横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『日本書紀』創られた日本 74 -聖徳太子1-

『日本書紀』創られた日本 74 聖徳太子についての話1です。

 

 

聖徳太子

 今回以降何回かに渡って、日本古代史上最も著名な人物でないかと考える、聖徳太子について取り上げたいと思います。

聖徳太子に関しては様々な話が有りますが、その業績としては代表的なものとして、推古天皇の皇太子兼摂政として行った次の4つが挙げられるでしょう。

1.十七条憲法
2.冠位十二階
3.遣隋使派遣
4.仏教の振興

これだけでも超人的な業績ですが、さらに『日本書紀』だけでも

1.生まれた時から話すことが出来た
2.聖人の知恵が在った
3.1度に10人の訴えを聞いて、間違えないで、理解できた
4.未然(未来のこと)を知っていた

と、とても常人とは思えないエピソードが書かれています。

虚構の人物?

 その業績が一人で成したものとは考えられないことや、常人とは思えないエピソードから、聖徳太子は後世に作られた虚構の人物ではないかという考え方が有ります。

確かに、特に生れた時から話せたり、10人の話を聞き分けたといったエピソードだけでも、眉に唾つけたくなる気持ちはよくわかります。

ところで聖徳太子というのは、以上のような業績、エピソードに対して、死後に呼ばれるようになった名称であり、『日本書紀』ではその名前では出て来ません。

用明天皇の皇子に厩戸豊聡耳皇子という人物がおり、この人が聖徳太子です。

推古天皇の皇太子兼摂政になったという記述が有ることから、全く架空の人物だということではないようです。

こういったことを受けてか、近年の教科書では厩戸王(聖徳太子)と記載されているようです。

しかし、『古事記』では用明天皇の皇子としては記述が有りますが、推古天皇の摂政はおろか、皇太子になったという記述すらありません。

つまり、厩戸王という用明天皇の皇子は確かに実存したようだが、『日本書紀』に書かれているような、推古天皇の皇太子兼摂政としての様々な業績をあげ、常人とは思えないエピソードを持った人物という部分は後世に造られた話、というところでしょうか。

なぜ虚構が

 どうしてこのような虚構の人物が造り上げられたのかという点については、天武天皇が、壬申の乱での皇位継承権争いで失墜した天皇の権威を再度示すためではないかという説が有ります。

聖徳太子のような超人的な人物が、天皇家にはいたというわけです。

しかし、この説にも疑問は有ります。

聖徳太子前後の系図を見てみましょう。

 

引用元:舒明天皇 - Wikipedia

 

欽明天皇の後、兄弟姉妹間で皇位が継がれています。

その最後推古天皇の皇太子が聖徳太子だったのですから、皇位は聖徳太子、山背大兄王と継ぐのが普通でしょう。

しかし実際には、聖徳太子の血筋は絶え、敏達天皇の血統が継いでいくことになり、その先に『日本書紀』を編纂させたとされる天武天皇がいるのです。

この流れで、聖徳太子を超人的な人物だと祭り上げるというのはどうなんでしょうか。


 次回は、回答編として以上のような疑問点について考えながら、『日本書紀』における聖徳太子の記述について考えます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 73 -『古事記』の構成-

『日本書紀』創られた日本 73 『古事記』の構成についての話です。

 

 

古事記は3巻

 前回まで、改めて『古事記』と『日本書紀』の関係について色々と考えて来ました。

今回は、『古事記』について書くために、改めて色々と調べている時に気が付いた『古事記』の構成についての話です。

ご存知のように、『古事記』は上中下の3巻からなっています。

その構成は

  上つ巻(序・神話)
    中つ巻(初代神武天皇から十五代応神天皇まで)
    下つ巻(十六代仁徳天皇から三十三代推古天皇まで)

の3巻ということになっています。

これを改めて見て、これはと思ったんですよね。

最初の巻が、神話の時代の話というのは、特に問題の無い構成かと思います。

問題は、神武天皇から始まる時代の話を、なぜ応神天皇までとそれ以降に分けたのでしょう。

3巻構成だから

 先ず考えられるのは、その記載内容から2巻に分けるのに良いのが、応神天皇と仁徳天皇の所だったというものです。

しかしよく考えると、これはおかしいのです。

確かに我々が知っている『古事記』は、3巻から成っているのですが、そもそも3巻である必然性はないのではないでしょうか。

3巻本が流行っているので、是が非でも3巻に纏めたい、といったことは無かったでしょうし。
そもそも、現存する日本最古の書物だとされているぐらいですから、どのような形式で作るかについて、なにも決まりはなかったはずです。

