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『日本書紀』が編纂された目的 その3

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その3です

 

 

今回は理由の回

 今回の記事は、藤原不比等を『日本書紀』の編纂の黒幕と考えた前回の記事を受けて、その理由を考える回となります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

不比等が仕えた天皇

 理由を考えるにあたって、先ずは、不比等が仕えた、持統、文武、元明、元正の4代の天皇の関係を見てみたいと思います。

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引用元:元正天皇 - Wikipedia

 

天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子が即位する前に亡くなってしまいます。

母である天武天皇后は、孫で後の文武天皇皇位に就けるために、それまでの間自ら皇位に就き、持統天皇となります。
この時に、草壁皇子の兄弟の高市皇子などが、皇位を継ぐことも考えられます。(先代の天武天皇も、先々代の天智天皇の弟ですからね。)
それを実現させないように、天武天皇の妻の持統天皇の即位という手を打った訳です。

その後、文武天皇に譲位します。
この時、文武天皇はわずか15歳であり、前例のない若さでの即位でした。

さらに文武天皇が25歳の若さで亡くなってしまうと、その子で後の聖武天皇に繋ぐために、母の元明天皇、姉の元正天皇と、まさになりふり構わずといった感じで代を重ねていきます。

不比等も関わっていた

 この流れには、不比等が大きく関わっていたと考えられます。

先ず、元々不比等草壁皇子に仕えていたと考えられており、その子である文武天皇皇位に就ける工作に、当然関わっていたと思われます(自分の将来を賭けたと言っても良いかもしれません)。

その文武天皇の夫人は、不比等の娘の藤原宮子であり、その間に出来た子が後の聖武天皇になります。

更に、聖武天皇にも、もう一人の娘光明氏を嫁がせています。

このようにして、外戚としての立場を作り上げることにより、自らの権力を作り上げていったのです。

日本書紀』の編纂

 そんな中、元正天皇の720年に、『日本書紀』が舎人親王より撰上されます。

上記記事でも書きましたが、不比等が亡くなったのが同じ720年です。
63歳でした。

日本書紀』は、彼の晩年に作られたという事になります。
勿論、いつ死ぬのかは分からない訳ですが、当時の平均から考えれば、いつ死んでもおかしくないという意味での晩年です。

晩年になって不比等が考えていたのは、上記のような無理に無理を重ねて作り上げてきたと言っても良い権力構造を、自分の死後の藤原家が維持していけるようにする事だったでしょう。

そのための方策の一つとして作らせたのが、『日本書紀』だったのではないでしょうか。

彼の権力構造の全ての始まりである、文武天皇の即位の正統性を示すために、その直前の持統天皇までの歴史を纏めさせたのだと思います。

日本書紀』での譲位の表現

 全30巻『日本書紀』の最終巻持統天皇の最後の記述は、
 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子
となっています。

ここで注目すべきは、「禪」という文字です。
この文字は、「禅」の旧字体で、訓読みは「ゆずる」となります。
しかし「禅」なわけですから、多分に「禅譲」を意識していたと考えるべきでしょう。

ちなみに、持統天皇以前に、生前に譲位を行った天皇は35代の皇極天皇しかいません。

皇極天皇の譲位に関する『日本書紀』の記述は、皇極天皇の巻の最後に、
 庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子
とあり、「譲」が使われています。

つまり、文武天皇は、天皇位を、単なる「譲」ではなく、「禅譲」されてしかるべき人物だという事です。

不比等は、この「禪」の一文字が欲しくて、『日本書紀』を編纂させたのだと思います。

その上で、天皇に撰上することにより、大和政権としての公式な見解としたということでは無いでしょうか。


 『日本書紀』が撰上されたのは720年5月であり、不比等が亡くなったのは720年8月です。
歴史小説ならば、『日本書紀』が出来上がるまでは、死んでも死にきれないとでも表現するところですが、果してどうだったのでしょうか。


ではでは