枢軸時代からに翻意置ける儒教について考えた話です。
枢軸時代と戦国時代
前回までで、枢軸時代とも呼ばれている、釈迦、孔子、ソクラテスの生きた時代について考えて来ました。
彼ら3人が、同時期に離れた地域で、別個に神などの超越的なものに頼らない考え方を作り出した事をもって、枢軸時代と呼ばれているのでした。
その要因として、ホーマー極小期と呼ばれる太陽活動の低下が原因の気候変動により、それまでの社会システムが崩壊した事が考えられると書きました。
この太陽活動の低下による社会システムの崩壊という考え方は、その状況が戦国時代のそれと似ていることから思いついたのでした。
その結果として、枢軸時代が生み出されたとするならば、同じような要因で戦国時代のあった日本でも、なにか影響があったのではないかと考えたくなります。
それが、日本における儒教に見られるのではないかというのが、今回の話のポイントです。
日本における儒教
前回までの話で何度も出て来たように、儒教の始祖孔子は紀元前500年頃に生きた人です。
つまり儒教はその頃からあった訳です。
それに対して、日本に儒教が初めてもたらされたのは、5世紀ごろと考えられているようです。
日本に来るまでに、約千年程かかった訳です。
その後、その考えが日本中に広まりました、という訳でも無かったようです。
かなりの期間に渡って、仏教の僧侶によって学ばれるに留まったのです。
昔のお寺は、学問が行われる場所でしたので、その中の一つとして取り扱われていたという事でしょうか。
その間、伝来より千年以上かかっていることになります。
孔子から数えると約二千年という事になります。
なぜ家康は取り入れたのか
儒教の教えそのものは、理解に千年もかかるほど難解なものでは勿論ありません。
つまり理解した上で、それまでの統治システムでは取り入れられなかったという事になります。
それをなぜ家康が取り入れたのか。
勿論、天皇を中心とするそれまでの統治システムを刷新するために、新たな考え方を取り入れるという事も有ったでしょう。
それに加えて、枢軸時代と戦国時代に共通する状況があったのではないかと思うのです。
気候変動によりそれまでの社会システムが崩壊し、超越的なものを信じない考えが出てきたと考えられます。
勿論、全ての人がそうでは無かったというのは、一向宗の動向を見ても明らかですが。
そのような状況の下で、家康が意識していたかどうかは分かりませんが、朱子学を取り入れたという事なのでは無いでしょうか。
それでも、社会の中にそういった新たな考え方を受け入れやすい雰囲気があったという事なのでしょう。
ここで独自のものが出てこないところが日本的なのかもしれません。
ではでは