『日本三代実録』について考えた話です
『日本三代実録』
六国史の最後となりました。
これも名称から判る様に、清和、陽成、光孝の56代から58代の3代の天皇について纏められたものとなります。
これまで見てきた他の六国史と同じように考えてみましょう。
ここで、時の権力者はとなるところなのですが、チョット問題が有ります。
宇多天皇が887年に即位した時点での権力者は、藤原基経でした。
史上初めて関白となった人物です。
しかし、四年後の891年に亡くなってしまいます。
それに対して、宇多天皇が編纂を命じたのは、はっきりとはしていないのですが、編纂を命じられた人物の官位から、893年か894年と考えられているようです。
そうなのです、基経の死後に編纂が始まったことになるのです。
宇多天皇自らが望んだ
基経が亡くなった時、彼の長男時平はまだ21歳であり、権力を引き継ぐには若過ぎました。
そのためか、基経の死後、摂関を置くことはなく、宇多天皇の親政となりました。
その親政を支えた一人が、あの菅原道真で、『日本三代実録』の編纂にも名を連ねています。
もっとも、その道真は、最終的に大宰府に流され亡くなってしまうのですが、それはまた別の話です。
という事で、『日本三代実録』の編纂は、宇多天皇自らが望んだもののように思われます。
三代の天皇
引用元:宇多天皇 - Wikipedia
『日本三代実録』で取り上げられた、三代の最後の光孝天皇の代で、皇統が移動していることが分かると思います。
更に、三代の天皇の出自を見てみます。
清和天皇 父:文徳天皇、母:藤原明子(藤原良房の娘)
陽成天皇 父:清和天皇、母:藤原高子(藤原基経の同母妹)
光孝天皇 父:仁明天皇、母:藤原沢子(藤原基経、高子の伯母)
文徳、清和と、良房、基経親子にとって外戚としての権力の源とも言える皇統が続いていたのに、それを継続できなかったのは、基経と陽成天皇の母高子の間の関係に有ったようです。
二人は兄妹でしたが、関係が悪かったようなのです。
そのため、どちらの側も、相手に利するような人物に後を継がせるのを良しとせず、結果として選ばれたのが、光孝天皇という事になります。
一応、基経、高子のいとこにあたるので、藤原氏の一族ではありました。
皇統の移動と『日本三代実録』
光孝天皇は、そのあたりの背景から、自分の後には陽成天皇の弟がなると考えていたようですが、基経と高子の関係からか、皇太子が決まらないまま、病気になってしまいます。
そのため、結果的には自分の息子を立太子させることになります、後の宇多天皇です。
こうして、図らずも皇統が移動することになりました。
そして、上記したように、基経は、宇多天皇が即位して早々に亡くなってしまいます。
そうなると、宇多天皇にとっての心配は、基経と牽制しあっていた形の高子側の出方ということになります。
再び、皇統を基に戻そうとする可能性を無視出来なかったでしょう。
『日本三代実録』は、これらの動きを封じるべく、光孝、宇多の皇統の正当性を示すために、編纂されたのだと思います。
兄妹げんかも、「骨肉相食む」ところまで行ってしまうと色々と大変なのは、今も昔も変わらないという事でしょうか。
ではでは