『続日本紀』について考えた話その3です
前回の記事の続き
前回の記事その2は、桓武天皇が編纂させたと考えられる『続日本紀』が、桓武天皇の治世の途中までを含めた形となっており、加えて桓武天皇の在位中に完成したのは何故かというところで終わりました。
という訳で、今回の記事はその理由を考えてみたいと思います。
桓武天皇は在位中だった
と言っても、前の記事でも書いたように、『続日本紀』の完成した797年には、まだ桓武天皇は在位していました。
その状況で、臣下の誰かが、在位期間の途中までを、言わば私的な目的で纏めることは考え難いでしょう。
更にこれも前期記事で書きましたが、藤原百川、良継が亡くなった後に、天皇を差し置いて、そのようなことが出来る人物はいませんでした。
やはり、桓武天皇自らが纏めさせたと考えるのが妥当だと思われます。
そうだとすると、桓武天皇は、何の正当性を主張したかったかという事になります。
何が目的だったのか
当然天皇の交代は無かった訳ですから、それ以外のエポックメイキングな出来事が関係していると考えるべきでしょう。
『続日本紀』は、桓武天皇の治世の内の791年までを記録しています。
791年前後でエポックメイキングな事と言えば、これはもう「泣くよウグイス」で有名な、794年の平安京遷都以外にはないでしょう。
桓武天皇は、平安京への遷都の正当性を示すために、『続日本紀』を編纂させたのではないでしょうか。
平安遷都までに何があったのか
何はともあれ、791年までの出来事を見てみます。
先ず、桓武天皇は、それまでの平城京から、山城の長岡京に遷都します。
理由としては、奈良仏教を始めとする、既存勢力から距離を置くためと考えられているようです。
遷都は784年でしたが、その翌年に、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されるという事件が起きます。
この事件に、桓武天皇の皇太弟早良親王も関わっていたとされ、皇太子を廃されます。
その上、淡路国に流される途中で、絶食して亡くなってしまいます。
その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇近親者の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎました。
こういった出来事を纏めることで、暗にそれらを人心一新するために平安京への遷都を行ったという形にしたかったのでは無いでしょうか。
相良親王の件の記述はない
ところで、出来上がった『続日本紀』には、早良親王廃太子の件は記録されていません。
この事件については、後に作られた『日本紀略』の内容から、それに関する記述が、当初は『続日本紀』に含まれており、完成前に桓武天皇によって削除されたことが分かっています。
桓武天皇が命じて編纂させたわけですが、完成するまでの間に、上記した様々な出来事が、陰陽師により早良親王の祟りだと認定されました。
そのため、出来上がった『続日本紀』から、最終的に削除されたのだと思います。
平安京遷都の原因となった出来事に、桓武天皇に責任のあるものが有っては、いささかまずいですからね。
この事を見ても、『続日本紀』編纂の目的は、前後半部の別々の編纂などの込み入った成立過程を経たものの、最終的には桓武天皇による平安京遷都の正当化に有ったと考えられると思うのです。
ここまでした平安京は、その後千年以上都だった訳で、やった甲斐が有ったという事が言えるのかもしれません。
ではでは