『日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その1 です
『日本書紀』には序文は無い
『日本書紀』の作られた理由について考えるわけですが、先ずその編纂についての通常の考え方を見てみたいと思います。
『日本書紀』がいつ作られたのかについては、『日本書紀』に、『古事記』の序文のような、編纂の経緯に関する記述が無いので、間接的な情報からの推定となっています。
もっとも、『古事記』のように序文が有っても、それが正しいとは限らないのですが。
そのあたりについては、以前記事に書きました。
『日本書紀』の編纂
それはともかくとして、『日本書紀』の成立を推定する基となった情報は、次の「正史」である『続日本紀』の記述です。
その元正天皇720年5月の部分に、
以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。
引用元:日本書紀 - Wikipedia
と有るのです。
この事から、『日本書紀』の成立は720年と考えられているようです。
さらに、上記の記述ではよく分からない、編纂が始まった時期に関しては、次のように考えられているようです。
『日本書紀』の天武天皇10年(681年)に、天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという記事が有り、これをもって、『日本書紀』の編纂の開始とするというものです。
ということで、一般に『日本書紀』は、681年から720年の約40年かかって編纂されたと考えられているという事になります。
疑問な点がある
これで、『続日本紀』に書かれている舎人親王が、681年に天武天皇に命じられた川島皇子以下の12人に入っていれば、話は上手く収まることにになります。
現実には、舎人親王は676年生まれで、681年にはわずかに5歳であり、さすがに、5歳の人間に命ずることはないと考えられます。
更に、「上古の諸事」の編纂を命じられているにも関わらず、命じられた以降の天武、持統両天皇の記事が入っている点も、疑問が残ります。
舎人親王が命を受けた相手についても、歴史書での表現という事から見ても、ただ「天皇」とあれば、その記事が含まれてる部分の当代天皇を指していると考えるのが妥当でしょう。
とすると『続日本紀』にある、「天皇の命を受けて」という表現は当代の元正天皇の命を受けてという意味だという事になります。
一応結論は出るが
以上の事をまとめると、天武天皇が命じたのは、あくまで「帝紀」と「上古の諸事」の編纂であって、『日本書紀』の編纂ではなく、元正天皇の代になって舎人親王が纏めたものこそが『日本書紀』だという事になります。
しかしながら、この結論にも疑問が残ります。
先ず、「天皇の命を受けて」と言いながら、元正天皇が命じたという記録がない事が上げられます。
また、記録が無いだけで、元正天皇が命じていたのだとすると、今度は、なぜ持統天皇までの歴史を纏めさせたのかがよく分かりません
しかし、「正史」に全くの嘘を載せることは考えにくいので、『続日本紀』の記述に有る様に、確かに舎人親王が撰上したという事実はあったのだと考えられます。
ただそれは、あくまで舎人親王が撰上しただけで、実際に編纂を行った黒幕と理由が別に有ったという事では無いかと思うのです。
さてその黒幕と理由は、という思わせぶりなところで、次回に続きます。
ではでは