横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

仏教伝来と太陽活動

仏教伝来と太陽活動について考えた話です

 

 

久しぶりの太陽活動の図

 今回は、我が国への仏教伝来について考えて見たいと思います。

仏教伝来についても、太陽活動が関係しているのではないかという話になります。

ということで、久しぶりに例の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ


仏教公伝と崇仏論争

 日本への仏教の伝来については、『日本書紀』に、欽明天皇13年(552年)に百済聖明王から、仏像や仏典が献上されたとの記述があり、これをもって日本への公式な伝来、所謂「仏教公伝」がなされたとされています。

その際に欽明天皇は、「西国が献じた仏像の顔は端厳(姿が整っていて威厳があること)だ、未だかってみたことが無い、これを礼するべきか」と臣下に問います。

それに対して、蘇我氏は是と答え、物部氏は否と答えます。

所謂、「崇仏論争」が起きます。

この後、蘇我氏物部氏が対立をしていくことになります。

最終的には蘇我氏が勝ち、仏教が取り入れられることになります。

これはよく考えると有り得ないんじゃないかと思うのです。

天皇は宗教的存在

 そもそも、ヤマト王朝は天孫降臨から始まったということで、神の子孫の訳です。

それはあくまで神話だという事だとしても、鬼道を行った卑弥呼が始まりだったりするわけです。

いずれにしても、宗教的なものと深く関係しているのは間違いのない所です。

この事は、現在の天皇の在り方を見ても明らかでしょう。

その天皇が、いくら百済の王が公式に献上してきたものだからといって、単なる宝物とかならいざ知らず、仏教という異教に関してどうしたらいいか聞いたりするでしょうか。

しかし、その後の歴史を見る限り、仏教が急速に取り入れられていくのは確かです。

背景に太陽活動

 この背景にも太陽活動が有ったのかもしれません。

以前の記事で、継体天皇の即位の背景には、太陽活動の低下による気候変動から生じた社会の混乱が有るのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

上の図を見ると、その原因となったと考えられる中世極小期へ向かっての活動の低下は、700年前後まで続いています。

552年の仏教公伝の時にもその混乱は続いていたと考えられます。

そうだとすると、天候を左右できる方法はないので、それまで信じられて来た宗教的なものに対する疑問が生じていたと想像出来ます。

そこに、中国や朝鮮で信仰されて、国家運営にも関係しているという触れ込みのものが、公式にもたらされたわけです。

思わずこれに飛びついたという事なのではないでしょうか。

新たな考えの受け入れられる時

 全てが順調にいっている時に新たなものを取り入れるのは、あえてそんな事をする必要はない訳で、保守的になりがちです。

社会が不安定で、それまでの考え方ではその状況に対処できなかったからこそ、新たな方法論である、仏教を取り入れようとしたのだと思います。

日本書紀』には、百済聖明王の使者から話を聞いた欽明天皇の反応として、「歡喜踊躍」とあります。

歓喜して踊り飛び上がった」といった意味でしょうか。

宗教的な存在である天皇本人が、これまでの宗教的な方法論が現状に対して無力だという事を、一番分かっていたのかもしれません。


 それにしても、元々のお釈迦様の教えには、国家をどうこうなんてのは影も形もないんですけどね。 


ではでは

 

九州に残った勢力のその後

九州に残った勢力のその後について考えた話です

 

 

敗れ去った側

 前回は、邪馬台国東遷時に九州に残ったのは、後衛としての部隊といった性格のものでは無く、東遷に組することなく従来の生活を守るために残った勢力だったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

さすがに、九州と畿内に二つの王朝が並び立っていたとまでは言うつもりは有りませんが、九州にも大きな勢力が存続していた可能性が有るという話です。

しかし、『日本書紀』にはそういった話は出て来ません。

日本書紀』は所謂勝った側の書いた歴史書ですから、もし私の考えるような九州の勢力が有ったのならば、それについて書いてないというのは、九州の勢力が敗れ去った側ということになります。

それが、継体天皇による「磐井の乱」の鎮圧だったのではないかというのが今回の話になります。

継体天皇が九州出身は無理筋

 継体天皇と「磐井の乱」については、以前の記事で一度取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時には、九州に残った人々の子孫が、武烈天皇が後継を決めずに亡くなってしまったために生じた混乱に乗じて、地方豪族を巻き込んで継体天皇として立ったと考えました。

磐井の乱」に関しては、天皇になる過程で、本拠地の九州の勢力と対立が生じたせいではないかと書きました。

しかし改めて考えて見ると、この考えはチョット無理筋だったようです。

もし上に書いたように、継体天皇が九州に残った人々の子孫で有ったとすると、『日本書紀』の内容が今のようになるはずがないと考えられるからです。

継体天皇以前の歴史は、九州での歴史が中心となるはずですし、何より東遷の事実もそのまま書いても何の問題もない事になります。

日本書紀』のように、そのあたりを全て神話に押し込む必要は無かったはずです。

こう考えると、継体天皇は、畿内へ東遷した者の子孫だったと考える方がよさそうです。

仲哀天皇の5世

 継体天皇と太陽活動について考えた記事では、即位から奈良の地に入るまでに19年もの間各地を転々としていたのは、皇位継承の争いが続いていたからでは無いかと考えました。

リンク:継体天皇と太陽活動

その中で、その争いの相手が、継体天皇の前に次期天皇候補として探し出された、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王だったのではなかったかとしました。

この仲哀天皇の5世というのが、改めて考えると興味深いのです。

本ブログでは、東遷を行ったのが応神天皇だと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東遷を行う時に背後の安全を担保するために、一族の者を残したと考えられます。