なので、応神天皇と仁徳天皇の間で分けると、綺麗に2巻になる、という考え方はあり得ないと思われます。

出来上がった結果が3巻構成だったと考えるべきでしょう。

応神天皇で切ったのは

 そうだとすると、なぜ応神天皇までで2巻目としたのかということになります。

これは、応神天皇こそが東征(東遷)を行った当事者であり、崇神天皇以下の皇統は、邪馬台国の系図を基にしている、という本ブログの主張からすると、当然の結論ということではないでしょうか。

そう考えれば、1巻目は神話の巻、2巻目は畿内大和政権成立までの巻、3巻目は畿内大和政権の巻ということになり、編纂意図のはっきりした納まりがいいものになります。

『古事記』が編纂されたころには、まだまだ大和政権の成り立ちの辺りは、記憶、記録に残っていたのでしょう。


 本当はどうだったのか知っていますよ、と暗に示しているのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 72 -『古事記』の基になった話-

『日本書紀』創られた日本 72 『古事記』の基になった話についての話です。

 

 

前回まで

 前回まで何回かに渡って、継体天皇に関連する話のうち特に正統性に関する話の、『古事記』と『日本書紀』での違いについて見て来ました。

簡単に纏めると、『古事記』では東征(東遷)して来た大和政権の、統治者としての正統性を示し、『日本書紀』では統治者としての天皇家の皇統の正統性をしめしているのではないかと考えました。

今回は、これらの違いの意味を踏まえ、改めて『古事記』の基になった話について考えて見ます。

『古事記』

 本ブログでは、『古事記』は、『日本書紀』のような正史ではないものの、『日本書紀』より100年近くに前に一般に流布していた話を基にした、私的な歴史書だと考えています。

では、『日本書紀』より100年近くに前に一般に流布していた話はどうやって作られたのでしょう。

以前の記事で、『古事記』の記述の中で、欠史八代と同じように系譜が記述されているがその事績が記されない天皇、第27代安閑天皇から第33代推古天皇までについて書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

その中で『古事記』の作者が、山背大兄王を支持していた物部氏の一族が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたと考えました。

そのため物部氏に都合の悪い話を載せないために、第27代安閑天皇から第33代推古天皇までの事績を省いたのではないかとしました。

しかしそうではなく、作者が基にした話が継体天皇までしかないものだったとしたらどうでしょう。

そして、その話が大和政権側が作った話であり、安閑天皇以降の話は作られていなかったとしたら。

私的なものに、安閑天皇以降の話を勝手に書くわけにはいかなかったでしょう。

その結果出来上がったのが、現在私達が知っている『古事記』なのです。

何時、何のために

そう考えると、『古事記』の基になった継体天皇までの話が作られたのは、継体天皇かその後を継いだ安閑天皇の時である可能性が高いという事になります。

その時の日本の情勢を考えて見ます。

本ブログでは、白村江の戦いの頃までは大和政権と九州王朝が並立状態であったと考えているので、当然継体、安閑両天皇の時代にも九州には九州王朝が有りました。

継体天皇の在位期間の直前の5世紀初頭から末頃まで、およそ1世紀近くに渡って、いわゆる倭の五王による朝貢が九州王朝により行われており、確固たる地位を築いていたと考えられます。

この状況に対抗する一助として作られたのが、日本神話から継体天皇までの話だったのではないでしょうか。

そのため、個々の天皇の正統性よりも、東征(東遷)後の大和政権の統治の正統性を示すことに力点が置かれたものとなっているのです。


 安閑天皇から推古天皇までに書かれていることに関しては、書いても問題にならないよく知られていた事実なのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 71 -もう一つの正統性-

『日本書紀』創られた日本 71 もう一つの正統性についての話です。

 

 

継体天皇の正統性

 前回は、継体天皇の正統性についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

『古事記』では、神功皇后が開化天皇の5世の孫だというのが、継体天皇の応神天皇の5世の孫という出自に対する、正統性の根拠になっています。

それに対して『日本書紀』では神功皇后は4世の孫とされており、継体天皇の正統性の根拠とはなっていません。

その代わりに創り出されたのが、徳を失った悪逆非道の武烈天皇から継体天皇への禅譲という、中国の正史に見られる王朝交替のフォーマットを採り入れた話だったというものでした。

今回は、もう一つ正統性を示すためのものがあるのでは、という話になります。

三種の神器

 そのもう一つのものではないかと考えているのが「三種の神器」になります。

「三種の神器」について『古事記』では、天孫降臨に際してアマテラスからニニギに授けたという記述があるのですが、『日本書紀』の天孫降臨本文に際しては、そのような話は出て来ないのです。

天皇の皇位継承に関連しては、逆に『古事記』には出てこないのに対して、『日本書紀』では継体天皇の時に初めて現れます。
その後現代に至るまで続いているという事になります。

