横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

「倭の五王」は誰なのか

倭の五王」について考えた話です

 

 

名前から探る

 中国の歴史書に、5世紀に朝貢をしたと記述の有る「倭の五王」は、「讃・珍・済・興・武」となります。

倭の五王」については、昔からその正体について論争が有ります。

なにしろ、『日本書紀』、『古事記』のいずれにも、名前が一文字の天皇というのは出てきません。

そのため、誰がどの天皇になるのかを色々と考える事になっているわけです。

直ぐに思いつくのは、『記紀』に在る名前で似ているものを探すというものでしょうか。

現在の所、最も有力な仮説と思われているのが、「武」が第21代雄略天皇とするものです。

日本書紀』に彼の名前として、大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)とあり、最後の文字が「武」であるのに加えて、在位期間も同時期と考えられる事からそう比定されているようです。

しかし、名前の一部に同じ文字があるからというのは、贔屓目に見ても苦しいですよね。

それに、そもそも「大泊瀬幼武天皇」というのは諡号のはずなので、その中に同じ文字が有るからというのは、成り立たないんじゃないかとも思うのですが。

血縁関係から探る

 それじゃあ、という訳でもないでしょうが、血縁関係から調べるという手法も有ります。

史書の記述の内容から彼ら5人の血統関係が分かります。

例えば「武」についての記述には「興死して弟武立」という記述が有る事から、「武は興の弟」という事が分かるといった具合です。

まとめると、次の図のようになるようです。

 

引用元:倭の五王 - Wikipedia

名前から有力と見られている雄略天皇までの歴代の天皇系図は次のようになります。

 

引用元:倭の五王 - Wikipedia

「讃・珍」と「済」が兄弟ならば、17代履中から21代雄略まででぴったりという事になるのですが、残念ながらそれを示す証拠はないようです。

その他の天皇についても、当てはまる系譜は無いという事のようです。

ヤマト王朝の天皇ではなかった

 というような感じで、「倭の五王」については確定に至っていないというのが現状です。

ところで、「倭の五王」については一度記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

この記事の中では、「倭の五王」による中国への朝貢は、広開土王碑にある様に朝鮮に侵攻して撃退されたことを受けて、政策の変更を行った結果だと考えました。

高句麗が手強いと見て、朝鮮半島における権益を確保する方向に、方針転換をしたと考えた訳です。

当然、方針転換したのは、東遷を完了した畿内のヤマト王朝という事になります。

ところが前回の記事で、朝鮮半島に侵攻したのが、東遷時に九州に残った勢力だったという可能性も有る事が分かりました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という事は、方針転換したのも九州に残った勢力である可能性が有ることになります。

であるならば、中国に朝貢したのも、この九州に残った勢力という事が言える事になります。

そう考えれば、名前の件も、血縁関係の件も問題とではなくなります。

単純に、九州の勢力にそういった人物がいたというだけの話になります。


 九州に残った勢力が、そんなことを勝手にしてしまっていいのでしょうか。
そのあたりは次回考えてみたいと思います。


ではでは

広開土王の高句麗と戦ったのは誰か

公開土王碑に記された倭は、どんな勢力だったのか考えた話です。

 

 

太陽活動の図はありません

 前回の話は、武烈天皇から継体天皇への皇位継承の背景にも、太陽活動の低下の影響が有ったのではないかというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

それに合わせて、過去に書いたその周辺の記事を読み返したのですが、その中で公開土王碑文に出て来る倭について、別な解釈も成り立つと思いつきました。

という事で、今回は久々に太陽活動絡みの話ではありません。

公開土王碑以前

 先ずは、本ブログで考える、公開土王碑に書かれた時点までの経過を簡単におさらいします。

九州に有ったと考えられる邪馬台国卑弥呼が、中国の魏王朝朝貢をします。

その魏王朝の後を継いだ西晋王朝が倒れて、五胡十六国の動乱の時代になります。

その動乱に追われて、朝鮮半島にあった西晋の支配地域から、亡命者が邪馬台国にやって来ることになり、政権にも参画します。

大陸の動乱が海を越えてやって来るのを危惧して、九州から畿内へ東遷を行います。

その時に、防衛の最前線として、九州にも政権一族の者も含めて一部のものが残ります。

そして、広開土王碑にある様に、倭による朝鮮半島への侵攻を行い、高句麗に敗北することになる訳です。

碑文によれば、391年から404年までの出来事になります。

侵攻には全国的な政権が

 これまでは、これを行ったのが、東遷を完了して全国的な政権を樹立したヤマト王朝だったと考えていました。

その後の日本の歴史、例えば秀吉の朝鮮出兵等、から考えても、朝鮮半島に侵攻するには、全国的な政権が必要だと思っていたからです。

しかし、ヤマト王朝の体制を象徴すると考えられる前方後円墳については、5世紀を通じて各地に広がっていきます。

という事は、朝鮮半島に侵攻する時点では、まだ全国的な政権とはなっていない可能性が高い事になりそうです。

畿内のヤマト王朝は、五世紀を通じて各地の勢力と争っていたとも考えられる訳です。

朝鮮半島への侵攻どころではなかったように思われます。

誰が侵攻したのか

 それでも、朝鮮半島への侵攻のあった事は確かです。

誰が侵攻を行ったのでしょう。

考えられるのは、東遷時に九州に残った勢力です。

東遷が始まった当初こそ、大陸からの侵攻に警戒していたはずですが、そのうちにそういった可能性がほぼ無くなったことが分かったはずです。

そうなると、九州にも残っていたと考えられる亡命者の中から、朝鮮半島に戻る事を考える声が出てきても不思議は有りません。

その声を受けて、侵攻を画策したと考えられるのです。

朝鮮半島まで足掛かりが有った

 さて、以前の記事で、『魏志倭人伝』における最初の寄港地「狗邪韓国」の位置を考える中で、西晋陳寿により倭人伝が書かれた時点で、朝鮮半島の南部に倭の拠点が有ったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後上記のように、西晋が倒れて五胡十六国の時代になる訳ですが、当然朝鮮半島南部への倭の影響力も、それなりに残っていたはずです。

