横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

犬の始まり

犬の始まりについて考えた話です。

 

 

犬の祖先はオオカミ

 我々人類の良き友の犬ですが、どのように進化してきたのでしょうか。

犬の(話としては猫も含まれていますが)始まりに関しては、以前に記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

地球外生命体によって作られたものでは無いかという、中二病的与太話だったのですが。

地球外生命体が関与した証拠は残念ながら見つかっていませんが、遺伝子の研究から、犬の祖先はオオカミである事が分かっています。

現在までのところ、すべてのイヌは、約1万5千年前あるいはそれ以前に、東アジアに生息するオオカミから家畜化されたものを祖先とし、これが人の移動に伴って世界各地に広がったものと考えられています。

具体的な証拠としては、約1万2千年前とされるイスラエルのアイン・マラッハ遺跡の墓から発見されたものが最も初期の考古学的な証拠と考えられている様です。

老女と生後4~5か月の子犬が一緒に埋葬されていて、この時期までにすでに家畜化が進んでいた事を伺わせます。

 

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右上の子犬の骨に、左手が伸びています。

 

オオカミから近づいた?

 しかしオオカミと言うと、「一匹狼」という言葉が有るように、孤高の存在というイメージが有ります(実際には、家族を中心とした群れで行動しているようですが)。

そんなイメージも有るオオカミが、どのようにして手なずけられて犬になったのでしょうか。

その仮説の一つとして、腐肉をあさるオオカミが、人間の食べ残しに引きつけられたことから、人間と共存するように適応したというものが有ります。

狼の群れが人間の残飯をあさるために狩猟採集民の集落の外れに移動したことで、犬の家畜化が始まったというのです。

その中でも、比較的従順でおとなしい個体が馴れていったのだろうと考える訳です。

歴史上そのようなことがあって、確かに馴らされることになったオオカミもいたかもしれません。

しかしながら、そのようなことが、現在の犬の基を形作るほどの規模で発生したとは考えられないと思うのです。

ではどんな理由が考えられるでしょうか。

子供は可愛い

 先日、最近ありがちなネット上の動画を紹介する形式の番組で、動物の子供を特集したものを見て、仮説を思いつきました。

単純にオオカミの子供が可愛いかったからではないかというものです。

当時の人類は、狩猟採集生活をしていたので、オオカミと遭遇することも少なくなかったと思われます。

そんな中で、母親のオオカミを殺してしまう事もそれなりの頻度で発生したはずです。

その結果取り残されることになったオオカミの子供を見つけた時に、その可愛さから、思わず連れて帰ったという事も有ったと思うのです。

ここで幸運なことに、オオカミが群れで行動するという点も、人間と共に生きるのに有利だったのでしょう。

そして、成長したオオカミの中には、狩猟を手伝う事が出来るようなものも出て来たはずです。

そういった例を見て、他にもオオカミを飼ってみようと思う者が出て来ても、おかしくは無いでしょう。

このようにして、オオカミの飼育が広まり、犬が生まれる事になったのです。


やはり、子供の可愛さは正義なのです。


ではでは

 

朝貢について

朝貢について考えた話です。

 

 

奇妙なシステム

 このブログのメインコンテンツだと思っている邪馬台国ですが、ご存知のようにその存在は中国の『魏志倭人伝』の記述に拠っています。

その『魏志倭人伝』は、邪馬台国が魏に朝貢をした事が基になっています。

ところで、朝貢というのは、改めて考えて見ると奇妙なシステムなのです。

中国という大国に対して、敵対するのではなく、使節を送り統治権を認めてもらい(冊封を受ける)、その時に貢物を献上するというのは分かります。

邪馬台国が魏に朝貢したときにも、「男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈」を献上しています。

それに対して、魏皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印を授け、統治権を認めます。

ここまでは、弱いものが強いものに貢物をすることにより、代わりにその力による庇護を受ける(名目上かもしれませんが)という、ありがちな話です。

ところが、朝貢にはこの先が有ります。

魏皇帝からは、先の称号と金印に加えて、かの有名な「銅鏡百枚」を始めとして、「絳地縐粟罽10張、蒨絳50匹、紺青50匹、紺地句文錦3匹、細班華罽5張、白絹50匹、金8両、五尺刀2口、真珠と鉛丹各50斤」という膨大な量の物を見返りとして与えているのです。

これでは立場があべこべでは無いでしょうか。

周辺国との関係

 この点については、普通中華思想の立場から、次のように説明されています。

周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。


引用元:朝貢 - Wikipedia

 

一見もっともらしく聞こえますが、よろしくお願いしますと言ってやって来ているものに、引用にもある様に経済的に不利な対応をするのが、いかにも不自然ではないでしょうか。

ここで、中国から見て、朝貢に来る夷狄がどういった存在であったか考えて見たいと思います。

歴史上中国を最初に統一した皇帝とされている始皇帝は、統一後に度量衡や文字の統一といった様々な事業を行いましたが、その中の一つに万里の長城の建設というものもあります。

つまりこのころから、周辺の諸国は、決して「中国の徳を慕って」朝貢して来るような力関係ではなく、むしろ長城を作って防がなければならないような対象だったという事です。

これ以降も、長城は強化されることは有っても無くなる事は無かった事を見ても、その関係に変化はなかったと考えられます。

手段が目的化した

 こういった点から、戦うよりも朝貢のようなシステムの方が、コストがかからずに中国にとっても有利なものだったという考え方も有ります。

しかし、事の始まりはもっと生々しく、中国側から強力な周辺の国に対して、金品を出す代わりに攻撃を猶予してもらったという事だったのでは無いかと思うのです。

下世話な言い方をすれば、なにがしかのお金を払ってお引き取り願ったのです。

その上で、中華思想の自尊心を満足させるために、朝貢というシステムにして糊塗したという事では無いでしょうか。

その後、世の中に良くありがちな「手段の目的化」というやつで、朝貢というシステムが「王朝の徳」を示すためのものとして残ったのです。

そして邪馬台国朝貢することになりました。


 朝貢というシステムのおかげで、我々は邪馬台国を知ることが出来ているわけで、面白いものです。


ではでは

『吾妻鏡』における源氏三代

吾妻鏡』における源氏三代の扱いについて考えた話です

 