記紀における意味

「三種の神器」については、以前の記事で取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

その中で「三種の神器」の持つ意味について、八尺瓊勾玉による古からの正統性、八咫鏡による中国の権威を背景にした正統性、草薙剣による東征後の統治の正統性、というそれぞれの正統性を象徴していると考えました。

それを天孫降臨に際して授けられたわけですから、『古事記』においては、大和政権がそれら3種の正統性を有していることになります。

本ブログでは、白村江の戦いの頃までは九州王朝と並立状態であったと考えているので、政権そのものの正統性を示す事を目的としたのだと思われます。

一方『日本書紀』では、継体天皇の即位に関係しているということですから、政権ではなく天皇の皇統の正統性を示していると言えそうです。

それが現代まで続いている訳ですから、当然『日本書紀』が編纂された当時の皇統も、その正統性を有していると主張していると言っていいでしょう。

『日本書紀』が編纂された当時には、既に九州王朝を滅ぼしているので、政権の正統性を示す必要は無かったとも言えます。


 継体天皇は、ダブルで正統性を主張されているのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 70 -5世と4世の代わり-

『日本書紀』創られた日本 70 5世と4世の代わりについての話です。

 

 

5世と4世

 前回は、神功皇后の出自に関してでした。

 

yokositu.hatenablog.com

神功皇后が開化天皇の5世の孫だというのが、継体天皇の応神天皇の5世の孫という出自に対する、正統性の根拠になっていると考えます。

あの神功皇后もそうだったように、5世の孫が皇位を継ぐことに問題は無いというわけです。

なのですが、この話は『古事記』での話であり、『日本書紀』では神功皇后は4世の孫とされているのです。

従って、『日本書紀』では神功皇后の出自が、継体天皇の皇位継承の正統性の根拠にはなっていないことになります。

その代わりに武烈天皇

 その代わりに創り出されたのが、悪逆非道の武烈天皇の話だったのです。

皇統の流れとしては、応神天皇の後を継いだ有徳の仁政仁徳天皇から始まった皇統が、徳を失った悪逆非道の武烈天皇で終わり、大和政権の祖ともいえる応神天皇の五世の孫継体天皇への禅譲により続いていくというものになっています。

これは、『日本書紀』が編纂されたころには中国から輸入されていた、中国の正史に見られる王朝交替のフォーマットを採り入れたものと言うことが出来ます。

有徳の初代から始まるも末期に徳を失い、それを有徳により改めて天命を受けた現王朝の初代が禅譲により引き継ぐ、形式にぴったりと当てはまります。

『古事記』では

 以上の仮説は、『古事記』における武烈天皇に関する記述でも裏付けられます。

その武烈天皇の記述は

 

  小長谷若雀命 坐長谷之列木宮 治天下捌歲也 此天皇 无太子 故 爲御子代 定小長谷部也 御陵在片岡之石坏岡也。

(小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷之列木宮で、8年間天下を治めた。天皇には子供が居なかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡之石坏岡にある。)

    天皇既崩 無可知日續之王 故 品太天皇五世之孫 袁本杼命 自近淡海國 令上坐而 合於手白髮命 授奉天下也。

(天皇が崩御したが、次の日継の王が見つからなかった。それで、品太天皇(応神天皇)の5世の孫、袁本杼命(継体天皇)を近淡海国(近江)から呼び、手白髮命(手白香皇女)を娶らせ、天下を授けた。)

引用元:武烈天皇 - Wikipedia

 

と、非常に簡潔なものとなっており、『日本書紀』に見られた悪逆非道な行いは、全く見られません。

『古事記』と『日本書紀』

 つまり、『古事記』の基となった話が出来上がった時代には、武烈天皇に関しては、悪逆非道だったとは思われていなかったのです。

そして、継体天皇の正統性は、神功皇后の出自によって示されました。

その約百年後に編纂された『日本書紀』では、中国の王朝交替のフォーマットが取り入れられ、武烈天皇の悪逆非道の行いが創り出されたのです。


 それにしても、悪逆非道の話は内容的にやりすぎではないかと。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 69 -5世と4世-

『日本書紀』創られた日本 69 5世と4世についての話です。

 

 

5世の孫

 前回の記事で継体天皇の出自である5世の孫について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

継体天皇の応神天皇の5世の孫という出自が本当かどうかは分かりませんが、その事が継体天皇即位の正統性を示すことになっているのではないかという話でした。

特に、神功皇后が開化天皇の5世の孫だというのが大きな根拠になっていると考えました。

あの神功皇后もそうだったように、5世の孫が皇位を継ぐことに問題は無いというわけです。

ということなのですが、この話には少し問題が有るのです。

実は、神功皇后が開化天皇の5世の孫だという話は、本稿の対象である『日本書紀』ではなく、『古事記』に記されている話なのです。

ちなみに、『日本書紀』では開化天皇の4世の孫という事になっています。

 