その中に、応神天皇の兄弟がいたとしたらどうでしょう。

応神天皇仲哀天皇の息子です。

九州にその兄弟の子孫が続いていたとすると、継体天皇と同世代の人物は、仲哀天皇から数えると5世という事になります。

それが、倭彦王だったのです。

その倭彦王を担いだ勢力と19年の間争った後、勝ったのが継体天皇という事になります。

そのまま書くわけにはいかないので、「倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった」なんていう、情けない人物にされてしまいました。

そして、奈良に入った継体天皇が対峙したのが、倭彦王の背後にいた九州勢力だったという訳です。

それが『日本書紀』に「磐井の乱」として記録されたと考えます。


 今気が付いたのですが、「倭彦王」には「倭」の文字が入っているじゃないですか。九州勢力は中国で自分たちのことを「倭」だと言っているわけで、いかにもな名前ですよね。


ではでは

東遷時に九州に残った勢力

東遷時に九州に残った勢力について考えた話です

 

 

前回の話から

 前回の話は、「倭の五王」は何処の王だったのかを考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

倭の五王」については、一般に畿内のヤマト王朝が朝貢を行った記録だと考えられています。

本ブログでは、そのヤマト王朝は、九州に在った邪馬台国が東遷して成立したと考えています。

その東遷後に「倭の五王」が朝貢を行ったと考える訳です。

しかし前回の記事は、東遷時に九州に残った勢力が朝貢を行ったと考える事も可能だという話でした。

前回の話の最後にも書きましたが、後衛として残った部隊が勝手にそんなことをするかという疑問が生じます。

という訳で、今回はその九州に残った勢力について、改めて考えて見たいと思います。

全てが東遷したのか

 これまで本ブログでは、邪馬台国東遷時に九州に残った勢力を、大陸からの侵攻に対処するために残された、縦深陣地の最前線部隊だと考えて来ました。

しかし上記なような事も踏まえてもう一度考えて見ると、そんな単純なものではない可能性もある事に気が付きました。

もともと邪馬台国は、いわゆる「倭国大乱」を終了させるために、卑弥呼を女王として共立して出来た国です。

つまり邪馬台国を中心とした連合体だった訳です。

そういった状況で、邪馬台国が東遷を決定した時に、連合体が全て一緒に付き従ったとは考え難いでしょう。

そもそも、東遷が成功することが約束されていたわけでは無いはずですから、付き従うものと、そうでないものに分かれたと考えられます。

単なる後衛部隊ではなかった

 そう考えると、後に残った者達は、単に侵攻に対する後衛として残ったのでは無かったという事になります。

勿論、大陸からの侵攻にも備えたでしょうが、それまで営んできた生活を続ける方を選んだ人々だったのだと考えられます。

邪馬台国中枢部とそれに付き従った人々が抜けたという点が、それ以前とは違ったという事になります。

当然、複数の国による連合体の形態は存続したと考えられます。

元々の連合体の形態を保った九州の勢力と、それから分離した邪馬台国の中枢を中心とした東遷組という、2つのグループに分かれたということであり、どちらが主で、どちらが従という関係では無かったのです。

ただ、大陸からの脅威にに対する考え方が違ったのであって、敵対関係では無かったでしょう。

この後、九州と畿内の地で、各々の道を進んでいったという事になります。

連合体が朝貢した

 思ったほど東遷組の規模は大きくなかったのかもしれません。

その結果、一気呵成に全国を制覇するのではなく、五世紀を通じて各地の勢力と争いが続くという事になったのかもしれません。

その間、九州に残った連合体は、当初は大陸からの侵攻を警戒していたものの、無いことが分かった後、公開土王碑に有るように朝鮮半島に侵攻したのです。

その失敗を受けて、連合体が政策転換をして中国に朝貢をすることにしたのでしょう。

それが「倭の五王」という訳です。

その時の王を名乗っていた人物の名前が「讃・珍・済・興・武」だったのです。

という事だとすると、『宋書』に、「倭の五王」以外にも「珍」の時に13人、「済」の時には23人が、それぞれ位の低い将軍号・郡太守号を与えられたとあるのは、連合体を形成する国の王(首長)だったと考えれば説明が付きそうです。


 興味の中心なだけに、どうしても邪馬台国の立場から考えてしまうというバイアスが掛かってしまい勝ちなので、気を付けないといけないという話でした。


ではでは

「倭の五王」は誰なのか

倭の五王」について考えた話です

 

 

名前から探る

 中国の歴史書に、5世紀に朝貢をしたと記述の有る「倭の五王」は、「讃・珍・済・興・武」となります。

倭の五王」については、昔からその正体について論争が有ります。

なにしろ、『日本書紀』、『古事記』のいずれにも、名前が一文字の天皇というのは出てきません。

そのため、誰がどの天皇になるのかを色々と考える事になっているわけです。

直ぐに思いつくのは、『記紀』に在る名前で似ているものを探すというものでしょうか。

現在の所、最も有力な仮説と思われているのが、「武」が第21代雄略天皇とするものです。

日本書紀』に彼の名前として、大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)とあり、最後の文字が「武」であるのに加えて、在位期間も同時期と考えられる事からそう比定されているようです。

しかし、名前の一部に同じ文字があるからというのは、贔屓目に見ても苦しいですよね。

それに、そもそも「大泊瀬幼武天皇」というのは諡号のはずなので、その中に同じ文字が有るからというのは、成り立たないんじゃないかとも思うのですが。

血縁関係から探る

 それじゃあ、という訳でもないでしょうが、血縁関係から調べるという手法も有ります。

史書の記述の内容から彼ら5人の血統関係が分かります。

例えば「武」についての記述には「興死して弟武立」という記述が有る事から、「武は興の弟」という事が分かるといった具合です。

まとめると、次の図のようになるようです。

 