勿論、対馬壱岐も倭の勢力範囲内でした。

これらを足掛かりとして朝鮮半島に侵攻したとすれば、九州に残った勢力だけで行う事も可能だったとも考えられます。

畿内の政権に伝えることなく、九州側だけで行ったという事なのかもしれません。


 次回は、以上の内容を受けて、「倭の五王」について考えます。


ではでは

継体天皇と太陽活動

継体天皇と太陽活動の関係についての話です。

 

 

6世紀と言えば

 前回は、古墳時代における前方後円墳の全国への普及と衰退が、中世極小期に向かう直前の比較的変動の穏やかな時期と、その後の極小期に向けての低下の開始を背景としていると考えられるという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

何は無くとも、例の図です。
 

 引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

図から、極小期に向かっての低下の開始は、6世紀付近という事になります。

さて6世紀と言えば、直ぐに思いつくのが継体天皇です。

その在位期間は、507年から531年までとされていますので、6世紀前半という事になります。

継体天皇の即位

 この継体天皇に関しては、以前に記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』によると、色々と問題の有る武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったために、応神天皇の5世孫の男大迹王を探し出して迎えたのが継体天皇という事になっています。

この書き方が、中国での正史における王朝交代記述のパターンと酷似していることから、書かれているように平和裏に継承されたのではなく、なんらかの紛争のようなものがあったのではないかと考えたのでした。

この事に、気候の変動が関係しているのではないかというのが今回の話になります。

応仁の乱のように

 継体天皇については、さらに別の記事で、その出自について考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

邪馬台国東遷時に九州に残った人々の子孫ではないかというものです。

それが応神天皇の五世の孫だったのでは無いかという訳です。

そして、正面から反旗を揚げるのではなく、裏口とも言える、日本海側、東海など、周辺の勢力と連携をしたという事では無いかと考えました。

その背景として、気候変動による政情不安が有ったと考える事が出来そうです。

ヤマト王朝の中枢で、戦国時代の始まりとして、気候変動を背景とした「応仁の乱」があったのと同じような状況が発生していたと想定します。

それに乗じて介入して、一方の勢力から担がれ、その争いに勝ち残ったのが継体天皇だったと考える訳です。

彼が、即位から19年もの間各地を転々として奈良の地に入らなかったという話は、実はこの間、一方的に即位はしたものの争いが続いていたという事なのかもしれません。

倭彦王は対立候補

 更に妄想を膨らませるならば、男大迹王(継体)の前に次期天皇候補として探し出された、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王が、実は対立した陣営に擁立された人物だったというのはどうでしょう。

倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまったという話は、天皇候補としてはいかがなものかという書かれようです。

だから推挙されなかったという事なのでしょうが、実際には継体側との戦いの末に敗れ去ったと考えます。

あくまでも、五世の孫という正当な血統である継体天皇へ、平和裏に皇位継承が行われたという形を強調するための『日本書紀』の記述だったのではないでしょうか。


 やはり、継体天皇の時に何らかの画期が有ったような気がします。


ではでは

古墳時代と太陽活動

古墳時代と太陽活動について考えた話です。

 

 

今回は古墳時代

 引き続き、太陽活動と歴史の関係を妄想していきます。

今回は、古墳時代との関係になります。

先ずは目にタコが出来そうな例の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

古墳時代といえば前方後円墳

 前回の話は、気候変動による生活環境の悪化が、謎の4世紀の邪馬台国野東遷とその後のヤマト政権の成立の背景になったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

それに合わせるように、前方後円墳が作られるようになります。

私的には、前方後円墳卑弥呼の墓へのオマージュから生まれたと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東遷して畿内に移った後に、卑弥呼の墓の形(前方後円墳ではなく、円墳とその前に一段高くなった土地が有った)をそのまま模倣して作ったのが、前方後円墳だったという訳です。

それが、ヤマト政権が全国に覇を唱えるに従って、全国で作られる様になったという事になります。

前方後円墳からその他の形状へ

 以上の事が起こったのは、図で見ると500年頃まで続く太陽活動の変化が比較的穏やかな時期であった事が分かります。

特に5世紀に入ると、古墳と言われたら真っ先に思い浮かぶことも多い、大仙陵古墳仁徳天皇陵)等の巨大なものが作られるようになります。

これは、ヤマト政権の各地への影響が強まった事と共に、比較的穏やかな時期であったことから、巨大な工事を行うだけの人員を確保出来るようになったのを示していると考えられそうです。