『古事記』とは

 『古事記』に関しては、以前の記事でその成立時期等に関して書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

その中で『古事記』は、推古天皇の次代舒明天皇の時期に、物部氏によって書かれたのではないかと考えました。

34代舒明天皇の在位は、629年から641年と考えられていますので、『日本書紀』に比べて、『古事記』の成立が80から90年古いという事になります。

つまり、『古事記』は、『日本書紀』のような正史ではないものの、『日本書紀』より100年近くに前に一般に流布していた話を基にした、私的な歴史書だというのが結論でした。

100年前には

 その『古事記』の中で、神功皇后は開化天皇の5世の孫とされているわけですから、少なくとも『日本書紀』の編纂される100年程前までは、5世の孫だと捉えられていたという事になります。

そして、勿論明記はされていませんが、神功皇后が5代の孫だということが、応神天皇の5世の孫である継体天皇の皇位継承の正統性を示すものとされていたのです。

それが、100年後の『日本書紀』では、神功皇后は4世の孫とされたわけです。

これは、『日本書紀』の編纂者が、5世の孫という正統性の根拠を必要としなくなったという事を表しているのではないでしょうか。


 それは、なぜなのでしょう。次回に続きます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 68 -五世の孫-

『日本書紀』創られた日本 68 五世の孫についての話です。

 

 

五世の孫

 今回は、継体天皇について、特に応神天皇の5世の孫とされている点について考えて見ます。

先ずは、関係する系図を見てみます。

 

引用元:継体天皇 - Wikipedia

 

系図を見てわかるように継体天皇は、応神天皇の子である仁徳天皇の兄弟の子孫、応神天皇から見て5代目という位置づけ、つまり5世の孫という事になっています。

この間、16代仁徳天皇の皇統では、25代武烈天皇までの10代の天皇により皇位が継承されています。

しかし、兄弟間、はとこ間での継承もあり、世代で数えると仁徳天皇から武烈天皇までで5世代であることが判ります。
つまり、武烈天皇も応神天皇の5世の孫なのです。

この一致をどう考えれば良いでしょう。

傍系も5代目

 先ず考えられるのは、実際に5世の孫だったというものです。

仁徳天皇以降の本家筋とも言うべき皇統が5世代に渡って続いている間に、継体天皇までの傍系も同じように5世代を重ねているというのは、十分にあり得る事でしょう。

もう一つ考えられるのは、実際には応神天皇の血統ではない人物が、武烈天皇から皇統を継ぐために、同世代の5代の孫を剽窃したというものです。

このいずれであるかを決定するための情報は有りません。

ひとつ疑問なのは、直接の理由としては、25代武烈天皇が後嗣を残さなかったためという事になっていますが、もしそうだとしてもその後継者を選ぶために、5代まで遡らなくても他にも多くの対象者がいたはずではないかと思うのです。

なぜ5世の孫

 本当かウソかいずれにしても、継体天皇は応神天皇の五世の孫である必要があったという事なのですが、武烈天皇の同世代であるという以外にどんな意味があるのでしょうか。

仁徳の皇統から皇統交代をしたわけですが、上で考えたように、5世の孫でなくても、そこまで遡るまでのどこの人物でも良かったはずです。

それでも応神天皇5世の孫としたということは、仁徳以降の途中から傍系となった人物ではなく、仁徳天皇の皇統とは異なる血統であることが重要だったとのだと言えるでしょう。

つまり、皇統交代が有ったのだけれども、その始祖たる継体天皇が応神天皇の血統であることを強調することで、継体から続く王朝は邪馬台国からの血を継ぐものであると暗に主張しているわけです。

五世の孫といえば

 五世の孫といえば、もう一人五世の孫とされている人物がいます。

神功皇后です。

神功皇后は開化天皇の五世の孫とされているのですが、これは継体天皇が応神天皇の五世の孫という話を正当化するために作りだされた話なのだと思います。

あの神功皇后もそうだったように、五世の孫が皇位を継ぐことに問題は無いというわけです。


 普通に考えたら、五代の孫って言われても、ほぼほぼ他人ですよね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 67 -仁徳から継体まで-

『日本書紀』創られた日本 67 仁徳から継体までについての話です。

 

 

仁徳から継体まで

 前回見たように継体天皇の皇位継承に関する記述は、王位を簒奪したことを糊塗したともとれるものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

