稲作の波及と気候変動の関係についての話です。
気候変動と歴史
最近の記事で、太陽活動の低下による気候変動が歴史に与えた影響といった事を考えています。
そんな中で、今回は弥生時代における、稲作の波及について考えて見たいと思います。
稲作の波及
考古学的な研究によると、縄文後期には稲はすでに作られていたようですが、水田による本格的な稲作の開始は紀元前10世紀頃に、北部九州で始まったとされているようです。
現在の日本から考えると、その後にあっという間に全国に稲作が広がったようにも思えますが、そうでは無かったようです。
これも考古学的な証拠によると、九州以外で確認されているのは、紀元前8世紀ごろに高知平野、紀元前7世紀に山陰・瀬戸内、そして紀元前750年頃から畿内にも広がったと考えられているようです。
更に、紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾周辺にも見られるようになりますが、それより東への広がりは一旦止まったようです。
その東方へは、紀元前3世紀から2世紀にかけて関東地方西部に広がったことが確認されています。
今のところ、この辺りが弥生時代の水田稲作の東限と考えられているようです。
このあたりについては、以前の記事でも少し取り上げました。
その時には、当時の稲作の生産性が原因ではないかと考えましたが、どうもそれだけではないようです。
太陽活動から見ると
以上の事を、次のいつもの太陽活動の図と比べて見ると、面白いことが分かります。
紀元前7世紀前後の中部地方までの広がりと、紀元前3世紀ごろの関東地方までの広がりという、2度にわたる水田稲作の波及が、ホーマー極小期とギリシャ極小期の時期に一致しているように見えます。
極小期に向けては、気温の低下を中心とした気候変動が生じたと考えられますので、一般に稲作にとって条件は厳しくなるはずです。
その間に、東に向かって波及していったという事実をどう考えたらいいでしょうか。
稲作の受け入れ
気候変動により、稲作に影響が有ったのは勿論ですが、それ以上にそれまでの縄文的な狩猟採集による生き方が維持出来なくなったという事では無いのでしょうか。
そのために、それまでの生き方を捨て、影響が有ったとはいえそれによって生き延びることが出来る稲作に乗り換えたのだと考えます。
その影響が及んだ範囲が、ホーマー極小期には中部地方までで、ギリシャ極小期には関東地方までだったのだと考えれば、説明が出来そうです。
その後は、図中ではローマ極大期となっている太陽活動の回復期であり、気候的にも回復したと考えられるので、それ以上東に縄文の生活から弥生の生き方への転換は波及しなかったのだと考えられます。
通常、水田稲作が有利だったから全国的に広がったと考えがちですが、日本においてはその自然の豊かさにより、その必要性は低かったのです。
むしろ、気候変動による環境の悪化に対応するために、仕方なく取り入れたという事だったと思われるのです。
まだまだ、気候変動の歴史への影響に関する妄想は続きます。
ではでは