた、中学英語ベースの参考書の替わりにぴったりじゃないですか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

とはいうものの、残念ながら、このシリーズには、40以上の言語が有るにもかかわらず、英語が有りません。

これ以外にも、いくつかの出版社から、語学の初級入門書のシリーズが出ていますが、チョット調べた限りでは、いずれのシリーズにも英語が存在しないようです。

英語の初級入門書

 どうも、英語に関しては、初級の入門は義務教育で行われるという事からか、初級の入門者向けの参考書が手薄な気がします。

どうしても、学生向けには、入試対策としての各種参考書になりますし、社会人向けには、各種認定試験向けの対策本のような事になりがちですよね。

そういったものの方が、需要が有るというのは分かるんですが、ニューエクスプレスプラスのような、一冊でとりあえず初級は卒業できるようなものも、有ってもいいんじゃないかと思うんですけどね。

 
 と言うか、英語版が有れば、それを中学で最初に学ぶ教科書にして、1週間1課でやって、半年ぐらいで初級を卒業してしまうのもいいんじゃないかと、思うんですけど。


 ではでは

徐福伝説

 徐福伝説について考えた話です。

 

 

徐福伝説

 徐福伝説と言うものが有ります。

徐福と言う人物が、秦の始皇帝の命を受けて、中国の東方の海に不老不死の薬を探すために出かけたが、結局戻ることは無かったと言う話が、「史記」に書かれているのです。

驚くべきは、3000人の童男童女と百工(技術者)が同道したというのです。

それに符合するかのように、日本の各地に、辿り着いた徐福が住み着き、様々な技術などをもたらしたとする伝承が残っています。

私が知っているだけでも、和歌山県新宮市、熊野、佐賀県佐賀市京都府伊根町に有ります。
その他にも、数十か所の伝承地が有るようです。

徐福が、五穀も持って行ったと言う話が有るので、その時期も含めて、農耕を伝えたのは徐福ではないかという説もあるようです。

どうなんでしょうか。

徐福は実在

 話の出所が「史記」ではあるものの、徐福にまつわる話については、中国でも疑う向きも多かったようです。

そんな中、1982年になって、江蘇省の徐阜村という村が、清朝のころまで「徐福村」と呼ばれていたことが発見されました。
徐阜村には、徐福に関する伝承も残っているようです。

さらに、徐福を先祖とする徐一族の存在も確認されました。

このようなことを背景に、最近では、徐福は実在したとみなされているようです。

勿論、反論も有るようですが。

徐福は日本に来たのか

 日本各地に有る伝承について考えてみましょう。

いずれも、徐福が辿り着いて、住み着いて云々という内容が、昔から伝承されてきた事になっている訳です。
そうだとすると、おかしなことになると思うんですよね。

徐福は、始皇帝に命じられて、やって来たわけですから、秦の時代の人な訳です。
そうすると、紀元前3世紀頃という事になります。

このころ日本は弥生時代であり、明らかに、文字と言うものは有りませんでした。
よって、徐福に関する伝承は、有ったとすれば、口伝だったはずです。

であるならば、「じょふく」という名前が出て来るのは、おかしいのではないでしょうか。

「じょふく」といのは、徐福と言う文字を日本語で読んだもののはずですから、それが、文字の無かった弥生時代からあった訳は無いのです。
ちなみに、徐福を、Google翻訳で発音させると「しーふー」のように聞こえます。
徐福本人が、自己紹介するときに、私は「じょふく」ですと言う事は無かったはずです。

「しーふー」がやって来たというような伝承が有るならばともかく、「じょふく」がやって来たというのはあり得ない訳です。

 徐福が日本に来たのかどうかについては、正確には確認のしようが無いのですが、伝承としてはそのものずばりというものは無かったのだと思います。

大陸から辿り着いた人間がいたといった伝承が有ったところに、
史記」が日本に入って来てから、徐福に関する記述を見て、それを当てはめたという事ではないでしょうか。


 まあそれ以前に、弥生時代に、秦の時代の知識を持った人間が、3000人も来ていたのなら、もうチョット違う歴史が有ったんじゃないかと言うのも有るんですけどね。
少なくとも、文字ぐらいは有ってもよさそうですよね。


