横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

みずほ銀行トラブルとソフトのバグ

みずほ銀行のトラブルからソフトのバグについて思い出した話です。

 

 

みずほ銀行トラブル

 前にもチョット書きましたが、仕事をしている頃に、情報システム関連の部署にいたことが有ります。

その経験から、最近のみずほ銀行のトラブルについては、色々と思うところがありました。

端的には、あんなトラブルが起こった時の担当者には絶対になりたくないなというのが正直なところです。

担当者の何人かが、胃に穴を開けていても不思議は無いと思います。

システムに、ソフトのバグなどのバグは付き物なところは有るのですが、それにしてもトラブル多すぎだろうとは思っていました。

そうしたら案の定、システム要員を削除しすぎたのでが原因では無いか、といった話が流れて来ました。

情報システムに限らず、運用、保守を軽んじるというのはありがちな話ですよね。
その挙句、なにか事が有った時に、傷口を広げてしまうんですよね。

ソフトはテストが大変

 というような話を、情報システムとかプログラミングとかに関係の無かった人に話すと、まあまあの頻度で帰ってくる反応の一つが、「ソフトのバグは付き物って、ちゃんと調べて、そんなものが無いようにしてから使えばいいだろう」というものです。

御説ごもっともで、全くその通りなのですが、それがまた悩みの種な訳です。

勿論、実際に使ってみる前にテストを行います。

考えられる状況を人為的に作って、想定通りの動きをするか見て見るわけです。

その上で、バグが有れば直していきます。

ここで問題になるのは、全ての発生する可能性のある状況を用意出来るのかという点です。

特殊な場合を除いて、そんなことはほぼ不可能です。

そのため、現実的には、どこかの時点で妥協することになります。

簡単に言えば、どこまでテストをやるのかという事です。

逆に言えばこの辺りのさじ加減が腕の見せ所という事も言えます。

昔聞いたテスト法

 この辺りの難しさを示す例を一つ上げます。

システム部門にいた時に、講習会のようなものに参加しました。

そこで聞いた、テストの方法論についてです。
名称を思い出せなくて、ネットで調べてみたんですが分かりませんでした。

その方法論というのが、いかにテストの終了を判断するかというものでした。

理想論は、システムのバグが全て発見された時が、システムの終了時点という事になります。

しかし、そもそもバグが全て発見されたかどうか分かるためには、バグが全て分かっていなければならない訳で、ニワトリか卵かという話になってしまいます。

そこで、あらかじめ人為的なバグを、ある数量システムに入れておいた上で、テストを行います。

すると、本当のバグと人為的なバグが、それぞれ発見されていく事になります。

一般に、最初は順調に発見されるのですが、時間と共に発見頻度は下がっていきます。
収穫逓減の法則というやつです。

ここで、当然全数が分かっている、人為的なバグの方の発見状況を、テストの進捗管理に使おうという訳です。

分からないものを管理するために、既知のデータを付加してそちらを見ればいいだろうという事です。

テストが完了したことの判断は

 最初聞いた時には、なかなか上手い事考えたなと思いました。

ところが、最後まで聞いて驚きました。

テストの終了は、人為的バグの発見が横ばいになった時点とするというのです。

勿論、中には全ての人為的バグがみつかる場合もあるのですが、多くの場合、現実的な時間内でそれを期待するのは難しい、というような理由だったと記憶しています。

これはどういう事を意味するかと言うと、人為的なバグもすべて発見される訳では無いという事です。

という事は、実際のバグもすべて取り切れていないという事になります。

ずいぶん昔の話なのですが、その後完全にバグを無くす方法が発見されたという話は聞きません。


 世の中で使われているどのシステムにも、バグは潜んでいると考えた方がいい、という話でした。


ではでは

「會稽東治」と「會稽東冶」

「會稽東治」と「會稽東冶」について考えた話です

 

 

見て見ぬふりをしていました

 前回の記事では、『魏志倭人伝』における「會稽東冶の東」も、作者陳寿による情報操作の一部だと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

実は「會稽東冶の東」の「會稽東冶」には、古来色々と論争が有るのですが、前回の記事では見て見ぬふりをしました。

今回はそのあたりの話となります。

ニスイかサンズイかが問題だ

 ここで、前回も引用した関係する部分を見てもらいます。

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」

引用元:魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)

原文の最後にある「東治は東冶の転写間違いと考える」という注釈が、論争の内容を端的に表したものとなります。

最後の文字が、ニスイの「冶」なのか、サンズイの「治」なのかが問題の焦点なのです。

一字違うと大違い

 この一字が違うと、その意味するところがまったく違うものになります。

先ず、ニスイの「會稽東冶」は、そのものズバリ地名を表し、會稽郡の東冶という意味になります。

次に、サンズイの「會稽東治」については、會稽山という山が有り、その東部の辺りの治めている地域を意味すると考えられています。

両者の位置関係は次の図のようになります。

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引用元:日本古代史つれづれブログ 後漢書倭伝を読む その1~ ここに歴史上初めて邪馬臺国の国名が出てくるのだが・・・