 

「鎌倉殿の13人」には「元寇」は出てこない

前回までの2回の記事で、「元寇」とその後の状況と『吾妻鏡』編纂の関係を考えて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところで、今年の大河ドラマの「鎌倉殿の13人」は、第2代執権の北条義時が主人公で、鎌倉幕府の最初の頃の話になっています。

元寇」とその後は出てこないようです。

それに合わせて、「鎌倉殿の13人」の頃の話が『吾妻鏡』でどう扱われているかを考えて見ようと思います。

傀儡の将軍と北条氏の実権

 前回までの記事では、『吾妻鏡』を、「元寇」以降に御家人の間に生じた不満に対して、北条氏の権力の正当性を示すために作られたと考えたわけです。

3代源実朝までで頼朝の血筋が絶えた後は、京都から将軍を迎え傀儡化し、実権を北条氏が握ったために、幕府の歴史イコール北条氏の権力のありかを示すことになったという事でした。

こうなると、頼朝の血筋が絶えて北条氏が実権を握ったも経緯も、正当化する必要が出て来ます。


源氏三代の扱い

 『吾妻鏡』で源氏三代がどう扱われているか見て見ましょう。

まず、鎌倉幕府を開いた初代源頼朝は、当然それなりの人物として描かれます。

次に、その頼朝が急死した後を継ぐことになった長男の二代頼家は、遊興特に蹴鞠にふける暗君として描かれます。

その挙句、側近と北条氏討伐の謀議をしたのが、母政子に盗み聴かれて露見し、自らの長男と側近を北条氏に討たれた上に、修善寺に幽閉されてしまいます。

最後は、その翌年に死んだ連絡がもたらされたと『吾妻鏡』には記されているのみですが、『愚管抄』には北条氏の手兵により殺されたと書かれているようです。

頼家の弟の三代実朝は、歌の話が多く文人肌の人物として描かれています。

その一方で、朝廷による官位の昇進の話が多くあります。
朝廷との関係を心配して諫言するものもいたが、取り合わないといった話も出て来ます。

最後は、昇進を祝うために行った鶴岡八幡宮で、頼家の次男により暗殺されてしまいます。

こうして見ると、頼朝の血筋は、滅ぶべくして滅んだと言わんばかりの書き方になっています。

その後の北条氏

その後、朝廷から将軍を招くことになるのですが、将軍としてやって来たのは僅か2歳の子どもでした。

そのため、政子が後見となり(尼将軍)、執権の北条氏が実権を握ることになります。

更に、後に後鳥羽上皇が挙兵をして幕府と対立します(承久の変)。

これに対して、執権北条氏を中心として京に進軍して勝利し、上皇隠岐に流すという、前代未聞の形で収めました。

こうして、北条氏の実権はゆるぎないものになることになります。

見知ったパターン

 以上の話は、このブログでも何度も出て来た、習い知ったあのパターンそのものですよね。

当代の権力者の正当性を示すために、前代のひどさを強調した上で、その後を継いだものの徳を際立たせるというあれです。

従って、頼家、実朝の事績に関しては多分に、ミスリードしている部分が有ると考えるべきなのでしょう。

結局『吾妻鏡』は、北条氏のための歴史書だという事です。


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、頼家、実朝をどういう人物として扱っているのか、見て見るのも面白いかもしれません。


ではでは

『吾妻鏡』と「元寇」

吾妻鏡』と「元寇」について考えた話の補足です。

 

 

前回の記事

 前回の記事で『吾妻鏡』は、「元寇」後の生じた御家人たちの不満に対応する形で、北条貞時による執権政治の正当性を示すために作られたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

実はそうだとすると、少しばかり問題となる点が有るのです。

今回の話では、その問題点について考えて見ます。

問題点とは

 『吾妻鏡』は1300年頃に作られたのですから、昔受験勉強で滅亡時期を「一味散々1333年」と覚えたように幕府は存続していたわけで、当然途中までの歴史がまとめられたものという事になります。

具体的には、初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という形をとっています。

因みに、鎌倉幕府の将軍は、9代まで存在しています。

第6代将軍・宗尊親王の在位期間は、1252年 - 1266年でした。

一方、一度目の「元寇文永の役は1274年に起きています。

そうなのです、「元寇」は『吾妻鏡』の時代より後に起こったことなのです。

息子が執権の時にまとめられたのにも関わらず、未曽有の事件である「元寇」と、それを撃退した父親でもある先代執権の北条時宗について、全く触れられていないのです。

これは例えるならば、終戦後に昭和の歴史をまとめる時に、「太平洋戦争」について取り上げないようなものです。

なぜ「元寇」は取り上げられていないのでしょう。

元寇」後の状況

 これについても、「元寇」後の執権を取り巻く状況が関係していると考えられます。

前回の記事にも書いたように、「元寇」後には、

元寇」に対する対策のために、必然的に幕府に権力が集中することになり、結果的に北条の力が強くなった。

元寇」が、専ら防衛戦であったために、勝利はしたものの戦利品は無く、参戦した御家人達に対する恩賞が不十分であった。

というようなことが有り、御家人の間に不満が高まっていたのでした。

この中で、恩賞という実利的な面への不満に関しては、口先だけではなく実利によって解消することが最低限必要なことは容易に想像できます。

つまり、「元寇」についてどのようにまとめても、この実利の部分が解決されない限り、不満を解消するどころか、下手をすると火に油を注ぐ事になりかねないと考えられます。

従って、「元寇」とそれに関する北条時宗の活躍については、外さざるを得なかったという事だったのだと思います。

将軍は傀儡だった

 それに対して、権力に関する点はどうでしょう。

鎌倉幕府は、ご存知のように源頼朝により開かれました。

がその後、3代源実朝までで頼朝の血筋(源氏将軍)が絶えると、その後は京都から将軍を迎えることになりました。

その結果、将軍は名目上の存在となり、実権を北条家が握ることになったのです。

その為、6代将軍までの事績は、実質的に北条の事績を示すことになり、結果的に権力の在り方を示すものになるのです。

元寇」について記述出来ない以上、これをもって執権の正当性を示す外はなかったという事なのだと思います。


 『吾妻鏡』については、未完のままで編纂が中断したという説が有力の様で、やはり「元寇」を入れないのは、いくら何でも無理が有ったという事なのかもしれません。


ではでは

『吾妻鏡』はなぜ作られたのか

吾妻鏡』が作られた目的について考えた話です。

 