 ではでは

縄文から弥生へ

 縄文から弥生への変化について考えた話です。

 

 

征夷大将軍蝦夷

 江戸幕府を治めていたのは、勿論将軍であるが、この将軍の正式な官職名は、良く知られているように「征夷大将軍」である。

意味的には、夷を征伐する大将軍という事になります。
さらに詳しく見ると、ここでいう夷は、蝦夷(えみし)の夷という事になります。

蝦夷とは、大和政権にまつろわぬ人々を呼んだ名称で、「えみし」という呼び名に、蝦夷と言う字を当てたものだと考えられているようです。

その住む地域は、勿論時代によって変わっていくのですが、概ね現在東北地方と呼ばれている地方になります。

言い方を変えると、白河以北と言ってもいいのかもしれません。

蝦夷の字を当てたと書きましたが、その中の夷の字は、中華思想に見られる、「東夷西戎北狄南蛮」の東夷の夷の字を当てたたものだと考えられています。
つまり、都から東に住んでいる、未開の人々という訳です。

当時の政権の支配下で無いだけで、どうしてこのような呼ばれ方をしたのでしょうか。

農耕社会の広がり

 弥生時代に、北九州の地域から始まって、農耕社会が広がっていくわけですが、その遺跡の範囲は、概ね東海地方以西に多く分布しています。

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引用元: 弥生ミュージアム

これは、常識的に考えて、当時の稲作の生産技術では、この辺りまでしか、農耕社会を維持するだけの生産が困難だった結果と思われます。

ただ、東北地方にも全く稲作が無かった訳では無く、いくつかの水田跡も発掘されていますが、面としての広がりは無かったようです。

大和政権と蝦夷

 結局、後に蝦夷とよばれる人たちの住む地域は、弥生時代の農耕社会が入り込むことなく、縄文社会の要素を色濃く残した地域だったという事になります。

この傾向は、古墳時代にも見られ、大規模(120m以上)な前方後円墳は、宮城県福島県の両県までしか見られません。

そして、蝦夷の地との境界に白河の関が作られることになり、その地に住む、まつろわぬ人たちを従わせる役を担ったのが「征夷大将軍」だった訳です。

という訳で、大和政権と蝦夷の関係は、単に時の政権とそれに従わない人達の争いではなく、農耕社会を背景にした権力と、狩猟採集社会を背景にした平等の争いだったのです。


 縄文から弥生に単純に変わった訳では無く、縄文社会の影響は、意外と後世まで続いていたのです。


 ではでは

農耕と弥生時代

 農耕と弥生時代について考えた話です。

 

 

日本での農耕社会

 以前の話で、石器時代に起きた、狩猟採集生活から農耕社会への変化について考えました。

 

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その中で、日本については、自然が豊かであるために、農耕社会への移行が起こり難かったと考えました。
農耕のような労力を必要とするようなことをしなくても、狩猟採集で十分に生活が、しかも定住生活が可能だったからです。

一般的に日本では、弥生時代から、農耕社会が始まったと考えられています。
さらに、上記のような理由や、遺跡などの発掘による研究などから、大陸から九州地方に伝播したと考えらています。

ただし、ここで言っているのは、農耕社会の伝播であり、稲作そのものは、縄文時代にも知られていたようです。

クニの始まり

 前回の記事で、農耕社会の始まりによって権力も生じたと考えました。

 

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ところで、弥生時代は、概ね紀元前1000年ごろから始まったと考えられているようです。
紀元前1000年頃といえば、中国では殷から周に王朝が変わる時代です。

