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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

朝貢について

朝貢について考えた話です。

 

 

奇妙なシステム

 このブログのメインコンテンツだと思っている邪馬台国ですが、ご存知のようにその存在は中国の『魏志倭人伝』の記述に拠っています。

その『魏志倭人伝』は、邪馬台国が魏に朝貢をした事が基になっています。

ところで、朝貢というのは、改めて考えて見ると奇妙なシステムなのです。

中国という大国に対して、敵対するのではなく、使節を送り統治権を認めてもらい(冊封を受ける)、その時に貢物を献上するというのは分かります。

邪馬台国が魏に朝貢したときにも、「男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈」を献上しています。

それに対して、魏皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印を授け、統治権を認めます。

ここまでは、弱いものが強いものに貢物をすることにより、代わりにその力による庇護を受ける(名目上かもしれませんが)という、ありがちな話です。

ところが、朝貢にはこの先が有ります。

魏皇帝からは、先の称号と金印に加えて、かの有名な「銅鏡百枚」を始めとして、「絳地縐粟罽10張、蒨絳50匹、紺青50匹、紺地句文錦3匹、細班華罽5張、白絹50匹、金8両、五尺刀2口、真珠と鉛丹各50斤」という膨大な量の物を見返りとして与えているのです。

これでは立場があべこべでは無いでしょうか。

周辺国との関係

 この点については、普通中華思想の立場から、次のように説明されています。

周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。


引用元:朝貢 - Wikipedia

 

一見もっともらしく聞こえますが、よろしくお願いしますと言ってやって来ているものに、引用にもある様に経済的に不利な対応をするのが、いかにも不自然ではないでしょうか。

ここで、中国から見て、朝貢に来る夷狄がどういった存在であったか考えて見たいと思います。

歴史上中国を最初に統一した皇帝とされている始皇帝は、統一後に度量衡や文字の統一といった様々な事業を行いましたが、その中の一つに万里の長城の建設というものもあります。

つまりこのころから、周辺の諸国は、決して「中国の徳を慕って」朝貢して来るような力関係ではなく、むしろ長城を作って防がなければならないような対象だったという事です。

これ以降も、長城は強化されることは有っても無くなる事は無かった事を見ても、その関係に変化はなかったと考えられます。

手段が目的化した

 こういった点から、戦うよりも朝貢のようなシステムの方が、コストがかからずに中国にとっても有利なものだったという考え方も有ります。

しかし、事の始まりはもっと生々しく、中国側から強力な周辺の国に対して、金品を出す代わりに攻撃を猶予してもらったという事だったのでは無いかと思うのです。

下世話な言い方をすれば、なにがしかのお金を払ってお引き取り願ったのです。

その上で、中華思想の自尊心を満足させるために、朝貢というシステムにして糊塗したという事では無いでしょうか。

その後、世の中に良くありがちな「手段の目的化」というやつで、朝貢というシステムが「王朝の徳」を示すためのものとして残ったのです。

そして邪馬台国朝貢することになりました。


 朝貢というシステムのおかげで、我々は邪馬台国を知ることが出来ているわけで、面白いものです。


ではでは