これを、仁徳から継体までの流れで捉えるとどうでしょう。

先ず、その治世が仁政とされ、聖帝の治世とも呼ばれる仁徳天皇から始まります。

その後も、治世としてはこれといった悪評は見られません。

その一方で、仁徳天皇から仁賢天皇まで皇統を繋いだ一族は、何かに呪われたかのように血で血を洗う争いを続けます。

 

yokositu.hatenablog.com

ただし、それはあくまでも一族内での話に留まり、民に対してはそういった話は出てこないという面も有ります。

その掉尾を飾るかのように皇位を継承したのが武烈天皇です。

武烈天皇は、悪逆非道をむしろ無差別に行います。
その挙句、嗣子を作ることなく崩御してしまいます。

そして、その後を継承させるために探し出されたのが継体天皇だという流れになります。

仁徳天皇からの直系男子の皇統は、武烈天皇で途絶えるのです。

王朝交替のフォーマット

 以上の流れは、中国の正史に見られる王朝交替のフォーマットそのものでないでしょうか。

有徳の初代から始まるも末期に徳を失い、それを有徳により改めて天命を受けた現王朝の初代が禅譲により引き継ぐ、というあれです。

もちろん、中国でもそうであったように、現実には禅譲であった訳はなく、河内で即位したのち大和に入るまで19年かかったという記述も、反対勢力との間に色々とあった事を伺わせるわけです。

伺わせますが全体の形としては、応神天皇の後を継いだ有徳の仁政仁徳天皇から始まった皇統が、徳を失った悪逆非道の武烈天皇で終わり、大和政権の祖ともいえる応神天皇の五世の孫継体天皇への禅譲により続いていくことになったという話になっているのです。

呪われた一族の話も

 こう考えると、仁徳天皇から仁賢天皇までの呪われたかのような一族内で争いも、異なった見方が出来そうです。

その争いの中で、雄略天皇に代表されるように、王位継承のライバルとなる親族の多くが粛清されていくことになります。

これも見方によっては、武烈天皇崩御で仁徳天皇からの直系男子の皇統が途絶えてしまうという事態の理由を、暗に説明しているとも言えないでしょうか。


 これで継体天皇以下の皇統が、邪馬台国から続く正統性のあるものになった形になります。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 66 -継体天皇-

『日本書紀』創られた日本 66 継体天皇についての話です。

 

 

即位の経緯

 今回は継体天皇についてですが、特にその即位の経緯について考えます。

出自と経緯ということなのですが、全ては前回取り上げた武烈天皇が、後嗣を残さなかったことに始まります。

武烈天皇の崩御を受けて、有力豪族が協議し、越前国の応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えることにします。

男大迹王は、度重なる辞退と説得を経て即位します。

ただし、即位は大和ではなく、現大阪府枚方市と考えられている河内国樟葉宮で行われたとされます。

その後も大和に入ることなく周辺の宮を転々とし、19年の後にやっと現奈良県桜井市の磐余玉穂宮に入るのです。

そして、その5年後に崩御してしまうのです。

突っ込み処満載

 どうでしょうか、ざっと経緯をなぞっただけですが、突っ込み処が満載ではないでしょうか。

先ず、有力豪族の協議の末に選ばれたのが、5世孫の男性だったというのがいかにもという感じがぬぐい切れません。

前項では取り上げませんでしたが、男大迹王の前に14代仲哀天皇の5世の孫(これもまた5世の孫です)である倭彦王を推そうとしたのですが、兵を恐れて山に逃れ、行方知れずとなっています。

思わず、本当かよと言いたくなる話です。

もちろん、本当に5世の孫だったという可能性も有ります。

しかし、普通に考えてあまりにも不自然です。

直接の理由としては、25代武烈天皇が後嗣を残さなかったためという事になっていますが、もしそうだとしても5代まで遡らなくても他にも多くの対象者がいたのではないでしょうか。

即位後の動きも変です。

そもそも、武烈天皇の崩御後に有力豪族が協議し、三顧の礼をもって天皇に迎えたのです。

それなのに、19年間も大和に入らず、周辺の宮を転々としたというのはいかにもおかしい。

周辺に行くべき何かがあったとしても、先ず大和に居を構え、その後に必要なところへ行くというのが普通ではないでしょうか。

王位簒奪か

 以上のような疑問点は、男大迹王が王位を簒奪した事実を糊塗したためと考える事も出来そうです。

男大迹王が5世の孫(本当か嘘かは定かではない)を標榜して決起し、一方的に即位を宣言します。
それが、現大阪府枚方市の河内国樟葉宮です。

それに対する反対勢力の抵抗も根強く、大和入りを目指す男大迹王側と、それを阻止しようとするは南泰勢力の間の争いが19年に渡って大和周辺で続いたのです。

そのため、転々と拠点を変える必要があったのです。


 継体天皇の血統が編纂した『日本書紀』では、簒奪したとは書けなかったのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 65 -武烈天皇-

『日本書紀』創られた日本 65 武烈天皇についての話です。

 

 

仁徳から仁賢まで

 前回は、仁徳天皇から仁賢天皇までの話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

仁徳天皇の仁政から始まった応神後の大和政権ですが、その皇統の継承について見てみると、まるで呪われているかのように、一族に不義と血の匂いが付きまとっているさまを見ました。

