横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

内匠頭刃傷の理由考

浅野内匠頭が刃傷を起こした理由について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、『仮名手本忠臣蔵』の登場人物の名前について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

実際の事件の当事者の一人吉良上野介が、高家という役職だったことから、先ず敵役として『太平記』にも登場する実在の人物高師直が連想されます。

その『太平記』の中で高師直は、神仏をも畏れぬ悪漢とされ、出雲国守護の塩冶高貞の妻に横恋慕したとされています。

塩冶という名は、大石内蔵助の主君である浅野内匠頭が治める、塩で有名な赤穂藩を想起させることから、刃傷事件を起こすが塩谷判官が決まります。

はっきりしない理由

 ところで、前回の記事でも触れましたが実際の事件(赤穂事件)では、浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由については事件直後から様々な説が唱えられていますが、いまだにはっきりとしたことは分かっていません。

どうも事件後に取り調べがあったかどうかも、正式な記録は無いようです。

そのため『仮名手本忠臣蔵』では、『太平記』の話をそのままとり入れて、塩谷判官の妻に対する横恋慕という筋書きになっています。

やはりいじめか

 理由が分からないことをいいことに、様々な説が出てくることになりますが、我々が『忠臣蔵』としてよく見聞きする話としては、吉良上野介の陰湿ないじめに耐えかねて、というものが一番ポピュラーでしょう。

その中でも有名なのが、増上寺の畳替えの話でしょうか。

京からの勅使の饗応役だった内匠頭ですが、その指導役の上野介から、勅使参詣に際しての畳替えは不要と言われていたが、前日になって必要と分かり、夜を徹して取り換えるという話です。

この時の畳職人と一丸となってやり遂げるところが、見どころとなっています。

この時に上野介が、「あらゆることに、吝嗇では御馳走は勤まらない」と返答した、と言う話もあるようです。

私の記憶に残っているのは、勅使登城の日の服装をわざと間違えて伝えられてあわやという事になったのですが、家臣が正しい衣装も念のため用意していたので事なきを得た、というものです。

否定されている

 これ以外にも幾つかあるのですが、上のものも含めて、そんなせこい事するかなという気がしないではありません。

そういったこととは関係なく、これらの話は、実際にはあり得ないと考えられています。

そのわけは、浅野内匠頭が、この事件の18年前にも饗応役を行っているという事実があるからです。

饗応役の仕事の中で行うようなことに関しては、この18年前の時の記録が事細かに残っていないわけがないのです。

これまで見て来たような、間違ったことを教えられて困ると言うシチュエーションは、基本的にあり得ないという事になります。

一度やったからこそ

 という事で間違っではいないのですが、この一度饗応役を行っていた、という事がやはり刃傷事件の背景にあったのではないかと思うのです。

いじめの理由として、上野介への付け届けが少なかった、または無かったからだというものがあります。

当時、高家が付け届けを受け取ることは、幕府からも黙認されていたようで、当然のことと考えられていたようです。

という事で、さすがに付け届けをしなかったという事は無かったと思いますが、その額はどうだったでしょう。

当然、18年前の記録を参考にしたと思われます。

一方、元禄の当時、貨幣の海中などもあり経済はインフレ傾向にありました。

結果として、付け届けの額が、特に上野介が当然と考えている額よりも少なくなったのかもしれません。

それによって、さすがに嘘を教えるという事は無かったにしても、上野介の内匠頭へのあたりが強くなったのです。


 殿様は知事と違って投げ出すことが出来ないのが、内匠頭の辛いところだったのかもしれません。


ではでは

仮名手本忠臣蔵考

仮名手本忠臣蔵』について考えた話です。

 

 

季節外れですが

 若干というか、かなり季節外れでうだるような暑さの中で、忠臣蔵です。

BSで関連の番組をやっていたので(日本の歴史を時代順に紹介しているといった感じの番組で、今回の順番が偶々そうだったという事のようです。)、それを見ていて思いついた話です。

