邪馬台国東遷と太陽活動の関係について考えた話です。
今回の話
このブログでは、現在の九州大分県宇佐市に在った邪馬台国が、謎の4世紀に東遷して畿内のヤマト政権となったと考えています。
今回は、その東遷と太陽活動の関係について考えて見たいと思います。
という訳で、いつもの例の図から。
前回の話は、ローマ極大期の直後の太陽活動低下の影響でいわゆる「倭国大乱」が起き、その後の踊り場状に緩やかになった時期に卑弥呼の邪馬台国の時代になったという話でした。
その後に中世極小期に向けての活動の低下が始まるのですが、これが邪馬台国の東遷に影響しているのではないかという話になります。
東遷の背景と太陽活動
本ブログでは、邪馬台国が東遷した理由として、中国の五胡十六国と呼ばれている動乱が日本にまで及んでくるのを恐れ、それに備えるためだと考えています。
動乱から逃れて日本に亡命してきた人たちが、その動乱の余波が後を追って日本まで来ることを危惧して、東遷を主導したのではないかと言う話でした。
さてその中国の動乱五胡十六国ですが、邪馬台国の背景となった踊り場の時期に中国を統一した西晋が、内部抗争(八王の乱)で弱体化し北方民族の進入を許したことから始まりました。
北方民族の侵入の背景には、気候変動により、遊牧に基盤を置いていた北方民族が、その生活基盤を脅かされたことが有ると考えられそうです。
その結果としての日本へ亡命者がやって来たわけですから、邪馬台国の東遷にも太陽活動の影響があったという話になります。
それだけで国が東遷するのか
中国側から考えると以上のような事ですが、日本側についても考えて見たいと思います。
邪馬台国の東遷については、勿論様々な反論もされています。
その中に、国が丸ごと移動するという事自体を疑問視するものが有ります。
現実的な危機も無いのに、国ごと移動するものだろうかという訳です。
確かに、この辺りに関しては、私も首をひねるところも無くは無かったのです。
例えば、自分が邪馬台国に生きている民だとします。
海を渡って来た亡命人が、いきなり危険が迫っているから東へ移ると言い出してもですよ、それまでの生活を捨てて、はいそうですかとなるだろうかなと思う訳です。
取敢えず、今の生活を守ろうとして、海岸線の守りを固めるような事をするのではないでしょうか。
それでも東遷を選んだ
そうでは無く、東遷を選んだとすれば、そこに太陽活動が影響したと考えられないでしょうか。
中国で北方民族の南進の要因となった気候変動が、日本にも影響を及ぼしていたとすれば、邪馬台国においても稲作による生活基盤が脅かされていたことが予想されます。
つまり、東遷の話が出る前から、世情は不安定になっていたのではないかと考えられるのです。
守るべき生活が破綻しているのであれば、東遷を受け入れるという判断も有り得るかもしれません。
勿論、全部が全部そうでは無く、あくまで残る事を選択した人たちもいたはずです。
その人たちは、最前部の防衛ラインも兼ねて後に残ったと考えられます。
今回の話、書き始めた時には中国側の話だけで終わるつもりだったものが、途中で日本側の話も思いついたのでした。
こういう事が有るから、いろいろ屁理屈をこねくり回すのはやめられないです。
ではでは