 

今年の大河の影響で

 今年の大河ドラマ鎌倉時代を扱ったものという事で、鎌倉時代についての情報が増えてきたように思います。

その中で当然のように触れられるのが『吾妻鏡』という事になります。

吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績についてまとめられた歴史書です。

誰が、何時作ったのかについては、残念ながら正確な事は分かっていません。

今のところ、概ね1300年頃に、鎌倉幕府の中枢で作られたと考えられているようです。

幕府の中枢で作られたという事で、『六国史』のような正史では無いものの、それに準ずるものと考えて、その作成の目的を考えて見ようという趣向です。

正史は権力者によって作られた

 以上のような『吾妻鏡』ですが、勿論、後世の歴史学者や学生のために作ったのではないことは明らかです。

本ブログでは、「日本における正史は、その時々に自らの正当性を示したい権力者によって作成されて来た」という見方をしてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

吾妻鏡』の場合はどうでしょうか。

いっその事、次の室町幕府の時代に足利尊氏が命じて作らせたという事であれば、まだ分かり易かったかもしれません。

尊氏が、自らの正当性を示すために作らせたと考えれば良いですからね。

鎌倉幕府と言えば、権力を掌握していたのは歴代の執権を務めた北条一族という事になります。

1300年の時点で執権の地位にあったのは、北条貞時でした。

彼には、正当性を示す理由が有ったのでしょうか。

貞時の父は

 北条貞時の父は、これも執権を務めた北条時宗です。

時宗は、鎌倉時代最大の事件に関わった事で有名です。

その事件とは、あの「元寇」です。

ご存知のように「元寇」は、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の2度に渡って行われた、中国の同時の元王朝による日本への侵攻です。

時宗は、「元寇」を撃退した3年後の1984年に、まるで「元寇」に対処する為に生まれて来たかのように、32歳の若さで亡くなってしまいます。

その後を継いだのが、息子の北条貞時なのです。

しかも、弱冠12歳という若さでした。

若さだけではない理由

 それでは、その若さに対する懸念に対するのが理由かと言うと、それも有ったかもしれませんが、それ以外にも理由があったと考えられます。

元寇」後には、

元寇」に対する対策のために、必然的に幕府に権力が集中することになり、結果的に北条の力が強くなった。

元寇」が、専ら防衛戦であったために、勝利はしたものの戦利品は無く、参戦した御家人達に対する恩賞が不十分であった。

というようなことが有り、御家人の間に不満が高まっていたのです。

これらの状況を受けて、貞時自身または、彼を支える周辺の人たちが、北条による執権体制の正当性を示すために、作ったのというのが答えではないでしょうか。


それにしても、北条時宗の人生は興味深いですよね。


ではでは

グルメについて

グルメについて考えた話です

 

 

マツコさんの番組

 テレビの番組で、定番の一つにグルメ関連番組と分類出来るものが有ります。

年が明けてからも多くの番組が放送されていました。

その中で、マツコ・デラックスさんがMCの番組でも、そんな内容のものが放送されていました。

その番組の特徴は、様々な分野について、知識豊富というか取りつかれたと言っても良い人が出て来て、熱く語るという所に有ります。

私が見たのは、その正月スペシャルの様で、おはぎ、蕎麦、ドライカレー、アイス等のマニアが登場して、どこそこのお店のものが上手いといった話を熱く語るという内容でした(一応食べ物でないものも有りました)。

それぞれに興味深い話だった

 それぞれに興味深い話でした。

おはぎでは、グラマラスボディの美人が説明するのですが、なんと、おはぎ丸々一個を一口で食べてしまいます。
その食べっぷりといい、均整の取れた体型といい、これぞ健康美といった感じでした(おはぎについてはよく覚えていません。)

また、余った食材をドライカレーにして冷凍しておけば、食品ロスが減るのではという話は、個人でも使えそうなテクニックでした。

そんな中で最も興味深かったのは蕎麦の話でした。

蕎麦の話をした方は、以前に同番組に出たことが有ったようで、その時に、彼が神と呼んでいる蕎麦職人を紹介したようです。

それに対して、マツコさんが言うには、その時に食べたのが美味しすぎて、それからしばらく他の蕎麦が食べられなくなったというのです。

高いステーキと安いステーキ

 これを聞いて、ある話を思いだしました。

ステーキの高いものと安いものを食べれば、その間のものが判断できるようになるというものです。

映画評論家の淀川長治さんが言っていた話だそうですが、その真意は、自分なりの判断基準を持ちなさいという事のようです。

勿論淀川さんは、物事一般に対する心構えとして話したのでしょうけど、食べ物を例にすると無理があるのではないでしょうか。

ひねくれものの私は、この話を聞いた時に、「それで幸せか?」と思ったのです。

だってですよ、それではステーキを食べた時に、いつもどの程度ものか判断しながら食べる訳で、最高のものと同程度以上のものばかり食べればいいですけれども、そうはいかないでしょうから、そのたびにそれほどでもないなという気持ちになりそうじゃないですか。

余りいい思い出が増えそうもないですよね。

比較はやめた方が

 これ、くだんの神蕎麦を食べた後のマツコさんも同じですよね。

その蕎麦と比べるから、ほかの蕎麦が食べられなくなってしまった訳です。

別に、美味しいものを食べちゃいけないと言っているわけでは無いので念の為。

勿論食べて良いのですが、比較をするのはやめておいた方がいいのではと思うのです。

毎回食べる時に、その時のものを美味しいと思えばそれでいいのでは無いでしょうか。

比較をして、それを食べなきゃと思えば、遠くから取り寄せたりしなきゃいけなかったりと、何かと無理をしなければならないことも多くなるでしょうし、最近はやりのSDGsから見てもどうかという事になりそうです。