その後、6世紀の後半から末にかけて、次第に前方後円墳は方墳や円墳、八角墳に取って代わられて行きます。

加えて、その規模も小さくなっていきます。

この6世紀後半からの時期を、太陽活動の面から見て見ると、丁度中世極小期に向けての低下が始まったあたりだという事が分かります。

その点から考えると、低下による気候変動により、巨大工事を行うだけの社会状態でなくなった事が影響していると考える事が出来そうです。

結局、古墳時代は、邪馬台国の東遷の結果成立したヤマト王朝によって行われた全国への覇権の展開を、卑弥呼の墓へのオマージュである前方後円墳によって知ることが出来る時代という事が出来そうです。

そして、その時期には、300~500年頃の比較的太陽活動の変化が穏やかという背景が有ったのです。


 まだまだ妄想の種は尽きません。


ではでは

 

謎の4世紀と太陽活動

謎の4世紀と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

今日は謎の4世紀

 前回の話では、太陽活動の変動による気候の変化が、邪馬台国の東遷を後押ししたような形になったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

今日は、その東遷が有ったと考えている所謂謎の4世紀について、引き続き妄想全開の話になります。

何はともあれ、いつもの図です。

 

引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/denkiyakan/diary/200710160000/

 

気候変動は日本全体に

 さて、気候変動による生活基盤の悪化が邪馬台国の東遷に影響したと考えたわけですが。

その変動が九州に局地的に影響を与えたとは考え難く、当然日本全体に及んでいたと考えるのが普通でしょう。

つまり、邪馬台国が東遷を始めたころには、その他の地域でも社会が不安定な状況になっていたと考えられる訳です。

そういう状態なので、畿内への東遷が出来ると考えたのかもしれません。
途中の国々が安定した状態であれば、その抵抗が厳しい事も考えなければいけないですからね。

そして全国制覇

 首尾よく東遷に成功した政権は、その後全国に覇を唱える戦いを行ったと考えられます。

なぜならば、高句麗の「広開土王碑」によれば、390年代から朝鮮半島に倭が進出した事が記録されているからです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

であるならば、このころまでには日本国内を統一したとまでは言いませんが、表立って敵対する勢力は無くなっていたはずです。

さすがに、国内と朝鮮の2か所で戦線を開くという事は、普通考えられないですからね。

なぜ全国制覇

 しかしなぜ、東遷した直後に全国を制覇するような行動に出たのでしょう。

東遷を始めた理由である、大陸からの侵攻に備えるべきなような気もしますが。

ここで、以上の事が起こった謎の4世紀が、図で見ると太陽活動の変化が比較的穏やかな時期で有った点を考え合わせると、よく似た話を思い出さないでしょうか。

そう、戦国時代です。

戦国時代については、シュペーラー極小期の気候変動により、室町時代まで続いた社会システムが崩壊し全国的な混乱が生じた後、気候変動が収まったことを背景に、新たな社会システムの再構築しようとする過程が戦国時代だと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

当初に全国的な社会システムの有り無しという違いはあるものの、気候変動後は、同じようなことが4世紀の日本にも起こったのでは無いでしょうか。

その争いを勝ち抜いたのがヤマト政権だったのです。

これには、大陸からの亡命者がもたらした、当時の最新と言える軍事関係の情報が、物を言ったと考える事も出来そうです。

こうして、謎の4世紀に、邪馬台国畿内に移り、ヤマト政権となり全国に覇を唱える事になったのです。


 考えて見れば、4世紀にも戦国時代にも、いずれも戦乱が終息した後で朝鮮半島に進出したというのは、偶然だとは思いますが興味深いです。


ではでは

邪馬台国東遷と太陽活動

邪馬台国東遷と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

今回の話

 このブログでは、現在の九州大分県宇佐市に在った邪馬台国が、謎の4世紀に東遷して畿内のヤマト政権となったと考えています。

今回は、その東遷と太陽活動の関係について考えて見たいと思います。

という訳で、いつもの例の図から。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

前回の話は、ローマ極大期の直後の太陽活動低下の影響でいわゆる「倭国大乱」が起き、その後の踊り場状に緩やかになった時期に卑弥呼邪馬台国の時代になったという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後に中世極小期に向けての活動の低下が始まるのですが、これが邪馬台国の東遷に影響しているのではないかという話になります。

東遷の背景と太陽活動

 本ブログでは、邪馬台国が東遷した理由として、中国の五胡十六国と呼ばれている動乱が日本にまで及んでくるのを恐れ、それに備えるためだと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

動乱から逃れて日本に亡命してきた人たちが、その動乱の余波が後を追って日本まで来ることを危惧して、東遷を主導したのではないかと言う話でした。

さてその中国の動乱五胡十六国ですが、邪馬台国の背景となった踊り場の時期に中国を統一した西晋が、内部抗争(八王の乱)で弱体化し北方民族の進入を許したことから始まりました。