忠臣蔵と言えば、劇や映画などでよく知られていますが、これはあくまでの実際の事件を基に、虚実織り交ぜて造られた話を指します。

それに対して、話の基となった事件については、学問的には「赤穂事件」と呼ばれています。

番組としては、「赤穂事件」を取り上げたものでしたが、今回の話は忠臣蔵のほう、それも忠臣蔵という呼び方の基となった『仮名手本忠臣蔵』についてです。

仮名手本忠臣蔵

 さて、その『仮名手本忠臣蔵』ですが、よく知られているように歌舞伎や文楽の演目です。

討ち入りの35年後に初演されました。

当時、実際に起こった事件をそのまま本や劇とすることは幕府から禁止されていたため、時代や登場人物を変えて創作することが行われていました。

仮名手本忠臣蔵』では、時代を室町時代に移し、主君の仇討のために打ち入った大石内蔵助を大星由良助、打ち取られた吉良上野介高師直としています。

というような話が、番組の初めに忠臣蔵と赤穂事件の違いとして説明されました。

勿論、その内容自体は全く問題はないのですが、ちょっと引っ掛かったのです。

どうして高師直なのかなと。

大星由良助と高師直

 大星由良助は、名前を変えつつ、大石内蔵助を彷彿とさせる名前と言っていいでしょう。

ところが高師直は、吉良上野介にかすりもしない上に、実在の人物なのです。

しかも室町幕府を開いた足利尊氏の側近で、初代および第三代執事という人物でした。

最初は、当時の幕閣の誰かを暗に批判するものなのかともかんがえましたが、どうもそれらしい人物は見当たりません。

なぜこんな、『太平記』にも出てくるような人物をもって来たのでしょう。

でもよく考えたら、答えはその名前と『太平記』に在ったのです。

高師直高家

 『仮名手本忠臣蔵』は3人の合作とされているようですが、そのうちの一人が、または複数人で話し合っている時に、次のようなことを思いついたのではないかと。

先ず、幕府との関係で、時代と登場人物名を変えることは大前提です。

どの時代にするかという事で、平安、鎌倉、室町と様々考えたと思います。

その中で、吉良上野介が儀式や典礼を司る役職の「高家」であることから、室町時代高師直が連想されたのではないでしょうか。

太平記から

 そうなると後は芋づる式です。

太平記』の中で高師直は、神仏をも畏れぬ悪漢とされ、出雲国守護の塩冶高貞の妻に横恋慕したとされています。

塩冶という名は、大石内蔵助の主君である浅野内匠頭が治める、塩で有名な赤穂藩を想起させます。

これで、事件の発端である刃傷事件を起こした塩谷判官も決定です。

作者は、これはいけると思ったのではないでしょうか。

浅野内匠頭が刃傷に至った理由は、その当時でもよくわかっておらず、様々な説がありました。

そこで、『仮名手本忠臣蔵』では、塩冶高貞の妻に横恋慕という話をそのまま取り入れたのです。

ただ、史実の高師直は仇討されたわけでは無いので、当然都合よく大石内蔵助に相当する人物はおらず、大星由良助といういかにもな名前となったのでしょう。


 当時は現代よりも『太平記』は身近だったはずで、観客は名前ですぐにピンと来て、しゃれが効いていると思ったかも。


ではでは

オリンピックは4年に一度再び

オリンピックについて考えた話です。

 

 

パリのサーフィンはタヒチ

 パリオリンピックの開催が近づいて来て、TVでも様々な関連番組が組まれるようになって来ました。

その中で、見ていてちょっとびっくりした内容がありました。

それは、今回のパリオリンピックのサーフィン競技に関するものです。

内容は、その開催場所の紹介だったのですが、その場所というのがタヒチだというのです。

なんでもタヒチのチョープーというところで、世界的に有名なサーフポイントらしいのですが、それにしてもタヒチですよ。

ご存じのようにタヒチと言えば、ほぼ太平洋の真ん中と言ってもいい位置にある島です。

オリンピックの行われるパリは、勿論ヨーロッパ大陸のフランスに在ります。

そのフランスの沿岸ならまだしも、大西洋ですらない、太平洋のタヒチというのは、どうなんでしょう。

オリンピックの制度疲労

 タヒチについては、一応フランス領だという説明というか言い訳はあるようです。

しかし、これが許されるのであれば(現にタヒチでもいいわけですから)、例えば前回の東京オリンピックも、あれほど大騒ぎして新たな施設を準備しなくても、マラソンのように日本全国の既存の施設に分散して開催すればよかったのかもしれませんよね。

しかしそんなことを言うと、あのIOCが、一か所に選手が集まることに意義があるとか言い出すんですよね。

サーフィンの選手は、毎日選手村から送迎するわけでは無いですよね。

ことほど左様に、昨今のオリンピックについては、様々な問題点が露わになってきており、完全に制度疲労を起こしていると思います。

このあたりについては、以前にも記事にしたことがあります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

基本的には結論は同じ

 その時の改革案は、4年毎の一年間をオリンピックイヤーとして、その年の世界チャンピオンだけをオリンピックチャンピオンとする、というものでした。

開催都市を一か所に決めて全てを行う(上で見たように一部ではすでに破綻していますが)のはやめて、オリンピックイヤーの一年の中で、各競技団体が好きな時に好きな場所で世界チャンピオンを決めれば、それがオリンピックチャンピオンだという事です。

これは、毎年各競技団体が行っていることをそのまま行うだけで済むという事です。

そのための特別な費用も手間もかかることはありません。

しかも、IOCがどうやって選んだのかよくわからないオリンピック採用競技だけではなく、全てのスポーツにおいてオリンピックゲームを開催できることになります。

昔の芸術部門のように、スポーツ以外もいいかもしれません。

IOCは、要らないと言えば、要らないですよね。

とは言っても

 とは言ってもこれだけだと、将来のオリンピックは、年号か開催回数だけで呼ぶことになるのでちょっと寂しいかもしれません。

という事で、開催都市ではないですが、その年のホスト都市を決めることにします。

そのホスト都市名で呼ぶことにすれば、現在と同じような感じになるでしょう。

ホスト都市の役割ですが、各競技団体でバラバラなのも味気ないので、金、銀、銅メダルのデザイン決定でどうでしょう。

それ以外に何もないというのも味気ないので、何か一競技だけを開催するという事でもいいかもしれません。

なるべく負担が無いようにしたいので、マラソンというのはどうでしょうか。

色々と細かいことはあるでしょうが、道があればいいわけですから、新しい競技場も要らないですし。

ホスト都市は、ほとんど費用が掛からないので、どこでも出来ると思いますから、くじ引きで選べばいいでしょう。

以前の記事でも書きましたが、開会式と閉会式は無しという事で。

 

 

 一年を通じてオリンピックゲームを楽しめるので、なかなかいいと思うのですが。


ではでは

最古の壁画考

最古の壁画について考えた話です。

 

 

言語能力の指標

 前回の記事では、先史時代の壁画と言語能力について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

先史時代の壁画を、その描かれたと考えられる年代に沿って見てみると、描き方が写実的なものから次第に線画的なものへと変化しているように見えること。

その事と、言語能力による右脳の視覚的記憶能力の抑制という仮説を合わせて考えると、壁画が、それを描いた時代の言語能力の発達程度に対する指標になるのではないかという話でした。

