前回の記事と天武天皇
前回の記事では、遣唐使と日本書紀編纂の関係について考えました。
703年の遣唐使での中国側の対応を受けて、時の権力者藤原不比等が通史の必要性を感じ、編纂を命じたのが『日本書紀』ではないかという話でした。
ところで、一般的に『日本書紀』については、天武天皇が編纂を命じて始まったと考えられています。
つまり、前回の記事の内容では、天武天皇は『日本書紀』には関係ないと言っていることになります。
今回は、天武天皇と『日本書紀』の関係について、改めて見てみたいと思います。
『日本書記』の記述
天武天皇が『日本書紀』の編纂を指示したとされるのは、その『日本書紀』の天武天王10年に、川島皇子以下12人に対して命じた点を根拠としています。
これが『日本書紀』の編纂を命じたという事であれば、問題も無いのですが、実際にはそうではありません。
そのあたりを確認するために、実際の記述を見てみたいと思います。
「丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。」
「令記定帝紀及上古諸事」とありますから、『帝紀』と『上古諸事』が対象であり、『日本書紀』でありません。
最も、『帝紀』と『上古諸事』を編纂したものに『日本書紀』という名称を付けたという事も無いとは言えませんが。
一過性の作業だった
それよりも注目すべきは、そのあとの「大嶋・子首、親執筆以錄焉」という記述です。
これは普通に読めば、「大嶋・子首が自ら筆を執って記録した」といった意味になると思われます。
そこで記録されたのは、直前の「令記定帝紀及上古諸事」で定められた内容という事になります。
つまり、「令記定帝紀及上古諸事」は、この時だけで完結した作業だったと考えられます。
この後何十年も続く『日本書紀』の編集作業がこの時始まったわけでは無く、当然天武天皇も『日本書紀』には関係がないことになります。
何を定めたのか
では「令記定帝紀及上古諸事」で何を定めたのでしょうか。
先ず考えられるのが、壬申の乱で倒した大友皇子の扱いについてではないでしょうか。
もし壬申の乱の時点で大友皇子が即位して天皇(天皇という呼び方はまだなく、大王かもしれませんが)となっていれば、天武天皇はそれに弓引いた逆賊となってしまいます。
それを回避するために、大友皇子の即位を無かったことにする修正について定めたわけです。
もう一つ考えられるのは、白村江の戦いの直前に滅ぼした、九州にあった政権の取り扱いについてです。
元をたどれば邪馬台国という同じルーツを持つ九州の政権について、どのように取り扱うかを定めたという事になります。
「上古諸事」とあるので無くはないかとも思いますが、その対象となる期間の長さから考えても、その場で決めるのも困難だと思われ、可能性は低いかもしれません。
それにしても、わざわざ「親執筆以錄焉」と書くという事は、字を書くこと自体が珍しかったのでしょうか。
ではでは