古墳時代と太陽活動について考えた話です。
今回は古墳時代
引き続き、太陽活動と歴史の関係を妄想していきます。
今回は、古墳時代との関係になります。
先ずは目にタコが出来そうな例の図です。
古墳時代といえば前方後円墳
前回の話は、気候変動による生活環境の悪化が、謎の4世紀の邪馬台国野東遷とその後のヤマト政権の成立の背景になったのではないかという話でした。
それに合わせるように、前方後円墳が作られるようになります。
私的には、前方後円墳は卑弥呼の墓へのオマージュから生まれたと考えています。
東遷して畿内に移った後に、卑弥呼の墓の形(前方後円墳ではなく、円墳とその前に一段高くなった土地が有った)をそのまま模倣して作ったのが、前方後円墳だったという訳です。
それが、ヤマト政権が全国に覇を唱えるに従って、全国で作られる様になったという事になります。
前方後円墳からその他の形状へ
以上の事が起こったのは、図で見ると500年頃まで続く太陽活動の変化が比較的穏やかな時期であった事が分かります。
特に5世紀に入ると、古墳と言われたら真っ先に思い浮かぶことも多い、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)等の巨大なものが作られるようになります。
これは、ヤマト政権の各地への影響が強まった事と共に、比較的穏やかな時期であったことから、巨大な工事を行うだけの人員を確保出来るようになったのを示していると考えられそうです。
その後、6世紀の後半から末にかけて、次第に前方後円墳は方墳や円墳、八角墳に取って代わられて行きます。
加えて、その規模も小さくなっていきます。
この6世紀後半からの時期を、太陽活動の面から見て見ると、丁度中世極小期に向けての低下が始まったあたりだという事が分かります。
その点から考えると、低下による気候変動により、巨大工事を行うだけの社会状態でなくなった事が影響していると考える事が出来そうです。
結局、古墳時代は、邪馬台国の東遷の結果成立したヤマト王朝によって行われた全国への覇権の展開を、卑弥呼の墓へのオマージュである前方後円墳によって知ることが出来る時代という事が出来そうです。
そして、その時期には、300~500年頃の比較的太陽活動の変化が穏やかという背景が有ったのです。
まだまだ妄想の種は尽きません。
ではでは