最古の壁画

 従来、先史時代の壁画で最古のものは、前回の記事でも取り上げた、ショーヴェ洞窟を始めとする約4万年前ごろのものと考えられてきました。

そしてこのことは、アフリカから移動して来たホモ・サピエンスであるクロマニヨン人がヨーロッパにやって来た年代とも矛盾せず、これらの壁画はクロマニヨン人が描いたと考えられています。

ところが、研究によりスペインのラパシエガ洞窟、マルトラビエソ洞窟、アルタレス洞窟の壁画が最古のもので、約6万4千年前のものであるとされました。

この時代のヨーロッパはネアンデルタール人が優勢であり、これらの壁画を描いたのは彼らであると考えられています。

壁画を見てみると

 最古のうちの一つ、ラパシエガ洞窟の壁画は次のようなものです。

 

引用元:【解説】世界最古の洞窟壁画、なぜ衝撃的なのか? | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

 

何か描かれているように見えますが、はっきりしないので模写を見てみます。

 

引用元:同上

 

これは確かに描かれたものと言えそうです。

明らかに動物の一部が描かれているように見えます。

写実的なところは全くなく、線画と言って良いでしょう。

言語能力は高かった?

 ホモ・サピエンスの描いた壁画による言語能力に対する指標を、ネアンデルタール人に適応可能かという問題もありますが、両者の交配も可能だったようなので、それほど違いは無かったと考えることにします。

そうすると、上の壁画からは、線画であるという事で、その時点ですでにネアンデルタール人の言語能力が高かった可能性を示しているという事になります。

その後クロマニヨン人がヨーロッパにやって来るのですが、その時のクロマニヨン人の言語能力は、ショーヴェ洞窟などの壁画によれば、高くなかったという事になります。

つまり、両者が出会った時には、ネアンデルタール人の方が高い言語能力を有していたと考えられるわけです。

勿論、両者の言葉が通じたわけでは無かったでしょうが。


 常にホモ・サピエンスが先頭を走っていたわけでは無さそうです。


ではでは

先史時代の壁画

先史時代の壁画についての話です。

 

 

洞窟壁画と似ている

 ここしばらく考えている言語獲得による左脳優位の話ですが、その元ネタとなった番組「あなたの中に眠る天才脳」では、サヴァン症候群の人の書いた絵と、先史時代の洞窟壁画の類似性についても触れられていました。

具体的には、自閉症の少女が4才の時に描いた馬の絵
 

引用元:Nadia | きらめき星 @ オーストラリア - 楽天ブログ

 

が、フランスのショーヴェ洞窟にある先史時代(約3万2000年前)の壁画
 

引用元:ショーヴェ洞窟 - Wikipedia

 

と比較しての話になります。

見ての通り構図は異なりますが、いずれも写実的である点では、確かに類似性が見られます。

言語能力による抑制

 上の絵を描いた少女は、長じてその才能を失ってしまいます。

次が、彼女が20才の頃に描いた馬の絵です。

 

引用元:Nadia | きらめき星 @ オーストラリア - 楽天ブログ

 

研究者は、この原因を彼女が言葉を学んだことに求めました。

このことから、言語能力により右脳の視覚的記憶の能力が抑制されていると考えられるようになりました。

言語能力の発達が十分でない

 そのことを踏まえると、ショーヴェ洞窟の壁画を描いた時の人類は、あまり言語能力が発達していなかった可能性があったと言えそうです。

少しは話せたのかもしれませんが、右脳の視覚的記憶の能力を抑制するほどには発達していなかったと考えられるのです。

番組としては、言語により視覚的機能の能力が阻害されるのではあるが、そのマイナス面を上回るプラス要素が言語獲得にはあるという纏めでした。

見方を変えると

 ところで、この言語と壁画の関係は、別の見方も出来そうな気がするのです。

ショーヴェ洞窟は、約3万2000年前のものでした。

有名なラスコー洞窟の壁画は、約2万年前と見られています。

 

引用元:ラスコー洞窟 - Wikipedia

 

どうでしょうか、写実的ともいえますし、線画的になりつつあるとも言えそうです。

さらに、紀元前4000年頃と考えられている、タッシリ・ナジェールの壁画はどうでしょう。

 

引用元:タッシリ・ナジェール - Wikipedia

 

写実よりも簡略化された線画的になっているように思います。

地理的な位置が異なるので一概には言えませんが、年代が若くなるに従って、写実から線画へと変化しているように見えます。

これと言語による視覚的機能の能力抑制とを合わせて考えると、壁画の描き方から、それを描いた人々の言語能力がある程度推定出来ないでしょうか。


 文字の無かった時代の言語についてその発達段階が、ある程度推定出来る指標にならないですかね。


ではでは

人間は何を行ってきたのか

人間の行ってきたことについて考えた話です。

 

 

左脳優位と悟り

 前回までの何回かの話で、左脳優位に関係する事柄について考えてきました。

先ず、サヴァン症候群に関する知見から、我々人間は通常左脳が右脳の機能を制限している状態にあり、何らかの理由で右脳優位になると、並外れた能力を示すことが分かってきました。

しかもそのことが、仏教における「悟り」と同じではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

絵を描く能力と言語能力の関係から、言語の獲得が右脳の機能を制限することになった原因だと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

言語能力を修業により制限することが「悟り」に至る方法であり、考えようによっては人間を人間たらしめているものの否定ともいえるという話でした。

その関係で、空海の唐における超人的な活動についても、「悟り」によってその能力を得たのではないかと考えました。

 

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左脳優位と真の世界

 次に、芸術と左脳優位の関係について見ました。

 

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何らかの理由で右脳の機能が完全に制限されておらず、その機能を絵画や音楽とうに発揮させたものが芸術ではないかという話でした。

