ローマ極大期以降の太陽活動と歴史についての話です。
ローマ極大期
先ずはいつもの太陽活動の図です。
今回は、ローマ極大期以降の変化と歴史について考えて見たいと思います。
前回の記事は、上図に見られるホーマー極小期とギリシャ極小期が、日本における稲作の波及に関係しているのではないかというものでした。
その後は、ローマ極大期に向けて回復期を迎える事になります。
前回の記事でも触れましたが、水田稲作の東日本への伝播は一旦止まる事になりますが、西日本では気候の回復を受けて発展したと考えられます。
漢王朝と倭奴国
このローマ極大期はBC20年~AD80年頃と考えられています。
その頃中国は漢王朝の時代でした。
その漢王朝に、AD57年に朝貢を行ったのが「倭奴国」で、その時に授けられたのがあの有名な「漢委奴國王」と刻印された金印です。
その後、107年にも朝貢を行ったという記述も有ります。
つまり、日本においても、気候の回復を受けて、中国まで朝貢が出来る程の勢力が形成されていたという事になります。
ローマ極大期以降の日本
その後太陽活動は、図にある様に中世極小期に向けて低下していくことになります。
もう少し詳しく見て見ると、ローマ極大期直後に短期間で低下した後に、踊り場状の安定した期間が、300年頃まで有る事が分かります。
ところで、漢王朝への「倭奴国」の朝貢の次に中国の歴史書に倭が出て来るのは、『魏志倭人伝』においてです。
その中に、「倭国乱」との記述が出て来ます、いわゆる「倭国大乱」です。
その後の中国歴史書によれば、2世紀後半に起きたと記されています。
太陽活動の低下による気候変動が生じ、その影響で漢王朝に朝貢していた「倭奴国」を代表とするシステムが崩壊して「倭国大乱」となったと考えられそうです。
その後卑弥呼が共立され、踊り場状の安定期に邪馬台国を中心とする社会の再構築がされたという事になります。
その結果、再び中国に朝貢するまでに回復した訳です。
もっとも、「倭国大乱」については「倭国乱」とあるだけでどういったものであったのかは定かではありません。
本当に気候変動が影響だったのかどうかについても判然としません。
ローマ極大期以降の中国
そのあたりを考えるために、同時期の中国についても見てみます。
「倭奴国」の朝貢を受けた漢王朝も、やはりローマ極大期後の急速な変化に呼応するように衰退します。
その終わりの始まりは、「黄巾の乱」だったと言っていいでしょう。
「黄巾の乱」は道教の一派太平道の教祖・張角を首領とした民衆の蜂起です。
宗教の教祖による煽動という形は取っていますが、それだけで民衆が蜂起したのではないでしょう。
一般的に言って、古今東西民衆が蜂起するのは、多くの場合権力による専制に耐えかねたといいた理由では無く、食べられなくなった時です。
背景には、気候変動による農業の不振が有ったと考える事が出来そうです。
それによる民衆の不満を、太平道の張角が上手く煽動したという事なのでしょう。
その後は、日本人の大好きな「三国志」の時代となります。
その三国の内の一つの魏に、邪馬台国の卑弥呼が朝貢する事になる訳です。
そして、最終的に魏の後を継いだ西晋が勝ち残り、その臣下の陳寿が『魏志倭人伝』を著すことになります。
同じ気候変動の影響が、日本では「倭国大乱」とその後の卑弥呼の邪馬台国として現れたと考えてもよさそうです。
意外とそこそこ良い線行っていると思うのですが、どんなものでしょうか。
ではでは