「源氏物語」関連のまとめです
最初は、源氏物語の謎(前編)、(後編)のみのつもりで書き始めたんですけど、書くために色々調べているうちに、自分でも予想外の展開となりました。
自分自身の整理も兼ねて、まとめてみます。
藤原道長が第一部を利用した
「源氏物語」と同時代の才能ある女性達が、なぜ同じような作品を残さなかったのかという疑問が、昔からありました。
一般的に三部作と考えられている、「源氏物語」の第一部 桐壷から藤裏葉までを、光源氏の栄華物語と捉えて、藤原道長が天皇の権威を相対化するために利用したと考えると、色々と説明がつくと思いつきました。
「源氏物語」の背後に藤原道長がいるために、同じような作品が書かれることは無かった訳です。
以上の事を踏まえて、紫式部は第一部しか書いておらず、第二部、第三部は、天皇側からの、藤原道長への反論だと考えました。
天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という訳です。
紫式部はいつ「源氏物語」を書いたか
第一部二系統説と、「紫式部日記」に見られる道長の不可解な行いから、紫式部が「源氏物語」を書いた時期を推定しました。
宮中への出仕以前に紫上系17帖を、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたと考えました。
「源氏物語」第二部、第三部は、誰が誰に書かせたのか
「源氏物語」第二部、第三部の作者は、与謝野晶子の説を取って、紫式部の娘大弐三位だと考えました。
彼女に対して
道長の後を継いで摂政となった長男頼通に対して、母の違いから不遇をかこっていた弟能信が、摂関家の権威を損なう事を目的に
または
道長の長女彰子が、自ら養育した親王の、立太子の問題に絡んで、父親を怨んでいたとする話が有ることから、父を困らせようとして
第二部、第三部の作成を依頼したと推定しました。
第一部への天皇側からの反論と言うよりは、藤原北家内部での問題から書かれたという事になります。
それが結果として、反論の形に成った訳です。
大弐三位はいつ書いたのか
「更級日記」の記述内容から、大弐三位は、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕した、1017年から、1021年の間に書いたと推定しました。
「源氏物語」の作者と製作時期
現時点での、「源氏物語」の作者と製作時期についての仮説は、
第一部紫上系17帖 紫式部が出仕前に
第一部玉鬘系16帖 紫式部が出仕後に
第二部、第三部 大弐三位が出仕後に
という事になります。
結局のところ、藤原北家の内部問題から最終的な形になったと考えた「源氏物語」が、道長とその息子達のその後を暗示するものとなったのは、やっぱり因果応報なんですかね。
ではでは