公開土王碑に記された倭は、どんな勢力だったのか考えた話です。
太陽活動の図はありません
前回の話は、武烈天皇から継体天皇への皇位継承の背景にも、太陽活動の低下の影響が有ったのではないかというものでした。
それに合わせて、過去に書いたその周辺の記事を読み返したのですが、その中で公開土王碑文に出て来る倭について、別な解釈も成り立つと思いつきました。
という事で、今回は久々に太陽活動絡みの話ではありません。
公開土王碑以前
先ずは、本ブログで考える、公開土王碑に書かれた時点までの経過を簡単におさらいします。
九州に有ったと考えられる邪馬台国の卑弥呼が、中国の魏王朝に朝貢をします。
その魏王朝の後を継いだ西晋王朝が倒れて、五胡十六国の動乱の時代になります。
その動乱に追われて、朝鮮半島にあった西晋の支配地域から、亡命者が邪馬台国にやって来ることになり、政権にも参画します。
大陸の動乱が海を越えてやって来るのを危惧して、九州から畿内へ東遷を行います。
その時に、防衛の最前線として、九州にも政権一族の者も含めて一部のものが残ります。
そして、広開土王碑にある様に、倭による朝鮮半島への侵攻を行い、高句麗に敗北することになる訳です。
碑文によれば、391年から404年までの出来事になります。
侵攻には全国的な政権が
これまでは、これを行ったのが、東遷を完了して全国的な政権を樹立したヤマト王朝だったと考えていました。
その後の日本の歴史、例えば秀吉の朝鮮出兵等、から考えても、朝鮮半島に侵攻するには、全国的な政権が必要だと思っていたからです。
しかし、ヤマト王朝の体制を象徴すると考えられる前方後円墳については、5世紀を通じて各地に広がっていきます。
という事は、朝鮮半島に侵攻する時点では、まだ全国的な政権とはなっていない可能性が高い事になりそうです。
畿内のヤマト王朝は、五世紀を通じて各地の勢力と争っていたとも考えられる訳です。
朝鮮半島への侵攻どころではなかったように思われます。
誰が侵攻したのか
それでも、朝鮮半島への侵攻のあった事は確かです。
誰が侵攻を行ったのでしょう。
考えられるのは、東遷時に九州に残った勢力です。
東遷が始まった当初こそ、大陸からの侵攻に警戒していたはずですが、そのうちにそういった可能性がほぼ無くなったことが分かったはずです。
そうなると、九州にも残っていたと考えられる亡命者の中から、朝鮮半島に戻る事を考える声が出てきても不思議は有りません。
その声を受けて、侵攻を画策したと考えられるのです。
朝鮮半島まで足掛かりが有った
さて、以前の記事で、『魏志倭人伝』における最初の寄港地「狗邪韓国」の位置を考える中で、西晋の陳寿により倭人伝が書かれた時点で、朝鮮半島の南部に倭の拠点が有ったと考えました。
その後上記のように、西晋が倒れて五胡十六国の時代になる訳ですが、当然朝鮮半島南部への倭の影響力も、それなりに残っていたはずです。
これらを足掛かりとして朝鮮半島に侵攻したとすれば、九州に残った勢力だけで行う事も可能だったとも考えられます。
畿内の政権に伝えることなく、九州側だけで行ったという事なのかもしれません。
次回は、以上の内容を受けて、「倭の五王」について考えます。
ではでは