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継体天皇と太陽活動

継体天皇と太陽活動の関係についての話です。

 

 

6世紀と言えば

 前回は、古墳時代における前方後円墳の全国への普及と衰退が、中世極小期に向かう直前の比較的変動の穏やかな時期と、その後の極小期に向けての低下の開始を背景としていると考えられるという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

何は無くとも、例の図です。
 

 引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

図から、極小期に向かっての低下の開始は、6世紀付近という事になります。

さて6世紀と言えば、直ぐに思いつくのが継体天皇です。

その在位期間は、507年から531年までとされていますので、6世紀前半という事になります。

継体天皇の即位

 この継体天皇に関しては、以前に記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』によると、色々と問題の有る武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったために、応神天皇の5世孫の男大迹王を探し出して迎えたのが継体天皇という事になっています。

この書き方が、中国での正史における王朝交代記述のパターンと酷似していることから、書かれているように平和裏に継承されたのではなく、なんらかの紛争のようなものがあったのではないかと考えたのでした。

この事に、気候の変動が関係しているのではないかというのが今回の話になります。

応仁の乱のように

 継体天皇については、さらに別の記事で、その出自について考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

邪馬台国東遷時に九州に残った人々の子孫ではないかというものです。

それが応神天皇の五世の孫だったのでは無いかという訳です。

そして、正面から反旗を揚げるのではなく、裏口とも言える、日本海側、東海など、周辺の勢力と連携をしたという事では無いかと考えました。

その背景として、気候変動による政情不安が有ったと考える事が出来そうです。

ヤマト王朝の中枢で、戦国時代の始まりとして、気候変動を背景とした「応仁の乱」があったのと同じような状況が発生していたと想定します。

それに乗じて介入して、一方の勢力から担がれ、その争いに勝ち残ったのが継体天皇だったと考える訳です。

彼が、即位から19年もの間各地を転々として奈良の地に入らなかったという話は、実はこの間、一方的に即位はしたものの争いが続いていたという事なのかもしれません。

倭彦王は対立候補

 更に妄想を膨らませるならば、男大迹王(継体)の前に次期天皇候補として探し出された、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王が、実は対立した陣営に擁立された人物だったというのはどうでしょう。

倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまったという話は、天皇候補としてはいかがなものかという書かれようです。

だから推挙されなかったという事なのでしょうが、実際には継体側との戦いの末に敗れ去ったと考えます。

あくまでも、五世の孫という正当な血統である継体天皇へ、平和裏に皇位継承が行われたという形を強調するための『日本書紀』の記述だったのではないでしょうか。


 やはり、継体天皇の時に何らかの画期が有ったような気がします。


ではでは