「倭の五王」について考えた話です
名前から探る
中国の歴史書に、5世紀に朝貢をしたと記述の有る「倭の五王」は、「讃・珍・済・興・武」となります。
「倭の五王」については、昔からその正体について論争が有ります。
なにしろ、『日本書紀』、『古事記』のいずれにも、名前が一文字の天皇というのは出てきません。
そのため、誰がどの天皇になるのかを色々と考える事になっているわけです。
直ぐに思いつくのは、『記紀』に在る名前で似ているものを探すというものでしょうか。
現在の所、最も有力な仮説と思われているのが、「武」が第21代雄略天皇とするものです。
『日本書紀』に彼の名前として、大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)とあり、最後の文字が「武」であるのに加えて、在位期間も同時期と考えられる事からそう比定されているようです。
しかし、名前の一部に同じ文字があるからというのは、贔屓目に見ても苦しいですよね。
それに、そもそも「大泊瀬幼武天皇」というのは諡号のはずなので、その中に同じ文字が有るからというのは、成り立たないんじゃないかとも思うのですが。
血縁関係から探る
それじゃあ、という訳でもないでしょうが、血縁関係から調べるという手法も有ります。
歴史書の記述の内容から彼ら5人の血統関係が分かります。
例えば「武」についての記述には「興死して弟武立」という記述が有る事から、「武は興の弟」という事が分かるといった具合です。
まとめると、次の図のようになるようです。
引用元:倭の五王 - Wikipedia
名前から有力と見られている雄略天皇までの歴代の天皇の系図は次のようになります。
引用元:倭の五王 - Wikipedia
「讃・珍」と「済」が兄弟ならば、17代履中から21代雄略まででぴったりという事になるのですが、残念ながらそれを示す証拠はないようです。
その他の天皇についても、当てはまる系譜は無いという事のようです。
ヤマト王朝の天皇ではなかった
というような感じで、「倭の五王」については確定に至っていないというのが現状です。
ところで、「倭の五王」については一度記事を書いています。
この記事の中では、「倭の五王」による中国への朝貢は、広開土王碑にある様に朝鮮に侵攻して撃退されたことを受けて、政策の変更を行った結果だと考えました。
高句麗が手強いと見て、朝鮮半島における権益を確保する方向に、方針転換をしたと考えた訳です。
当然、方針転換したのは、東遷を完了した畿内のヤマト王朝という事になります。
ところが前回の記事で、朝鮮半島に侵攻したのが、東遷時に九州に残った勢力だったという可能性も有る事が分かりました。
という事は、方針転換したのも九州に残った勢力である可能性が有ることになります。
であるならば、中国に朝貢したのも、この九州に残った勢力という事が言える事になります。
そう考えれば、名前の件も、血縁関係の件も問題とではなくなります。
単純に、九州の勢力にそういった人物がいたというだけの話になります。
九州に残った勢力が、そんなことを勝手にしてしまっていいのでしょうか。
そのあたりは次回考えてみたいと思います。
ではでは