ただし、それはあくまでも一族内での話に留まり、人民に対してはそういった話は出てこないという面も有ります。

今回は、そういった中で皇位を継承した武烈天皇について考えます。

悪逆非道の治世

 武烈天皇に関しては、「日本書紀」に残虐とも言える行為が書き連ねられています。

二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。
引用元:

武烈天皇 - Wikipedia

 

 

前項で書いたように、仁徳天皇以降の皇統では、不義と血みどろの争いがあっても、それが人民に向かう事は無かったように見えます。

それに対して、武烈天皇の悪逆非道はむしろ無差別に行われています。

その挙句、嗣子を作ることなく崩御してしまいます。


 仁徳天皇からの直系男子の皇統は、武烈天皇で途絶えるのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 64 -仁徳以降の天皇達-

『日本書紀』創られた日本 64 仁徳以降の天皇達についての話です。

 

 

仁徳仁政

  前回は、仁徳天皇についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

全国どころか三韓をも征した神功皇后の後を、その息子応神天皇が継ぎます。

さらにその後を、仁徳天皇以降が引き継ぎ、仁政を行います。

もっとも、その仁政が畿内付近に偏っていることから、大和政権の勢力範囲は畿内を中心とした地域にとどまっているのではないかと考えました。

今回は、仁徳天皇とそれ以降に続く天皇について考えます。

一族内での争い

 仁徳仁政から始まったのですが、その一族には不義と血の匂いが付きまとうのです。

仁政を行った仁徳天皇ですが、その即位にはきな臭さがあります。

応神天皇の崩御後、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の自殺により即位したとなっています。
いかにもな話です。

さらに異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、皇后と別居することになり、皇后が別居のまま亡くなると、八田皇女を皇后とします。

次代の履中天皇は、皇位を奪おうとして叛した住吉仲皇子を、弟(後の反正天皇)に誅殺させます。

反正天皇の次の允恭天皇は、皇后の妹の衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買います。

允恭天皇の皇太子は、同母妹tおの近親相姦が発覚したために、允恭天皇の死後粛清され、弟が    安康天皇として即位します。

その安康天皇は、おじの大草香皇子を誅殺し、その妃であった中蒂姫を皇后に立てたが、連れ子の眉輪王に暗殺されて崩御してしまいます。

安康天皇の崩御後、弟の大泊瀬皇子が眉輪王を含めた多くの皇族を殺して後を継ぎ雄略天皇として即位します。

このとき誅殺した葛城円大臣の娘を妃とした。
その子が白髪皇子(後の清寧天皇)である。

清寧天皇は即位前に、反乱を起こした星川稚宮皇子を、焼き殺させています。

清寧天皇は子が無く、生存が確認された、父雄略天皇に粛清された市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の息子2人を皇子とします。

この2人の皇子が、 顕宗天皇、仁賢天皇の2代の皇位を継ぎます。

顕宗天皇は、父の仇である雄略天皇への復讐のために陵の破壊を試みたが、後の仁賢天皇に説得されて断念します。

仁賢天皇は、人民に「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と言わしめます。

ここにきてやっと、不義と血の匂いは消えたかにみえます。

どうでしょう、何かに呪われた一族を描いた大河小説のようではないでしょうか。


 そして、武烈天皇の時代となります。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 63 -仁徳天皇の仁政-

『日本書紀』創られた日本 63 仁徳天皇の仁政についての話です。

 

 

神武から応神まで

  ここまで、『日本書紀』における神武天皇から応神天皇までの話を、その裏に隠された意図も絡めて見て来ました。

簡単に纏めると、邪馬台国の東遷を初代神武天皇による東征とし、邪馬台国と卑弥呼の名を出すことなくその系図を組み込み、大陸の記録との関連を想起させつつ、応神天皇が邪馬台国の皇統に連なり、畿内大和政権の実質的な初代であることを示す、といった感じになるでしょうか。

深読みするとそういうことになるのですが、書かれたそのままの意味はどうでしょう。

神武天皇が畿内に東征した後、8代の天皇を挟んで、続く崇神王朝の最後神功皇后の時に熊襲を征伐し、返す刀で三韓征伐まで行い畿内に凱旋します。

全国を征し、その後を神功皇后の息子応神天皇がそれを継いだように読めます。

さらにその後を、仁徳天皇以降が引き継いでいったと読めます。

聖帝仁徳天皇

 という事で、その仁政から聖帝ともいわれる仁徳天皇の時代には、『日本書紀』をそのまま読むと、全国を統べていたということになります。

ところがその仁政の中身を見ると、ちょっと首を傾げたくなるのです。

仁徳天皇の仁政の逸話として、大規模な治水工事を行ったことが挙げられます。

1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の  堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世  郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。

