釈迦、孔子、ソクラテスの考えが生まれてきた理由を考えた話です
ここまでの話
ここ何回かに渡って、釈迦、孔子、ソクラテスの3者が、同時期に離れた地域で別個に神などの超越的なものによらない考え方を生み出した、その理由を考えるために彼らの生きた時代の共通点について考えて来ました。
その結果見つかった共通点は、「彼らの生きていたのが、太陽活動の低下による地球規模の気候変動により、ほぼ同時期に中国、インド、ギリシャで社会システムが崩壊し、その後の回復期に訪れた群雄割拠の時代だった」というものでした。
具体的には、下図のホーマー極小期からの回復期にあたっていたという事でした。
この共通点が、釈迦、孔子、ソクラテスの生み出した考え方にどのようにつながるのか考えて見よう、というのが今回の話になります。
社会システム崩壊以前
気候変動によって社会システムが崩壊したと考える訳ですが、宗教の面から考えるとどうなるでしょうか。
先ずインドでは、前回の記事でも触れたように、バラモン教が成立していました。
バラモン教は、基本的に多神教で、その祭祀を執り行うバラモンが階級制度の最上位に位置するというもののようです。
次に中国では、天帝を中心とする世界観で有り、多神教と言っていいと考えられます。
宗教的最高権威を王が担っていたと考えられているようです。
その時使われたのが、有名な青銅器という事になります。
最後のギリシャでは、ミケーネ文明が栄えていたわけですが、彼らもまた多神教でした。
ミケーネ文明では、ポセイドンが主神だったという研究も有るようです。
3地域共に、それまでの社会システムは、上図に見られるように紀元前1000年前後をピークとする太陽活動の活発化により気候が改善する中で、神などの超越的なものを信じる宗教と共に発展してきたという事になります。
崩壊の2つの捉え方
それがその後の紀元前750年頃のホーマー極小期に向けての気候変動により崩壊していくのですが、それに対してそれまでの宗教は無力だったと考えられます。
いくら超越的なものに祈ったりしても、気候変動に何らかの影響を与えられるはずがないですからね。
超越的なものに頼っても、なすすべなく社会は崩壊していきます。
そうなった時、受け取り方には二種類あるんじゃないかと思うのです。
一つは、崩壊していく中でも、少しでも良かった点を見付けたり、自分が生き残ったりした点を取り上げたりして、それを超越的なもののおかげ、それらが起こした奇跡だとかいった捉え方をするという受け取り方です。
こういった受け取り方をした人は、引き続き信じ続ける事になります。
こんなひどい状況を、おかげで乗り越えることが出来たという訳です。
そのため、3つの地域では、道教、ヒンズー教、オリンポスの神々といった、多神教がその後も存在することになったと考えられます。
もう一つは、超越的なものを否定するような受け取り方をするものです。
いくら祈っても、何の助けにもならないじゃないかと考える訳です。
この否定的な捉え方を背景として、孔子、釈迦、ソクラテスが出て来たのでは無いでしょうか。
社会システムを再構築していこうとする群雄割拠の時代の中で、もう信じる事の出来なくなった超越的なものに寄らない考え方を作り出したという事なのでしょう。
図にはほかにも多くの極大、極小期があって、色々妄想が膨らみます。
ではでは