ひょっとしたら、殷から周へと王朝が変わる混乱を避けた集団が、九州にやって来たのかもしれません。
ただし、稲作は中国南部で行われており、北部を中心とした殷、周とは関係ないという説もあるようです。
いずれにしても、その時代に農耕が入って来たという事は、中国では権力システムが確立しているわけで、当然権力層も入ってきたはずです。
農耕の技術を持った人々だけではなく、それを統べる権力システムも同時に入って来たと考えるのが自然だと思います。

そして彼らが定住して、権力システムを中心とした、稲作による集落を形成した。
それを、現代の我々は、クニと呼んでいるわけです。

争いの始まり

 弥生時代の遺跡の調査から、人口が増加していったことが分かっています。
素直に考えれば、稲作による豊富な食料の供給によると考えるのが自然でしょう。

人口が増えれば、さらに土地が必要となります。
結果、クニ同士が争う事になったと思われます。
何しろ、権力側から見れば、自らがコントロール下に置いている土地や、人々、すなわちクニが無くなれば、自らの生存が危ないわけですから。

さらに、中国から来たのであれば、当然戦うための技術も持っていたはずです。

その結果、弥生時代の遺跡からは、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、武器の傷をうけた痕跡のある人骨などの、争いの形跡が数多く見つかています。


 つまり、弥生時代には、農耕だけではなく、権力と争いも日本に入って来たのです。
こうして考えると、倭国大乱は、起こるべくして起こったとも言えるのかもしれません。


 ではでは

 

 

農耕と権力

 農耕と権力の関係に関する話です。

 

 

石器時代は平等

 石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられていると、以前の記事で書きました。

 

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同時に、権力者などのいない、平等な社会であったとも考えられているようです。
これは、埋葬方法に差の無かったことからも、裏付けられると考えられています。

ところで、ここでは、権力を以下のようなものと考えます。

権力とは、一般にある主体が相手に望まない行動を強制する能力である
引用元:権力 - Wikipedia

 

 なぜ平等だったのか

 前述のように権力を定義すると、生活が、狩猟採集によるものである限り、集団の構成員に何かを強制する事は困難だったので、権力は生じなかったのだと考えられないでしょうか。

例えば、誰かが、その他の人たちに、食料を取って来るように強制しようとしても、言われた方は、単に取ってこなければいい訳です。
その行動を強制する方法は、無いように思われます。
そうなれば、強制しようとした方は、自らも食料を調達しない限り、飢えるだけと言う結果になるだけです。
それどころか、平等な社会でそのようなことをすれば、社会から排除される可能性が大です。

という訳で、狩猟採集生活をしていた時代の人々は、我々が考えるような平等主義だったからではなく、生活方法からくる結果としての、平等な生活をしていたという事だったと思われます。

権力の発生

 そんな中で、前の記事で考えたように、次第に農耕技術が発展していくことになり、農耕による生産物を主たる食物とする、農耕社会が発生することになります。

 

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農耕社会では、当然のことながら、農耕による生産物を、貯蔵することに拠り、次の収穫までを乗り切ることになります。
逆に言うと、その生存が、生産物によって制約されるという事になります。

ここに至って、初めて、権力が発生することになったのではないでしょうか。
武力などの力により、貯蔵されている生産物の供給をコントロールすることに拠り、その他の人々に行動を強制することが可能になったと考えられます。
逆らえば、食べられなくなる訳ですから。


 農耕開始により始まったのは、定住ではなく、権力だったのです。


 ではでは

 

農耕社会の始まり方

 農耕社会の始まり方に関して考えてみた話です。

 

 

日本列島の農耕

 日本列島での農耕について、前の記事で、その発展に女性の力が大きく関わったのではないかと考えました。

 

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しかしながら、三内丸山遺跡を始めとする縄文遺跡の出土状況からも分かるように、日本列島では、本格的な農耕社会まで発展することは有りませんでした。

農耕社会の出現は、外部からの導入による、弥生時代の始まりを待たなければなりません。

これはひとえに、日本列島の自然の豊かさに拠るのだと思います。
栗やクルミの植栽などを行っても、主食を作るところまでは行かなかった。
と言うか、作る必要が無い自然の豊かさだったのしょう。