結局、毎回しっかりおなかを空かしてから、おいしく食べるのが一番なのだと思います。


以上、色々食べまくっている人がチョット羨ましいので、屁理屈をこねてみた話でした。


さよならさよなら

年の初めに

年の初めに考えたことです

 

 

読書三昧の筈が

 昨年末の記事で書いたように、今年の正月は、ネット断ちで読書三昧という計画でした。

読むのはもちろん、懐かしの「レンズマンシリーズ」と「スカイラークシリーズ」です。

 

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計画通り読み始めました。

ところが予想外だったのは、これらのシリーズを最初に読んだ時のように、一日中読むという事がもう出来なかったのです。

物語自体は、最初に読んだ時と同じように面白いと思って、入り込むことも出来たのですが、それが続かないのです。

最初に読んだ頃は、それこそ寝食を忘れて読み耽ったものでした。

それが今となっては、精神的にも肉体的にも、長時間の読書に耐えられなくなてしまったようです。

こういう時にぴったりな言い方は、「年は取りたくない」でしょうか。

ネット断ちは計画通り

 ネット断ちは計画通りに、正月3が日はほぼ使いませんでした。

これが想像以上に大変でした。

ネットを使わないと、なんと一日が長いことか。

上にも書いたように、一日中本を読むという事は出来なかったのですが、その結果空いた時間が、なかなか過ぎていかないのです。

ならばという事で、英語、囲碁、将棋をやろうと思っても、気が付くと最近はいずれも、ネット上で提供されるものに依存して学ぶなり遊ぶなりしているので、あまり出来る事も無い。

ブログの記事のネタでも考えるかとも思ったのですが、これも最近はネット上で情報を検索しながら考えを纏めるというのが常なので、どうもうまくないのです。

それに加えて、正月のテレビはあまり面白くないですしね。
さらに、考えて見ると、テレビを見ながらその内容で気になったことは、すぐにネットで調べたりもしてますし。

ネット依存によって

 いやー、これ程私の日常がネットに依存しているとは。

日常的に、色々と考えているようで、その実その内容のほとんどはネットで調べた事や桂冠した事で、あまり頭を使っていない気がしてきました。

だからと言って、3が日だけならまだしも、今となっては全てやめる事は出来ないでしょう。

ではどうするのかというのは、今のところこれと言ってアイデアも無いのですが、今年はこの辺りも考えて見ようかなと思いました。

という訳で、今年の抱負は

「もっと考えよう。そのためにネットをどう使うかも考える。」

という事にしたいと思います(無理矢理まとめた感満載ですが)。

そう言えば、考え抜くことが悟りに繋がるかもしれないという話も有りましたしね。

 

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レンズマンシリーズ」お勧めです

 ところで、話の始まりの読書三昧ですが、これまでのところ「レンズマンシリーズ」は道半ばまでも至らず、「スカイラークシリーズ」に至っては全く手つかずという状況です。

もうしばらく楽しめそうです。

読んでいる途中ではありますが、「レンズマンシリーズ」はやはり面白いです。

書き始められたのが1930年代という事で、内容的には古い部分ももちろんありますが、映画の「スターウォーズシリーズ」を、親子の相克といった人間ドラマではなく、宇宙冒険活劇として面白いと思う人にはお勧めです。

と思って絶版になっていないか調べてみたら、出版社も同じように考えたのかどうかは分かりませんが、現行版の表紙は明らかにスターウォーズ風のものになっていました。

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画像元:銀河パトロール隊 - E・E・スミス/小隅黎 訳|東京創元社

これ、明らかにボバ・フェットに寄せていますよね。


 ところで1930年代という事は、「レンズマンシリーズ」は太平洋戦争より前に書かれた作品なんですよね。
色々考えさせられます。


ではでは

正月は読書三昧

今度の正月は読書三昧という話です。

 

 

正月はネット絶ちで読書三昧

 早くも今年も年末となってしまいました。

今度の正月は、オミクロン株の影響で、どうもあまり人に会う事は出来そうもない状況になって来ました。

そこで今回は、最近中毒気味になってきている気もするネットを、正月の間は絶って見ようかなと考えています。

その代わりという訳でもないのですが、どっぷりと読書をしてみようかなという訳です。

何を読もうか

 さて何を読もうかなという事ですが。

以前、私がSF読みになるきっかけとなった、金星シリーズ、火星シリーズについて書きました。

 

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公開した日付を見たら、「ジャケ買いした本」の方は、去年の4月でした。

元々が、コロナ禍の外出規制で空いた時間を部屋掃除に当てたことで、押入れの奥から探し当てたのが始まりだったのでした。
まだまだコロナは収まりそうも有りません。
いい加減どうにかなりませんかね。

コロナはそれぐらいにして、実はその時に他にも出て来た本がかなりあったのです。

その中から、今度の正月では、E.E.スミスの「レンズマンシリーズ」、「スカイラークシリーズ」を読んでみようかなと思っています。

レンズマンシリーズ」と「スカイラークシリーズ」

 両シリーズは、「金星シリーズ」、「火星シリーズ」でどっぷりとSFにはまった若き私が、次に何を読もうかと物色した結果手を出したものです。

「金星シリーズ」「火星シリーズ」は、いずれもその名の示すように、金星と火星をそれぞれ舞台とした話です。

それに対して、「レンズマンシリーズ」、「スカイラークシリーズ」は、いずれも軽やかに太陽系を飛び出し、銀河系を、さらには銀河系をも飛びだして話が展開します。

レンズマンシリーズ」では、レンズマンと呼ばれる選び抜かれた隊員を中心とした銀河パトロール隊が、宇宙海賊と戦います。
 

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引用元:第895回「レンズマン1 銀河パトロール隊」(スペースオペラ) | 新稀少堂日記

「スカイラークシリーズ」は、ひょんなこと(部屋のストーブが、窓から高速で飛びび去ります)から新たなエネルギー源を手に入れた主人公が、宇宙狭しと飛び回ります。
 

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引用元:『宇宙のスカイラーク』(スカイラークシリーズ1) | 愚者の惰眠

