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邪馬台国東遷と継体天皇(後編)

 邪馬台国東遷から、継体天皇の出自について考えてみた話(後編)です。

 

 

継体天皇は九州出身

 前編で、後に継体天皇となる男大迹王は、九州の出先機関を統べる応神天皇の子孫だったのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

男大迹王が、九州で代を重ねてきた系統の子孫だと考えれば、継体天皇応神天皇の5世の孫という記述も、あながちでっち上げでは無い事になります。

こう考えると、今回の一連の継体天皇に関する最初の記事で書いたように、NHKの番組での継体天皇像を、説明出来るんじゃないかと思った訳です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

番組での継体天皇

 ここで改めて、番組での継体天皇像を確認しておきます。(話の都合で前回とは一部順序を変えています)

  1. 武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、越前にいた応神天皇の5世の孫、男大迹王(をほどのおおきみ)を招いて、継体天皇として擁立した。
  2. 男大迹王は、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だった。朝鮮半島との関係も深かった。
  3. 河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから。ただし、反対勢力に対抗できるようになるため、わざと入らなかったとも考えられる。
  4. 継体天皇が、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた。始めて、大陸で行われている、国際的スタンダードを取り入れた天皇だった。
  5. 大和に入った後、すぐに磐井を叩いたのは、もう一度大和政権への求心力を高めるため。


九州出身による説明

 先ず、1.に関しては、前編で書いたように、九州にいた応神天応の5世の孫だったという事になります。

次に、2.の、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だったというのは、正面から反旗を揚げるのではなく、裏口とも言える、日本海側、東海など、周辺の勢力と連携をしたという事では無いでしょうか。

朝鮮半島とも関係が深かったというのは、元々朝鮮半島政策の最前線を九州で担っていたのですから、当たり前という事になります。

ひょっとしたら、朝鮮半島との関係から、日本海側の勢力とつながりが出来たという事も有るかもしれません。

3.の、河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから、と言うのはその通りでしょう。
周辺の勢力と連携したのち、物部氏と大伴氏と共に反旗を翻したが、葛城氏らの勢力とのせめぎあいが続いたという事だと思います。

4.の、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた、というのは、九州出身だと考えれば、納得し易いでしょう。
特に、横穴式石室に関しては、この頃になると、九州では支配者層が取り入れる程に、社会に受け入れられいたという事でしょう。

磐井の乱

 最後に、5.の、磐井の乱ですが、これだけは、出身母体をなぜという事になります。

これに関しては、元々男大迹王と九州の実力者磐井との思惑に違いが有ったのか、それとも、20年近くの時間の中で、考えが変質したのかは分かりませんが、大和に入ったころには、その対立が決定的になっていたという事だったのではないでしょうか。
そのため、大和に入るとすぐに口実を作って、磐井を討ってしまったという事なのだと思います。

そのことを示すかのように、『古事記』では、磐井の乱に関して、「命に従わず、無礼が多かったので討った」程度の記述しかなく、乱というほどのものでは無く、言いがかりとも言えるものだったとも思えるものになっています。


 という訳で、これまで継体天皇で王朝が変わったのではないかと思っていたのですが、応神朝の中での勢力争いだったという事になりそうです。


 ではでは