引用元:仁徳天皇 - Wikipedia

これらはよく見ると一部畿内の地域限定の話であることが判ります。

全国を統べている権力者の仁政としてはどうなんでしょう。

竈の煙の話

 さらに、仁徳天皇の仁政の例として有名な話に、竈の煙の話が有ります。

「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。の間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」というものです。

この話、もう少し詳しく見て見ると、天皇が高台に登ってそこから見た話という事になっています。

これも、畿内の高台から見える範囲だけで決めたという事なので、やはり全国を統べるという事からすると、違和感が有ります。

精々畿内が勢力範囲

 以上の話からは、仁徳天皇の時代には全国を統べているというようなことは無く、精々畿内ぐらいが大和政権の勢力範囲だったことが伺われるように思われます。

ただし、竈の煙の話は、研究によると仁徳天皇の時代には竈が普及していなかったと考えられることから、後世の創作と考えられているようです。

つまり、推古天皇までのどこかと考えられる、この話の創作時点においても、近畿地方限定ともいえる内容が可笑しいと思われない状況だったとも言えそうです。

仁徳天皇の事績は、かなり後の時代まで大和政権の勢力範囲が、畿内に留まっていたことを示しているのです。


 話を作った時点での常識が、疑われる事なく入り込んでしまったのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 62 -応神以降の外交-

『日本書紀』創られた日本 62 応神以降の外交についての話です。

 

 

ここまでの話

 ここまでで、『日本書紀』において、神武天皇から応神天皇までの記述が、とくに邪馬台国との関係でどのように形成されてきたかを見て来ました。

基本的には、応神天皇が実際に邪馬台国を九州から畿内に東遷させたと考えられるのですが、邪馬台国と卑弥呼を表向きは無かったことにするために、東遷に関わる事績を中心に神武東征から神功皇后までの話として組み込んだという事になります。

そのため応神天皇の事績には、東遷に関係するような事績は全く出てこないという事になっているのです。

今回は、その応神天皇以降の外交について考えてみます。

応神以降

 応神天皇以降という事ですが、ここには本来ならば、東遷以降の事績が入るはずです。

ところが、前回までで見てきたように東遷後の事績の多くは、崇神天皇から神功皇后までの崇神王朝ともいうべき系図の中に組み込まれています。

東遷後の平定は、神功皇后までで一旦終わったという形になっているのです。

それを裏付けるように、応神天皇以降の各天皇の事績を見ると次のようなものが主なものとなっています。

 1.どのように皇位が継承されたか。
 2.土木、行政といった内政関連
 3.外交関連

ここでは、特に外交関連について見てみます。

呉国関連

 外交関連は、大きく二つに分けられます。

一つは、呉国関連です。

中国を指していると考えられる呉国ですが、『日本書紀』にはち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に呉国との間で使節の往来その他があったとする記述があります。

呉というと三国志の呉という事になりますが、この呉に倭との間に使節が往来したという記録はありません。
そもそも、呉は魏と同時代の国であり、時代が全く違います。

倭との関係でいえば、その後の王朝である宋の時代に、倭から朝貢があったとの記録が有ります。
所謂、倭の五王です。

これも、これまでの話でも出て来た、大陸に残る記録を想起させるための話という、巧妙な編集ではないかと思います。

どの天皇が倭の五王の誰なのかは直接書かないのですが、それらしい事績は有りますよというわけです。

本ブログでは、実際には倭の五王は九州王朝の王であり、大和政権とは関係ないとの立場を取っています。

朝鮮半島関連

 この事は、もう一つの外交関連である、朝鮮半島関連からも伺えます。

朝鮮半島の高句麗、新羅、百済との関係が様々な形で出て来ますが、その形態はおおむね日本が主で、朝鮮の諸国が従という関係で記述されます。

これは、好太王碑文に出てくる倭による侵攻を、神功皇后による三韓征伐という形の話にしたことが影響しています。

この話の中で、三韓征伐というぐらいですから高句麗も含めて、三か国全てを征服したことになっていますから、必然的に日本が主で、三韓が従という記述になったと考えられます。

さらにこの話は、倭の五王の一人珍が宋に対して、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して、正式の任命を求めたことなどを想起させるものともなっているのです。

応神以降の外交関連

 『日本書紀』編纂上の応神以降の事績の狙いの一つとして、中国に残る倭の五王に関する記録を、そのままズバリではないがそれを想起させる話で、大和政権に関連するもののように記述したのです。

現実には、倭の五王は九州王朝の王の話ですし、三韓征伐は無く、朝鮮半島と直接に相対していたのは九州王朝だったのです。

その九州王朝を無かったことにするために作られた話なのです。


 全ては、大和政権が一貫して全国を統べていたという前提なのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 61 -応神天皇の事績-