見て分かる様に、会稽山から見て東ならともかく、会稽郡東冶の東という事になると、明らかに日本列島にはない事になってしまいます。

こんなことになった原因は、後の時代に作られた『後漢書東夷列伝倭条』に「會稽東冶の東」に位置していると書かれているからです。

そのため陳寿が、書き損じたのだと考えられているわけです。

私は「會稽東治の東」派

 個人的には、サンズイの「會稽東治の東」だと思っています。

原文のすぐ上の部分に、「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く」という意味の文があります。

ここで出て来る夏后少康の子というのは、文中にある様に断髪文身したのですが、これが越の起源だとされているのです。

越は、春秋時代にあった国で、首都は會稽山に近い現在の紹興市付近だったとされています。

次のような、短髪で文身の入った像も見つかっており、越と文身は結び付けて考えられていたようです。

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引用元:越 - Wikipedia

というように文身と関係の深い「夏后少康の子」についての話を持ち出しておいて、関係のない「會稽東冶の東」というのは有り得ないだろうというのが理由です。

実はどちらでもいい

 とは思っているんですが、実はぶっちゃけた話をすると、どちらでもいいというのが正直な所なんです。

前回の記事でも書いたように、陳寿は、邪馬台国の位置を中国から見て東方にある国だと認識させるために、「會稽東治の東」の話を入れ込んだ訳です。

従って、もう一度上の図を見てもらえば分かる様に、北の「會稽東治」でも、南の「會稽東冶」でも中国の東方という事から考えると、問題になるほどの差はないとも言えるのです。

陳寿にとっては、日本列島に有るかどうかは、どうでもいいと言えばいい話ですからね。


 以上。見て見ぬふりをした言い訳でした。


ではでは

「會稽東冶の東」も情報操作だ

「會稽東冶の東」について考えた話です

 

 

邪馬台国は大月氏に比肩する大国

 以前の記事で、陳寿は、旅程を情報操作することにより、西の大国大月氏と同程度の東の大国として邪馬台国を記述することにより、その朝貢を意義あるものとして演出したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その情報操作の具体的内容は、
1.終盤の邪馬台国までの行程を「水行20日、南に水行10日、陸行1月」とすることで、位置を南方にずらすと共に距離を曖昧にする。
2.邪馬台国までの距離は一万二千里だという一文を入れ込む。
というものでした。

これによって邪馬台国は、大月氏に比肩する距離にある東方の国になったと考えました。

ただし方位は曖昧

 しかし、よく考えるとこれだけで、中國大陸の東方の国と考えるのは、日本列島の位置のよく分かっている人間か、邪馬台国フリークぐらいでしょう。

そのあたりの位置関係があいまいな人にとっては、帯方郡から出発して、途中色々と経由して、最終的に南方に水行、陸行合わせて2ヶ月ほど行ったところだというのは分かりますが、それがどのあたりなのかは、それほど明確では無かったのではないでしょうか。

これだけでは、一万二千里だけが印象に残りそうです。

そのため、陳寿には、一万二千里という距離だけではなく、中国から見て東方だという事をはっきりさせる必要が有ったと考えられます。

それが「會稽東冶の東」だったのです。

風俗の記述の中に

 ここで、チョット長くなりますが、女王国まで一万二千里の文に続く部分を引用します。

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」

引用元:魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)

男子が皆、黥面文身すなわち刺青をしているという記述から始まっている事からも分かる様に、邪馬台国までの旅程およびその周辺の記述は、直前の一万二千里の記述で終わり、ここからは、その風俗を記述する部分となります。

ところが、その後すぐに、昔から中国に来た使者はみな太夫と言っていたとか、いにしえの夏后少康の子の話とか、派遣された官僚の報告書の内容としては、奇妙とも言える記述が続きます。

「會稽東冶の東」を思いつく

 恐らく、元々の文書にはこれらの記述は無かったと考えられます。

黥面文身の記述を見て、陳寿は、夏后少康の子が、會稽の地で蛟龍の害を避けるために断髪して刺青を入れたという話を思い出し、単なる東ではなく「會稽東冶の東」とすることで、より具体的に位置関係を示すことを思いついたのではないでしょうか。

刺青という共通点が有る事から、そういった国が、「會稽東冶の東」にあっても可笑しくないと思わせる狙いもあったとも考えられます。

その結果、住民が刺青をしているという報告をした文に、関係のない話が差し込まれることになりました。

こうして、邪馬台国を「會稽東冶の東、一万二千里」の位置にある国にすることが出来たという訳です。


「會稽東冶の東」とはなかなか上手い事言ったものですよね。


ではでは

Power Fx

Power Fxに驚いた話です

 

 

仕事以外では 

 以前にチョット書きましたが、仕事で結構Excelを使っていました。

仕事を辞めた今は、そもそも私生活で表計算を必要とするような事はほとんど有りません。

そういう事も有って、現在使っているPCには、Microsoft製のOfficeは入っておらずに、オープンなソフトであるLibreOfficeが入っていたりします。

最近のバージョンは、互換性も高くなっており、個人的に使う分には全く問題のレベルだと思います。

という事で、最近はExcelがバージョンアップして追加された新機能についても、横目で見ているような感じでした。

ExcelにLambda関数

 そのため、今年の初めに、ExcelにLambda関数が実装されたという話が有った時にも、そうなんだぐらいの反応でした。

因みに、Lambda関数というのは、既存のExcel関数を使って、新たな関数を作ることが出来るというものです。

VBAを使わなくても、通常の関数よりも複雑なことが出来るようになるのかなぐらいに捉えていました。

もっとも、関数型プログラミング言語みたいになって来たなとは、チョット思ったりもしたんですけどね。

LispにもそのものずばりのLambda式というものが有ったりしますからね。

Power Fx

 といっても、すぐにそんなことは忘れてしまっていたのですが、最近になってマイクロソフトが、Excel関数ベースのプログラミング言語「Power Fx」を発表したというニュースが有りました。