何れも、分かり易い冒険活劇、いわゆるスペースオペラです。

金星と火星で面白がっていた私は、すっかりそのスケールに度肝を抜かれてしまいました。

レンズマンシリーズ」には、悠久の昔から世界の背後で、二つの勢力アリシアとエッドールが対立している、という中二病垂涎の設定もあります。

当時の私は、今でいうところの完全な沼ハマ状態になりました。

いい歳をした今の私が読んで、どういった感想を持つのかといったところも、興味が有るところだったりします。


 アリシアとエッドールという二つの単語については、ここ何十年かの間書いたり話したりすることはおろか、考えたことも無かったのですが、今回すんなりと思い出すことが出来ました。
つくづく人間の記憶というのは不思議ですよね。


それではどちら様も、コロナにはくれぐれもお気を付け下さい。
良いお年を。

本屋に行かなくなった

本屋について考えた話です

 

 

本屋よりネット

 仕事をしている頃は、通勤経路の大手の書店に帰宅途中に寄るというのが、本を入手する主な手段でした。

ところが、リタイアすると、交通機関に乗ってまで本を買いには行かないので、用事のついでに寄ることになりがちです。

その用事も、そうそうある訳でもなく、畢竟大きな書店からは足が遠のいてしまいました。

一方では、いわゆる町の本屋さんも、どんどん減っているという現実があります。

私の周辺でも、自転車で行ける範囲で考えても、覚えている限りで書店6軒と古本屋1軒がなくなっていたりします。

という訳で、書籍に関しては、どうしてもネット書店で注文するという事になってしまっています。

ネット書店の不満点

 ネット書店は、店頭に無ければ注文するしかない実店舗と違って、絶版になっていない限りかなりの確率で入手可能ですし、電子書籍、古本まで範囲を広げればほぼほぼ欲しいと思ったものは入手が可能です。

注文すれば、電子書籍はその場で、書籍形態のものも早ければ翌日、遅くても数日程で入手出来、便利な事この上ないです。

おかげで、仕事をしている頃よりも、時間が有り余っているという事も有って、読書量は増えています。

そんな便利なネット書店なのですが、以前から不満に思っていることが有ります。

それは、書籍の表示形態が表表紙のみで、背表紙の表示がない点です。

表表紙ばかりでは疲れる

 確かに、欲しい本が有って探している時には、表表紙が表示されれば事は足ります。

しかしいつもほしい本が有る訳ではなく、何か面白そうなものはないかなという事も少なからずある訳です。

同じ事は、実店舗でもあるのですが、そんな時には棚にずらっと並んだ背表紙を眺めて探したりしますよね。

好みのジャンルでは、背表紙をざっと眺めるだけで、新刊や面白そうなのが目に飛び込んでくるのを経験した人も多いと思います。

あまりそれまで興味のなかった分野でも、妙に気になる背表紙が見つかったこともあると思います。

それに対してネット書店では、画面上に表示されるいくつかの表表紙をスクロールしながらチェックしていくことになります。

これがなかなか疲れるのです。

表表紙という情報量の多いものを処理するのが原因かもしれません。

メタバースならば

 そういう訳で、以前からネット書店も背表紙での表示をしてくれないかなと思っていたのですが、残念ながらそういう気配はありません。

背表紙の画像データも作るというのが面倒なのでしょうか。

そんな中で、最近期待しているのがメタバースです。

ゲームのキャラクターのようなものになって、仮想空間で様々な事を行おうというものです。

同じような考え方は以前からありましたが、VR技術などの進歩により、よりリアルに近い形で行えるようになったという事のようです。

一部の百貨店などが仮想空間内の店舗を作るなどし始めています。

書店という形態が、このメタバース内の店舗に非常に親和性が高いのでは無いかと思うのです。

ネットへの親和性が高い事は言うまでも無いでしょう。

あとは、上にも書いたように、実店舗でなんとなく本を探す時の感じを再現できればいいわけです。

これは、メタバース向きと言っていいのではないでしょうか。

メタバース内の店舗に入ると、実店舗と同じように本が並んでいるのです。
勿論、背表紙が並んでいるだけではなく、平積みも有ります。

それを、実店舗と同じ様に見て回る形でもいいですし、背表紙の列の方が目の前を流れて行っても良いわけです。

もちろん、手に取って開くことも出来ます。

なかなかいいと思うのですが。


 ところで、書籍を購入したら、その電子版も付いてくるという形にはなりませんかね。


ではでは

冬のシャワーは寒い

冬のシャワーについての話です

 

 

ついついシャワーで

 湯船に浸かる形で風呂に入ることが、様々な面で健康にも良いと言われています。

健康云々は別にしても、湯船に浸かってボーッとするのは、本当に至福のひと時ですよね。

そうはいっても、ついつい準備とか後片づけなどのもろもろが億劫で、シャワーで済ましてしまう事が多くなってきました。

それでも、さすがに11月に入ったあたりから、風呂場から出た時に寒さを感じるようになってきます。

シャワーを浴びている時は、結構体も温まったと感じるのですが、やはり表面的なだけなのか、外に出た時の冷え具合が、湯船に入った時とは全然違うのです。

かといって面倒は面倒なので、やっぱりシャワーで済ましてしまいがちです。

しょうがないので、寒さに耐えながら、速攻で着るものは着て、こたつに滑り込むむという事をここ何年かしてきたのです。

まあ、脱衣場を暖房しろよという話ではあるのですが。

熱中症の逆?