では、日本列島に伝わって来た、農耕社会はどのようにして始まったのでしょうか。

日本列島以外の農耕

 日本列島以外の世界でも、基本的には、日本列島での経過と同様に、定住が最初に来て、その後次第に農耕に進んでいったのだと考えられます。

そうでないと、狩猟採集のために移動していては、結果が出るまでに長い期間掛かる農耕は行い得無かったでしょうからね。

もちろん、発展の主体は、女性だったと思われます。

しかしながら、そういう事が有ったとして、そのまま農耕を中心とした生活に移行したとは思えません。
なぜならば、明らかに、狩猟採集生活の方が、楽だったようだからです。
縄文人は、一日のうち実働4時間で生活していたという説もあるようですから。

農耕社会の始まり

 という事は、狩猟採集では十分な食料が確保でききなくなった時に、農耕による主食の確保が考えられたという事になるでしょう。

一番考え易いのは、気候の変動でしょうか。
寒冷化によって、それまで採れていたものが取れなくなったといったような。

ただし、急激な変動では無かったはずです。
あまりに急激な変動では、農耕による生活に移行する前に、定住そのものが出来なくなってしまうでしょうから。

徐々に減っていく収穫に対応する形で、農耕が拡大していったのではないでしょうか。
そして、最終的に農耕により主食を確保するようになったという事でしょう。

日本列島でも、気候の変動はあったでしょうが、自然の豊かさに厚みが有ったために、農耕を取り入れる程の状況にはならなかったのだと思います。

それに対して、定住生活を送ることが出来ても、それに対する自然の状況に、元々余裕のなかった地域で、農耕社会が発生したのではないかと考えます。


 こう考えると、農耕によって確保できる食料が増えて、人口が増加したといったことはあるかもしれませんが、決して生活が楽になった訳では無いような気がするのですが。


 ではでは

 

定住と農耕の始まり

 定住と農耕の始まりの関係について考えてみた話です。

 

 

三内丸山での定住

 以前の記事で、三内丸山遺跡の話から、日本列島では、農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという話をしました。

 

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普通は、農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったと考えられています。

逆に言えば、農耕をしなくとも、狩猟採集により食料が十分に入手出来れば、定住が可能だという事になります。

三内丸山で定住が行われた当時の日本列島は、そう言った環境に有ったという事でしょう。

栽培も行われていた

 狩猟採集と言っても、単純に自然の恵みに頼っていたわけでは無いようです。

特に採集に関しては、出土状況から、集落の周辺に堅果類(クリ、クルミなど)の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられています。

栗やクルミの木を植えて、採取を効率よくするための手入れの様な事が行われていたようです。
単に効率だけでなく、どんぐりよりも、栗やクルミはおいしいですからね、おいしいものを少しでもたくさん採りたかったという事も有ったかもしれません。

中心は女性だった?

 石器時代の人間が、どのような生活をしていたのかについては、もちろん正確に知る方法は有りません。
多くの場合、現代の世界各地にいる、石器時代から生活が変わっていないと考えられている集団に関する調査結果から、石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられています。

そうであるとすると、三内丸山で、植栽を考え出したのは、女性たちだったと考えられないでしょうか。
力仕事が必要な時には、男性が手伝う事も有ったかもしれませんが、中心的に行ったのは女性だったのだと思います。

現在でも、日頃、家事に関わっていない男性が、家事の効率化に関しては思い浮かべる事さえしない(大体、何が問題かすら分からないですからね)のと同様に、日頃採集作業を行わない男性が、どうやったら、効率良く栗やクルミの収量を増やすことが出来るか、などと考えることは、全くとは言わないまでも極めて少なかったでしょう。