北方民族の侵入の背景には、気候変動により、遊牧に基盤を置いていた北方民族が、その生活基盤を脅かされたことが有ると考えられそうです。

その結果としての日本へ亡命者がやって来たわけですから、邪馬台国の東遷にも太陽活動の影響があったという話になります。

それだけで国が東遷するのか

 中国側から考えると以上のような事ですが、日本側についても考えて見たいと思います。

邪馬台国の東遷については、勿論様々な反論もされています。

その中に、国が丸ごと移動するという事自体を疑問視するものが有ります。

現実的な危機も無いのに、国ごと移動するものだろうかという訳です。

確かに、この辺りに関しては、私も首をひねるところも無くは無かったのです。

例えば、自分が邪馬台国に生きている民だとします。

海を渡って来た亡命人が、いきなり危険が迫っているから東へ移ると言い出してもですよ、それまでの生活を捨てて、はいそうですかとなるだろうかなと思う訳です。

取敢えず、今の生活を守ろうとして、海岸線の守りを固めるような事をするのではないでしょうか。

それでも東遷を選んだ

 そうでは無く、東遷を選んだとすれば、そこに太陽活動が影響したと考えられないでしょうか。

中国で北方民族の南進の要因となった気候変動が、日本にも影響を及ぼしていたとすれば、邪馬台国においても稲作による生活基盤が脅かされていたことが予想されます。

つまり、東遷の話が出る前から、世情は不安定になっていたのではないかと考えられるのです。

守るべき生活が破綻しているのであれば、東遷を受け入れるという判断も有り得るかもしれません。

勿論、全部が全部そうでは無く、あくまで残る事を選択した人たちもいたはずです。

その人たちは、最前部の防衛ラインも兼ねて後に残ったと考えられます。


 今回の話、書き始めた時には中国側の話だけで終わるつもりだったものが、途中で日本側の話も思いついたのでした。
こういう事が有るから、いろいろ屁理屈をこねくり回すのはやめられないです。


ではでは

ローマ極大期以降の太陽活動と歴史

ローマ極大期以降の太陽活動と歴史についての話です。

 

 

ローマ極大期

 先ずはいつもの太陽活動の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

今回は、ローマ極大期以降の変化と歴史について考えて見たいと思います。

前回の記事は、上図に見られるホーマー極小期とギリシャ極小期が、日本における稲作の波及に関係しているのではないかというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後は、ローマ極大期に向けて回復期を迎える事になります。

前回の記事でも触れましたが、水田稲作の東日本への伝播は一旦止まる事になりますが、西日本では気候の回復を受けて発展したと考えられます。

漢王朝倭奴国

 このローマ極大期はBC20年~AD80年頃と考えられています。

その頃中国は漢王朝の時代でした。

その漢王朝に、AD57年に朝貢を行ったのが「倭奴国」で、その時に授けられたのがあの有名な「漢委奴國王」と刻印された金印です。
その後、107年にも朝貢を行ったという記述も有ります。

つまり、日本においても、気候の回復を受けて、中国まで朝貢が出来る程の勢力が形成されていたという事になります。

ローマ極大期以降の日本

 その後太陽活動は、図にある様に中世極小期に向けて低下していくことになります。

もう少し詳しく見て見ると、ローマ極大期直後に短期間で低下した後に、踊り場状の安定した期間が、300年頃まで有る事が分かります。

ところで、漢王朝への「倭奴国」の朝貢の次に中国の歴史書に倭が出て来るのは、『魏志倭人伝』においてです。

その中に、「倭国乱」との記述が出て来ます、いわゆる「倭国大乱」です。

その後の中国歴史書によれば、2世紀後半に起きたと記されています。

太陽活動の低下による気候変動が生じ、その影響で漢王朝朝貢していた「倭奴国」を代表とするシステムが崩壊して「倭国大乱」となったと考えられそうです。

その後卑弥呼が共立され、踊り場状の安定期に邪馬台国を中心とする社会の再構築がされたという事になります。

その結果、再び中国に朝貢するまでに回復した訳です。

もっとも、「倭国大乱」については「倭国乱」とあるだけでどういったものであったのかは定かではありません。
本当に気候変動が影響だったのかどうかについても判然としません。

ローマ極大期以降の中国 

 そのあたりを考えるために、同時期の中国についても見てみます。

倭奴国」の朝貢を受けた漢王朝も、やはりローマ極大期後の急速な変化に呼応するように衰退します。

その終わりの始まりは、「黄巾の乱」だったと言っていいでしょう。

黄巾の乱」は道教の一派太平道の教祖・張角を首領とした民衆の蜂起です。

宗教の教祖による煽動という形は取っていますが、それだけで民衆が蜂起したのではないでしょう。

一般的に言って、古今東西民衆が蜂起するのは、多くの場合権力による専制に耐えかねたといいた理由では無く、食べられなくなった時です。

背景には、気候変動による農業の不振が有ったと考える事が出来そうです。

それによる民衆の不満を、太平道張角が上手く煽動したという事なのでしょう。

黄巾の乱」で弱まった漢王朝は、220年に終焉を迎えます。

その後は、日本人の大好きな「三国志」の時代となります。

その三国の内の一つの魏に、邪馬台国卑弥呼朝貢する事になる訳です。

そして、最終的に魏の後を継いだ西晋が勝ち残り、その臣下の陳寿が『魏志倭人伝』を著すことになります。


同じ気候変動の影響が、日本では「倭国大乱」とその後の卑弥呼邪馬台国として現れたと考えてもよさそうです。


 意外とそこそこ良い線行っていると思うのですが、どんなものでしょうか。


ではでは

稲作の波及と気候変動

稲作の波及と気候変動の関係についての話です。

 

 

気候変動と歴史

 最近の記事で、太陽活動の低下による気候変動が歴史に与えた影響といった事を考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

そんな中で、今回は弥生時代における、稲作の波及について考えて見たいと思います。

稲作の波及

 考古学的な研究によると、縄文後期には稲はすでに作られていたようですが、水田による本格的な稲作の開始は紀元前10世紀頃に、北部九州で始まったとされているようです。

現在の日本から考えると、その後にあっという間に全国に稲作が広がったようにも思えますが、そうでは無かったようです。

これも考古学的な証拠によると、九州以外で確認されているのは、紀元前8世紀ごろに高知平野、紀元前7世紀に山陰・瀬戸内、そして紀元前750年頃から畿内にも広がったと考えられているようです。