『日本書紀』創られた日本 61 応神天皇の事績についての話です。

 

 

応神天皇が東遷

 前回まで崇神天皇から神功皇后までを、『魏志倭人伝』における邪馬台国の記述との関係を絡める形で、見て来ました。

今回は、神功皇后の息子の応神天皇の事績から考えて見ます。

その応神天皇については、以前にも取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

実際に邪馬台国の東遷を行ったのは応神天皇であり、そのため軍神として宇佐八幡宮に祀られているのではないかという話でした。

神功皇后が東へ

 本ブログでは、東遷の事績を紀元前660年に即位した初代神武天皇の東征ということにすることにより、大和政権がの中国では周の時代に相当する歴史を持った国であると主張したと考えています。

そのため応神天皇の事績には、東遷に関係するような事績は全くありません。

その代わり、神功皇后が三韓征伐の後に大和に向かうという形になり、東遷後の最大の混乱と言える出雲王朝との争いも、国譲りという形で神話の時代の話にされています。

その神功皇后が向かった大和では、仲哀天皇の嫡男、次男、忍熊皇子との戦いが待っていました。

その戦いに勝った後大和に入り、誉田別尊(後の応神天皇)を太子とします。

そして応神天皇へ

 大和に入る前の戦いも、身内での権力争いであり、東遷後の混乱の一部と捉えることが出来るでしょう。

そして摂政であった神功皇后が亡くなった後に、応神天皇が即位することになります。

即位後の事績では、外国との往来、渡来人による内政事業といった事績が主です。

つまり、東遷に伴う混乱はあくまでも応神天皇即位の前までに、全て解決した形となっているわけです。

即位の不自然さ

 いくら摂政だからといって、先代仲哀天皇の皇后である神功皇后が、亡くなってから即位したというのも明らかに不自然です。

応神天皇が若かったからというのであれば分からないでもないですが、応神天皇が即位したのは、70歳!の時なのです。

もっと早くに天皇として即位させ、その皇太后として補佐してもよかったように思います。

なにしろ、神功皇后は摂政の地位に69年もあったのですから。

これを見ても、あくまでも東遷後の混乱は神武皇后までの事績とすることで、実際に東遷を行った応神天皇からは、平定後の治世が始まったことなっているわけです。


 『日本書紀』の記述からは、応神天皇と軍神は全く結び付きません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 60 -神功皇后と壱与-

『日本書紀』創られた日本 60 神功皇后と壱与についての話です。

 

 

次は神功皇后

 ここまで、崇神王朝の崇神天皇から仲哀天皇まで考えてきました。

 

引用元:崇神天皇 - Wikipedia

次は神功皇后という事になりますが、その神功皇后については、以前の記事でなぜ皇后なのかを検討しています。

 

yokositu.hatenablog.com

神功皇后に関する話が出来た時点で、女性の天皇は前例が無かったので神功皇后は天皇では無く、あくまでも皇后でなければならなかったのだという話でした。

ちなみに、史上初めての女性天皇は推古天皇ですから、神功皇后を含む話が創られたのは、推古天皇より前の時代だったという事になります。

その崇神王朝と邪馬台国の系譜を比べていくと、神功皇后は明らかに卑弥呼(倭姫命)では無く、壱与であると考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

今回は、神功皇后と壱与について考えて見ます。

なぜ壱与だったのか

 なぜ壱与を神功皇后としたのでしょうか。

以前の記事でも見たように、『日本書紀』で神功皇后は、卑弥呼、壱与の両女王のみならず、好太王碑文の倭の侵攻までも包含するスーパーウーマンとして描かれています。

ならば、単純明快に卑弥呼を神功皇后としてもよさそうに思います。

しかし、決してそうだとは書かずに、あえて思わせぶりな描き方にとどめています。

これはひとえに、中国側の記録である『魏志倭人伝』の記述との整合性を取るためだったと考えられます。

『魏志倭人伝』の記述によれば、卑弥呼が朝鮮半島に攻め込んだ事実はありません。
それどころか、朝鮮半島の帯方郡を通じて魏に朝貢をしているのです。

それに対して壱与は、『魏志倭人伝』の終わりの方に女王に立てられたと出てきて、朝貢をしたと出てくるのみで、その後については記述がありません(ついでに言えば、夫についても出て来ません)。

ここに、三韓征伐などの話を嵌め込む余地があったから、壱与が神功皇后とされたのです。

さらに、実際に東遷を行った応神天皇の母を、神格化するためという事もあったはずです。

その神功皇后が露払いとなって、後の応神天皇を畿内に連れてくる形にすることで、東遷後の応神天皇の時代に上手く繋がっているわけです。


 とにかく、大陸の文献に出てくる倭の事績は大和政権が行ったことにしたいのです。


ではでは