引用元:倭の五王 - Wikipedia

名前から有力と見られている雄略天皇までの歴代の天皇系図は次のようになります。

 

引用元:倭の五王 - Wikipedia

「讃・珍」と「済」が兄弟ならば、17代履中から21代雄略まででぴったりという事になるのですが、残念ながらそれを示す証拠はないようです。

その他の天皇についても、当てはまる系譜は無いという事のようです。

ヤマト王朝の天皇ではなかった

 というような感じで、「倭の五王」については確定に至っていないというのが現状です。

ところで、「倭の五王」については一度記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

この記事の中では、「倭の五王」による中国への朝貢は、広開土王碑にある様に朝鮮に侵攻して撃退されたことを受けて、政策の変更を行った結果だと考えました。

高句麗が手強いと見て、朝鮮半島における権益を確保する方向に、方針転換をしたと考えた訳です。

当然、方針転換したのは、東遷を完了した畿内のヤマト王朝という事になります。

ところが前回の記事で、朝鮮半島に侵攻したのが、東遷時に九州に残った勢力だったという可能性も有る事が分かりました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という事は、方針転換したのも九州に残った勢力である可能性が有ることになります。

であるならば、中国に朝貢したのも、この九州に残った勢力という事が言える事になります。

そう考えれば、名前の件も、血縁関係の件も問題とではなくなります。

単純に、九州の勢力にそういった人物がいたというだけの話になります。


 九州に残った勢力が、そんなことを勝手にしてしまっていいのでしょうか。
そのあたりは次回考えてみたいと思います。


ではでは

広開土王の高句麗と戦ったのは誰か

公開土王碑に記された倭は、どんな勢力だったのか考えた話です。

 

 

太陽活動の図はありません

 前回の話は、武烈天皇から継体天皇への皇位継承の背景にも、太陽活動の低下の影響が有ったのではないかというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

それに合わせて、過去に書いたその周辺の記事を読み返したのですが、その中で公開土王碑文に出て来る倭について、別な解釈も成り立つと思いつきました。

という事で、今回は久々に太陽活動絡みの話ではありません。

公開土王碑以前

 先ずは、本ブログで考える、公開土王碑に書かれた時点までの経過を簡単におさらいします。

九州に有ったと考えられる邪馬台国卑弥呼が、中国の魏王朝朝貢をします。

その魏王朝の後を継いだ西晋王朝が倒れて、五胡十六国の動乱の時代になります。

その動乱に追われて、朝鮮半島にあった西晋の支配地域から、亡命者が邪馬台国にやって来ることになり、政権にも参画します。

大陸の動乱が海を越えてやって来るのを危惧して、九州から畿内へ東遷を行います。

その時に、防衛の最前線として、九州にも政権一族の者も含めて一部のものが残ります。

そして、広開土王碑にある様に、倭による朝鮮半島への侵攻を行い、高句麗に敗北することになる訳です。

碑文によれば、391年から404年までの出来事になります。

侵攻には全国的な政権が

 これまでは、これを行ったのが、東遷を完了して全国的な政権を樹立したヤマト王朝だったと考えていました。

その後の日本の歴史、例えば秀吉の朝鮮出兵等、から考えても、朝鮮半島に侵攻するには、全国的な政権が必要だと思っていたからです。

しかし、ヤマト王朝の体制を象徴すると考えられる前方後円墳については、5世紀を通じて各地に広がっていきます。

という事は、朝鮮半島に侵攻する時点では、まだ全国的な政権とはなっていない可能性が高い事になりそうです。

畿内のヤマト王朝は、五世紀を通じて各地の勢力と争っていたとも考えられる訳です。

朝鮮半島への侵攻どころではなかったように思われます。

誰が侵攻したのか

 それでも、朝鮮半島への侵攻のあった事は確かです。

誰が侵攻を行ったのでしょう。

考えられるのは、東遷時に九州に残った勢力です。

東遷が始まった当初こそ、大陸からの侵攻に警戒していたはずですが、そのうちにそういった可能性がほぼ無くなったことが分かったはずです。

そうなると、九州にも残っていたと考えられる亡命者の中から、朝鮮半島に戻る事を考える声が出てきても不思議は有りません。

その声を受けて、侵攻を画策したと考えられるのです。

朝鮮半島まで足掛かりが有った

 さて、以前の記事で、『魏志倭人伝』における最初の寄港地「狗邪韓国」の位置を考える中で、西晋陳寿により倭人伝が書かれた時点で、朝鮮半島の南部に倭の拠点が有ったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後上記のように、西晋が倒れて五胡十六国の時代になる訳ですが、当然朝鮮半島南部への倭の影響力も、それなりに残っていたはずです。

勿論、対馬壱岐も倭の勢力範囲内でした。

これらを足掛かりとして朝鮮半島に侵攻したとすれば、九州に残った勢力だけで行う事も可能だったとも考えられます。

畿内の政権に伝えることなく、九州側だけで行ったという事なのかもしれません。


 次回は、以上の内容を受けて、「倭の五王」について考えます。


ではでは

継体天皇と太陽活動

継体天皇と太陽活動の関係についての話です。

 

 

6世紀と言えば

 前回は、古墳時代における前方後円墳の全国への普及と衰退が、中世極小期に向かう直前の比較的変動の穏やかな時期と、その後の極小期に向けての低下の開始を背景としていると考えられるという話でした。

 