左脳が優位なことで、右脳が認識した世界を言語で説明しようとしてしまうことが、芸術音痴だと考えました。

さらに、プラトン哲学における「イデア」と左脳優位にも関係が見られました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

人間の認識の背後にある、完全な真実の世界をイデア界とし、その影が現実に或るもの、というような考え方がイデア論です。

その中の「完全な真実の世界」というのが、左脳の抑制を受けていない右脳で認識されている現実世界のことではないかと考えました。

それを、言語によって説明しようとしたのが「イデア」だったのではないかというわけです。

宗教、芸術、哲学、そして科学

 以上見てきたように、宗教(特に仏教ですが)、芸術、哲学の分野において、言語による左脳優位とそれによる右脳の機能抑制というのが、関係していることが分かりました。

勿論、各分野で行わていることについて、それが全てというわけではありませんが、少なからず影響していることは確かです。

面白いのは、その方向性に2種類あることでしょう。

宗教、芸術は、右脳に認識されている世界を、言語機能を使うことなく認識しようとしていると考えることが出来ます。

それに対して哲学では、言語機能を用いて説明しようとしているように思えます。

サヴァン症候群の研究により解明しようという立場も、科学というある種の言語機能により説明しようとしていると考えることが出来そうです。

我々人間が行って来た活動の少なくない部分は、言語獲得により失ったものを、そう認識しているかどうかは別にして、再び獲得しようとしているものだと、言えるのかもしれません。


 これらのことは、生物としての生命活動に特に必要ではないという面も在ったりします。


ではでは

イデア考

イデアについて考えた話です。

 

 

イデア

 「イデア」と言えば、哲学用語の中で比較的よく知られているものの一つと言ってもいいでしょう。

普通使われる時には、あるもの、例えばリンゴだとして、個々のリンゴについてではなく、全てのリンゴの元になっているリンゴそのものを指して、リンゴの「イデア」というような使い方をします。

分かったような分からないような話ですが、どちらかと言うと、具体的なリンゴではなく、抽象的なリンゴを念頭にしているような感じで使われているような気がします。

プラトン哲学

 元々の「イデア」は、プラトン哲学の中で取り上げられた概念です。

人間の認識の背後にある、完全な真実の世界をイデア界とし、その影が現実に或るもの、というような考え方です。

細かいことを言うと、その背景には魂の輪廻転生という死生観があり、魂が霊界で見ていたものが「イデア」であり、この世に転生する時にそれを忘れ、この世の「イデア」の影たる物体を見て真なる「イデア」を思い出しているというもののようです。

いずれにしても、実際に我々が認識しているのものの背景に、もっと本質的なものがあるはずだと、考えていたことになります。

ここでも左脳と右脳が

 我々が認識しているものとは、違う真実のものがあるというのは、ここ数回に渡って考えて来た、左脳による右脳の機能が制限されているという話と共通点がありそうです。

これまでの話では、通常は左脳の言語機能による抽象化により、右脳の知覚認識機能が抑制されている状態だと考えました。

獲得性サヴァン症候群の例などから、左脳よりも右脳の機能が優位になると、芸術面を始めとして様々な特殊な能力を発揮することが分かってきました。

つまり、我々が認識している物体は、右脳が認識したものを、左脳の言語機能作用した結果であり、右脳が認識したそのものではないのです。

我々が見ていると思っているものは、言語で説明した結果なのです

右脳優位の人の見方から

 プラトンの時代にもサヴァン症候群のような人たちはいたでしょうし、芸術分野の天才のように生まれつき右脳が優位な人たちもいました。

プラトンは、そういった人たちの一部が、我々の見ている物体を異なった姿で認識しているのを知り、自らの認識について改めて考えたのではないでしょうか。

自らの認識している姿が、全てではない可能性に気が付いたのです。

それに魂の輪廻転生という死生観が合わさって、「イデア」という考えが出来上がったと考えられます。


 最初プラトン自身がサヴァンのような能力持ちだったかと思ったのですが、そういったことを示す記録はないようです。


ではでは

芸術音痴考

芸術音痴について考えた話です。

 

 

芸術音痴

 芸術音痴についてという事ですが、かく言う私もその一人です。
しかもかなり重度だと自覚しています。

例えば、絵を描けば、アメトークの人気企画に「絵心ない芸人」というのがありますが、あれに出てくる「絵心ない芸人」の書く絵と同じようなものし描けません。

歌を歌えば、音程があっているのか、外れているのかが、先ず分からない。

というわけで、学校では、美術と音楽の授業は苦痛でしかありませんでした。

とは言っても

 とは言っても、風景を観れば綺麗だと思う事もあるし、音楽に思わず引き込まれることもあります。

にもかかわらず、それをアウトプットしようとすると、どうにもこうにもうまくいかないのです。

勿論、何時の頃からか下手だという事は分かっていたので、自然と遠ざかり、絶対的な経験値が低いという点があることは否めません。

それに対して、上手な人達は、基本的にそれらを行うことに抵抗がないので、繰り返すことでより上手くなっていくという事はあると思います。

少し例としてはどうかとも思いますが、漫画家が、連載が続いていくうちに、絵がうまくなっていくというのは、よくある話です。

それでもそれを上回って、初めからスタートラインの位置が違う人達がいることもまた確かです。

これらの人達は、なぜか最初から上手いのです。

右脳優位

 上手い下手の理由を、才能の有り無しと言っていしまえばそれまでなのですが、ここしばらく本ブログで考えて来た、左脳と右脳の関係で考えるとどうなるでしょうか。

言語を司る左脳が、右脳の機能を抑制することにより芸術的な能力的に制限が掛かっているという事でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