どうやらLambda関数の実装は、この布石だったようです。

ところで、Excel関数ベースのプログラミング言語とはどういう意味でしょう。

コマンドや関数が、Excel関数ライクのものになっていて、Excelに馴染んでいる人間が習得するのが比較的楽という事でしょうか。

Power Apps

 調べてみると、Power Appsというシステムの上で使用するための言語という位置付けのようです。

そのPower Appsはというと、私の理解では、(Access+Execl+Powerpoint)÷3のような感じのもののようです。

それぞれのアプリを使って行っていた処理をまとめることにより、報告書などを作る業務用のシステムを、ユーザーレベルで、少ないコーディングで作れますよという事のようです。

その時に、慣れ親しんだExcel関数をベースにした言語が使えますという訳です。

仕事をしている時にこんなのが有ったら、喜んで使っていたと思います。

実際の動作を見ると

 何はともあれ、実際に動いているところを見て下さい。

 

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引用元:Microsoft Power Fx 概要 - Qiita

やっていることは、入力用のInputボックスと出力用のLabelボックスを作成して、LabelボックスにInputボックスに入力された文字列の一番右側の文字列を取り出す関数を設定しているだけです。

それだけで、コンパイルをしたり実行キーを押したりしなくても、表計算ソフトのように、実行可能な状態になっているわけです。

勿論、入力をキーボードではなく、ファイルやデーターベースからにすることも出来るようです。

WYSIWYGなプログラミング環境出来ませんかねと以前の記事で書いたのですが、これはほぼそのものズバリのように見えます。

 

yokositu.hatenablog.com

 

まさか、Excelをベースに開発されるとは、ビックリです。

残念ながらPower Appsは有料のようで、気楽に試してみるという事は出来ません。

しかし、今回の発表では、Power Fxをオープンソースで公表するという内容も含まれているようなので、そのうちにオープンな環境が作られると思います。


 これは面白いことになりそうです。


ではでは

刻彫尺八

刻彫尺八についての話です

 

 

刻彫尺八

 刻彫尺八(こくちょうのしゃくはち)というのは、正倉院宝物の一つで、竹製の尺八です。

今年の「正倉院展」で展示されました。

 

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左:全体像 右:部分拡大
引用元:天平の粋 至宝輝く 第73回展の主な宝物 | 動画・コラム | 正倉院展

 

国家珍宝帳』に「刻彫尺八一管」と記載されており、いわゆる「帳内御物」で、宝物中の宝物です。

正倉院北倉にあった聖武天皇の身の回りのものをしまってある戸棚から見つかったので、天皇愛用の品だったと考えられているようです。

北倉には、他にも尺八が納められており、どうやら聖武天皇は尺八がお好きだった様です。

と分かったような事を書いていますが、芸術方面にはあまり興味のない私が知っているはずもなく、NHK日曜美術館の「正倉院展特集」でにわか勉強しました。

全面に彫刻

 それはともかくとして、写真を見て分かる様に、現代の我々が尺八と聞いて普通思い浮かべるものと違って、全面に彫刻がなされています。

その彫刻ですが、材料の竹の表皮を文様の形に残すように削り落とすという、私なんぞには信じられないテクニックで彫られています。

ちなみに、この刻彫尺八の径は、上端で2.4センチ、下端で2.2センチと、現代の標準的なものの半分程度の太さしかないようです。

部分を拡大したものをご覧ください。

 

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引用元:【特集】1300年の時を超えた奇跡の宝物を公開 「第73回 正倉院展」美を生み出した技法に迫る!(読売テレビ) - Yahoo!ニュース

 

真ん中付近の鳥の文様は、幅1センチ程度のものだという事になります。

その大きさで、削り残しただけでなく、線刻も施されているのがわかります。

アップに感じた違和感

 番組でも、同じように部分のアップの場面が有ったのですが、それを見た時にチョットした違和感を感じたのです。

上の写真の部分もそうなんですが、文様の精緻さはあるのですが、それに比べて、削り取った部分の仕上げが今一つのような気がしませんか。

文様の出来がこれ程素晴らしいのに、なぜ削り残しが有るのでしょう。

という訳で今回は、どうして削り残しが有るのかについての話になります。

天皇向けとしては雑

 先ず、国内で作られたものでは無い可能性が高いと思われます。

なぜならば、天皇がお使いになる事が、または天皇に献上することが分かっている場合に、この程度の仕上げで完成とすることは考えられないと思うのです。

次に、刻彫尺八については、唐の貴婦人などの文様の内容から、唐で作られたと考える方が自然です。

そうだとしても、唐の皇帝から天皇に送られたものでも無いように思われます。

やはり、そのような目的に使われるものとしては完成度の点でそぐわないような気がするのです。

ある意味、唐の皇帝としての面子が掛かっているわけですから、完璧を期すはずです。

では何なのか

 では何かという事になりますが、私の説は、当時の唐で市中に流通していた品では無いかというものになります。

刻彫尺八を作った人物は、文様部分の出来から見て、明らかに地の部分をもっと完璧に仕上げる能力はあったと思われます。

それでも、実際に出来上がったものはそうではない訳です。

これの意味するところは、彼が、そこまでの出来上がりを要求されていなかったという事なのでは無いでしょうか。

完璧な出来上がりの一品では無く、そこそこの水準のものを、ある程度の数量そろえる事が要求されていたと考えれば納得出来そうです。

または、工房の形態をとった所で作られた量産品という可能性も考えられます。

そういったものが流通する市場が、当時の唐にはすでに有ったという事なのでしょう。

それを、遣唐使が手に入れて持って帰ったという事なのかもしれません。

さらにそれを聖武天皇が愛用していたという事は、当時の日本にはそこまでの技術はまだ無かったということを示しているのかもしれません。


 以上、削り残しが有るというだけで無理矢理引っ張った話でした。


ではでは

家康は開国派?

