中国三大宗教について考えた話です
中国三大宗教の特徴
前回まで、中国三大宗教と呼ばれている、仏教、儒教、道教について考えて来ました。
その特徴は、それぞれ以下の様でした。
まず仏教は、考えるから様々な悩みが生じるとして、考えることそのものに焦点を当てて悟りに至るというものでした。
次に儒教は、より良く生きていくために必要なことと、それをどう行うのかを決め守ることで悩みに対処していこうとするものでした。
最後の道教は、神仙の術を修めて仙人となり、不老不死の能力を始めとする様々な能力を手に入れようとする点が特徴的なものでした。
共通的な特徴
個人的には宗教の原点は、考える事により生じる悩みに対処するために、精霊や神などの超越的な存在を作り出す点にあると考えています。
それに対して、三大宗教は上記のように、仏や神仙のような超越的な存在を想定することはありますが、基本的にそれらに救いを求めるのではなく、人間自らの行いで対処していこうとするものだという事が言えそうです。
仏教の悟りを開くはまだしも、道教の仙人はチョットどうなのかという感じもしますが、その可能性どうこうという事では無く、そういう考え方なのだという事です。
勿論、仏様や神仙に救いを求めるという人の方が多いわけですが、それぞれの宗教の根本にはこういった面があるという話になります。
という訳で、中国の三大宗教には、人間自らの行いで解決していこうという特徴がある事が分かりました。
要因は何か
これは、たまたまそうだったというよりも、中国の人々にある何らかの要因により選ばれたと考える方が、私的には納得できるところです。
要因としてはどのようなものが考えられるでしょうか。
超越的なものに救いを求めるのではなく、人間自ら解決していこうというのですから、超越的なものに対する信頼というか、期待をしないような考え方がベースに在ると考える事が出来そうです。
そうだとして、どうしたらそういった考え方になるか考えて見たいと思います。
中国と言えば黄河文明ですが、その発生した辺りは年間降水量が1000㎜程と少ない乾燥地帯だそうです。
黄河の氾濫域と水を使った農耕が始まる前は、非常に厳しい生活環境だったと思われます。
逆にそういった環境故に、早くから農耕が発達したという事も言えるのかもしれません(今思いついただけで、裏付けは全くありません。)
それはともかくとして、生きていくだけで大変な環境の中では、超越的な存在を考えても、それで現実が改善されるという事は実際には有り得ないので、そういった考えに重きを置かない考え方が形成されたという事なのかもしれません。
その後文明が発達して、生きていくのに余裕が出て来ると、超越的な存在に救いを求める人も出て来たという訳です。
というのが今のところ思いついた仮説ですが、そういう事ならば、もっと他の地域でも似たような事が有りそうですが、あまりこれといって思いつきません。
この辺りは、もう少し考えて見る必要がありそうです。
一衣帯水の中国ですが、やはり一筋縄では理解出来ないようです。
ではでは