毎日採集を行う中で、より多く、安定して取る方法を、試行錯誤していくことで、植栽にたどり着いたのではないかと思います。

それが、コメや麦などの一年草にも拡大していき、最終的に農耕技術となった。

農耕技術は、定住生活の中で、女性達によって作り出されたのではないでしょうか。


 もっとも、日本列島では、完全な農耕技術に発展する前に(縄文晩期の遺跡には水田遺構もあるようですが)、外部からもたらされて、弥生時代になったようですけどね。


 ではでは

 

 

本能寺の変での光秀の行動

 本能寺の変での、光秀の行動に関する話です

 

 

最大の疑問点

 本能寺の変での光秀の行動の中で、私が、最大の疑問点だと考えるのは、なぜ光秀が、本能寺を攻撃すると同時に、妙覚寺に泊まっていた信忠を襲わなかったのかという事です。

そもそも、前の記事でも書いたように、信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを逃さなかったのが、本能寺の変の原因だと考えた訳です。

 

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であるならば、信長を討ちとることが、最大の目標で有るのはもちろんですが、後継者の信忠を逃しては、決して小さくは無い、後顧の憂いを残すことになってしまいます。ここは、逃げられないように、同時に襲撃するのが最善の策の筈です。

しかし、実際には、光秀が、配下の軍を分け、信忠を討ちに向かわせるようなことはしていないようです。

信忠は、二条御新造に立てこもり、明智軍とたたかった後、最終的に自害をしました。
という事は、宿泊していた妙覚寺から移動する余裕はあった訳で、本能寺と同時に妙覚寺を責めた訳では無いことになります。

これをどう考えたらいいでしょうか。

うっかりした訳では無い

 巷間言われるように、途上で重臣を集め、信長を討つつもりで有ることを打ち明け、それに重臣も従ったのだとして、どうして信忠を同時に襲う事にしなかったのでしょう。
百歩譲って、光秀はうっかりしていたとしても、誰かが進言をしたはずです。
まさか、全員がそれに気が付かなかったという事は、あり得ないでしょう。
信長を討った後すぐに、二条御新造を責めていることからも、うっかり見逃していたわけではなさそうです。

さらに、いかに本能寺が防御も考えられていたとしても、100人単位でしかなかったと考えられている信長とその供回りの人数を考えれば、13000といわれている全軍で攻める必要は無かったはずです。

という事は、軍を二手に分けられない理由があったという事になります。

どんな理由が考えられるでしょうか。

なぜ二手に分けられなかったのか

 光秀は、言われているように重臣に本意を打ち明けていなかったとしたらどうでしょう。
家臣の中から、謀反して、信長に知らせる者が出ることを恐れ(なにしろ、自らが、謀反を起こすつもりなわけですから)、打ち明けることは出来無かったのだと思います。
その代わり、信長からの命により、密かに家康辺りを討つと、騙したのたのではないでしょうか。
そのため、軍を二手に分け、妙覚寺に送ることは、出来なかったのです。
信忠を攻めるのでは、話の辻褄が合わなくなってしまいますからね。

それでも、信忠は放っておくわけにはいかにので、信頼のおける腹心にだけは打ち明けて、その配下を偵察に出していたのではないでしょうか。
それによって、信長を討った後で、素早く二条御新造に攻め寄せることが出来たという訳です。
当然、信長を討った後に、家臣に打ち明けた後だとは思いますが。
信忠が逃げなかったことを、光秀は僥倖だと思ったでしょう。


 以上、私の全くの妄想の域は出ませんが、『本城惣右衛門覚書』やルイス・フロイスの『日本史』にも、こういった事を思わせる内容があるようなので、どんなものでしょうか。


 ではでは

 

 

明智光秀も時代の子

 明智光秀も時代の子だっただけではないかと言う話です。

 

 

麒麟がくる

 今年の大河ドラマが、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」という事で、そのクライマックスとも言える、「本能寺の変」について、見聞きすることが多くなったような気がします。