 ところが、今年になって、チョットした方法を思いついて、個人的には解決をしそうなのです。

シャワーでは湯船を使った時よりも、出た後に寒くなりがちなのは、やはり上に書いたように、シャワーによる温まり方が表面的なものだからという理由だと考えられます。

良く使われる言い方をすると、体の芯まで温まっていないという感じでしょうか。

体の内部まで熱が届いていないという訳です。

ある日に、これが良く聞いたことのある話の反対だと思いつきました。

反対にすると、「体の内部の熱が取れない」という事になります。

これは、毎年夏になると問題になる、「熱中症」の原因を説明される時に使われる文言では無いですか。

熱中症の対処法から考える

 さて、「熱中症」になった時には、勿論、体を冷やして、体内の熱を逃がしてやることが重要になります。

そのため、氷嚢を使ったり、扇風機で風を当てたりの対応法が良く説明されます。
 
そして氷嚢などを使う時には、特に首の付け根の両脇、脇の下、大腿の付け根の前面を冷やすよう教えられます。

これらの部位の皮膚直下に太い血管が通っており、そこを流れる血液を冷やすと、その血液が全身を巡り、結果熱が取れるという形になります。

勘のいい方はもうお分かりでしょうが、この三か所を温めれば、効率良く体内に熱を送り込むことが出来、芯から温めることが出来るのではないかというのが、アイデアの肝となります。

方法は簡単

 実際の方法は至って簡単です。

先ず、いつも通りにシャワーを使います。

最後に、シャワーの温度を少し上げ、首、わきの下、足の付け根の三か所にしばらくの間あてるだけです。

結論としては、これがなかなかいい感じなのです。

終わって浴室から出ても、寒いという感じはなく、何なら湯船に浸かった時と同程度の感じなのです。

年が明けて、本格的な冬将軍が来た時にどうなるのか、チョット楽しみなこの頃です。


まあ、億劫がらずに湯船を使えよっていう話なんですけどね。


ではでは

 

GIGAスクール構想

GIGAスクール構想についての話です

 

 

GIGAスクール構想

 前回の話は、寺子屋と今の学校のそれぞれの教育が、能動的と受動的という正反対なもので、個人的には寺子屋に行きたかったという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

記事を書くにあたって現状の学校の事を少し調べたのですが、その時に「GIGAスクール構想」というのを知りました。

文部科学省が出しているリーフレットによると、「GIGAスクール構想」は

・1人1台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育ICT環境を実現する
・これまでの我が国の教育実践と最先端のICTのベストミックスを図ることにより、教師・児童生徒の力を最大限に引き出す

という事になっています。

ざっくり言うと、生徒一人に一台コンピューターを配って、授業をやりましょうという事のようです。

そう言われてみれば、最近ちょくちょく学習者用コンピューターみたいなものの話を見たり聞いたりすることがあったのですが、この構想に対応したものだったようです。

寺子屋のよう

 導入の具体的な狙いも同じリーフレットに次のようなものが挙げられていました。

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これは、ほとんど寺子屋の現代版のようなものでは無いでしょうか。

さすがに、一斉授業を完全になくすというのは難しいという事で、「ベストミックスを図ることにより、教師・児童生徒の力を最大限に引き出す」となったのだと思いますが、基本的には寺子屋のような生徒の能動的な学習を目指すという事ですよね。

しかしここまでやるのならば、腹を括って、一斉授業は出来る限りやめるというのはどうでしょう。

教科書も基本的には全て電子書籍にして、紙ベースのものは第一選択としないぐらいで丁度いいのではと思うのですが。

以前の記事で、教育内容を1セット動画で作っておけば、色々と利用できるのではないかという記事を書きました。

リンク:やはり、教育は動画ベースで

この動画の部分を、教科書入りのコンピューターに置き換えれば、より有効に活用が出来そうです。(動画も入れられますしね)

「仏作って魂入れず」が心配

 2023年までに導入する予定だったのが、コロナ禍による休校等のドタバタを受けて前倒しすることになり、2021年度3月期で96.1%で導入が完了したようです。

期待したいと思いますが、心配なのは、「仏作って魂入れず」にならなければいいなという事なんですが。

私が義務教育を受けに通っていた学校には、視聴覚教室というものが有りました。

フィルムの映写機が有って、ミニシアターのような部屋でした。

ここで、教育用の映像作品を見て勉強しましょうという部屋でした(と思います)。

更に、途中の学年から、各教室にテレビも設置されました。

今考えると、ビデオなどというものはまだなく、NHKの教育テレビ(現Eテレ)の番組を見るぐらいしか利用方法がなさそうなのですが。

私は、これらを使った授業を受けたことは無かったと思います(記憶がありません)。

まさに、「仏作って魂入れず」だったように思います。

こんなことにならなければいいのですが。


 下手をしたら、先生より生徒の方がコンピューターに関する知識は有ったりしそうで、近頃の先生も大変ですね。


ではでは

寺子屋と教育

寺子屋から教育について考えた話です

 

 

寺子屋と学校の教室

 寺子屋というと、時代劇でよく見る、筆机をきれいに並べて習字をしている場面とか、先生に合わせて素読(「しのたまわく」が有名な奴ですね)をしたりというのが思い浮かぶと思います。

中にはそういった寺子屋も有ったようですが、多くは違っていたようなのです。

どうも時代劇の中で描かれる寺子屋は、現在の学校の教室の印象に引っ張られているようなのです。

実際にはどうだったかというと

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 引用元:寺子屋 - Wikipedia

こんな感じで、てんでばらばらに並べて、現在なら学級崩壊と言われそうな感じが普通だった様です。

こんな状態で、どうやって授業を行ったのかと思いますが、それがすでに間違いなのです。

どうやって教えていた

 当時の寺子屋では、現在の学校のように、一斉に先生が教えて生徒がそれを聞くという授業は無かったようなのです。(九九の練習や素読は全員で行ったという話もある様ですが)

