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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

軍団考

軍団について考えた話です。

 

 

大宝律令というフォーマット

 以前の記事で、壬申の乱で権力を奪取した天武天皇の政策について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そのポイントは、それ以前の各地の勢力との間の冊封的体制を、大和政権による中央集権的体制への移行を画策していたというものでした。

その体制のフォーマットとして律令制を採用しようとしたのですが、それが最終的に結実するのは、二代後の文武天皇による大宝律令だったわけです。

フォーマットを作っただけでは

 上の記事でも少し書きましたが、大宝律令によってフォーマットは作ったわけですが、それに各地の勢力のすべてが、はい分かりましたと言って組み込まれるというのは考え難いのです。

しかし、歴史上は最終的に大和政権の中央集権的な体制が作られています。

勿論、豊臣秀吉による全国制覇のようなことは起きていません。

では、何があったのでしょう。

「軍団」について考えることで、そのあたりを説明出来るのではないかというのが今回の話になります。

軍団というシステム

 ここで取り上げる「軍団」は、大宝律令で規定された軍事組織で、大和政権が徴兵、維持を行う、地方の政治機構から独立している点にあります。

一般に、それ以前には「国造軍」と呼ばれる中央・地方の豪族が維持している軍事力があったと考えられています。

ところで本ブログでは、「国造」は、冊封的関係にあった各地の勢力に、大和政権が授けたものだと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

つまり、「国造軍」は、大和政権のコントロール下にはない軍事力という事になります。

律令制下に組み込まれるという事は、大和政権のコントロール下の軍事力を認めるという事になり、容易に認められないものだったはずです。

どうクリアしたのか

 それをクリアした過程は、次のようなものではなかったかと考えます。

先ず、大和政権の勢力範囲に「軍団」を導入します。

具体的には、畿内紀伊半島、旧九州勢力の勢力範囲といったところでしょうか。

それを一元的に運用することによる軍事力を背景に、周辺の地域から順次体制への参加を交渉、参加した地域での「軍団」の整備、一元的な運用と交渉、を繰り返すことで、全国を体制に組み込んでいったのです。

勿論、ただ軍事的に圧をかけるだけではなく、参加した場合の国司以下の官吏への任命という見返りを提示したと考えられます。

「軍団」は、軍事力の強化と律令制の導入という、一石二鳥のシステムだったのです。

納得しない勢力も

 元々の勢力範囲の周辺から徐々に体制化を進めていったわけですが、当然否とする勢力も出て来ます。

それの大規模なものが、720年の隼人の反乱と724年の蝦夷の反乱という事なのだと思います。

いずれも、大和政権からは遠く、元々冊封的ですらなかったと考えることも出来そうです。

加えて、701年に大宝律令を制定してから、それを全国に展開するのに20年以上かけても、いまだ完遂していなかったという事になります。


 反乱というのは、あくまでも大和政権側の理屈ですよね。


ではでは