当然、なぜ光秀が、謀反して信長を討つようなことをして、「裏切り者」とよばれるようになったのか、という内容が多いです。

それに対して、怨念説、黒幕説等様々な説が唱えられています。
中には、光秀が主犯ではないというものまであります。

どうして、ここまで謀反を問題にされ、さらには「裏切り者」呼ばわりまでされなければいけないのでしょう。

光秀が裏切り者ならば

 その「本能寺の変」で討たれた織田信長は、若い頃に、主家である、尾張守護代清洲織田家を滅ぼした上に、自ら擁立した尾張守護・斯波義銀も追放しています。

光秀を主君の仇として討った、豊臣秀吉も、その後、信長の孫の三法師を主君として担ぐが、ご存知のように最終的には、豊臣政権を樹立しています。

その秀吉から、後継者秀頼を、五大老の一人として支えるように頼まれた徳川家康も、大阪夏の陣で、秀頼を自害に追い込んで、自らの政権を確立しています。

という事で、光秀の引き起こした「本能寺の変」も、三英傑が行った事と、それほど掛け離れていた訳ではないのです。
違いと言えば、一夜のうちに、主家の当主と嫡男を、いずれも自害に追い込むといった、劇的な展開であった点だけだとも言えます。

光秀も時代の子

 光秀が、「本能寺の変」で、主君信長に対して謀反をした事をもって、「裏切り者」呼ばわりされるのであれば、三英傑も「裏切り者」と呼ばなければならないですよね。

彼らが行ったことに対して、怨念が有ったからとか、黒幕がいたとかいった話は聞いたことが有りません。

農民出身の人間が、天下を取ることが出来るのが戦国時代です。
天下を狙う事が、そのための下剋上が、荒唐無稽な話では無い時代だったのです。

光秀も、その時代の、いわば常識に従って行動をしただけなのではないでしょうか。

千載一遇のチャンス

 当主の信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを前にした時に、ここが勝負の時だと思ったという事ではないでしょうか。

怨念とか、朝廷との関係、四国長宗我部との関係のような、これまで原因ではないかと考えられてきた事が、決断の後押しをしたという事も有ったかもしれませんが、主たる理由は、光秀も、戦国時代の常識の下で生きていた武将の一人だったという事だったのだと思います。
常に頭の何処かに、天下を取るという事が、あったのでしょう。

それが、裏切り者扱いされることになったのは、ひとえに、「三日天下」とも呼ばれている程すぐに、秀吉に討たれてしまったからでしょう。
歴史は、常に勝者のものな訳です。


 もう少し、彼の天下が長ければ、三英傑の一人は彼だったかもしれません。

麒麟かどうかはわかりませんけど。

 

ではでは
 

幸福度ランキング

 幸福度ランキングから考えてみた話です

 

 

幸福度ランキング

 幸福度ランキングというものが有ります。

国連の持続可能開発ソリューションネットワークという組織が毎年報告しているものです。
各国で幸福度に関してアンケート調査を行い、その平均値の集計結果をまとめたものになります。

ここでいう幸福度は、人生を最悪から最高まで10段階で考えたときの、その時点での自分の段階を答えてもらうというものです。
自分は、今現在幸せだと思うかどうかを、聞いているわけです。

2019年度結果

 昨年2019年度の日本ランキングは、58位でした。
この報告は、21012年から作成されており、日本の最初の順位は44位であり、その後多少の上下は有りますが、昨年の58位まで
概ね下がってきているという状態です。

では、幸福度の高かった国はというと、10位までが次のようになっています。

1. フィンランド
2. デンマーク 
3. ノルウェー 
4. アイスランド 
5. オランダ 
6. スイス 
7. スウェーデン 
8. ニュージランド 
9. カナダ 
10. オーストリア 

一見して分かるように、北欧の諸国が上位に来ています。

何か理由が有るのでしょうか。

北欧諸国の何が

 何をもって幸福と考えるかは、人に拠るので、それで正解がわかるという訳ではないかもしれませんが、それでも、北欧諸国が押しなべて上位に来ているという事実は有る訳で、理由を調べる意味は有るでしょう。