家康の対外政策について考えた話です。

 

 

家康は”開国派”?

 このブログの記事で、TV番組が基になるのは、ありがちな事なんですが、今回もそのひとつで、NHKBS英雄たちの選択「家康が夢見た“開国”」の回からの話になります。

徳川家康といえば、江戸幕府を開いために、江戸時代の“鎖国”の礎を築いた人物というイメージが強くあります。

それに対して番組では、家康が、最終的にはキリスト禁教令を出すことになるのですが、それまでは、むしろ国際情勢を的確に把握し世界との貿易を推し進めた“開国派”だったと語られます。

果して、本当に”開国派”だったのでしょうか。

軍事的進出

 先ず大前提として、国外に軍事的に進出しようとは思っていなかったと考えられます。

なんといっても、秀吉の失敗をつぶさに見ている訳ですから。

もし仮に、そんなことを考えても、他の諸大名、特に豊臣側の大名には、従わせるのは難しかったでしょう。

では、国際情勢を的確に把握しというのはどうなんでしょう。


国際情勢を的確に把握

 当時の国際情勢、特にアジアの状況をよく分かっていたとします。

ということは、ヨーロッパ諸国が進出して来て、元々のアジア諸国がどうなったのかも、良く分かっていたという事になります。

その上で、海外との貿易、特にヨーロッパ諸国とのそれに、明るい未来を見たとは考えられないと思うのです。

むしろ、アジアの情勢が分かっていれば、外国勢力の進出を制限する方向に舵を切るのが普通だとも言えそうです。

にもかかわらず、貿易に関しては、確かに積極的に行っていたようなのです。

どういうことなのでしょう。

東西二分策から

 徳川幕府成立初期の国内情勢に関して、以前の記事で、実は家康は、東の徳川、西の豊臣という二分策を採ろうとしていたのでは無いかと考えました。

yokositu.hatenablog.com

 

その事を踏まえて、積極的な海外との貿易について考えるとどうなるでしょう。

西の豊臣勢にはキリシタン大名も多く、海外との窓口も多かったと考えられます。

東の徳川としては、これらの活動を制限出来ない以上、対抗して海外と関係を持たざるを得なかったということなのだと思います。

特に、弾丸の材料の鉛や火薬の原料の硝石を始めとして、武器・弾薬の多くを海外に依存しており、これを豊臣側に独占させるわけには行かなかったはずです。

朝廷を押さえた

 ここで、関係する事項の年表を見てみましょう。

1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1611年 69歳 政仁親王(家康の意向で擁立)が後水尾天皇として即位
1612年 70歳 鷹司信尚(家康が推挙)が関白に就任
        直轄地へのキリスト禁教令
1614年 72歳 大坂冬の陣
        禁教令を全国に拡大
1615年 73歳 大坂夏の陣武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去

1611年以降の動きから、後水尾天皇の即位と鷹司信尚の関白への就任によって、朝廷を抑えたと考えた家康が、大阪の陣により豊臣勢力の力を削ごうとしたのだと考えられそうです。

それでも、豊臣家を滅ぼす気は無かったのではないかという話を、以前記事に書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

禁教令で圧力を

 同時に、1612年からキリスト禁教令を始めています。

布教と貿易を絡めようとしたスペインを排除するという目的もあったでしょうが、その一方でキリシタン大名を始めとする勢力の貿易も含めて、最終的には全国的な貿易を制限する方向に舵を切った訳です。

朝廷を押さえた結果、豊臣勢を抑え込むめどが立ったと思われると同時に開始したことからみても、対豊臣の動きの一環だったと考えられると思います。

それ以上幕府側も、貿易を推進する必要は無くなったという事です。

つまり、幕府側の当初の貿易推進は、開国といった背景を持ったものでは無かったという事です。


 結局、現代の我々が考える程、国際情勢とかまで考えてはいなかったんじゃないかと思うんですけど。


ではでは

古墳時代にやって来た人たち

古墳時代に日本にやって来た人たちについて考えた話です

 

 

古墳時代に大陸から集団が

 日本人の由来に関しては、最初に定住していた縄文人と、その後に稲作と共にやって来た弥生人の混血によって形成されたというのが、従来の説となっています。

ところが少し前に、1500年前の古墳時代の遺跡から見つかった人骨のDNAを分析したところ、縄文人弥生人のもの以外に、東アジア人に特有の特徴が発見されたというニュースが有りました。