言い換えれば、右脳で認識している視覚、聴覚などの知覚情報を、言語で説明してしまうからだという事です。

例えば、馬の視覚情報を、言葉で「馬」と認識してしまうと、個々の映像ではなく、「生き物で、4本足で走り、しっぽ、たてがみがあり、顔が長い」と言った言語情報になってしまうのです。

その上、言語情報はたとえ百万言を費やしても、映像を完全に再現することは出来ないのです。

同じことは音楽にも言えるでしょう。
音楽を、全て言葉で説明すことは出来ないのです。

ならば、何らかの要因で、右脳の機能が完全には左脳によって抑制されていない状態が、所謂芸術的な才能があるという事になります。

逆に言語優位で、なんでもかんでも論理的に説明しようとする傾向が強いことが、芸術音痴という事なのかもしれません。

という事で私も含めて芸術音痴というのは、確かに存在するのです。


 何も考えずに、ただひたすら真似るというのは、言語優位を抑えつけるための練習方法という事であり、これもまた一つの「悟り」への道なのかもしれません。


ではでは

空海考

空海について考えた話です。

 

 

生涯

 今回は、空海について考えるわけですが、先ずはその生涯について概略を見てみます。

774年(0才)讃岐国多度郡郡司佐伯田公の子として生まれる。
788年(14才)平城京に上る
792年(18才)大学寮に入る。
793年(19才)大学寮中退。
803年(29才)遣唐使として唐に渡る。
804年(30才)12月長安に入る。
805年(31才)長安青龍寺の恵果和尚に師事。
       3か月で密教奥義を伝授される。
806年(32才)8月明州出航。10月博多着。
816年(42才)高野山金剛峰寺創建
835年(61才)入定

2年弱で

 金剛峰寺を創建するなども在りますが、その生涯で特筆されるべきなのは、遣唐使で唐に渡っていた間の事績でしょう。

先ず、その時期に、真言密教の全てを学んだというのが挙げられます。

しかも、その期間がわずか3か月だったというのです。

この期間で、関係する文物を集めただけだとしてもすごい事ですが、実際には恵果和尚に師事をして、密教の全てを伝授されているのです。

それだけではなく、帰国後の満濃池(まんのういけ)の改修などに見られるように、密教のほかにも土木についても習得し、さらには薬学などその他の分野についても学んだとされています。

しかも、そのすべてが804年12月から806年8月の、わずか2年弱の間のことなのです。

これは、にわかには信じられないと言っていいでしょう。

しかし、現実に密教はもたらされていますし、満濃池も現存しています。

空白の10年間

 子供の頃は、聡明だったという話はあるようですが、特筆するような天才というようなエピソードも無いようですし、大学寮に入ったのも18才と、早熟という事でもないようです。

しかし、上で見たように30過ぎてから渡った唐では、超人的な能力を示しています。

そうなると怪しいのは、その足取りがよくわかっていない、l9才から29才の10年という事になりそうです。

一般的に、この期間に出家をして空海となり、厳しい修業の後「悟り」を開いたとされています。

室戸岬で修業中に、口に明星が飛び込み、「悟り」を開いたという話が有名です。

「悟り」により

 その「悟り」により、以前の記事で考えたように、獲得性サヴァン症候群で見られるような、超人的な能力を得たと考えればどうでしょう。

 

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その能力が、ひと目見たら忘れないというような、超人的な記憶能力だったとすれば、短い期間での信じられない学習量というのも納得できそうです。

恵果和尚が空海を初対面でそのレベルに驚き、即座に密教奥義伝授を開始したという逸話も、その記憶能力を見抜いたという事なのかもしれません。

空海ならば、一言一句間違いなく後世に伝えることが出来ると思ったのかもしれません。

空海は、修業により超人的な記憶力を得たのです。


 もっとも、帰国後の各知識の運用状況等を見ると、単なる記憶能力だけではなかった可能性もありそうです。


ではでは

言語と悟り

言語と悟りについて考えた話です

 

 

前回の話

 前回は、「あなたの中に眠る天才脳」という番組の内容から、「悟り」について考えました。

 

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事故により天才的な能力の開花する獲得性サヴァン症候群が、言語を司る左半球の機能障害によるものであるらしいこと。

仏教の「悟り」を目指す修業が、「無思考」の状態を目指すものであると考えられる事。

これらのことから、獲得性サヴァン症候群で開花する能力が、仏教でい言うところの「悟り」ではないかという話でした。

失うパターンも

 同番組では、獲得性サヴァン症候群とは逆に、サヴァン症候群の人が、その能力を失ってしまう例についても取り上げあられていました。

それは幼い時から絵の才能を見せた自閉症の少女の話でした。

次が、彼女が4才の時に描いた馬の絵です。

 

引用元:Nadia | きらめき星 @ オーストラリア - 楽天ブログ

ところが、20才の時にはこうなります。

 

引用元:同上

とても同じ人物が描いたものとは思えません。
描いた歳が逆ならばあり得るかもしれませんが。

言語の獲得が原因

 彼女は、自閉症の影響で幼い頃には、ほとんど話す事が出来ませんでした。

その後、自閉症児の学校に通うようになり、会話能力が改善されました。

そのことだけではなく、その他の研究成果も踏まえて、この言語能力の獲得が、その絵画能力に影響を与えたのではないかと、現在では考えられているようです。

後天的に、左半球の優位性が出て来たという事になります。

言語による影響

 ところで、なぜ言語の影響で左半球の優位性が出てくるのでしょう。

私は今のところ、次のようなものではないかと考えています。

上の絵の例で考えると、先ず言葉を知らなかった幼年期には、見たものの記憶を、そのまま紙の上に再現しているように思えます。

それが、言葉を覚えた後では、子供のお絵描きのようになってしまったわけです。

これは、記憶にある映像を、一旦言葉を使って解釈しているからではないでしょうか。

4才の時のようなものの元となる映像を、言葉で説明しようとしても、たとえ百万言を費やしたとしても、そのままのイメージを表すことは出来ないと思われます。(出来たら、それはまた別の意味での天才でしょう)