すぐに思い浮かぶのは、北欧諸国はノルディックモデルが採用され、高負担高福祉の福祉国家だという事です。
現在および将来の基本的な生活に、不安が少なければ、幸福感が高くなることも有りそうです。

その他にも、考えられる点は多くあるはずです。

こういう話をすると、良く出て来る議論に、「それは、国の規模が小さいから出来るんだ」と言うものが有ります。

そう、北欧諸国は、比較的小さな国なのです。

上位の国は、人口が比較的少ない

 実は、北欧諸国だけではなく、ランキングの上位の国は、いずれも比較的人口が少ないのです。

1. フィンランド   536万
2. デンマーク   555万
3. ノルウェー   488万
4. アイスランド  320万
5. オランダ    1661万
6. スイス      766万
7. スウェーデン  937万
8. ニュージランド 436万
9. カナダ      3401万
10. オーストリア  839万 

カナダが多いように思えますが、カナダは連邦制であり、英語圏とフランス語圏に分かれており、それぞれの地域を考えると、オランダとさほど違わない規模になります。

大国は幸福度ランキングが高くないというのは、面白い点だと思います。

社会には、適正な規模というものが有るのという事なのでしょうか。
あまり大きくなりすぎると、人間の想像力の範囲を超えるのかもしれません。

連邦制にしてみたら

 ランキングの上位国の状況に加えて、小さな国だから出来るということであるならば、連邦制を考えてみるというのはどうでしょう。

地理的な条件と、歴史的な背景も踏まえて、次のような地域の連邦制を考えます(色々意見は有るでしょうが、ここは一例という事で)。

 北海道
 東北
 関東
 東京
 北陸
 中部
 東海
 大阪
 近畿
 中国
 四国
 九州・沖縄

12地域ですので、単純平均で約1000万人となり、ランキング上位国と同程度となります。

それぞれの地域に分けると、産業がとか、財政がとか、色々と考えるべき点はあるとは思いますが、それは、ランキング上位の国でも同じ事な訳ですから。

それよりも、小さなことからくる機動性の良さで、色々と出来ることは有るはずです。


 人口の面からだけで連邦制を考えてみましたが、北から南まで変化に富んでいる日本では、全国一律の政策運用よりも、いいような気がするんですけど。


ではでは

 

 

 

三内丸山遺跡と農耕と定住

 三内丸山遺跡から、農耕と定住について考えた話です。

 

 

彼が去年行ったのは

 年初の記事で、知り合いが古代史好きだと分かったと言う話をしましたが、その発端は、彼が、昨年、三内丸山遺跡に行ってきたと言う話をしたことに拠ります。

三内丸山遺跡は、縄文遺跡なので、古代史よりも古いわけですが、それに絡んで、色々と話しているうちに、古代史にも興味を持っていることが分かった訳です。

三内丸山遺跡は、かねがね一度行きたいと思っているんですが、いまだ果たせないでいます。
そのため、やっかみ半分で、三内丸山遺跡についても色々と盛り上がりました。

で、帰り道で、そうか、三内丸山遺跡は定住跡なんだと、いまさらながらに思い至ったのです。

三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、ご存知のように、青森県にある縄文時代の住居跡の遺跡です。

縄文時代の住居跡と言っても、数家族程度が竪穴式住居を作って住んでいたといったものではなく、高床式倉庫、大型の竪穴式住居(集会用?)や大型掘立柱建物(祭祀用と考えられているようです)などが有る、広大な遺跡となっています。

 

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引用元:三内丸山遺跡 -日本最大の縄文集落-|青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government

 

居住者は数百人規模だと考えられているようで、これはもう立派な村落と言っていいでしょう。

さらに驚きなのは、その居住が、今から約5900年前~4200年前の、1700年間にわたって続いていたという点です。

もちろん、縄文時代の三内丸山で農耕は行われていませんでした。(栗の木の植栽などは行われていたようですが。)

