『日本書紀』の区分と画期について考えた話です
前回の記事
前回の記事は、「日本紀講筵」で漢文の読み下し方が講義された部分が、『日本書紀』のどの部分かという話でした。
『日本書紀』の区分に関する研究から、第13巻までの漢文が、初歩的な文法・語彙の誤りが多く見られることから、日本人によるものであるとされている点から、13巻までが「日本紀講筵」の対象ではとした訳です。
さらにその事が、『日本書紀』の編纂が従来考えられてきた約40年ではなく、もっと短期間に行われた事を示す傍証の一つになるのではと考えました。
第13巻と第14巻の間
さて、この第13巻までと第14巻以降については、その漢文の違い以外にも、語句の使い方等様々な点で差異が見られる事が明らかになっています。
様々な観点から分類されているにも関わらず、その多くで第13巻と14巻の間で分けられるという点が共通しているようなのです。
ちなみに、第13巻は允恭天皇、第14巻は雄略天皇の話とそれぞれなっています。
これらの事から、古代史の上で雄略天皇以前と以降で大きな変化があったのではないかと考えられているようです。
具体的には、『記紀』に見られる専制君主的な記述などから、それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとするといった事が考えられています。
しかし、もしそうだったとしても、それまで日本人が行ってきた記録を、中国人に任せるのを始めとしたの、様々な変更を行う事になる理由が無いように思われるのです。
専制支配体制を確立したのは、中国人の住む場所では無く、日本列島ですからね。
一つの仮説
色々と考えているうちに、一つ仮説を思いつきました。
それは、「画期が有ったのは日本ではなく中国だ」というものです。
画期が有ったとされる雄略天皇は、『日本書紀』の記述から西暦に換算すると457年に即位したという事になるようです。
同時代の中国はどうなっていたかというと、その少し前の442年に北魏が華北を統一しています。
南には東晋の後を受けた宋があり、この後隋が統一するまで中国は南北朝時代が続くことになります。
つまり、本ブログで邪馬台国の東進の原因となったと考えている、大動乱の五胡十六国時代が約150年続いたのちに、とうとう収拾されたという事になります。
この出来事こそが、画期の正体だったのではないかと思うのです。
安定した時代になったので
南北に分かれてはいますが、それまでの五胡十六国時代に比べると安定した時代だったと考えられます。
特に、南の宋では、北の北魏が華北の統一に追われている前後は、比較的平和だったようです。
それを示すように、この時代から所謂「倭の五王」が使者を送る様になります。
つまり、中国との交流が復活したということで、中国から人や物がやって来るようになったと考えられます。
これは、中国の最新の技術、学問を身に付けた人材がやって来るようになったことを意味します。
その人材が登用されて、記録を作成する仕事にも就いたという事なのではないでしょうか。
そのため、それまでの記録と一線を画す水準のものが残されることになったのです。
それを現代から見ると、その時代に何か重大な画期が有ったかのように見えるという事なのだと思います。
画期が有ったのはわが国ではなく中国で、その実態は五胡十六国時代の終焉なのではないかという話でした。
ではでは