自閉症の彼女の、20才の時点での言語能力で表現したのが、20才の時の馬の絵だったのです。

言語で説明しようとすることが原因なのです。

全ては言語のせい

 言語による説明の限界は、音楽などのその他の能力においても同じように考えられそうです。

つまり、「言語」を獲得した事がすべての根源だったかもしれないのです。

その「言語」の働きを極限までそぎ落とした先に、仏教における「悟り」があるのでした。

逆に考えると、人間は「言語」を獲得することで「悟り」の境地を失ったともいえることになります。

という事は、「言語」を持たない人間以外の生き物は、最初から「悟り」の境地にあるという事になります。

これが、「 一切衆生悉有仏性」の意味するところなのは無いでしょうか。


 この人間を人間たらしめている「言語」の否定とも取れる結論が、お釈迦様をして「悟り」を開かれた直後に、それを広める気になら無かった理由なのかもしれません


ではでは

サヴァン症候群と悟り

サヴァン症候群と悟りについて考えた話です。

 

 

サヴァン症候群

 「あなたの中に眠る天才脳」という番組を観ました。

記憶だけで精密な風景画を描いたり、一週間でそれまで知らなかった言語を話せるようになったり、ショパン幻想交響曲を40分でピアノで弾けたりといった、特定の分野で並外れた能力を示す人たちがいます。

その一部に、知的障害や自閉症などの発達障害等をもっている人達がいます。

それら人たちのことをサヴァン症候群と呼びます。(能力が高いことを症候群というのはどうかとも思いますが)

獲得性サヴァン症候群

 通常、サヴァン症候群は生まれつきのものなのですが、一部に後天的にその能力を獲得した人たちが存在します。

プールで事故に遭い、その後それまで弾けなかったピアノで作曲が出来るようになった人や、暴漢に襲われた後で世の中がフラクタルに見えるようになり、数学的才能が開花した人もいます。

その人たちのことを、獲得性サヴァン症候群と呼びます。

上の例のように、獲得性サヴァン症候群は、何らかの事故に遭う事でなるようです。

障害の部位が問題

 獲得性サヴァン症候群のケースを調べることで、その共通点が明らかになりました。

それは、獲得の原因となった事故で生じた障害の部位に在りました。

いずれも脳の左半球が損傷していたのです。

一般的に、脳の左半球は言語的、論理的な機能を、右半球は芸術的、視覚・聴覚的な機能を受け持っているとされています。

さらに、左半球は「優位半球」とも呼ばれ、左半球が右半球を抑制していると考えられています。

つまり、獲得性サヴァン症候群では、左半球に損傷を受けることでその抑制機能が低下し、結果として右半球の機能が向上したことで、眠っていた能力が開花したと考えられるのです。

そのため、人為的に左の機能を抑制することで、能力の向上を目指す研究がされているようです。

それでも何の能力も見られなかったら、かなりへこむかもしれませんが。

「悟り」に至るには

 ところで、以前の記事で、仏教における「悟り」について考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「悟り」に至るための修業には、各宗派毎に様々な方法があるが、共通点は集中することにより施行を極限まで減らす、いわゆる「無の境地」に至ることにあること。

さらに、何らかのきっかけに出会い、そのきっかけに意識が移る瞬間に極限まで減らした思考すらもなくなる、「無思考」の状態になることが、「悟り」に至る条件では無ないかと考えました。

左半球の損傷と無思考

 損傷により左半球の機能が低下したという事は、言語、論理に関係する機能が低下したという事になります。

言い換えれば,思考する機能が低下しているともいえます。

これは、上で見た仏教の修業の結果到達すると考えられる、「無思考」と同じと言えそうです。

つまり、獲得性サヴァン症候群で新たに開花した機能こそが、仏教における「悟り」なのではないでしょうか。

「悟り」は、「不立文字」で「52種」

 そう考えると、色々と説明出来るのです。

先ず、「悟り」の境地は「不立文字」、つまり言葉では表すことが出来ないという点です。

これは、獲得性サヴァン症候群の人々が、異口同音に「自分にも何が起きているのか分からない」と言っていることからも分かるように、本人にも分からないことを、文字であらわすことは出来ないのです。

次に、「悟り」に52種もあるという点です。

正確には、「52種」の「悟り」の境地があるという事のようですが。

これは、獲得性サヴァン症候群で発現する能力には、音楽、数学、記憶等々の様々なものがあるという事に対応するとも考えられます。

人為的に左半球の機能を操作することにより、「悟り」に至ることが出来るのかもしれません。


 なんと、前回出て来た「阿耨多羅三藐三菩提」も「悟り」の一種のことを指しているそうです。人為的に「悟る」ことで、変身できるのかもしれません。


ではでは

色即是空、空即是色

「色即是空、空即是色」について考えた話です。

 

 

「色即是空、空即是色」

 「色即是空、空即是色」とは、言わずと知れた『般若心経』にある(ほかにもいくつかの経にあるようですが、これが一番有名でしょう)言葉です。

仏教に興味はなくとも、この言葉は聞いたことがあるという人も多いと思います。

もっとも、一部の世代の男子には、同じ『般若心経』の中の「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の方が馴染みがあるかもしれませんが。

