狗邪韓国の位置について考えた話(後編)です
厄介な問題
前編、中編と狗邪韓国の位置について考えて来ました。
その結果は、同じ『魏志』の一部である『魏志倭人伝』と『韓伝』のそれぞれの記述から考えると、矛盾してしまうというものでした。
具体的には、『魏志倭人伝』から考えると、狗邪韓国は現在の巨済島となり、『韓伝』から考えると、朝鮮半島の南端になってしまうという事でした。
かたや島に、かたや朝鮮半島本土に有ったという、相反する結果になってしまった訳です。
これはなかなか厄介な問題だという話でした。
棚上げしていたが
とはいいながら、実は個人的には、あまり大きな問題だとは思っていませんでした。
狗邪韓国が島に在ろうが、朝鮮半島本土に在ろうが、私的にはどちらでもいいからです。
なぜなら、どちらに在っても、その後の邪馬台国までの旅程に影響は全くないですからね。
出発地点が多少変わっても、とにかく対馬まで千余里の所から出発したと考えれば、何ら問題はないわけですから。
という訳で、この件に関しては、喉に小骨が引っ掛かっているようなスッキリしない感じではあるんですが、一応棚上げという扱いにしていました。
ところが、最近になってこの矛盾を解消出来そうな仮説を思いつきました。
それは、「書かれている対象の時点が異なっているから」というものです。
『魏志倭人伝』と『韓伝』に書かれているのが、異なる時点の話だと考えれば、その内容に矛盾が有っても問題ないだろうという事です。
ところで、至極当たり前の話ですが、陳寿が『魏志倭人伝』と『韓伝』を含んだ『三国志』を書くにあたっては、その時点で集められる情報を基にしたはずです。
では、『魏志倭人伝』と『韓伝』の基になった情報とはどういったものだったでしょう。
対象の時点はどう異なるのか
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が朝貢を行ったのは238年で、その二年後にそれに対する使者が魏から遣わされます。
この時の使者の報告書が『魏志倭人伝』の旅程部分の基となっていると考えられます。
さて、陳寿が『三国志』を書いたのは、280年(呉が滅亡)~297年(陳寿没年)の間とされています。
つまり、卑弥呼の朝貢は、陳寿から見て40~50年前の話なのです。
その間、台与による朝貢などの情報の追加は有ったものの、邪馬台国までの旅程に関する情報が更新されることは無く、陳寿が参照したという事になります。
それに対して、『韓伝』の方はどうでしょうか。
魏王朝は、その対象の朝鮮半島に、楽浪郡、帯方郡を置いて直接対峙している訳です。
そのため、いわゆる三韓の情報については、常に更新がされていたはずです。
陳寿は、当然その最新の情報を基に書いたと思われます。
つまり『魏志倭人伝』と『韓伝』の記述の基になった情報の間には、最大約半世紀の時間差が有ったと考えられるのです。
その半世紀の間に、倭人が朝鮮半島本土に進出し、南部に橋頭堡を築くに至っていたとすれば、『魏志倭人伝』と『韓伝』の記事に矛盾はない事になります。
つまり、『魏志倭人伝』に書かれた時点では、狗邪韓国は巨済島にあったのです。
私的には、喉に刺さっていた小骨が取れたようで、スッキリした感じです。
ではでは