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何は無くとも、例の図です。
 

 引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

図から、極小期に向かっての低下の開始は、6世紀付近という事になります。

さて6世紀と言えば、直ぐに思いつくのが継体天皇です。

その在位期間は、507年から531年までとされていますので、6世紀前半という事になります。

継体天皇の即位

 この継体天皇に関しては、以前に記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』によると、色々と問題の有る武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったために、応神天皇の5世孫の男大迹王を探し出して迎えたのが継体天皇という事になっています。

この書き方が、中国での正史における王朝交代記述のパターンと酷似していることから、書かれているように平和裏に継承されたのではなく、なんらかの紛争のようなものがあったのではないかと考えたのでした。

この事に、気候の変動が関係しているのではないかというのが今回の話になります。

応仁の乱のように

 継体天皇については、さらに別の記事で、その出自について考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

邪馬台国東遷時に九州に残った人々の子孫ではないかというものです。

それが応神天皇の五世の孫だったのでは無いかという訳です。

そして、正面から反旗を揚げるのではなく、裏口とも言える、日本海側、東海など、周辺の勢力と連携をしたという事では無いかと考えました。

その背景として、気候変動による政情不安が有ったと考える事が出来そうです。

ヤマト王朝の中枢で、戦国時代の始まりとして、気候変動を背景とした「応仁の乱」があったのと同じような状況が発生していたと想定します。

それに乗じて介入して、一方の勢力から担がれ、その争いに勝ち残ったのが継体天皇だったと考える訳です。

彼が、即位から19年もの間各地を転々として奈良の地に入らなかったという話は、実はこの間、一方的に即位はしたものの争いが続いていたという事なのかもしれません。

倭彦王は対立候補

 更に妄想を膨らませるならば、男大迹王(継体)の前に次期天皇候補として探し出された、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王が、実は対立した陣営に擁立された人物だったというのはどうでしょう。

倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまったという話は、天皇候補としてはいかがなものかという書かれようです。

だから推挙されなかったという事なのでしょうが、実際には継体側との戦いの末に敗れ去ったと考えます。

あくまでも、五世の孫という正当な血統である継体天皇へ、平和裏に皇位継承が行われたという形を強調するための『日本書紀』の記述だったのではないでしょうか。


 やはり、継体天皇の時に何らかの画期が有ったような気がします。


ではでは

古墳時代と太陽活動

古墳時代と太陽活動について考えた話です。

 

 

今回は古墳時代

 引き続き、太陽活動と歴史の関係を妄想していきます。

今回は、古墳時代との関係になります。

先ずは目にタコが出来そうな例の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

古墳時代といえば前方後円墳

 前回の話は、気候変動による生活環境の悪化が、謎の4世紀の邪馬台国野東遷とその後のヤマト政権の成立の背景になったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

それに合わせるように、前方後円墳が作られるようになります。

私的には、前方後円墳卑弥呼の墓へのオマージュから生まれたと考えています。

 

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東遷して畿内に移った後に、卑弥呼の墓の形(前方後円墳ではなく、円墳とその前に一段高くなった土地が有った)をそのまま模倣して作ったのが、前方後円墳だったという訳です。

それが、ヤマト政権が全国に覇を唱えるに従って、全国で作られる様になったという事になります。

前方後円墳からその他の形状へ

 以上の事が起こったのは、図で見ると500年頃まで続く太陽活動の変化が比較的穏やかな時期であった事が分かります。

特に5世紀に入ると、古墳と言われたら真っ先に思い浮かぶことも多い、大仙陵古墳仁徳天皇陵)等の巨大なものが作られるようになります。

これは、ヤマト政権の各地への影響が強まった事と共に、比較的穏やかな時期であったことから、巨大な工事を行うだけの人員を確保出来るようになったのを示していると考えられそうです。

その後、6世紀の後半から末にかけて、次第に前方後円墳は方墳や円墳、八角墳に取って代わられて行きます。

加えて、その規模も小さくなっていきます。

この6世紀後半からの時期を、太陽活動の面から見て見ると、丁度中世極小期に向けての低下が始まったあたりだという事が分かります。

その点から考えると、低下による気候変動により、巨大工事を行うだけの社会状態でなくなった事が影響していると考える事が出来そうです。

結局、古墳時代は、邪馬台国の東遷の結果成立したヤマト王朝によって行われた全国への覇権の展開を、卑弥呼の墓へのオマージュである前方後円墳によって知ることが出来る時代という事が出来そうです。

そして、その時期には、300~500年頃の比較的太陽活動の変化が穏やかという背景が有ったのです。


 まだまだ妄想の種は尽きません。


ではでは

 

謎の4世紀と太陽活動

謎の4世紀と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

今日は謎の4世紀

 前回の話では、太陽活動の変動による気候の変化が、邪馬台国の東遷を後押ししたような形になったのではないかという話でした。

 

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今日は、その東遷が有ったと考えている所謂謎の4世紀について、引き続き妄想全開の話になります。

何はともあれ、いつもの図です。

 

引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/denkiyakan/diary/200710160000/

 

気候変動は日本全体に

 さて、気候変動による生活基盤の悪化が邪馬台国の東遷に影響したと考えたわけですが。

その変動が九州に局地的に影響を与えたとは考え難く、当然日本全体に及んでいたと考えるのが普通でしょう。

つまり、邪馬台国が東遷を始めたころには、その他の地域でも社会が不安定な状況になっていたと考えられる訳です。

そういう状態なので、畿内への東遷が出来ると考えたのかもしれません。
途中の国々が安定した状態であれば、その抵抗が厳しい事も考えなければいけないですからね。

そして全国制覇

 首尾よく東遷に成功した政権は、その後全国に覇を唱える戦いを行ったと考えられます。

なぜならば、高句麗の「広開土王碑」によれば、390年代から朝鮮半島に倭が進出した事が記録されているからです。

 

