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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

九州に残った勢力のその後

九州に残った勢力のその後について考えた話です

 

 

敗れ去った側

 前回は、邪馬台国東遷時に九州に残ったのは、後衛としての部隊といった性格のものでは無く、東遷に組することなく従来の生活を守るために残った勢力だったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

さすがに、九州と畿内に二つの王朝が並び立っていたとまでは言うつもりは有りませんが、九州にも大きな勢力が存続していた可能性が有るという話です。

しかし、『日本書紀』にはそういった話は出て来ません。

日本書紀』は所謂勝った側の書いた歴史書ですから、もし私の考えるような九州の勢力が有ったのならば、それについて書いてないというのは、九州の勢力が敗れ去った側ということになります。

それが、継体天皇による「磐井の乱」の鎮圧だったのではないかというのが今回の話になります。

継体天皇が九州出身は無理筋

 継体天皇と「磐井の乱」については、以前の記事で一度取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時には、九州に残った人々の子孫が、武烈天皇が後継を決めずに亡くなってしまったために生じた混乱に乗じて、地方豪族を巻き込んで継体天皇として立ったと考えました。

磐井の乱」に関しては、天皇になる過程で、本拠地の九州の勢力と対立が生じたせいではないかと書きました。

しかし改めて考えて見ると、この考えはチョット無理筋だったようです。

もし上に書いたように、継体天皇が九州に残った人々の子孫で有ったとすると、『日本書紀』の内容が今のようになるはずがないと考えられるからです。

継体天皇以前の歴史は、九州での歴史が中心となるはずですし、何より東遷の事実もそのまま書いても何の問題もない事になります。

日本書紀』のように、そのあたりを全て神話に押し込む必要は無かったはずです。

こう考えると、継体天皇は、畿内へ東遷した者の子孫だったと考える方がよさそうです。

仲哀天皇の5世

 継体天皇と太陽活動について考えた記事では、即位から奈良の地に入るまでに19年もの間各地を転々としていたのは、皇位継承の争いが続いていたからでは無いかと考えました。

リンク:継体天皇と太陽活動

その中で、その争いの相手が、継体天皇の前に次期天皇候補として探し出された、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王だったのではなかったかとしました。

この仲哀天皇の5世というのが、改めて考えると興味深いのです。

本ブログでは、東遷を行ったのが応神天皇だと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東遷を行う時に背後の安全を担保するために、一族の者を残したと考えられます。

その中に、応神天皇の兄弟がいたとしたらどうでしょう。

応神天皇仲哀天皇の息子です。

九州にその兄弟の子孫が続いていたとすると、継体天皇と同世代の人物は、仲哀天皇から数えると5世という事になります。

それが、倭彦王だったのです。

その倭彦王を担いだ勢力と19年の間争った後、勝ったのが継体天皇という事になります。

そのまま書くわけにはいかないので、「倭彦王が迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった」なんていう、情けない人物にされてしまいました。

そして、奈良に入った継体天皇が対峙したのが、倭彦王の背後にいた九州勢力だったという訳です。

それが『日本書紀』に「磐井の乱」として記録されたと考えます。


 今気が付いたのですが、「倭彦王」には「倭」の文字が入っているじゃないですか。九州勢力は中国で自分たちのことを「倭」だと言っているわけで、いかにもな名前ですよね。


ではでは