仏教伝来と太陽活動について考えた話です
久しぶりの太陽活動の図
今回は、我が国への仏教伝来について考えて見たいと思います。
仏教伝来についても、太陽活動が関係しているのではないかという話になります。
ということで、久しぶりに例の図です。
仏教公伝と崇仏論争
日本への仏教の伝来については、『日本書紀』に、欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から、仏像や仏典が献上されたとの記述があり、これをもって日本への公式な伝来、所謂「仏教公伝」がなされたとされています。
その際に欽明天皇は、「西国が献じた仏像の顔は端厳(姿が整っていて威厳があること)だ、未だかってみたことが無い、これを礼するべきか」と臣下に問います。
所謂、「崇仏論争」が起きます。
最終的には蘇我氏が勝ち、仏教が取り入れられることになります。
これはよく考えると有り得ないんじゃないかと思うのです。
天皇は宗教的存在
そもそも、ヤマト王朝は天孫降臨から始まったということで、神の子孫の訳です。
それはあくまで神話だという事だとしても、鬼道を行った卑弥呼が始まりだったりするわけです。
いずれにしても、宗教的なものと深く関係しているのは間違いのない所です。
この事は、現在の天皇の在り方を見ても明らかでしょう。
その天皇が、いくら百済の王が公式に献上してきたものだからといって、単なる宝物とかならいざ知らず、仏教という異教に関してどうしたらいいか聞いたりするでしょうか。
しかし、その後の歴史を見る限り、仏教が急速に取り入れられていくのは確かです。
背景に太陽活動
この背景にも太陽活動が有ったのかもしれません。
以前の記事で、継体天皇の即位の背景には、太陽活動の低下による気候変動から生じた社会の混乱が有るのではないかと考えました。
上の図を見ると、その原因となったと考えられる中世極小期へ向かっての活動の低下は、700年前後まで続いています。
552年の仏教公伝の時にもその混乱は続いていたと考えられます。
そうだとすると、天候を左右できる方法はないので、それまで信じられて来た宗教的なものに対する疑問が生じていたと想像出来ます。
そこに、中国や朝鮮で信仰されて、国家運営にも関係しているという触れ込みのものが、公式にもたらされたわけです。
思わずこれに飛びついたという事なのではないでしょうか。
新たな考えの受け入れられる時
全てが順調にいっている時に新たなものを取り入れるのは、あえてそんな事をする必要はない訳で、保守的になりがちです。
社会が不安定で、それまでの考え方ではその状況に対処できなかったからこそ、新たな方法論である、仏教を取り入れようとしたのだと思います。
『日本書紀』には、百済の聖明王の使者から話を聞いた欽明天皇の反応として、「歡喜踊躍」とあります。
「歓喜して踊り飛び上がった」といった意味でしょうか。
宗教的な存在である天皇本人が、これまでの宗教的な方法論が現状に対して無力だという事を、一番分かっていたのかもしれません。
それにしても、元々のお釈迦様の教えには、国家をどうこうなんてのは影も形もないんですけどね。
ではでは