前方後円墳のあの形状が、どのように始まったのか考えた話です
前方後円墳
前方後円墳の形に関しては、以前の記事でも一度考えたのですが、その時には、あのデザインそのもののインパクトが大きかったのではないかという結論でした。
まあ、はっきり言えばよく分からないという事です。
改めて、あまりにも有名なその形状を確認しておきましょう。
ここでは、外堤、周濠、陪塚、造り出しなどは無い古墳も多い事から、それらを除いた、前方部と後円部からなる部分に注目したいと思います。
この独特の形状が、どのようにして出来上がったのかを、もう一度考えたいと思います。
なぜ前方で後円なのか
前方部、後円部という名称からも分かる様に、一般的に台形の部分が前で、円形の部分が後ろだと考えられています。
この組み合わせに関しては、一般に次のように説明されます。
現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。
引用元:前方後円墳 - Wikipedia
という事です。
それにしても、上の説明においても、様々な理由が上げられていますが、いずれもその用途に関する考察が主であり、どうして円形と方形の組み合わせになったのかと言う説明には成っていないように思えます。
邪馬台国の人々が見ていたもの
さて前の記事で、卑弥呼の墓と邪馬台国について、卑弥呼の墓=宇佐神宮の北西側の低地に広がる邪馬台国=宇佐市南宇佐という位置関係に有ったのではないかと考えました。
前期古墳時代までは、低地を見下ろすような地形に立地が多く、首長クラスでは、治めていた場所を見渡すような場所に作られていると考えられており、卑弥呼の墓の場合も同様に考えられるのではないか、というのを根拠としました。
という事は、裏を返せば邪馬台国の人々は、日々折に触れて卑弥呼の墓を見上げていた事になります。
卑弥呼の墓の有る情景
卑弥呼の墓が宇佐神宮だと考えた時に、赤色立体図を用いました。
その時に使用した図が次のものでした。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
緑色の円は、卑弥呼の墓の円墳に当たる部分を示すために、私が追記したものです。
この赤色立体図を始めてみた時には、正直これは円墳ではなく、前方後円墳では無いかと思いました。
その後、記事の中でも書いたように、地形を検討することに拠り、標高30m付近を造成することに拠り円墳を形成し得ると考えました。
その事は、邪馬台国の人たちは当然知っていたはずですが、日々卑弥呼の墓を見上げていたその脳裏には、円墳とその前方の一段低い部分の情景が有ったのでは無いでしょうか。
前方後円墳の始まり
さて、邪馬台国は、その後東遷をして畿内に大和政権を作ったと考えている訳ですが、その地で首長クラスの墓を作るとなった時に、どう考えたでしょうか。
始祖とも言える卑弥呼の墓の前例に倣ったと考えるのが自然でしょう。
その時に、卑弥呼の墓は円墳だった訳ですが、彼らの脳裏には、上で考えたように、邪馬台国の地で見た卑弥呼の墓の情景が有ったはずです。
そこで作られたのが、円墳とその前方に有る部分をそのまま模倣した墓だったのではないでしょうか。
それが、結果として前方部と後円部からなる「前方後円墳」を作ることになったのです。
という訳で、「前方後円墳」は卑弥呼の墓へのオマージュから出来たという事になります。
その最初期の例の一つが箸墓古墳なのでは無いでしょうか。
ではでは