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遣唐使と日本書紀

遣唐使日本書紀の関係について考えた話です。

 

 

信じてもらえなかった

 前回の記事では、「大宝律令」後の遣唐使について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

大宝律令」制定によって、大和政権を中心とする国家のシステムを造った上で、白村江の戦い以来の唐との関係を正常化するのを目的として703年に遣唐使を派遣したという話でした。

その結果、特に断交されることもなく、その目的は一応達せられたといってもいいでしょう。

ただ、使者による「日本」という小国が「倭」を併したという話は、中国側に信じてもらえなかったようです。

このことが、「日本書紀」編纂のきっかけになったのではないかというのが、今日の話になります。

日本書紀」については

 「日本書紀」については以前に、当時の実質的な最高権力者である藤原不比等が編纂させたという内容で記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

彼が造り上げた権力構造を守るために、文武天皇の即位の正当性を「日本書紀」により示そうとしたのです。

その時に、「史記」を参考に、通史という形を採用したのだと考えました。

目的の一つではあったが

 確かにそういった思惑もあったことは否定出来ないでしょう。

しかし一方でよく考えて見ると、それだけで権力構造を確固たるものに出来るわけでは無い、というのもまた確かでしょう。

つまりそれだけでは、通史を編纂するという動機としては不十分とも言えそうです。

そう考えると703年の遣唐使において、「日本」に関する使節の話を、中国側が信用しなかったという事が、通史を編纂するきっかけになったのかもしれません。

帰国した遣唐使から、中国側の対応について報告を受けた藤原不比等は、ショックを受けたと思われます。

大宝律令」を制定し、律令体制という国家の体制を整えた上で、満を持して遣唐使を派遣したはずです。

その結果が、信用できないという中国側の対応だったわです。

不比等は、「日本」の正当性を示すための通史の必要性を感じて、編纂を命じたのです。

史記」を手本に

 そしてその手本として、「史記」を採用しました。

史記」を手本とすると、必然的に現体制の正当性を示す形になります。

この場合現体制は、遣唐使を派遣した文武天皇という事になります。

現体制の天武天皇は、徳があるからその地位を継承したのだという形で編纂されることになります。

そのため「日本書紀」は、文武天皇の前代持統天皇までが纏められたものとなたのです。

しかしながら、文武天皇が707年に25歳の若さで亡くなってしまい「日本書紀」が間に合わなかったのは、不比等にとっても誤算だったに違いありません。


日本書紀」編纂理由に関する自説の修正案という話でした。


ではでは