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六世紀に何があったのか

 六世紀の日本に何があったのかという話です。

 

 

6世紀には朝貢がなかった

 倭の五王最後の武が朝貢を行った478年を最後に、その後600年の遣隋使まで、100年以上、中国側には使者が来たという記録がありません。

この間、中国では宋、斉、梁、陳と王朝が継承されており、朝貢出来ない状況ではありませんでした。

謎の四世紀に、邪馬台国の東遷が行われていたように、六世紀にも日本側に何かがあったと考えられます。

継体天皇について

 六世紀初めの507年に即位したのが継体天皇です。

日本書紀」によると、前年の506年に武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、有力豪族が協議し、越前にいた応神天皇の5世の孫を招いて、翌507年に即位したとされます。

これ、いかにも怪しいですよね?
いくら、武烈天皇に子供がなく、後継も決めずに死んだからといっても、応神天皇の5世の孫などという人物を引っ張り出さなくてはいけないほど、一族の中に後を継ぐ者がいなかったとは考えられませんよね。

大体、5代前の先祖から分かれた親戚と言われても、ほぼほぼ他人ですからね。

武烈天皇からの禅譲

 武烈天皇に関しては、「日本書紀」に、残虐とも言える行為が書き連ねられています。

  • 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
  • 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  • 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  • 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  • 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  • 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

引用元:武烈天皇 - Wikipedia

 

 

これらの記述の後に、後嗣を定めずに亡くなったため、継体天皇が探し出された話になります。

これは、明らかに、中国の正史に見られる禅譲のフォーマットそのものですよね。
前王朝の末期に徳を失い、それを、有徳により天命を受けた現王朝が引き継ぐ、というあれです。

中国であれば、徳のある人物が天命により禅譲を受けるわけですが、わが国にはそのような世界観は無く、正当性を示すために、5世の孫と言う話を作り出したのではないでしょうか。

もちろん、中国でもそうであったように、現実には禅譲であった訳はなく、河内で即位したのち、大和に入るまで19年かかったという記述も、反対勢力との間に色々とあった事を伺わせます。
ひょっとしたら、武烈天皇は、継体天皇の勢力に殺されたという事も有るかもしれません。

継体王朝がそれなりの体制になり、再び中国に赴くまでに、約100年かかったという事になります。


 まあ、大体、がいかにもな「継体」ですからね。


 ではでは