禅とひらめきについて考えた話です
今日は禅についてです
前回までの記事で、お釈迦様の悟り周辺とひらめきの関係について見て来ました。
今日は、もう少し身近な(何しろお釈迦様は2500年前ですからねえ)禅とひらめきの関係について考えてみます。
禅宗は基本的
お釈迦様の悟りに至る話を考えると、現在日本に有る多くの仏教諸派の中では、禅宗がその基本的な教えに最も近いのではないでしょうか。
といっても、その他の宗派が劣っているとかいう意味ではありません。
仏への道には様々な辿り方が有るに違いないのでしょうが、その中でも、お釈迦様がたどった方法に最も近いのではないかという意味ですので念のため。
出家して寺院の中で戒律を守って生活をしながら、もっぱら坐禅という形式の瞑想をするというのが、禅宗の形になるかと思います。
これは、一度このブログの記事でも考えたように、お釈迦様が初転法輪で説かれた、悟りに至る方法論である「八正道」に忠実なものと言っていいでしょう。
心身を正した上で瞑想を行うというのは、まさにお釈迦様が悟りに開いた時の状態に近いという事が言えると思います。
曹洞と臨済
ここまで書いてきた禅の形は、禅宗の中でも「曹洞宗」と呼ばれる宗派のものになります。
それに対して、禅宗にはもう一方の雄(こんな言い方が良いのかどうかは分かりませんが)、「臨済宗」という宗派も有ります。
「臨済宗」においても、出家して寺院での生活と坐禅という基本は変わりません(勿論細かい違いはあるようですが)。
話は少しそれますが、通路の方を向いて坐禅しているのは臨済宗、壁の方を向いて坐っているのは曹洞宗と考えていいらしいです。
基本的なところが同じならばその大きな違いは何処に有るかというと、「臨済宗」の「公案」という事になります。
公案
「公案」とは、修行僧が与えられる問題です。
「両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。」(隻手の声)
のようなもので、その答えを考える事になります。
お釈迦様が悟った時の事を考えれば、寺院での生活と坐禅で事足りているような気がします。
その証拠に、「曹洞宗」ではそれで完結している訳です。
ならばそれに加える形で存在する「公案」にどんな意味が有るのでしょうか。
公案と考え抜くこと
私は、この「公案」の存在は、悟りが瞑想の中でのひらめきで開かれると考える事で、理解できるのではないかと思うのです。
デフォルト・モード・ネットワークによるひらめきには、それ以前に対象について考え抜いていることが必要だと考えました。
上記の「隻手の声」のように、「公案」は普通答える事の困難な問題となっています。
考えても考えても答えは見つかりません。
結果、それについて考え抜くことになるのです。
その上で、坐禅の瞑想の中でひらめきが起こるという訳です。
「公案」は、ひらめきの起こる条件を強制的に満たすためのものだという事になりそうです。
とは言え「曹洞宗」で修行を行う人も、悟りを開くために出家した訳ですから、その事について考えていない訳ではない筈で、要は程度問題という事になるでしょうか。
やはり悟りに至る道は色々とあるのです。
とは言っても、ろくでもない考えには、ろくでもないひらめきしか無いのでしょうけどね。
ではでは