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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

縄文から弥生へ

 縄文から弥生への変化について考えた話です。

 

 

征夷大将軍蝦夷

 江戸幕府を治めていたのは、勿論将軍であるが、この将軍の正式な官職名は、良く知られているように「征夷大将軍」である。

意味的には、夷を征伐する大将軍という事になります。
さらに詳しく見ると、ここでいう夷は、蝦夷(えみし)の夷という事になります。

蝦夷とは、大和政権にまつろわぬ人々を呼んだ名称で、「えみし」という呼び名に、蝦夷と言う字を当てたものだと考えられているようです。

その住む地域は、勿論時代によって変わっていくのですが、概ね現在東北地方と呼ばれている地方になります。

言い方を変えると、白河以北と言ってもいいのかもしれません。

蝦夷の字を当てたと書きましたが、その中の夷の字は、中華思想に見られる、「東夷西戎北狄南蛮」の東夷の夷の字を当てたたものだと考えられています。
つまり、都から東に住んでいる、未開の人々という訳です。

当時の政権の支配下で無いだけで、どうしてこのような呼ばれ方をしたのでしょうか。

農耕社会の広がり

 弥生時代に、北九州の地域から始まって、農耕社会が広がっていくわけですが、その遺跡の範囲は、概ね東海地方以西に多く分布しています。

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引用元: 弥生ミュージアム

これは、常識的に考えて、当時の稲作の生産技術では、この辺りまでしか、農耕社会を維持するだけの生産が困難だった結果と思われます。

ただ、東北地方にも全く稲作が無かった訳では無く、いくつかの水田跡も発掘されていますが、面としての広がりは無かったようです。

大和政権と蝦夷

 結局、後に蝦夷とよばれる人たちの住む地域は、弥生時代の農耕社会が入り込むことなく、縄文社会の要素を色濃く残した地域だったという事になります。

この傾向は、古墳時代にも見られ、大規模(120m以上)な前方後円墳は、宮城県福島県の両県までしか見られません。

そして、蝦夷の地との境界に白河の関が作られることになり、その地に住む、まつろわぬ人たちを従わせる役を担ったのが「征夷大将軍」だった訳です。

という訳で、大和政権と蝦夷の関係は、単に時の政権とそれに従わない人達の争いではなく、農耕社会を背景にした権力と、狩猟採集社会を背景にした平等の争いだったのです。


 縄文から弥生に単純に変わった訳では無く、縄文社会の影響は、意外と後世まで続いていたのです。


 ではでは