ということは、縄文人弥生人以外に、古墳時代に東アジア人の集団がやって来て混血した事が考えられるという話になりそうです。

そこで、この古墳時代にやって来た東アジア人の集団について、邪馬台国東遷説から考えてみようというのが、今回の趣旨になります。

日本は蛮族の地

 こういった時には、普通に考えると、全国規模の政権が出来た古墳時代に大陸との交流が増加して、沢山の人がやって来たんだぐらいの説明になるかと思います。

しかし、このブログでも何回か出て来た話ですが、当時の中国と日本の文化には、大きな差が存在しています。

何しろ、三世紀の卑弥呼の時代から見て約500年前が、秦の始皇帝のキングダムの時代ですから。

という事で、当時の多くの中国の人から見た日本は、東夷という名がふさわしい蛮族の地だったと思われます。

そのため、商売などのために一時的にやって来る人はいたでしょうが、定住のためにやって来るというものは少なかったと思われます。

その地にDNAレベルで変化を起こすほどの規模の集団がやって来るには、それなりの理由があったはずです。

動乱を逃れた?

 約1500年前という事は、500年(6世紀)ごろになりますが、その時に大陸から来ても、直ぐにDNAレベルの変化は起きないので、実際にはそれ以前の4,5世紀にやって来ていることになります。

さて、4,5世紀といえば、中国では五胡十六国の大動乱期でした。

その混乱を避けるためにやって来たと考える事も出来そうです。

ですが、五胡十六国の十六国は漢族の国であり、わざわざ蛮族の地まで逃げて行くというのは、命の掛かった状況でもない限り、動機としては低かったように思われます。

邪馬台国東遷説との関係

 そこで動機の理由になりそうなのが、邪馬台国東遷説という訳です。

同説では、五胡十六国の動乱を避けて、従前から交流の有った魏の東北部から命からがら逃げて来た亡命者の指導の基で、大陸からの侵攻を避けるために、九州にあった邪馬台国畿内に国を移し大和政権となったと考えます。

この事は大陸にも情報としてもたらされと考えられます。

その結果、中国の人々から見ると、日本が単なる野蛮の地ではなく、大陸からの亡命者が中枢部にいる国が有る、行ってみる価値のある地になったということでは無いでしょうか。

その結果、少なくない集団が日本にやって来ることになり、DNAにもその影響が組み込まれることになったのです。

 


 以上、牽強付会の見本のようなお話でした。

 


ではでは

麻雀、将棋、囲碁

麻雀、将棋、囲碁について考えた話です

 

 

麻雀をやってみた

前回の記事で麻雀について考えてみました。

その関連で麻雀について調べている時に、WEB上でコンピューター相手に対戦できるシステムがある事が分かったので、久しぶりにやってみました。

よく考えると、うん十年ぶりで打ったことになるんですねこれが。
年を取る訳です。

使ったのは

kobalab.net

で、アクセスすればすぐに打つことが出来ます。

全く便利な時代になったものです。

学生時代にこんなものが有ったら、のめり込んだでしょうね。
最も、だからといって勉学に励んでいたわけではないのですが。

麻雀も仲間入り

 結構細かなルールやアガリ役で忘れているものも多かったのですが、ゲームそのものは楽しめました。

細かいルールや役を忘れていても、要はメンツとアタマを揃えればいいわけですから、それなりに遊ぶことが出来ました。

やっぱり麻雀は面白いですね。

これで、麻雀も、囲碁、将棋と並んで、私の下手の横好きゲームの仲間入りです。

この3つを下手な私から見ると、その難しさは
 麻雀>>将棋>>>>囲碁
といった感じになるでしょうか。

ルールの難しさに反比例

 この順番を良く考えると、全く初めての人間が、ルールを覚えてゲームを行えるようになるまでの難しさと反比例している事に気が付きます。

まず、囲碁はたった4つのルールを覚えれば始めることが出来ます。

次に将棋は、駒の種類、配置、動き方を覚えなければなりませんし、その他にも、成る事や、2歩の禁止等のルールも覚えなければなりません。

麻雀に至っては、牌の種類も多いですし、その名前の呼び方も基本中国語風ですし、並べ方から始まって配牌のやり方(今は全自動雀卓やネットで行うのでそうでも無いですが)、アガリ方、ドラ、アガリ役、点数計算、etc、と分かっていなければいけないことが盛りだくさんです。

最初に覚えることが少ない方が、始めるのは簡単でも、その後が難しいという事です。

制約の多寡に反比例

 さらに見方を変えると、制約の多寡に反比例しているとも言えます。

囲碁は、ルールに外には、例えば各自の石は一種類で、優劣や働きなどの差は一切無いといったように、制約らしい制約はほとんどなく、勝ち負けも、地が多い方という最低限と言ってもいいものです。

将棋は、初期配置や駒の動きが制約されていますし、勝敗の付き方も、相手の王を取る事というように、囲碁に比べてピンポイントになっています。

麻雀に至っては、牌の配置は全くコントロールできませんし、勝つためには、特定のパターンで牌を集めなければいけないというように、制約が非常に多くなっています。

一見すると、制約のない方が簡単そうですが、そうではないのです。

制約の多い方が、その分出来ることの範囲が狭く、やるべきことがある程度制限されるので簡単に思えるという事なのだと思います。

戦略が苦手

 更に言い方を変えるならば、配置から全て考える囲碁は戦略レベル、配置と駒の動き方が決まっている将棋は戦術レベル、配牌とその後に引いてくる牌を決める事が出来ない麻雀は局地的な戦闘レベルのゲームだという事になるかと思います。