更に、紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾周辺にも見られるようになりますが、それより東への広がりは一旦止まったようです。

その東方へは、紀元前3世紀から2世紀にかけて関東地方西部に広がったことが確認されています。

今のところ、この辺りが弥生時代水田稲作の東限と考えられているようです。

このあたりについては、以前の記事でも少し取り上げました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時には、当時の稲作の生産性が原因ではないかと考えましたが、どうもそれだけではないようです。

太陽活動から見ると

 以上の事を、次のいつもの太陽活動の図と比べて見ると、面白いことが分かります。
 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

紀元前7世紀前後の中部地方までの広がりと、紀元前3世紀ごろの関東地方までの広がりという、2度にわたる水田稲作の波及が、ホーマー極小期とギリシャ極小期の時期に一致しているように見えます。

極小期に向けては、気温の低下を中心とした気候変動が生じたと考えられますので、一般に稲作にとって条件は厳しくなるはずです。

その間に、東に向かって波及していったという事実をどう考えたらいいでしょうか。

稲作の受け入れ

 気候変動により、稲作に影響が有ったのは勿論ですが、それ以上にそれまでの縄文的な狩猟採集による生き方が維持出来なくなったという事では無いのでしょうか。

そのために、それまでの生き方を捨て、影響が有ったとはいえそれによって生き延びることが出来る稲作に乗り換えたのだと考えます。

その影響が及んだ範囲が、ホーマー極小期には中部地方までで、ギリシャ極小期には関東地方までだったのだと考えれば、説明が出来そうです。

その後は、図中ではローマ極大期となっている太陽活動の回復期であり、気候的にも回復したと考えられるので、それ以上東に縄文の生活から弥生の生き方への転換は波及しなかったのだと考えられます。

通常、水田稲作が有利だったから全国的に広がったと考えがちですが、日本においてはその自然の豊かさにより、その必要性は低かったのです。

むしろ、気候変動による環境の悪化に対応するために、仕方なく取り入れたという事だったと思われるのです。


まだまだ、気候変動の歴史への影響に関する妄想は続きます。


ではでは

やはり佐渡島は巨済島だった

佐渡島と巨済島の関係について考えた話です。

 

 

佐渡島は巨済島

 少し前の記事で、国生み神話について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

魏志倭人伝』に最初の寄港地として出て来る狗邪韓国が倭人の国であり、現在の巨済島にあったと考えられることから、「古事記」の国生み神話に出て来る大八島の内の佐渡はもともと巨済島の事だったのではないかという話でした。

巨済島は沙都島

 という事なのですが、別の件で色々なページを巡っている途中で、次のような地図を見付けました。

 

引用元:磐井の乱と朝鮮半島情勢 | 古代の歴史

 

見てもらえば分かりますが,右下辺りに沙都島(巨済島)とあります。

ルビは振られていませんが、「さととう」と読めそうです。

6世紀前半には、巨済島は沙都島と呼ばれていたようです。

読みから佐渡島とした

 上記の記事では、国生み神話に出て来る佐渡島は、元々は巨済島が当時呼ばれていた名称で入っていたのではないかとしました。

そして、元々巨済島(狗邪韓国)にいた倭人が、朝鮮半島本土に進出することで、その勢力範囲が島では無くなってしまった事から、年月が経る中でどこを指しているのか分からなくなってしまったのではないかとしました。

その上で、「大八島」なので、島である佐渡を充てたのではないかという話でした。

しかし上図に在ったように、事はもっと単純で、巨済島は沙都島と呼ばれていたわけで、その読みに合わせて佐渡島を充てたという事になりそうです。

やはり、国生み神話は、元来の倭人の勢力範囲がどのように作られたのかを説明した神話だったという事になりそうです。

日本書紀にも在った

 ところが、この沙都島について調べて見ると、『日本書紀』第17巻継体天皇に、百済の使者の文貴將軍という人物が沙都島経由で帰国したという記述がある事が分かりました。

これを見ると、沙都島の存在は、かなり後の時代まで知られていたとも考えられます。

そうだとすると、この当時には沙都島は朝鮮の勢力下だと考えられますから、それを国生み神話から外すために読みの似た佐渡島に変わっていったとも考えられそうです。

いずれにしても、国生み神話に出て来る佐渡島は、沙都島(巨済島)と考えてよさそうです。


 どうも、やはり文献はチャンと確認しておきましょうということですね。


ではでは

枢軸時代と日本における儒教

枢軸時代からに翻意置ける儒教について考えた話です。

 

 

枢軸時代と戦国時代

 前回までで、枢軸時代とも呼ばれている、釈迦、孔子ソクラテスの生きた時代について考えて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

彼ら3人が、同時期に離れた地域で、別個に神などの超越的なものに頼らない考え方を作り出した事をもって、枢軸時代と呼ばれているのでした。

その要因として、ホーマー極小期と呼ばれる太陽活動の低下が原因の気候変動により、それまでの社会システムが崩壊した事が考えられると書きました。

この太陽活動の低下による社会システムの崩壊という考え方は、その状況が戦国時代のそれと似ていることから思いついたのでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その結果として、枢軸時代が生み出されたとするならば、同じような要因で戦国時代のあった日本でも、なにか影響があったのではないかと考えたくなります。