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であるならば、このころまでには日本国内を統一したとまでは言いませんが、表立って敵対する勢力は無くなっていたはずです。

さすがに、国内と朝鮮の2か所で戦線を開くという事は、普通考えられないですからね。

なぜ全国制覇

 しかしなぜ、東遷した直後に全国を制覇するような行動に出たのでしょう。

東遷を始めた理由である、大陸からの侵攻に備えるべきなような気もしますが。

ここで、以上の事が起こった謎の4世紀が、図で見ると太陽活動の変化が比較的穏やかな時期で有った点を考え合わせると、よく似た話を思い出さないでしょうか。

そう、戦国時代です。

戦国時代については、シュペーラー極小期の気候変動により、室町時代まで続いた社会システムが崩壊し全国的な混乱が生じた後、気候変動が収まったことを背景に、新たな社会システムの再構築しようとする過程が戦国時代だと考えました。

 

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当初に全国的な社会システムの有り無しという違いはあるものの、気候変動後は、同じようなことが4世紀の日本にも起こったのでは無いでしょうか。

その争いを勝ち抜いたのがヤマト政権だったのです。

これには、大陸からの亡命者がもたらした、当時の最新と言える軍事関係の情報が、物を言ったと考える事も出来そうです。

こうして、謎の4世紀に、邪馬台国畿内に移り、ヤマト政権となり全国に覇を唱える事になったのです。


 考えて見れば、4世紀にも戦国時代にも、いずれも戦乱が終息した後で朝鮮半島に進出したというのは、偶然だとは思いますが興味深いです。


ではでは

邪馬台国東遷と太陽活動

邪馬台国東遷と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

今回の話

 このブログでは、現在の九州大分県宇佐市に在った邪馬台国が、謎の4世紀に東遷して畿内のヤマト政権となったと考えています。

今回は、その東遷と太陽活動の関係について考えて見たいと思います。

という訳で、いつもの例の図から。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

前回の話は、ローマ極大期の直後の太陽活動低下の影響でいわゆる「倭国大乱」が起き、その後の踊り場状に緩やかになった時期に卑弥呼邪馬台国の時代になったという話でした。

 

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その後に中世極小期に向けての活動の低下が始まるのですが、これが邪馬台国の東遷に影響しているのではないかという話になります。

東遷の背景と太陽活動

 本ブログでは、邪馬台国が東遷した理由として、中国の五胡十六国と呼ばれている動乱が日本にまで及んでくるのを恐れ、それに備えるためだと考えています。

 

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動乱から逃れて日本に亡命してきた人たちが、その動乱の余波が後を追って日本まで来ることを危惧して、東遷を主導したのではないかと言う話でした。

さてその中国の動乱五胡十六国ですが、邪馬台国の背景となった踊り場の時期に中国を統一した西晋が、内部抗争(八王の乱)で弱体化し北方民族の進入を許したことから始まりました。

北方民族の侵入の背景には、気候変動により、遊牧に基盤を置いていた北方民族が、その生活基盤を脅かされたことが有ると考えられそうです。

その結果としての日本へ亡命者がやって来たわけですから、邪馬台国の東遷にも太陽活動の影響があったという話になります。

それだけで国が東遷するのか

 中国側から考えると以上のような事ですが、日本側についても考えて見たいと思います。

邪馬台国の東遷については、勿論様々な反論もされています。

その中に、国が丸ごと移動するという事自体を疑問視するものが有ります。

現実的な危機も無いのに、国ごと移動するものだろうかという訳です。

確かに、この辺りに関しては、私も首をひねるところも無くは無かったのです。

例えば、自分が邪馬台国に生きている民だとします。

海を渡って来た亡命人が、いきなり危険が迫っているから東へ移ると言い出してもですよ、それまでの生活を捨てて、はいそうですかとなるだろうかなと思う訳です。

取敢えず、今の生活を守ろうとして、海岸線の守りを固めるような事をするのではないでしょうか。

それでも東遷を選んだ

 そうでは無く、東遷を選んだとすれば、そこに太陽活動が影響したと考えられないでしょうか。

中国で北方民族の南進の要因となった気候変動が、日本にも影響を及ぼしていたとすれば、邪馬台国においても稲作による生活基盤が脅かされていたことが予想されます。

つまり、東遷の話が出る前から、世情は不安定になっていたのではないかと考えられるのです。

守るべき生活が破綻しているのであれば、東遷を受け入れるという判断も有り得るかもしれません。

勿論、全部が全部そうでは無く、あくまで残る事を選択した人たちもいたはずです。

その人たちは、最前部の防衛ラインも兼ねて後に残ったと考えられます。


 今回の話、書き始めた時には中国側の話だけで終わるつもりだったものが、途中で日本側の話も思いついたのでした。
こういう事が有るから、いろいろ屁理屈をこねくり回すのはやめられないです。


ではでは

ローマ極大期以降の太陽活動と歴史

ローマ極大期以降の太陽活動と歴史についての話です。

 

 

ローマ極大期

 先ずはいつもの太陽活動の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

今回は、ローマ極大期以降の変化と歴史について考えて見たいと思います。

前回の記事は、上図に見られるホーマー極小期とギリシャ極小期が、日本における稲作の波及に関係しているのではないかというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後は、ローマ極大期に向けて回復期を迎える事になります。

前回の記事でも触れましたが、水田稲作の東日本への伝播は一旦止まる事になりますが、西日本では気候の回復を受けて発展したと考えられます。

漢王朝倭奴国

 このローマ極大期はBC20年~AD80年頃と考えられています。

その頃中国は漢王朝の時代でした。

その漢王朝に、AD57年に朝貢を行ったのが「倭奴国」で、その時に授けられたのがあの有名な「漢委奴國王」と刻印された金印です。
その後、107年にも朝貢を行ったという記述も有ります。