囲碁がもっとも難しく感じる私は、戦略的な考え方が苦手だという事になりそうです。

そう考えると、本ブロブの記事の中で、よく「全体像」とか「物語」という言い方が出て来るのは、無意識の内に戦略的な考え方を外部に求めている結果なのかもしれません。

戦術や戦闘のレベルは、理屈で組み立てる事が出来そうですが、戦略レベルでは、理屈以外の構想力のようなものが必要になりそうです。

理屈先行の私には、戦略レベルは性に合わないのかもしれません。


 以上、囲碁がなかなか上達しない言い訳の回でした。


ではでは

麻雀もいいかも

麻雀について考えた話です

 

 

将棋と囲碁をやってますが

 本ブログで色々と記事を書くために調べて興味が出て来た事も有って、最近は将棋と囲碁を細々とやっています。

が、いずれも初心者レベルから抜け出せずにもがいております。

特に囲碁については、解説書を見ても、当然の一手ですと書いてあるのがいまだにどうして当然なのか分からないですし、いきなり違う場所に飛ぶのが意味不明なのはあいかわらず、といった有様です。

ヘボ将棋同様、囲碁もヘボ囲碁を楽しんでいます、と言いたいところですが、囲碁で楽しいと思うのはごくたまにだったりするというのが現状です。

そんなわけで、英語に続いて2つも下手の横好きなものが増えてしまったのです。

Abema TV

 将棋に関しては、主なタイトル戦はAbema TVで見ることが出来るので、藤井プロの四冠への道を、分からないなりにフォローしています。

Abema TVの将棋チャンネルの隣のチャンネルは、囲碁かと思いきや、麻雀のチャンネルなんですね。

大変便利なAbema TVですが、将棋のチャンネルは有っても、囲碁のチャンネルは有りません。

まあ、前にもチョット書きましたが、一見さんが見ても、何をやっているか分からないですからね。
囲碁が出来る人が増えないことには、難しいのかもしれません。

この辺りが、囲碁の現状を表しているようです。

麻雀の番組

 ところで、将棋チャンネルの隣にあるのが麻雀のチャンネルというのもちょっとした驚きでした。

麻雀については、学生の頃に少しやっていたんですが、その頃のいわゆる雀荘のタバコの煙とギャンブル(もちろん賭け事は法律で禁止されていますよ、念の為)のイメージがついて回るんですよね。

それに、麻雀の番組といったら、最早伝説になりつつある「11PM」の金曜にやっていたものぐらいしか思いつかないぐらいのものですから。

ところが、そう思って気を付けて見ると、けっこう深夜や、衛星放送に麻雀の番組があるじゃないですか。

意外と来ている麻雀

 という訳で、最近の麻雀事情について少し調べてみました。

すると、意外に来ているんですね麻雀が。

最近の時流に乗ってなのか、プロのリーグ戦も有るようですし、介護施設などでも、レクリエーションとして取り入れられたりもしているようです。

「健康マージャン」という事で、純粋に麻雀をゲームとして楽しもうという流れも有るようです。

コンピューターがらみでは、将棋や囲碁と同じ様に、ネットで対戦できるのは勿論のこと、麻雀でも人間のトッププロと同等の成績を上げるプログラムが開発されてもいます。

さらに、最近の打ち方は、ネット対戦のデータを統計処理することにより、数字に裏打ちされたものにもなっていたりしているようです。

麻雀もいいかも

 というような事を調べていて、麻雀も良いかもと思うようになりました。

勿論、将棋や囲碁と同じように、頭や手を使うので、ボケ防止にもいいかなというのも有ります。

でも、それよりもいいなと思う点は、麻雀が将棋と囲碁と違って、運(確率)に左右されるゲームだという事です。

ご存知のように将棋と囲碁は、全ての情報が対戦者に公開されています。

その情報を基に勝負をするわけで、純粋に能力の差が、勝ち負けとなって出て来るゲームです。

そのため、我々素人がプロに勝つ可能性は、理論的には別にして、現実にはないと言っても良いでしょう。

それに対して麻雀は、どんな配牌で、どんな牌をツモってくるかは、その時にならないと分からないというゲームです。

なので、素人にもプロに小さくない確率で勝つ可能性が有るという事になります。
コンピューターのプログラムも、将棋や囲碁のそれとは違って、人間がまったく歯が立たないという事では無いようです。

将棋や囲碁よりも夢と希望が有るというのは、言いすぎでしょうか。


 純粋にゲームとして楽しむ麻雀は有りかもしれません。


ではでは

末廬国と松浦

末廬国と松浦について考えた話です。

 

 

末廬国と松浦が気になる

 本ブログでは、邪馬台国の位置として宇佐説を採っているわけですが、その前提のひとつとして、壱岐(一大国)からの行程を、通常考えられている南の松浦市付近ではなく、東と考えて現在の宗像市あたりに上陸したと考えています。

その根拠に関しては、以前の記事で個人的には一応納得のいく説明が出来たと思っています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そうなると、末廬国と松浦の関係はどう考えたらいいのでしょう。

