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『日本書紀』が編纂された目的 その6

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その6です

 

 

今回も続きます

 前回に引き続き、タイトルに有る「編纂された目的」には直接関係は無いのですが、関連することを調べているうちに、思いついたことについてです。

さすがに、タイトルの付け方を間違えたかなと思っているのですが、
一応今回で打ち止めの予定ですので、お付き合いを。

という訳で、今回は『日本書紀』に見られる特徴の一つである、「一書」について考えてみたいと思います。

「一書曰」、「一書伝」

 『日本書紀』には、少なくない部分で、本文の後に「一書曰」または「一書伝」という書き出しで、こんな話も伝わっていますという形になっているところが見られます。

史書の中に、異説が併記されているという、あまり見られないものになっている訳です。

当然、当時の中国の歴史書にも見られません。

加えて、その理由について記した資料も無く、なぜこういった形式になっているのかについては、諸説が有るところとなっています。

『三国史』を参考に?

 例えば、古くは、鎌倉時代の『釈日本紀』に、『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けたのを参考にした、との説が見られるようです。

これなどは、仮にも一国の歴史書を作るに際して、最初から注釈入りで作るというのはどうなの、という感じなんですが。
この辺りも、私が、『日本書紀』が外国向けに作られたものでは無いと考える理由の一つなんですが。

そもそも、裴松之の注釈も、最初から『三国志』に有った訳では無く、それを参考にしてというのは、いささか無理が有るのではないでしょうか。

ではどう考えるか

 ではどう考えるかという事ですが、私の仮説は、「そこまで深く考えていない、または、考える暇がなかった」、というものです。

その4の記事で、『日本書紀』に関しては、天武天皇が纏めさせた「帝紀」と「上古の諸事」に、天武、持統両天皇の分を追加して作ったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

作らせたのは、藤原不比等であり、老齢の域に達した彼が、藤原家の将来を見据えての事だったとしたわけです。

そうすると、編纂を任された人々にとっては、許された作成期間が短かった事が考えられます。

従って、すでに存在する部分に関しては、纏め直すというよりは、そのまま使ったという事だったのではないでしょうか。

資料のまとめ方

 『日本書紀』の欽明天皇の記述に、『帝王本紀』を編纂するにあたり、「古くて真偽のわからないものについては一つを選んで記し、それ以外も記せ」という旨の内容が記されています。

この方針が、官僚制度の中で、その後も踏襲されていたということはあり得る話です。

つまり、天武天皇時代の『日本書紀』の基となった資料も、同様の形でまとめられていた事は十分に考えられるところです。

その結果が、「一書曰」や「一書伝」という記述だったのではないでしょうか。

そして、限られた時間制限の中で、そのままの形で纏めたために、歴史書としては異例の形式になったのです。

こう考えることで、その後の「正史」では、こういった形式が取られなくなったというのも理解出来ることになります。
編纂の時点から見て、それ程古い時期の事を扱っている訳では無いですからね。

 

という訳で、「一書」に関しては、それ程深い意味はなく、原資料を纏めた人々も、何が正解なのか分かっていなかったという事なのではないかという話でした。

 


 最初に書いたように、今のところ、他に思いついた話はないので、『日本書紀』に関してはこれにて打ち止め、の予定です。

 


ではでは