それが、日本における儒教に見られるのではないかというのが、今回の話のポイントです。

日本における儒教

 前回までの話で何度も出て来たように、儒教の始祖孔子は紀元前500年頃に生きた人です。

つまり儒教はその頃からあった訳です。

それに対して、日本に儒教が初めてもたらされたのは、5世紀ごろと考えられているようです。

日本に来るまでに、約千年程かかった訳です。

その後、その考えが日本中に広まりました、という訳でも無かったようです。

かなりの期間に渡って、仏教の僧侶によって学ばれるに留まったのです。

昔のお寺は、学問が行われる場所でしたので、その中の一つとして取り扱われていたという事でしょうか。

その後、家康が儒教の一派朱子学を取り入れることになります。

その間、伝来より千年以上かかっていることになります。

孔子から数えると約二千年という事になります。

なぜ家康は取り入れたのか

 儒教の教えそのものは、理解に千年もかかるほど難解なものでは勿論ありません。

つまり理解した上で、それまでの統治システムでは取り入れられなかったという事になります。

それをなぜ家康が取り入れたのか。

勿論、天皇を中心とするそれまでの統治システムを刷新するために、新たな考え方を取り入れるという事も有ったでしょう。

それに加えて、枢軸時代と戦国時代に共通する状況があったのではないかと思うのです。

気候変動によりそれまでの社会システムが崩壊し、超越的なものを信じない考えが出てきたと考えられます。

勿論、全ての人がそうでは無かったというのは、一向宗の動向を見ても明らかですが。

そのような状況の下で、家康が意識していたかどうかは分かりませんが、朱子学を取り入れたという事なのでは無いでしょうか。

それでも、社会の中にそういった新たな考え方を受け入れやすい雰囲気があったという事なのでしょう。


 ここで独自のものが出てこないところが日本的なのかもしれません。


ではでは

釈迦、孔子、ソクラテスを生んだもの

釈迦、孔子ソクラテスの考えが生まれてきた理由を考えた話です

 

 

ここまでの話

 ここ何回かに渡って、釈迦、孔子ソクラテスの3者が、同時期に離れた地域で別個に神などの超越的なものによらない考え方を生み出した、その理由を考えるために彼らの生きた時代の共通点について考えて来ました。

その結果見つかった共通点は、「彼らの生きていたのが、太陽活動の低下による地球規模の気候変動により、ほぼ同時期に中国、インド、ギリシャで社会システムが崩壊し、その後の回復期に訪れた群雄割拠の時代だった」というものでした。

具体的には、下図のホーマー極小期からの回復期にあたっていたという事でした。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

この共通点が、釈迦、孔子ソクラテスの生み出した考え方にどのようにつながるのか考えて見よう、というのが今回の話になります。

社会システム崩壊以前

 気候変動によって社会システムが崩壊したと考える訳ですが、宗教の面から考えるとどうなるでしょうか。

先ずインドでは、前回の記事でも触れたように、バラモン教が成立していました。
バラモン教は、基本的に多神教で、その祭祀を執り行うバラモンが階級制度の最上位に位置するというもののようです。

次に中国では、天帝を中心とする世界観で有り、多神教と言っていいと考えられます。
宗教的最高権威を王が担っていたと考えられているようです。
その時使われたのが、有名な青銅器という事になります。

最後のギリシャでは、ミケーネ文明が栄えていたわけですが、彼らもまた多神教でした。
ミケーネ文明では、ポセイドンが主神だったという研究も有るようです。

3地域共に、それまでの社会システムは、上図に見られるように紀元前1000年前後をピークとする太陽活動の活発化により気候が改善する中で、神などの超越的なものを信じる宗教と共に発展してきたという事になります。

崩壊の2つの捉え方

 それがその後の紀元前750年頃のホーマー極小期に向けての気候変動により崩壊していくのですが、それに対してそれまでの宗教は無力だったと考えられます。

いくら超越的なものに祈ったりしても、気候変動に何らかの影響を与えられるはずがないですからね。

超越的なものに頼っても、なすすべなく社会は崩壊していきます。

そうなった時、受け取り方には二種類あるんじゃないかと思うのです。

一つは、崩壊していく中でも、少しでも良かった点を見付けたり、自分が生き残ったりした点を取り上げたりして、それを超越的なもののおかげ、それらが起こした奇跡だとかいった捉え方をするという受け取り方です。

こういった受け取り方をした人は、引き続き信じ続ける事になります。

こんなひどい状況を、おかげで乗り越えることが出来たという訳です。

そのため、3つの地域では、道教ヒンズー教、オリンポスの神々といった、多神教がその後も存在することになったと考えられます。

もう一つは、超越的なものを否定するような受け取り方をするものです。

いくら祈っても、何の助けにもならないじゃないかと考える訳です。

この否定的な捉え方を背景として、孔子、釈迦、ソクラテスが出て来たのでは無いでしょうか。

社会システムを再構築していこうとする群雄割拠の時代の中で、もう信じる事の出来なくなった超越的なものに寄らない考え方を作り出したという事なのでしょう。


 図にはほかにも多くの極大、極小期があって、色々妄想が膨らみます。


ではでは

枢軸時代の同時性の謎

枢軸時代の同時性の謎について考えた話です

 

 

枢軸時代の同時性

 前回の記事は、その活動が「枢軸時代」とも呼ばれている、釈迦、孔子ソクラテスの3人の生きた状況がよく似ていたという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