ではどうしていたのかというと、各生徒が自分の習熟度に従って、別々の勉強をしていたらしいです。

今のようにある年齢に達したら、同時に入学するというような事は無かったので、学んでいる子供たちも、様々な年齢の子たちがいました。

上の絵にもある様に、子どもたち同士でも教えあったりしていたようです。

勿論、子供だけで分からないところは、教えていたでしょう。

先生は、各人の進捗度合いを把握していたことになります。
その上で、適切な教材を適切な時に与えていたという事のようです。

これはなかなか興味深い教育法では無いでしょうか。

何よりも、結果として子供たちが能動的に学習するシステムになっているのが素晴らしいと思うのです。

現在の学校

 それに対して、今の日本の学校は、色々な改革が叫ばれて久しいですが、基本的には、教師による一斉授業の形をとっています。

教師が、生徒を前にして説明するのを、生徒はお行儀よく坐って聞いてノートを取るという形態です。

極端に言うと、これだけとも言える訳です。

教師は各教科の内容を一方的に説明するだけで、生徒各々がどこまで習熟しているかは、テストの時しか分からないと言っても良い状況だという事です。

しかも、テストの点が悪かったとしても、それについて何かサポートが有るかと言うと、個別にはないに等しいと言っていいでしょう。

最近はどうか分かりませんが、少なくとも、私は、先生に何かサポートを受けたという記憶はありません。
親には色々言われましたけどね。

高校になれば、赤点を取ると補習が有りましたが、小中学校ではそれも有りません。

極端なことを言えば、通知表がオール1でも卒業は出来るわけです。
学習内容を習得する事は、二の次のような印象です。

何か足りないと思いませんか。

勉強法は教えてくれない

 それは、各教科の内容を説明はするけれども、それに対してどのように習熟するかは教えてくれないという事です。

勉強の仕方というのを、今の学校では教えません(少なくとも、私は教えてもらった記憶は無いです)。

あくまでも、教室で教師の説明を聞くのみという受動的な教育なのです。

そのため、学習内容の習熟のために、塾に行ったり通信教育を受けたりするという、バカげた話になっているわけです。

寺子屋と現在の学校は、正反対の教育方法だと言えそうです。

こうなってしまったのは、明治政府が、外国の教育システムを取り入れたことに拠るようです。


 どちらが良いのかは意見が分かれるところでしょうが、私は寺子屋に行きたかったです。


ではでは

囲碁・将棋の文法

囲碁・将棋の文法に関して考えた話です。

 

 

前回の言い訳

 前回の記事は、囲碁・将棋のプロは、言葉のネイティブのようなもので、母国語を操るように囲碁・将棋を行う事が出来るのではという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そのため我々が、有るシチュエーションにおける日本語について、正しいかどうかは分かるが、どうして正しいのかを説明出来ないように、彼らプロの人たちも、正しい打ち方は分かるが、どうして正しいのか言い難く、言語化が進んでいないのではないかと考えました。

そのため、習得することが難しいのではないかという、なかなか上達しない言い訳の話でした。

記事を書いた後も、色々と考えが広がったので、今回も引き続き言い訳じ付き合っていただこうという話になります。

囲碁・将棋には文法が無い

 上にも書いたように、一般にネイティブの人は、自分の喋っている言葉がどうしてそうなるのかを、普通はそうだからそうだという程度にしか説明出来ません。

しかし、一般にと書いたように、説明出来る場合もあります。

それは、文法を知っている場合です。

文法を知っていれば、それに従ってある程度一貫性を持った説明が可能となります。

では、囲碁・将棋に関してはどうでしょうか。

そういった、全体を通して一貫して説明出来るような、文法に相当するものはないようです。

勿論、局所的な状況を説明するものは有ります。

将棋では、戦法、定跡、囲い、詰将棋といったように。

また、囲碁でも、布石、定石、手筋、詰碁などが有ります。

しかし、これらの用語はそれぞれ、特定の状況を説明するに留まっているのです。

残念ながら、これらを包括した上で一貫して説明するものは無いのです。

言語との違いは何処から来たのでしょうか。

言語との違い

 バベルの塔が神の怒りに触れて以降、世界では様々な異なった言語が使われることになりました。

そのため、古来他の言語を話す人々と交流するためには、その言語を学ぶ必要があった訳です。

学習を容易にするために、言語に対する研究が進んできたという側面が強いと考えられます。

その成果の一つが文法といえるでしょう。

それに対して将棋・囲碁に関しては、チェスや象棋(中国将棋)等の似たゲームがある事はありますが、それを習得しなければならない積極的な必要性は低いと言わざるを得ません。

また、将棋・囲碁そのものについても、絶対に出来なければ困るといったものでないことも確かです。

その上で、生活する上で必要としているともいえるプロの人たちは、幼いころから親しんだネイティブな訳ですから、文法に相当するものを作り出す必要がなかったという事になるでしょうか。

そんな中で、各種の用語とその考え方は、私たち非ネイティブに教える為に、それぞれの局所的な状況に合わせて生み出されたものだったのでしょう。

ソフト化がチャンスだったが

 こう考えると、コンピューターソフトを作る時が、文法作成の一つのチャンスだったような気がします。

ソフト化するためには、その対象がどういったものか、言葉なり数式なりで表現できなければならない訳です。

という事は、文法に相当するものを考える必要性が出て来たという事になります。

ところが残念ながら、コンピューターソフトは、人間が考えたアルゴリズムではなく、ニューラルネットワークを使った自己学習によって、トッププロを超えるレベルになってしまいました。

そのため、ある局面での打つ手をどうやって導き出しているのかは、作成した人にも分からないという状況になっています。

コンピューターソフトもネイティブになってしまったと言えるのかもしれません。

そのうち、本当に人間を超えるような知能を持った時には、説明してくれるかもしれません。


 文法がどうのこうのと言わずに、先ずは詰将棋や詰碁なんかを数こなすのが先決なんでしょうけどね。


ではでは

囲碁・将棋のプロ

囲碁・将棋のプロについて考えた話です。

 

 

何歳までネイティブに?

 英語関係の調べ物をしていて、興味深いものに行き当たりました。

アメリカに移住した韓国語や中国語を母語とする子どもについて、英語学習を始めた年齢と英語の習熟度の相関関係を、英語力テストの得点で調査したというものです。

その結果が次のようなものでした。

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縦軸の点数は、その具体的な値は別として、3-7歳までの点数はネイティブと同等という事になります。

7歳までに英語環境の中で暮らし始めれば、ネイティブとほぼ同じ英語力を得ることが出来るというのです。

こういった研究の結果をもとに、英語は何歳までに始めなければいけないといった話がよくされる訳です。

とはいうものの、これはあくまでもネイティブと比べるとという事で、7歳までに始めなければいけないという意味ではない、と自分に言い聞かせています。

将棋や囲碁のプロも

 それはさておき題名に挙げた、囲碁・将棋のプロについてですが、ここまでの話のような事が彼らについても言えるのではないかというのが、今回の記事となります。

プロの多くは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの藤井4冠の5歳を始め、比較的多くの人が極若い頃から始めています。