勿論、末廬国と松浦はたまたま似ているだけだと無視してもいいのですが、喉に魚の小骨が刺さったような感じで、スッキリしません。

また、見方を変えると、末廬国が、松浦ではなく現在の宗像市付近だとすると、そのあたりに末廬国につながるような地名がなぜ無いのかという事になります。

という訳で、今回は、末廬国と松浦のこれらの問題に対して、宇佐説に都合のいい屁理屈を考えてみた話になります。

気になる背景

 確かに、末廬国と松浦に関しては、単に似ているだけでは無いと思わせる背景も有るのです。

先ず、明らかに朝鮮半島な狗邪韓国から海を渡った先が、対馬国で、明らかに対馬です。

さらに海を渡って着くのが一大国という事で、一見アレッと思うのですが、これは一支国の書き間違いだと考えられています(そうでないという意見もあります)。

一支の中国語での発音は、Google翻訳で聞くと、「イーチィー」のように聞こえます。

倭人壱岐の発音がこのように聞こえたのでしょう。

この事からも、一支国(一大国)は現在の壱岐と考えていいように思えます。

その流れで来ると、次の末廬国は、倭人の松浦の発音を聞いて字を当てたと考えるのが自然のように見えます。

そうなると、宗像市辺りに上陸したと考える宇佐説からすると、いささか困ったことになります。

背景には東遷が

 このブログでは、宇佐に有った邪馬台国が、東遷して畿内に移ることで、大和政権となったと考えています。

その東遷に関しては、大陸における五胡十六国の動乱の影響が、海を越えて九州にも及んでくるのを恐れて行ったとしています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そのため、一族郎党全てが東遷したわけでなく、移動中の後備え兼移動後の防衛の最前線として、一部が残ったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

実はこれが、末廬国と松浦の問題を解く鍵なのではないかと思うのです。

沿岸の防衛

 防衛とういう観点で、松浦市の辺りについて考えてみるとどうでしょうか。

大陸から侵攻して来るとすると、対馬壱岐経由で行われるのが大きな可能性の一つになります。

その時に壱岐から最も近い位置にある松浦市付近は、最重要防衛拠点の一つと考えられます。

ここで九州に残った人たちについて考えます。

守ると言っても、邪馬台国の主要な部分は東遷中であり、全体の規模としては明らかに減っているので、当然残った人員を再配置しなければならない事になります。

そのために、現在の宗像市辺りにあった末廬国の一族が、松浦市辺りに再配置されたのでは無いでしょうか。

結果、宗像市辺りには末廬国由来の地名が無く、松浦市周辺に名称が残ったのです。


 以上、無理矢理辻褄を合わせた感が有る事を否定はしませんが、個人的には結構気に入っています。


ではでは

邪馬台国までは一万二千里(その3)

邪馬台国までの距離について考えた話(その3)です

 

 

今回の話

 さて今回は、その2で思わせぶりに終わった、邪馬台国までの距離がなぜ一万二千里とされたのかという話になります。

 

yokositu.hatenablog.com

 


陳寿の情報操作

 このブログでは、魏志倭人伝の編者陳寿が、邪馬台国を東方の大国に見せかけるために、旅程などの内容を情報操作したと考えています。

その理由は、自らが仕える西晋の司馬氏に、天命が下る程の徳が有ることを示すためだと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にあり、その地域から朝貢してきた邪馬台国が、同時代に西方から朝貢してきた大国大月氏と同等だとすることで、徳が有る事を示そうとしたのです。

そのために、邪馬台国への終盤の旅程を、水行20日、南に水行10日、陸行1月とすることで、実際の位置よりも南方の、中国から見て東方になる位置に持っていく必要が有ったというのが、基本的な考え方になります。

月氏は遠い

 といった事を地図を見て再確認していたのですが、その時に改めてチョット驚いたのです。

f:id:t_arata:20211028213952p:plain

引用元:https://www.y-history.net/appendix/wh0203-085.html

 

右端の朝鮮半島楽浪から北九州までの距離に比べて、左端の大月氏はチョット遠すぎると思いません?

当時の中国人に、このような正確な地理的な認識が有ったとは思われませんが、果して一万二千里で話が成り立つのかと思ったのです。

そこで、大月氏の位置について、当時はどう捉えていたのか調べてみました。

まさにそこに答えが有りました。

一万二千里の正体

 大月氏については、漢の武帝の時代に、張騫という人物が派遣され、その報告が「史記(大宛列伝)」に記録されています。

それによると「大月氏は大宛の西二、三千里ばかりに在り」という事になっています。

「大宛」は上の地図でも大月氏の右上にその名がありますが、「史記」では「漢の正西に在り。漢を去ること万里ばかり。」と記されています。

ということは、両方の話をを合わせると大月氏は漢の西-万二、三千里の所に有るという事になります。

因みに、漢時代の1里は約400メートルだったようですので、西に約4,800キロとなり、現在の地図で調べてもかなりいい所をついたそれらしい数字だといえます。

この距離が、その後の中国の人たちの大月氏の位置に関する基本的な認識になっていたと考えていいでしょう。

これこそが、邪馬台国までの距離一万二千里の正体だったのです。

そして東方の大国に

 作者の陳寿は、倭人伝の下敷きにした記録を見た時に、これは使えると思ったのでは無いでしょうか。

邪馬台国までの距離が偶然にも短里で一万二千里に近い(宇佐説だと一万一千数百里になります)所に目を付けて、先ず終盤の邪馬台国までの行程を「水行20日、南に水行10日、陸行1月」とすることで、位置を南方にずらすと共に距離を曖昧にします。