具体的には3人共に、一定の社会システムが存在し、かつそれが崩壊する過程を経た後の、群雄割拠の時代に生きていたというものでした。

そして、それがほぼ同じ時期に起こったというのが、残った謎という事でした。

戦国時代が似ている

 さて、私的には、上に書いた「一定の社会システムが存在し、かつそれが崩壊する過程を経た後の、群雄割拠の時代」というのに思い当たる節があります。

それは、戦国時代です。

以前の記事で、戦国時代の背景について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

律令制以来の社会システムが室町時代末期に崩壊し、その混乱からの立ち直りの過程が戦国時代だと考えました。

これは、上記の「枢軸時代」の時代背景に似ているのと思うのです。

太陽活動が原因か

 更に、室町時代末期の社会システム」の崩壊は、シュペーラー極小期と呼ばれる太陽活動の低下による世界的な気温の低下で、農業生産が低下した事が原因だとも考えました。

これと同じことが、「枢軸時代」に発生したとすれば、地球規模での気候変動となるので、地理的に離れた地域で同時に同じような状況が発生した事を説明出来そうです。

という事で調べて見ると、ありました。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

図中のほぼ中央にあるホーマー極小期は、そのボトムが紀元前750年前後と考えられているようです。

紀元前1000年頃に在るピークから低下していく中で、それに伴う気候不順により社会システムが崩壊し、その後の混乱期を経て、紀元前500年頃の次のピークに向けて回復する過程で、群雄割拠の時代になったと考える訳です。

共通点は見つかった

 これで、ほぼ同時期に中国、インド、ギリシャで社会システムの崩壊とその後に群雄割拠の時代が現れたことは説明出来そうです。

さて、ここまで「枢軸時代」における同時性について考えて来たのは、そこに生きた3人の人物、孔子、釈迦、ソクラテスが、超越的なものに寄らない考え方を、同時期に別個に生み出した要因を見つけるために、その3者の共通点を探そうとしたからでした。

その結果見つかった共通点は、「彼らの生きていたのが、太陽活動の低下による地球規模の気候変動により、ほぼ同時期に中国、インド、ギリシャで社会システムが崩壊し、その後の回復期に訪れた群雄割拠の時代だった」というものでした。

では、この共通点で、孔子、釈迦、ソクラテスが新たな考え方を生み出したことは、説明出来るでしょうか。


 次回、その点について考えて見たいと思います。


ではでは

枢軸時代について

枢軸時代について考えた話です

 

 

前回の話

 前回の記事では、釈迦、孔子ソクラテスについて考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

3人が生み出したものは、いずれも超越的なものによらない新たな考え方でした。

それがほぼ同時期に地理的に離れた地域で独立に起こっており、まとめて「枢軸時代」と呼ばれています。

そして、その「枢軸時代」が生じた要因を、「人類が精神的に覚醒した」とする考え方もあるのですが、それは考え難いのではないかという内容でした。

では「枢軸時代」をどう考えるのかという事ですが、複数の事象が有って、それらを説明する要因を見付けたいと思った時には、全ての事象に共通する事柄を探すというのが常套手段の一つです。

という訳で、彼ら3人が新たな考え方を生み出した時の状況を調べてみました。

孔子について

 中国の孔子は、春秋時代の人です。

春秋時代は、それ以前の周(西周)王朝が約300年弱続いた後の、それ以降の動乱時代です。

周王朝の力が衰える中で、各地の諸侯が覇を争う時代でした。

孔子はその中の魯国に生まれました。

釈迦について

 インドの釈迦は、十六大国と呼ばれる国々が覇を争っていた時代の人になります。

インド(北部インド)では、紀元前1000年頃からバラモン教と共に、農耕社会が発展した様です。

その中で、バラモン教によるカーストの最高位であるバラモンの絶対的権威が低下する中で、諸勢力が台頭し十六大国の時代となります。

その十六大国の内の一つのコーサラ国に、釈迦は生まれました。

その領域内に居住していた釈迦族に属していたという事のようです。

ソクラテスについて

 ギリシャソクラテスは、多くの都市国家ポリスが覇権を争っていた時代の人となります。

ポリスが発達する前には、ギリシャではミケーネ文明が栄えていました。

そのミケーネ文明が崩壊し、その実態があまりよく分かっていない「暗黒時代」と呼ばれる時期を経て、各地にポリスが生まれてくることになります。

そのポリスの一つアテナイに、ソクラテスは生まれました。

群雄割拠の時代

 以上見てきたように、3人共にいわゆる群雄割拠の時代に生きたという事が言えそうです。

しかもそれだけでなく、群雄割拠の状態になる以前に一定の社会システムが存在し、かつそれが崩壊する過程を経て来ているという点も共通していると言えるでしょう。

これが、彼らがその考え方を生み出した要因でしょうか。

もしそうだとしても、もう一つ解決すべき疑問が残ります。

それは、こういった状況が、離れた地域でほぼ同じ時期に起こっているという点です。

一定の社会システムが存在した後に崩壊し、その混乱の中で、少なくない勢力が覇を目指して争うというのは、それほど珍しくもないとも言えそうですが、それが三つの地域でほぼ同時に起きるというのは、偶然とは考え難いです。

何か、それを必然とするさらなる要因がありそうです。


 そのさらなる要因に関しては次回で。


ではでは

 

釈迦、孔子、そしてソクラテス

釈迦、孔子ソクラテスについて考えた話です。

 

 