つまり、7歳(が正しいのかどうかは勿論分かりませんが)ぐらいまでの早い時期に始めた人は、将棋もしくは囲碁のネイティブと言えるのでは無いかと言う事です。

言語も、将棋や囲碁も、脳の発達が関係していそうですから、それ程的外れでもないだろうと思っているのですが。

もっとも、将棋の森雞二九段のように、将棋を始めたのが16歳からという人もいるので、一概に絶対に必要だとは言えないところも有るのですが。(この辺りに一縷の望みを感じるわけです)

加えてこう考えると、将棋や囲碁におけるプロとアマの差や、習得の難しさがある程度説明出来るのでは無いかと思うのです。

プロとアマの差

 英語で例えると、プロはいわゆるバイリンガルで、アマは国内で学習している様々なレベルの人たちという事になるでしょうか。

国内で学習していても、帰国子女並みに英語を操れる人がいるように、アマのトップレベルはプロと一部重なる所がある訳です。

ネイティブ並みと言っても、先の研究のグラフからも分かる様に、その程度は様々ある訳で、そのあたりが戦績、序列になるというのは単純化が過ぎるでしょうか。

日本語のネイティブで考えると、ネイティブとは言っても、小説家や詩人、歌人のように言葉を操れる人達もいるように、そのレベルは色々あるという事なのかもしれません。

習得の難しさ

 以前にも記事で書いたことが有りますが、プロの書かれた本などを読んでいて感じる、どうしてそうなるのかが知りたいといった、言語化が足りないという状況についてはどうでしょうか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

これも日本語のネイティブの立場に置き換えて考えると、理解出来そうです。

あるシチュエーションで、何かを伝える時に、どのような言葉を選んでどのような文にすればいいかは、当然何も考えなくても出来ます。

また、間違った日本語を聞いた時に、それを指摘することも出来ます。

しかし、どうしてそうなのかを説明しろと言われると、そうなのだとしか言いようが無いのではないでしょうか。

つまり、将棋や囲碁においても、言語化がされていないのではなく、ネイティブであるプロには出来なかったという事なのでは無いでしょうか。
ネイティブとしては、そうなるのが当然という事なのです。

という事で、年取ってから学ぼうというものにとっては、どうしてそうなるのかがなかなか理解出来ないということになるのです。


 以上、なかなか将棋と囲碁が上達しない言い訳の回でした。


ではでは

英文を一文型で

英文を一つの文型で説明出来るという本の話です。

 

 

分かり難い英文法

 このブログでよく出て来るように、対象を全体像から部分へ順繰りに理解して行きたいと考えている私は、現状の英文法も、その辺りが分かり難いと思っています。

そのあたりについて、記事にも書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

残念ながら、その後もあまり進展はしていませんでした。

ところが最近読んだ阿川 イチロヲ『単純すぎるよ! 英文法~7つの「パーツ」でまるごと分かる~』(アルク)という本が、結構そのあたりが解決出来そうな内容だったので、紹介したいと思います。

先ず現状の英文法の分かり難さについて、本の内容を参考にしてに考えて見ます。

5文型が全体像の基本?

 英文法の用語に5文型というのが有ります。

恐らく、数ある文法用語の中でも、知名度の高さという点では、3単現のsと双璧を成すと思われます。

現状の英文法を学ぶ上で避けて通ることは出来ません。

ご存知のように、英文は第一文型SVから第五文型SVOCまでの5つの形で出来ているいるというものです。

5つの文型で出来ているというわけですから、その構成要素の、S,V,O,Cのそれぞれについて、掘り下げていけば良いんだと考えるわけです。

5文型から部分へ掘り下げる

 先ず、S(主語)は日本語の~は/がに当たる語で、主に名詞です。

その名詞には、日本語と違って単数、複数や、数えられる、数えられないという概念が有り、冠詞というものがつくこともあります。

単数、複数、数えられる、数えられない、冠詞のそれぞれの内容は...

というように、理解が進んでいけば、途中で何を学んでいるか分からなくなって、迷子になってしまう事も少なくなりそうじゃないですか。

ところが、そうはいかないのです。

修飾語(M)ってなんだ

 例えば、

We played tennis. (私たちは テニスを しました。)

この文は、日本語の「テニスを」に相当する”tennis”を目的語と考え、SVOになりますから第二文型という事になります。

ところが、次の文はどうでしょう

We waited for Chihiro. (私たちは チヒロを 待ちました。)

"for Chihiro"も、日本語では「チヒロを」と同じように訳せるので、SVOなのかというと、そうではなくSVの第一文型なのです。

"for Chihiro"は目的語では無いのです。

では何なのでしょうか。

このような前置詞(この場合は"for")+名詞は、目的語としては考えずに、修飾語(M)と考えるのです。

修飾語(M)ってなんだ。
どこで、いつ、どのように使ったらいいんだ。
だいたい5文型の構成要素の中に無いじゃないか。

5文型では説明できない

 この時点で、英文が5文型で出来ているという前提は崩壊していると思うのは、私だけでしょうか。

こういう感じで、迷子になってしまう訳です。

こういった事を感じてなのかどうかは分かりませんが、様々な文法が提案されているようです。

残念ながら私個人的には、これまでの所これだというものに出会いませんでした。
といって、自分で考え出す事も出来なかったのですけどね。

ところが、上記の本の内容が、これはというものだったのです。

7つの「パーツ」

 さて本の内容についてですが、先に挙げた題名の「7つの「パーツ」でまるごと分かる」が全てを表していると言ってもいいでしょう。

皆さんもご存知のS,V,O,Cの4つに、著者の考えた3つのパーツ、「独立M」、「後ろM」、「同格語句」で、7つのパーツとなります。

勿論それぞれの内容についてここで詳しく触れることは出来ないので、本で確認していただきたいのですが、注目すべきは、この7つのパーツを使えば、英文を一つの型で説明出来るという点です。

しかも、分詞、不定詞、動名詞、関係代名詞などの迷子になりそうな文法内容についても説明可能なのです。

にわかには信じられない話ですが、私個人的には納得出来ました。

しばらくこの本の示す7つの「パーツ」と一つの文型を、英文の全体像の基として、英文法の各項目を勉強し直してみようかなと思っています。


 隔靴掻痒となりましたが、久しぶりに英語関連で驚いたという話でした。


ではでは