前回の記事
前回の記事で『吾妻鏡』は、「元寇」後の生じた御家人たちの不満に対応する形で、北条貞時による執権政治の正当性を示すために作られたと考えました。
実はそうだとすると、少しばかり問題となる点が有るのです。
今回の話では、その問題点について考えて見ます。
問題点とは
『吾妻鏡』は1300年頃に作られたのですから、昔受験勉強で滅亡時期を「一味散々1333年」と覚えたように幕府は存続していたわけで、当然途中までの歴史がまとめられたものという事になります。
具体的には、初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という形をとっています。
因みに、鎌倉幕府の将軍は、9代まで存在しています。
第6代将軍・宗尊親王の在位期間は、1252年 - 1266年でした。
そうなのです、「元寇」は『吾妻鏡』の時代より後に起こったことなのです。
息子が執権の時にまとめられたのにも関わらず、未曽有の事件である「元寇」と、それを撃退した父親でもある先代執権の北条時宗について、全く触れられていないのです。
これは例えるならば、終戦後に昭和の歴史をまとめる時に、「太平洋戦争」について取り上げないようなものです。
なぜ「元寇」は取り上げられていないのでしょう。
「元寇」後の状況
これについても、「元寇」後の執権を取り巻く状況が関係していると考えられます。
前回の記事にも書いたように、「元寇」後には、
「元寇」に対する対策のために、必然的に幕府に権力が集中することになり、結果的に北条の力が強くなった。
「元寇」が、専ら防衛戦であったために、勝利はしたものの戦利品は無く、参戦した御家人達に対する恩賞が不十分であった。
というようなことが有り、御家人の間に不満が高まっていたのでした。
この中で、恩賞という実利的な面への不満に関しては、口先だけではなく実利によって解消することが最低限必要なことは容易に想像できます。
つまり、「元寇」についてどのようにまとめても、この実利の部分が解決されない限り、不満を解消するどころか、下手をすると火に油を注ぐ事になりかねないと考えられます。
従って、「元寇」とそれに関する北条時宗の活躍については、外さざるを得なかったという事だったのだと思います。
将軍は傀儡だった
それに対して、権力に関する点はどうでしょう。
がその後、3代源実朝までで頼朝の血筋(源氏将軍)が絶えると、その後は京都から将軍を迎えることになりました。
その結果、将軍は名目上の存在となり、実権を北条家が握ることになったのです。
その為、6代将軍までの事績は、実質的に北条の事績を示すことになり、結果的に権力の在り方を示すものになるのです。
「元寇」について記述出来ない以上、これをもって執権の正当性を示す外はなかったという事なのだと思います。
『吾妻鏡』については、未完のままで編纂が中断したという説が有力の様で、やはり「元寇」を入れないのは、いくら何でも無理が有ったという事なのかもしれません。
ではでは