釈迦と孔子は同時代

 中国の三大宗教と言われる仏教、儒教道教は、様々な悩みに対して人間自らの行いで解決していこうというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そのなかでも、特に仏教と儒教には、神などの超越的なものの存在を考えないという特徴がありました。

ところで、その仏教と儒教には、それ以外にも興味深い点があります。

それは、仏教の開祖釈迦と、儒教の始祖孔子が同じ頃に活動をしていたという事です。

孔子の生没年は、紀元前551年 - 紀元前479年です。

一方釈迦については諸説あるようですが、日本も含まれる北伝仏教では、紀元前565年 - 紀元前486年という事になっています。

説によっては前後するのですが、ほぼ同じ頃にそれぞれの考えを生み出したと言っていいでしょう。

西洋ではソクラテス

 さてこうなると西洋も気になるところです。

そう考えて同時期の西洋を見て見ると、西洋哲学の基となるギリシャ哲学が興っていることが目に付きます。

その代表とも言える人物が、「哲学の父」や「哲学の祖」とよばれてるソクラテスと言えるでしょう。

彼の生没年は、紀元前470年-紀元前399年です。

同時期に、中国、インド、ギリシャという離れた場所で、別個に超越的なものによらない考え方が生み出されたという事になります。

「枢軸時代」

 こういった興味深い事実は、多くの人に注目をされて来ました。

その代表的なものに、ドイツの哲学者カール・ヤスパースの唱えた「枢軸時代」というのがあります。

「枢軸時代」とは、「世界史の軸となる時代」という意味で、この時期に「人類が精神的に覚醒」したと捉えているようです。

中にはこの時期を称して、「知の爆発」と呼ぶ人もいるようです。

確かに複数の場所で個別に釈迦、孔子アリストテレスが出現した訳ですし、それだけでなく中国の諸子百家を始めとする、その他の数多くの思索家達も登場しています。

なので、これを持って「知の爆発」と呼ぶことは出来るかもしれません。

精神的に覚醒したのか

 しかし、「人類が精神的に覚醒」というのはどうなんでしょうか。

この時代を境に人間がなにか精神的に成長したという感じはしないというのが、正直なところでは無いでしょうか。

それ以前の、例えば古代エジプトの様々な事柄を見ても、今の我々とあまり変わらないと思う事が多いのではないでしょうか。

大体そうであるならば、その他の世界ではどうなんだという話になるじゃないですか。

我々日本人の場合を考えても、紀元前500年頃に精神的に覚醒したというような証拠は見つかっていないようですし、そんな感じもしませんよね。

それでは結局の所、「枢軸時代」というのはどう考えれば良いのでしょうか。


と煽るだけ煽って次回に続きます。


ではでは

縄文時代の物流

縄文時代の物流について考えた話です。

 

 

縄文時代も交易

 縄文時代で特徴的な事といえば、このブログでも取り上げたことが有る、個性的な土偶や土器が挙げられますが、個人的には、広範囲にわたる物の移動も気になるところです。

黒曜石やヒスイなどの特定の地域でしか産出しない物が、非常に広範囲の地域の遺跡から発見されることから、縄文時代にも活発な交易が行われていたと考えられています。

例えば、長野県で出土する 黒曜石 や、新潟県で出土するヒスイが、千葉県の加曽利貝塚で出土したといった具合です。

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引用元:【高校日本史B】「縄文時代の交易」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

 

どうやって交易が

 とはいうものの、何か釈然としない気がするのです。

これらの物が運ばれてきたとして、誰が何のために持って来たんだろうかと思うのです。

例えば、それを商売にしようと思った人が、自分で運ぶか誰かに頼むかして持ってきて、販売する事になります。

しかし縄文時代貨幣経済はないので、お金を貰うという訳にはいきません。

従って、物々交換ということになりますが、丁度うまい具合に交換出来るものが各地に有ったとは思えません。

それ以前に、狩猟採集を行っていた人々が、どうやって遠隔地まで運んだのでしょうか。

途中で、狩猟採集をしながら運んで行ったのでしょうか。

というように、どうも現実的では無いような気がしていたのです。

しかし、現に各地の遺跡から発見されているので、物が何らかの形で運ばれてきたのは疑いようがありません。

どう考えれば良いでしょうか。

時間がポイントか

 以前の記事で、一万三千年!も続いたと考えられている期間を、縄文という一括りの捉え方をするのはどうかという記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

今回の物流の話も、同じ事なのでは無いかと思いつきました。

現代人としては、物品が生産地から離れたところに有れば、短時日で運ばれてきたと考えてしまいがちです。

何しろ、近くのスーパーにでも行けば、それこそ全国からの生鮮品が並んでいますからね。

例えば、黒曜石で矢じりが作られると、すぐに全国各地へ向けて送られていたかのように思ってしまう訳です。

しかし、それが一万三千年の時間の間に起きたことだと考えてみます。

そこに、産地から発掘された場所まで運ぶための、人と手段を考える必要は無くなるのではないでしょうか。

短時間で直接運ばれたのではなく、隣り合うか、ごく近傍のグループ間で物々交換や贈与などによって長い時間を掛けて伝播していき、その結果として広範囲に分布したものだとするとどうでしょう。

それを我々が発掘し、現代的に考えて、なにか広範囲の物流網のようなものが有ると考えてしまったという事なのではないでしょうか。


 意外と、黒曜石の矢じりが嫁入り(婿入り)道具だったかもしれません。


ではでは