かく言う私もしばらくの間、法事などでお坊さんがこのくだりを唱えると、密かに心の中で「レインボーダッシュセブン!」と叫んでいました。

もちろん、お坊さんも私も、変身は出来ませんでした。
インドの山奥で修業していないからだと思います。

意味としては

 それはそれとして、「色即是空 空即是色」ですが、読み下し(という言い方でいいのかよくわかりませんが)としては「色(しき)すなわち空(くう)なり、空(くう)すなわち色(しき)なり」でしょうか。

色(しき)とは、世界を構成する物質全てを指し、空(くう)は、「空(むな)しい」という言い方があるように、実体とするべきものがないといった概念を表すとされます。

すなわち、

目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。
引用元:色即是空 - Wikipedia

 

 

という仏教の根本教理概念を表しているとされます。

そのため「般若心経」は、異なる宗派において広く用いられています。

 という事で、勿論、全く問題はないのですが、その上で少し違った見方も出来るんじゃないかというのが今回の話になります。

音読みしてみると

 ご存じのように日本には、漢字の読み方として、「音読み」と「訓読み」という二種類があります。

 「音読み」は中国での発音を基にしたもので、「訓読み」は日本の言葉(大和言葉)に漢字をあてはめたものです。

「色」と「空」を「訓読み」にすると、「色即是空、空即是色」は、「色(いろ)すなわち空(そら)なり、空(そら)すなわち色(いろ)なり」と読めます。

どうでしょう、これはこれで意味が通っているように思うのですが。

「空(そら)」と「色(いろ)」

 「空(そら)」は、野外に出ると頭の上に広がっている青いあれです。

確かにそこにあるように思いますが、現実にはこれが「空(そら)」だという実体はありません。

空に昇って、このあたりが「空(そら)」だと思って、何らかの容器の蓋を閉めます。

地上に戻って中を見ても、青い「空(そら)」は、入っていません。

さらに、「空(そら)」は、赤くもなりますし、夜になれば黒くなったりもします。

まさに、「色(いろ)すなわち空(そら)なり、空(そら)すなわち色(いろ)なり」なのです。

「色即是空、空即是色」は、仏教の根本教理概念を表しているとともにそのたとえ話にもなっているという、巧妙な一文なのではないでしょうか。


 こうなると、唐代に翻訳された元のサンスクリット語の文章がどうなっているのか興味深いところです。


ではでは

 

 

蝦夷の戦闘技術の謎

蝦夷の戦闘力について考えた話です。

 

 

平安武士と蝦夷

 「歴史探偵 平安武士と蝦夷」という番組を観ました。

大和朝廷をその戦闘力で苦しめた、東北地方の蝦夷ですが、坂上田村麻呂に敗れます。

その後大和朝廷支配下にはいりますが、その戦い方の元となる戦闘技術が東国の地で源氏、平氏などの王臣子孫に伝播した結果、武士が生まれたという内容でした。

武士の始まりに関しては、前々回に取り上げたばかりです。
結構こういった偶然が重なることがあるのが、不思議な感じがします。

 

yokositu.hatenablog.com

 

私の仮説は、軍団廃止後に取り入れられた健児が、後の武士につながるのではというものでした。

それに対して今回の番組は、源氏、平氏といった上からの武士の始まりについての話という事になります。

上からなのか、下からなのかというあたりは、一度考えて見たい話ですが、今日のポイントはそこではありません。

それは、大和朝廷を苦しめ、後に源氏、平氏に取り入れられるような戦闘技術そのものについてです。

蝦夷の戦闘技術

 その蝦夷の戦い方がどんなものかというと、騎射術だというのが番組の主張でした。

読んで字のごとく、騎馬すなわち馬に乗りながら、射すなわち弓を射る術という事になります。

イメージしやすいものとしては、流鏑馬でしょうか。

騎馬で突撃しながら弓を射るという、機動性と高い攻撃力を誇るものと言えるでしょう。

これに対して、当時の朝廷側は歩兵が主たる攻撃力でした。

これが、蝦夷が朝廷を苦しめることになり、後に源氏、平氏が習得することになった、蝦夷の戦い方です。

なぜ東北の地に

 そうであるならば、大きな疑問が生ずるのです。

それは、この時代に東北の地に騎射術が、なぜ存在するのかというものです。

そもそも、『魏志倭人伝』に「牛馬なし」とあるように、古来日本には馬はいませんでした。

その後古墳時代以降に、おそらく大陸から朝鮮半島経由で西日本に持ち込まれ、全国へと広がっていったと考えられます。

そう考えると、その伝播の最終地点ともいえる東北地方に、中央からやって来た高級貴族が持っていないような戦闘技術があるはずがないのです。

にもかかわらず、存在したのはなぜか。

どこからやって来たのか

 その戦闘技術は、騎射術ということで、流鏑馬のようなものかと書きましたが、少し異なる点があります。

それは、使用する弓が長弓の所謂和弓ではなく、短弓だという事です。

 

引用元:原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 | 考える野帖

騎馬と短弓という事で有名なのは、モンゴル軍を始めとする大陸の遊牧民でしょう。

蝦夷の戦闘技術は、大陸からもたらされたのか、または蝦夷大和朝廷に対抗するために求めたのかは分かりませんが、大陸から直接導入されたものなのではないでしょうか。

そのため、大和中央にはない技術が存在したのです。

それをもたらしたのは、当時大陸の日本海沿岸にあった国「渤海」だったと思われます。

渤海」と大和朝廷は使者を遣り取りする関係でしたし、日本海経由の航路も開拓されていたようです。

軍団が廃止された時にも、対蝦夷陸奥国出羽国と共に、佐渡島が残されたのは、この当時の日本海経由の往来が活発であったことを物語っています。

その中で、大和朝廷の対抗勢力とも関係を持っておこうという「渤海」の思惑もあったかもしれません。


 蝦夷から短弓の騎射術を導入したにも関わらず、今使われているのは長弓である和弓なんですよね。これも謎です。


ではでは

 

