邪馬台国東遷説から見て、広開土王碑における倭と、倭の五王の事績を解釈してみた話です。
東遷が完了して
以前の記事で、いわゆる謎の4世紀に、邪馬台国が九州から畿内に東遷したと考えられると書きました。
東遷が終わり、大陸からの脅威に対する備えが出来た時点で、政権中枢部は、次のように考えたのだと思います。
朝鮮半島北部における覇権を、奪還すべきだと。
これに、朝鮮半島北部からの亡命者の思いが深く関与していたことは、想像に難くありません。
広開土王碑における倭
それ以降の行動についての記録が、高句麗の広開土王碑に有る、倭に関する記述になると考えます。
解釈に諸説ある部分は出来るだけ避けて、記述に沿って記します。(年号から始まる太字の部分が、広開土王碑の内容です)
391年 倭が来る。
朝鮮半島北部における覇権を、奪うにしても、直接攻めては、周辺国から挟撃される恐れもあることから、先ず朝鮮半島南部に橋頭堡を築いたと考えられます。
小国家群からなる加羅に上陸し、築いたのが任那だと思います。
399年 百済は、倭と和通した。
新羅から、倭人の襲撃に対して、高句麗に救援の要請あり。
400年 高句麗5万の兵で新羅を救援し、倭を任那・加羅まで追撃する。
そのすきに、安羅軍が新羅の都を占領する。
任那を足掛りに、百済、新羅を勢力範囲に収めたということでしょう。
安羅は、加羅の一国と考えられています。
404年 倭が帯方地方に侵入するも、撃退。
後背の憂いを無くした上で、満を持して朝鮮半島北部に進行するも、あえなく敗退の憂き目を見たという事でしょうか。
倭の五王の事績
朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのか、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしたのだと思われます。
そのことを示しているのが、中国の歴史書「宋書」にある、倭の五王による朝貢の記事だと考えます。
先ず、ここでいう宋は、魏、西晋、東晋と続いてきた王朝を継承した国となります。
この宋に朝貢することにより、魏に朝貢した卑弥呼から連なる政権ということでの、正当性を確立することが出来ます。
一人目の王讃の最初の朝貢は421年(413年という説も)です。
次に、朝鮮半島南部での権益を守る件に関しては、2人目の珍が朝貢時に、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して、正式の任命を求めたことに、端的に表れていると思います。
なお、この件に関しては、最後の王武に対して、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と任命されたことに見られるように、一定の成果は上げましたが、最後まで百済に関しては認められなかったのは、面白いところです。
以上は、朝鮮半島に進出を始めた391年から、王武が任命を受けた478年の間の出来事になります。
ではでは