つまり、日本においても、気候の回復を受けて、中国まで朝貢が出来る程の勢力が形成されていたという事になります。

ローマ極大期以降の日本

 その後太陽活動は、図にある様に中世極小期に向けて低下していくことになります。

もう少し詳しく見て見ると、ローマ極大期直後に短期間で低下した後に、踊り場状の安定した期間が、300年頃まで有る事が分かります。

ところで、漢王朝への「倭奴国」の朝貢の次に中国の歴史書に倭が出て来るのは、『魏志倭人伝』においてです。

その中に、「倭国乱」との記述が出て来ます、いわゆる「倭国大乱」です。

その後の中国歴史書によれば、2世紀後半に起きたと記されています。

太陽活動の低下による気候変動が生じ、その影響で漢王朝朝貢していた「倭奴国」を代表とするシステムが崩壊して「倭国大乱」となったと考えられそうです。

その後卑弥呼が共立され、踊り場状の安定期に邪馬台国を中心とする社会の再構築がされたという事になります。

その結果、再び中国に朝貢するまでに回復した訳です。

もっとも、「倭国大乱」については「倭国乱」とあるだけでどういったものであったのかは定かではありません。
本当に気候変動が影響だったのかどうかについても判然としません。

ローマ極大期以降の中国 

 そのあたりを考えるために、同時期の中国についても見てみます。

倭奴国」の朝貢を受けた漢王朝も、やはりローマ極大期後の急速な変化に呼応するように衰退します。

その終わりの始まりは、「黄巾の乱」だったと言っていいでしょう。

黄巾の乱」は道教の一派太平道の教祖・張角を首領とした民衆の蜂起です。

宗教の教祖による煽動という形は取っていますが、それだけで民衆が蜂起したのではないでしょう。

一般的に言って、古今東西民衆が蜂起するのは、多くの場合権力による専制に耐えかねたといいた理由では無く、食べられなくなった時です。

背景には、気候変動による農業の不振が有ったと考える事が出来そうです。

それによる民衆の不満を、太平道張角が上手く煽動したという事なのでしょう。

黄巾の乱」で弱まった漢王朝は、220年に終焉を迎えます。

その後は、日本人の大好きな「三国志」の時代となります。

その三国の内の一つの魏に、邪馬台国卑弥呼朝貢する事になる訳です。

そして、最終的に魏の後を継いだ西晋が勝ち残り、その臣下の陳寿が『魏志倭人伝』を著すことになります。


同じ気候変動の影響が、日本では「倭国大乱」とその後の卑弥呼邪馬台国として現れたと考えてもよさそうです。


 意外とそこそこ良い線行っていると思うのですが、どんなものでしょうか。


ではでは

稲作の波及と気候変動

稲作の波及と気候変動の関係についての話です。

 

 

気候変動と歴史

 最近の記事で、太陽活動の低下による気候変動が歴史に与えた影響といった事を考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

そんな中で、今回は弥生時代における、稲作の波及について考えて見たいと思います。

稲作の波及

 考古学的な研究によると、縄文後期には稲はすでに作られていたようですが、水田による本格的な稲作の開始は紀元前10世紀頃に、北部九州で始まったとされているようです。

現在の日本から考えると、その後にあっという間に全国に稲作が広がったようにも思えますが、そうでは無かったようです。

これも考古学的な証拠によると、九州以外で確認されているのは、紀元前8世紀ごろに高知平野、紀元前7世紀に山陰・瀬戸内、そして紀元前750年頃から畿内にも広がったと考えられているようです。

更に、紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾周辺にも見られるようになりますが、それより東への広がりは一旦止まったようです。

その東方へは、紀元前3世紀から2世紀にかけて関東地方西部に広がったことが確認されています。

今のところ、この辺りが弥生時代水田稲作の東限と考えられているようです。

このあたりについては、以前の記事でも少し取り上げました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時には、当時の稲作の生産性が原因ではないかと考えましたが、どうもそれだけではないようです。

太陽活動から見ると

 以上の事を、次のいつもの太陽活動の図と比べて見ると、面白いことが分かります。
 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

紀元前7世紀前後の中部地方までの広がりと、紀元前3世紀ごろの関東地方までの広がりという、2度にわたる水田稲作の波及が、ホーマー極小期とギリシャ極小期の時期に一致しているように見えます。

極小期に向けては、気温の低下を中心とした気候変動が生じたと考えられますので、一般に稲作にとって条件は厳しくなるはずです。

その間に、東に向かって波及していったという事実をどう考えたらいいでしょうか。

稲作の受け入れ

 気候変動により、稲作に影響が有ったのは勿論ですが、それ以上にそれまでの縄文的な狩猟採集による生き方が維持出来なくなったという事では無いのでしょうか。

そのために、それまでの生き方を捨て、影響が有ったとはいえそれによって生き延びることが出来る稲作に乗り換えたのだと考えます。

その影響が及んだ範囲が、ホーマー極小期には中部地方までで、ギリシャ極小期には関東地方までだったのだと考えれば、説明が出来そうです。

その後は、図中ではローマ極大期となっている太陽活動の回復期であり、気候的にも回復したと考えられるので、それ以上東に縄文の生活から弥生の生き方への転換は波及しなかったのだと考えられます。

通常、水田稲作が有利だったから全国的に広がったと考えがちですが、日本においてはその自然の豊かさにより、その必要性は低かったのです。

むしろ、気候変動による環境の悪化に対応するために、仕方なく取り入れたという事だったと思われるのです。


まだまだ、気候変動の歴史への影響に関する妄想は続きます。


ではでは

Simple English Wikipedia.がなかなか良いかも

 Simple English Wikipedia.についての話です

 