海の民考

海の民について考えた話です。

 

 

海の民

 「古代文明 同時崩壊のミステリー」というTV番組を観ました。

紀元前1200年ごろに東地中海周辺で大規模な社会変動が発生し、ミケーネ文明、ヒッタイトなどの幾つかの古代文明が崩壊した原因を考えるというものでした。

一般的にこの出来事は、「前1200年のカタストロフ」と呼ばれています。

その原因のポイントとして取り上げられたのが「海の民」です。

この時期に「海の民」と呼ばれる集団が、東地中海地域を荒らし回ったことが古代文明崩壊の一因だったというわけです。

謎の海の民

 ところで、この「海の民」がどこからやって来たのか、どんな集団だったのかは、実のところよくわかっていないのです。

それ以前に、実のところ当時「海の民」という呼び方もされていませんでした。

1881年にガストン・マスペロというフランスの考古学者が、この当時各地に出没した集団を「海の民」と呼んだのが始まりということです。

しかしながら、エジプトには海から船に乗って攻めて来た集団と、当時のファラオのラムセス3世が戦った記録があり、海からやってくる戦闘集団がいたことは確かなようです。

海の民の正体

 その「海の民」の正体ついては、研究により当時の該当地域の気候が乾燥していたことが分かったという事から、それにより生活基盤を失った者たちの一部が船を使った武将集団化したというのが、番組の主張でした。

つまり、「海の民」はどこかの地域からやって来た特定の集団ではなく、様々な地域から逃れて来た寄せ集めだったのです。

確かにそう考えれば、当時の記録に明確な言及の無いのも当然という事になります。

「海の民」とう名称は、かなり的を得ていたという事になりそうです。

部分的には正しいが

 確かに「海の民」によって、東地中海地域の各地が襲撃されたのは確かだと思われます。

だからと言って、それだけで多くの文明、都市が壊滅したというのはどうなんでしょうか。

本ブログでは、太陽活動と多くの歴史的事象には関係があると考えています。

「前1200年のカタストロフ」についても、古代ギリシャとの関係を考える中で取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

具体的には、次の図で分かるように、エジプト極小期と呼ばれる太陽活動の極小期で各文明の崩壊が発生したと考えています。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

つまり、単に東地中海地域の乾燥という問題ではなく、地球的な規模の気候変動により、広範囲の社会基盤が影響を受けていたのです。

その中の一部の者たちが、地中海で武装勢力として活動したのが「海の民」であり、当然陸上で活動した集団もあったはずです。

さらに、それら集団の襲撃を受けた側も、気候変動の影響を受けていたでしょう。

これらの複合的な要因により、いくつかの国、都市が滅ぶことになったのだと考えられます。

「海の民」は、その要因の一つだったのです。

統一するような中枢の無かった「海の民」は、その後の太陽活動の上昇に伴う社会システムの再生の中で、吸収されていったのでしょう。


 「海の民」は烏合の集で、残念ながらカリスマ的なリーダーはいなかったという事でしょうか。


ではでは

健児と武士

健児と武士について考えた話です。

 

 

軍団は廃止したが

 律令制と共に導入された軍事組織である軍団制ですが、桓武天皇により廃止されることになります。

その理由については、それまでの天武系の行って来た施策の否定を目的としていたのですが、その背景に律令制の導入が終わり軍団が必要なくなって来たこともあったと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

とは言っても、それまで存在していた軍事力がいきなり無くなると、その地域の情勢を不安定化させる恐れがあるのは、十分に考えられるところです。

そういったこともあったのか桓武天皇は、天武系の施策である軍団を廃止しつつも、その代わりに「健児」という軍事力を造ったのです。

軍団と健児

 軍団の代わりに導入された健児ですが、両者の最大の違いは、その対象者に在りました。

軍団に徴兵されるのは、正丁(21歳以上60歳以下の健康な成年男子)三人につき一人が自動的に挑発され、その能力等には関係が無かった。

それに対して健児は、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた20歳以上40歳以下の者を対象としていた。

さらに、このようにして選ばれた健児については、租庸調のうちの庸調が免除されていました。

つまり、土地持ちの武力を提供することを主とする人の集団が誕生したことになります。

これが、武士の起源の一部を形成していたのではないかというのが、今日の話のポイントです。

武士の起源

 私がまだ学校に通っていたころには、武士の起源については、在地領主から発生したとする説で、概ね次のようなものだったと思います。

武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。
引用元:武士 - Wikipedia

しかし現在では、この説の特に「在地領主が自衛のために武装した」というあたりについては否定的に捉えられているようである。

吉野ヶ里遺跡を見ても分かるように、そもそも古代からの損は自衛のための武装をしているものなので、こ時代の在地領主だけが突然武装したわけでは無いのです。

つまり、源氏、平氏のような上部構造は問題ないとしても、それを支える在地の専門職としての武士の起源がよくわからないという事になります。

健児が起源だったのでは

 この在地の武士の起源として、健児が当てはまるのではないかというのが、今回の仮説です。

上にも書いたように健児は、「土地持ちの弓馬に秀でた武力を提供することを主とする人の集団」でした。

これは、そのまま武士と呼んでも、それほど違和感はありません。

しかも、庸調が免除されていいたわけですから、子弟に継承させようとするインセンティブも働いていたことになります。

これらが組織されたものが、在地の武士団だったのではないでしょうか。


在地の武士は、その起源からして自らの土地を守る「一所懸命」を、その根底に持っていたという事になります。


ではでは