『続日本後紀』について考えた話です
『続日本後紀』
六国史の4番目にあたる『続日本後紀』ですが、これまでの国史と異なり、仁明天皇の一代記となっています。
ひとつ前の正史である『日本後紀』の記事でも紹介した、仁明天皇関連の系図を見ていただきます。
引用元:淳和天皇 - Wikipedia
54代仁明天皇の皇太子には、53代淳和天皇の息子恒貞親王が立てられました。
藤原良房が、この図にみられるような、平城天皇から続く兄弟血縁間での、皇位の持ち回りとも言える状況を打破して、仁明天皇の第一皇子の道康親王を皇位につける一助として編纂したのが、『日本後紀』だったのではないかというのが、『日本後紀』に関する記事の趣旨でした。
道康親王は、良房の甥でもあります。
淳和上皇が840年に亡くなり、その後、嵯峨上皇も重い病に伏すことになります。
その時点で、仁明天皇と良房は、条件が整いつつあると考えたのだと思います。
そこに、彼らにとって予想外の事態が持ち上がったのです。
それは、承和の変です。
承和の変
淳和上皇とその息子である恒貞親王も、勿論仁明天皇と良房の考えについては、十分すぎる程に分かっていたと思います。
その証拠に、何度も皇太子辞退を申し出て、嵯峨上皇に翻意させられていたようです。
そうこうしているうちに、父淳和上皇が亡くなり、嵯峨上皇も病に伏せってしまいます。
この状況に、恒貞親王の周辺が危機感を抱いたのは当然の成り行きとも言えます。
問題は、その上で彼らが取った方策でした。
恒貞親王を、東国に移そうとしたのです。
これは、皇太子を奉じた反乱と取られても仕方がないでしょう。
企ては、仁明天皇、良房側に知られるところとなり、嵯峨上皇の崩御後に、関係者は逮捕、処分が行われました。
恒貞親王は、罪は無かったものとされましたが、皇太子を廃されました。
事件後、道康親王が皇太子となりました。
そこまでは考えていなかった
以上が、承和の変のあらましですが、一般にこの事件は、藤原氏による他氏排斥の始まりであり、その後の藤原家の繁栄の基礎となったと考えられています。
確かに、結果を見ればその通りなのですが、実は仁明天皇も良房も、そこまでは考えていなかったのでは無いかと思うのです。
上にも書いたように、淳和上皇と恒貞親王は、もともと皇太子を辞したいと思っていたわけです。
それを押しとどめていた嵯峨上皇が重い病に伏した状況では、ことさら策を弄せずとも、いずれ事態は、自分たちに都合の良い方に動くと考えていたのではないでしょうか。
策を弄した訳ではない
そこに降って湧いたような、承和の変です。
後顧の憂いは絶たねばなりませんので、関係者は処分せざるを得ません。
しかしながら、これを外部から見れば、仁明天皇と良房側が、策を弄して邪魔者を排したように見えます。
上記したように、現代でも他氏排斥を狙ったと考える人も、少なからずいるぐらいですからね。
そのため、その疑いを払拭し、それを持って文徳天皇の正当性を示すことを目的に、仁明天皇一代の正史という形で編纂することになったのではないでしょうか。
因みに編纂には、良房自らが当たっています。
これにてめでたしめでたし、とはいかなかったのですが、そのあたりは、次の正史の記事で。
ではでは