 

最近の私の英語

 さて、先ずは私の下手の横好き趣味の英語の近況報告から始めたいと思います。

現在は、以前の記事でも書いたように、英語、日本語、英語の順で作られているYoutube上の英語教材を、ながらで視聴しています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その効果だと私的には思っているのですが、テレビの二か国語放送している海外放送局の音声も、単語が聞き取れるようになって来ました。

ところが、単語はそれなりに聞き取れても、内容が分かるというところまではいったっていません。

勿論、一つには理解するための絶対的なボキャブラリーの不足というのが有るのは、間違いのないところです。

もう一つの理由

 それに加えて、もう一つ大きな理由がある事に気が付きました。

それは、文章を理解するスピードの低さです。

個々の単語は拾えても、それが構成する文章の内容を理解するスピードが、音声として流れて来るスピードに対して、圧倒的に下回っているのです。

そのため、少しでも引っ掛かると、あっという間に話に置いて行かれてしまい、内容の把握どころでは無くなってしまうという訳です。

そこで、次に取り組むべきは、文書読解力の速度向上という事になりそうです。

多読か音読

 文書読解力の速度向上などと小難しい言葉を使いましたが、要は英文を読むスピードが早くなれば良いという事です。

こればかりは、ショートカットは出来なくて、沢山の英文を読むか音読するかという方法にたよる事になりそうです。

単純に量をこなして、英語の処理能力を鍛えようという訳です。

そうなると今度は、多読するにしても音読するにしても、その対象をどうするかというのが問題になります。

一般的には、Penguin Readers、Oxford bookwormsなどの、レベル分けされた語彙で書かれたシリーズを使ったりするのが普通かと思います。

が、私的には、これらのシリーズに取り上げられている内容が全て好みの物という事は勿論無いというか、むしろ好みの物の方が少なそうなんですよね。

趣味でやっている英語なので、何も面白くもないものを読む気は起きない訳で。

加えて、少なからず金銭的にも掛かるといういささか現実的な理由も有って、チョットと思うのです。

Simple English Wikipedia.

 で、どうしたものかと思っていたのですが、良いんじゃないかというものがありました(単に私が知らなかっただけですが)。

Simple English Wikipedia.です。

名称から分かるように、Simple English で書かれたWikipediaというものです。

1500語程度の語彙で執筆されているようで、少し見た限りでは、私などにも結構読み易そうです。

使用語彙が少ない事から、結果的に難しい内容を分かり易く説明するものになっているような印象です。

さすがに専門的な細かい話まで踏み込んでいるものは少なそうですが、そこまで期待するのも酷かもしれません。

興味を持った対象の入門用としては、有りなんじゃないでしょうか。

ついでに英語の訓練にもなるので一石二鳥です。

現状で20万本ほどの記事が有るようなので、読むものに困る事もなさそうです。

しばらくは、これで行こうかなと思っています。


 このブログでは何度も書いていますが、つくづく良い時代になったものです。


ではでは

やはり佐渡島は巨済島だった

佐渡島と巨済島の関係について考えた話です。

 

 

佐渡島は巨済島

 少し前の記事で、国生み神話について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

魏志倭人伝』に最初の寄港地として出て来る狗邪韓国が倭人の国であり、現在の巨済島にあったと考えられることから、「古事記」の国生み神話に出て来る大八島の内の佐渡はもともと巨済島の事だったのではないかという話でした。

巨済島は沙都島

 という事なのですが、別の件で色々なページを巡っている途中で、次のような地図を見付けました。

 

引用元:磐井の乱と朝鮮半島情勢 | 古代の歴史

 

見てもらえば分かりますが,右下辺りに沙都島(巨済島)とあります。

ルビは振られていませんが、「さととう」と読めそうです。

6世紀前半には、巨済島は沙都島と呼ばれていたようです。

読みから佐渡島とした

 上記の記事では、国生み神話に出て来る佐渡島は、元々は巨済島が当時呼ばれていた名称で入っていたのではないかとしました。

そして、元々巨済島(狗邪韓国)にいた倭人が、朝鮮半島本土に進出することで、その勢力範囲が島では無くなってしまった事から、年月が経る中でどこを指しているのか分からなくなってしまったのではないかとしました。

その上で、「大八島」なので、島である佐渡を充てたのではないかという話でした。

しかし上図に在ったように、事はもっと単純で、巨済島は沙都島と呼ばれていたわけで、その読みに合わせて佐渡島を充てたという事になりそうです。

やはり、国生み神話は、元来の倭人の勢力範囲がどのように作られたのかを説明した神話だったという事になりそうです。

日本書紀にも在った

 ところが、この沙都島について調べて見ると、『日本書紀』第17巻継体天皇に、百済の使者の文貴將軍という人物が沙都島経由で帰国したという記述がある事が分かりました。

これを見ると、沙都島の存在は、かなり後の時代まで知られていたとも考えられます。

そうだとすると、この当時には沙都島は朝鮮の勢力下だと考えられますから、それを国生み神話から外すために読みの似た佐渡島に変わっていったとも考えられそうです。

いずれにしても、国生み神話に出て来る佐渡島は、沙都島(巨済島)と考えてよさそうです。


 どうも、やはり文献はチャンと確認しておきましょうということですね。


ではでは

枢軸時代と日本における儒教

枢軸時代からに翻意置ける儒教について考えた話です。

 

 

枢軸時代と戦国時代

 前回までで、枢軸時代とも呼ばれている、釈迦、孔子ソクラテスの生きた時代について考えて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

