邪馬台国東遷と応神天皇の関係についての話です。
話としては独立していますが、一応前回の話の続きになります。
宇佐神宮と卑弥呼
以前の記事で、卑弥呼の墓は、宇佐神宮じゃないかという話を書きました。
宇佐神宮には、比売大神、神功皇后、応神天皇、の三神が祀られています。
前記の記事では、このうちの比売大神が、卑弥呼ではないかと考えました。
そして、日本書紀の成立が720年である事、さらに三柱の神がそれぞれ祀られている三御殿の造営時期が、725年以降であることを考え合わせて、宇佐神宮は、比売大神即ち卑弥呼への信仰を基に、日本書紀中の人物を加える形で、現在の形に成ったと書きました。
神功皇后と応神天皇が選ばれたのは、九州に関係する人物だからだというのを、理由として考えました。
宇佐神宮と神功皇后
しかし、その後、邪馬台国東遷説と日本書紀の記述の関係を考える中で、神功皇后に関しては、もう少し別の理由が有るのではないかと考えるようになりました。
それは、神功皇后が、卑弥呼の存在を日本書記から消すために、作り出された人物だったのではないかという事です。
ただし、存在を消すためと言うならば、その後継の台与のことも包含していると、考えるべきかもしれないと、最近は考えています。
神功皇后が以上のような存在であるならば、神功皇后と比売大神即ち卑弥呼が宇佐神宮に祀られているのはうなずけます。
宇佐神宮と応神天皇
となると、残る応神天皇はどう考えれば良いでしょうか。
前述の記事では、神功皇后の息子で、九州生まれだからという事にしたんですが、これについては、書いた時から、説得力が無いに等しいなとは思ってたんですけどね。
神功皇后が、卑弥呼と台与という事であるならば、その息子とされる応神天皇は、その後継者という事になります。
世代的には、邪馬台国が東遷したと考えている時期に当てはまります。
という事は、応神天皇の正体は、邪馬台国の東遷を指導した人物ということではないでしょうか。
こう考えると、応神天皇が九州生まれであることや、宇佐神宮に祀られている事も、何ら不思議では無いことになります。
さらに、その事績には、彼の軍事的能力を示すような話がほぼ無いに等しいにも関わらず、武神八幡神として祀られていることも、東遷における役割を考えると、納得がいくものとなります。
応神天皇以降が実在
ところで、応神天皇に関しては、その事績に関して、仁徳天皇と記述の重複・混乱が見られることから、両者を同一人物と考える説もあります。
これに関しては、日本が中国の周と同時代から続く正当な王朝で有ることを示すために、応神天皇以前の系図を付け加えたと考える事で、解釈出来ると思います。
その上で、東遷の事実を、初代とした神武天皇の東征という形にし、応神天皇には、次の仁徳天皇の事績の一部をあてたという事では無いでしょうか。
つまり、応神天皇以降が、実在の天皇なのではないかと、考えられるのです。
この事は、『古事記』において、応神天皇以降に、死没年の干支が記載されるようになっていることとも符合します。
大和政権は、九州に有った邪馬台国が、畿内に東遷し、それを指導した応神天皇から始まった、というのが、今のところの私の仮説という事になります。
次回は、応神天皇が東遷を指導したことと、継体天皇の出自との関係について考えてみたいと思います。
ではでは。