『続日本紀』について考えた話その2です
『続日本紀』の後半部分
前回の記事に続き、『続日本紀』の後半部分の編纂についてとなります。
後半部は、Wikipediaによると、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。
ただし、調べた限りでは、桓武天皇の命というのが、何を根拠にしているのかは分かりませんでした。
それについては、一旦置いておいて、先ずは編纂の理由について見てみたいと思います。
後半の編纂理由
光仁天皇までの記録を編纂しようとしたわけですから、その次の代の桓武天皇の正当性を主張する必要性が有ったという事になります。
桓武天皇は、先代の光仁天皇の長男ではあったが、母が皇族の出身では無かったために、皇太子になることは無いと考えられていたようです。
しかし、皇族の皇后を母に持つ皇太子の他戸親王が、その母と共に相次いで廃され、後の桓武天皇が皇太子になるという事が起きました。
尚、他戸親王とその母親は、同日に同じ幽閉先という、いかにもな状況で亡くなっていたりします。
この一連の出来事の背景には、藤原百川の影響が有ったと考えられています。
さらに、桓武天皇は百川の兄・藤原良継の娘を皇后に、百川の娘を夫人にそれぞれしています。
百川と良継なのか
こうなると、百川か良継が、権力の継続を計って、編纂に関係したに違いないと考えたくなります。
しかしながら、現実には、両名とも桓武天皇の即位前に亡くなっており、編纂に関わることはあり得ないことになります。
百川の長男は、桓武天皇即位時にわずか7歳であり、常識的に関係したとは思われません。
更に良継には、有力な息子はいませんでした。
結局、百川、良継の二人が亡くなり、藤原家の後ろ盾を失った形の桓武天皇が、自らの立場を強化するために、編纂をさせたという事なのかもしれません。
前後半が揃ったが
その際に、前半部分は、その1で触れた、未完になっていた藤原仲麻呂によって編纂されたものを使ったと考えられます。
これで前後半が揃って『続日本紀』が出来た、と言いたいところですが、そうは問屋が卸しません。
その1の最初にも書きましたが、『続日本紀』は、文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものです。
そうなのです、桓武天皇についての記録も含まれているのです。
加えて、『続日本紀』が完成したのは、797年で、桓武天皇の在位は、781年 - 806年になります。
ということは、『続日本紀』は、桓武天皇の在位中に、その桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂されたという事になります。
これはどう考えれば良いでしょうか。
因みに、次の正史である『日本後紀』は、律儀にといって良いのか、桓武天皇の残りの治世の記録から始まっています。
次回は、この桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂された理由について考えてみます。
ではでは