農耕と定住

普通、農耕と定住の関係は次のように考えられていると思います。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。
引用元:農耕 - Wikipedia

農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったという訳です。
私も、漠然とそんな風に考えていました。

しかし、三内丸山では、農耕とは関係なく、1700年間も定住が行われていたわけです。
しかも、家族・親族単位よりもはるかに大きな規模で。

少なくとも、日本列島では、農耕の開始よりも、定住の開始の方が早かった訳です。
農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという事になります。


 定住と、農耕それぞれの始まりについて考えてみるのも、面白いかもしれません。


 ではでは

素粒子理論と相対性理論

 素粒子理論と相対性理論の関係から、相対性理論について考えた話です。

 

 

神の数式

 NHKBSで「神の数式 完全版」という番組を見ました。

素粒子理論の発展の過程をまとめた番組です。
「神の数式」とは、素粒子理論により導出された、理論式を指しています。
この式により、宇宙に有る全ての物質について説明を出来ると考えられていることから、番組の中では、「神の数式」と呼んでいます。

現在までのところ、その理論により予言される最後の粒子である、ヒッグス粒子が2012年に発見され、その理論の確からしさが証明された形に成っています。
ちなみに、ヒッグス粒子の存在を提唱したヒッグス博士は、2013年のノーベル物理学賞を受賞しています。

ここまでが、番組の前半部分となります。

相対性理論との関係

 後半部分では、相対性理論との関係から、この「神の数式」の更なる修正の過程が描かれます。

素粒子理論と相対性理論は、別個に発展してきた理論です。
大まかに言うと、物質世界を原子や電子、さらにはそれよりも小さな構造の方から理論化したのが素粒子理論で、星や銀河などの大きな構造の方から理論化したのが、相対性理論という事になるかと思います。

その両者が接点を持ったのが、ブラックホールです。
ブラックホールは、相対性理論から導き出された天体です。
非常に大きな質量を持った星が最後を迎えたときに、その重みにより縮んで行きます。
どんどん縮んでいき、最終的には一点にまで縮んでしまいます。
これがブラックホールです。
一点に膨大な質量が集まるため、重力が非常に大きくなり、光さえも飛び出せなくなってしまうので、黒く見える(見えない?)のでブラックホールという訳です。

ところで、一点に集まるという事は、全ての物質の間の距離が無くなるという事です。
そうすると、引力は距離の二乗に反比例する訳ですから、その点での引力は、0の二乗で除することになり、無限大になってしまいます。
まあ、ありていに言えば、よくわからないという事です。

無限個の無限大

 そこで、一点と言う極小の話なのだから、小さな構造の方から理論化された、素粒子理論を組み合わせれば、説明できるんじゃないかと考えられました。

しかし、計算を行ってみると、やはり無限大が、それも無限個の無限大が出て来るという結果になってしまいました。

その後、色々な試みがなされ、一つの理論が考え出されます。
簡単に言うと、一点に集まると考えると無限大が出て来るのだから、一点に集まらないとすればいいという訳です。
具体的には、ひもの輪のようなものを考えます。
これを「超弦理論」と言います。

その後、その他の不都合を説明するために、紐で出来た膜と考えるべきだとか、云々、現状の到達点が示されて番組は終わります。

説明できないのは相対性理論

 ここまで読んでチョット変だなという気がしませんでしたか。

もともと、ブラックホールは、相対性理論から導き出されたものでした。
その最後の状態を説明出来なかったのも相対性理論でした。

さらに、相対性理論に関しては、以前の記事で書いたように、他にも説明できない観測結果が出て来ています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

つまり、現実との間に齟齬が生じているのは、素粒子理論ではなく、相対性理論という事になります。

であるならば、新たな理論や一部修正を考えるのは、素粒子理論ではなく相対性理論ではないかと思うんですよね。


 やはり、早く出てこい、21世紀のアインシュタインでしょうか。


 ではでは