彼ら3人が、同時期に離れた地域で、別個に神などの超越的なものに頼らない考え方を作り出した事をもって、枢軸時代と呼ばれているのでした。

その要因として、ホーマー極小期と呼ばれる太陽活動の低下が原因の気候変動により、それまでの社会システムが崩壊した事が考えられると書きました。

この太陽活動の低下による社会システムの崩壊という考え方は、その状況が戦国時代のそれと似ていることから思いついたのでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その結果として、枢軸時代が生み出されたとするならば、同じような要因で戦国時代のあった日本でも、なにか影響があったのではないかと考えたくなります。

それが、日本における儒教に見られるのではないかというのが、今回の話のポイントです。

日本における儒教

 前回までの話で何度も出て来たように、儒教の始祖孔子は紀元前500年頃に生きた人です。

つまり儒教はその頃からあった訳です。

それに対して、日本に儒教が初めてもたらされたのは、5世紀ごろと考えられているようです。

日本に来るまでに、約千年程かかった訳です。

その後、その考えが日本中に広まりました、という訳でも無かったようです。

かなりの期間に渡って、仏教の僧侶によって学ばれるに留まったのです。

昔のお寺は、学問が行われる場所でしたので、その中の一つとして取り扱われていたという事でしょうか。

その後、家康が儒教の一派朱子学を取り入れることになります。

その間、伝来より千年以上かかっていることになります。

孔子から数えると約二千年という事になります。

なぜ家康は取り入れたのか

 儒教の教えそのものは、理解に千年もかかるほど難解なものでは勿論ありません。

つまり理解した上で、それまでの統治システムでは取り入れられなかったという事になります。

それをなぜ家康が取り入れたのか。

勿論、天皇を中心とするそれまでの統治システムを刷新するために、新たな考え方を取り入れるという事も有ったでしょう。

それに加えて、枢軸時代と戦国時代に共通する状況があったのではないかと思うのです。

気候変動によりそれまでの社会システムが崩壊し、超越的なものを信じない考えが出てきたと考えられます。

勿論、全ての人がそうでは無かったというのは、一向宗の動向を見ても明らかですが。

そのような状況の下で、家康が意識していたかどうかは分かりませんが、朱子学を取り入れたという事なのでは無いでしょうか。

それでも、社会の中にそういった新たな考え方を受け入れやすい雰囲気があったという事なのでしょう。


 ここで独自のものが出てこないところが日本的なのかもしれません。


ではでは

釈迦、孔子、ソクラテスを生んだもの

釈迦、孔子ソクラテスの考えが生まれてきた理由を考えた話です

 

 

ここまでの話

 ここ何回かに渡って、釈迦、孔子ソクラテスの3者が、同時期に離れた地域で別個に神などの超越的なものによらない考え方を生み出した、その理由を考えるために彼らの生きた時代の共通点について考えて来ました。

その結果見つかった共通点は、「彼らの生きていたのが、太陽活動の低下による地球規模の気候変動により、ほぼ同時期に中国、インド、ギリシャで社会システムが崩壊し、その後の回復期に訪れた群雄割拠の時代だった」というものでした。

具体的には、下図のホーマー極小期からの回復期にあたっていたという事でした。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

この共通点が、釈迦、孔子ソクラテスの生み出した考え方にどのようにつながるのか考えて見よう、というのが今回の話になります。

社会システム崩壊以前

 気候変動によって社会システムが崩壊したと考える訳ですが、宗教の面から考えるとどうなるでしょうか。

先ずインドでは、前回の記事でも触れたように、バラモン教が成立していました。
バラモン教は、基本的に多神教で、その祭祀を執り行うバラモンが階級制度の最上位に位置するというもののようです。

次に中国では、天帝を中心とする世界観で有り、多神教と言っていいと考えられます。
宗教的最高権威を王が担っていたと考えられているようです。
その時使われたのが、有名な青銅器という事になります。

最後のギリシャでは、ミケーネ文明が栄えていたわけですが、彼らもまた多神教でした。
ミケーネ文明では、ポセイドンが主神だったという研究も有るようです。

3地域共に、それまでの社会システムは、上図に見られるように紀元前1000年前後をピークとする太陽活動の活発化により気候が改善する中で、神などの超越的なものを信じる宗教と共に発展してきたという事になります。

崩壊の2つの捉え方

 それがその後の紀元前750年頃のホーマー極小期に向けての気候変動により崩壊していくのですが、それに対してそれまでの宗教は無力だったと考えられます。

いくら超越的なものに祈ったりしても、気候変動に何らかの影響を与えられるはずがないですからね。

超越的なものに頼っても、なすすべなく社会は崩壊していきます。

そうなった時、受け取り方には二種類あるんじゃないかと思うのです。

一つは、崩壊していく中でも、少しでも良かった点を見付けたり、自分が生き残ったりした点を取り上げたりして、それを超越的なもののおかげ、それらが起こした奇跡だとかいった捉え方をするという受け取り方です。

こういった受け取り方をした人は、引き続き信じ続ける事になります。

こんなひどい状況を、おかげで乗り越えることが出来たという訳です。

そのため、3つの地域では、道教ヒンズー教、オリンポスの神々といった、多神教がその後も存在することになったと考えられます。

もう一つは、超越的なものを否定するような受け取り方をするものです。

いくら祈っても、何の助けにもならないじゃないかと考える訳です。

この否定的な捉え方を背景として、孔子、釈迦、ソクラテスが出て来たのでは無いでしょうか。

社会システムを再構築していこうとする群雄割拠の時代の中で、もう信じる事の出来なくなった超越的なものに寄らない考え方を作り出したという事なのでしょう。


 図にはほかにも多くの極大、極小期があって、色々妄想が膨らみます。


ではでは