『吾妻鏡』が作られた目的について考えた話です。
今年の大河の影響で
今年の大河ドラマが鎌倉時代を扱ったものという事で、鎌倉時代についての情報が増えてきたように思います。
その中で当然のように触れられるのが『吾妻鏡』という事になります。
誰が、何時作ったのかについては、残念ながら正確な事は分かっていません。
今のところ、概ね1300年頃に、鎌倉幕府の中枢で作られたと考えられているようです。
幕府の中枢で作られたという事で、『六国史』のような正史では無いものの、それに準ずるものと考えて、その作成の目的を考えて見ようという趣向です。
正史は権力者によって作られた
以上のような『吾妻鏡』ですが、勿論、後世の歴史学者や学生のために作ったのではないことは明らかです。
本ブログでは、「日本における正史は、その時々に自らの正当性を示したい権力者によって作成されて来た」という見方をしてきました。
『吾妻鏡』の場合はどうでしょうか。
いっその事、次の室町幕府の時代に足利尊氏が命じて作らせたという事であれば、まだ分かり易かったかもしれません。
尊氏が、自らの正当性を示すために作らせたと考えれば良いですからね。
鎌倉幕府と言えば、権力を掌握していたのは歴代の執権を務めた北条一族という事になります。
1300年の時点で執権の地位にあったのは、北条貞時でした。
彼には、正当性を示す理由が有ったのでしょうか。
貞時の父は
その事件とは、あの「元寇」です。
ご存知のように「元寇」は、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の2度に渡って行われた、中国の同時の元王朝による日本への侵攻です。
時宗は、「元寇」を撃退した3年後の1984年に、まるで「元寇」に対処する為に生まれて来たかのように、32歳の若さで亡くなってしまいます。
その後を継いだのが、息子の北条貞時なのです。
しかも、弱冠12歳という若さでした。
若さだけではない理由
それでは、その若さに対する懸念に対するのが理由かと言うと、それも有ったかもしれませんが、それ以外にも理由があったと考えられます。
「元寇」後には、
「元寇」に対する対策のために、必然的に幕府に権力が集中することになり、結果的に北条の力が強くなった。
「元寇」が、専ら防衛戦であったために、勝利はしたものの戦利品は無く、参戦した御家人達に対する恩賞が不十分であった。
というようなことが有り、御家人の間に不満が高まっていたのです。
これらの状況を受けて、貞時自身または、彼を支える周辺の人たちが、北条による執権体制の正当性を示すために、作ったのというのが答えではないでしょうか。
それにしても、北条時宗の人生は興味深いですよね。
ではでは