その上で、邪馬台国までの距離は一万二千里だという一文を入れ込みます。

勿論、1里の距離が違うなんてことは、おくびにも出しません。
実際の距離ではなく、一万二千里離れた場所に有るという事が大切なのです。

これでめでたく邪馬台国は、大月氏に比肩する距離にある東方の国になった訳です。

という訳で、一万二千里の所に邪馬台国を探すことに意味は無かったのです。


 そして、後世の我々は、まんまと騙されて右往左往することになってしまったのです。


ではでは

邪馬台国までは一万二千里(その2)

邪馬台国までの距離について考えた話(その2)です

 

 

一万二千里が問題

 その1は、魏志倭人伝に記述が有る様に邪馬台国までの距離が一万二千里だとすると、宇佐説だと距離的に足らなくなってしまうという話でした。
   

yokositu.hatenablog.com

 

これまでも、宇佐説だと距離が足らないというのを説明するために、色々と屁理屈をこねて考えて来たのですが、これといったものが見つかりませんでした。

なかなかに手ごわいのです。

一万二千里の距離

 そもそもこの一万二千里というのは、邪馬台国の位置を特定しようとすると、宇佐説だけでなく他の説でも色々と物議をかもす距離なのです。

お馴染みの邪馬台国までの旅程を見てもらいます。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

この全体が一万二千里という訳です。

その1でも書いたように、不弥国までの行程の里数を合計すると一万七百里となります。

という事は、その先投馬国経由の邪馬台国までの旅程、水行20日+水行10日+陸行1月で踏破する距離は、残りの千三百里、短理で考えると約90キロになります。

一万二千里の矛盾

 宇和説以外の、九州に邪馬台国が有ると考える説にとっても、2ヶ月かけて約90キロというのは、途中で宿泊すると考えても掛かり過ぎで問題です。

畿内説で考えても、その主張の通りに方角が東を南と間違っていたとして、2ヶ月の期間は有り得るとしても、距離的にはお話にならないという事になってしまいます。

それならばということで、1里が表す距離を、短里の70数メートルではなく、九州の端、または畿内に到達するのに十分な距離にするとします。

そうすると今度は、途中で通過する狗邪韓国、対馬国などの国々をどこに比定するのかという問題が生じることになります。

つまり、旅程を正しいと考えれば一万二千里が、逆に一万二千里が正しいとすれば旅程が、それぞれ問題になるという矛盾が生じてしまうのです。

この矛盾を解消するために、古来様々な説が考えられて来ましたが、未だ解決したとは言い難い現状です。

一万二千里のなぜ

 ところが先日、いずれも編者陳寿による情報操作だと考えればうまく説明出来る事に気が付きました。

邪馬台国までの最後の旅程も、そこまでの距離が一万二千里という話も、いずれも陳寿が付け加えた話で、本当の旅程、距離を表していないと考えれば、矛盾は全て解消します。

では、なぜ邪馬台国までが1万二千里という一文を、その中でも特になぜ一万二千里を追加する必要があったのでしょうか。


それについては次回という事で、話は続きます。


ではでは

邪馬台国までは一万二千里(その1)

邪馬台国までの距離について考えた話(その1)です

 

 

2つの懸案事項

 本ブログでは、邪馬台国の位置として、現在の大分県宇佐市宇佐神宮付近だという立場を採っています。

実は、その説を展開するにあたって、チョット引っ掛かる2つの懸案事項が有るのです。

1つは、旅程中の九州への上陸地点についてです。

もう一つは、邪馬台国までの距離についてです。

九州への上陸地点

 宇佐説では、現在の壱岐と考えられている一大国から九州に渡る場所を、通常考えられている松浦半島付近ではなく、宗像市付近に上陸したと考えるのですが、その根拠が無いというのが問題となります。

が、この件に関しては、倭人伝の記述から宗像市付近に上陸したと考える事が可能だと分かり、記事にしました。

 

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邪馬台国までの距離

 次に、二つ目の懸案事項の邪馬台国までの距離についてですが、魏志倭人伝には、邪馬台国までの旅程と共に、その距離が一万二千里だという記述が有る事が問題となります。

ここで、魏志倭人伝に記されている、邪馬台国への旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

邪馬台国までの旅程の内、里数が分かる不弥国までの距離を足し合わせると、一万七百里になります。

邪馬台国までが一万二千里ということであるならば、その差千三百里が、不弥国から邪馬台国までの距離の合計という事になります。

これが、宇佐神宮付近までの距離に一致すれば万々歳です。

距離が足らない

 上に書いたように宗像市付近に上陸したとして、その後は、以下の地図に示すような行程で宇佐神宮付近の邪馬台国に到着したと考えます。

f:id:t_arata:20200106210355p:plain

引用元:Googleマップ(行程線は筆者追記)


しかし、地図に青系統の線で示してある、不弥国以降の行程は、地図上で計ってみるとせいぜい40~50キロ程度しかありません。

一里70数メートルの短里で考えると。千三百里どころか、約半分程度にしかなりません。

誤差で済ますには少しばかり大きな差になります。

これは、宇佐説を採る当ブログとしては、困った問題です。


問題を抱えたまま次回に続きます。


ではでは

邪馬台国までは一万二千里(その1)

邪馬台国までの距離について考えた話(その1)です

 

 

2つの懸案事項

 本ブログでは、邪馬台国の位置として、現在の大分県宇佐市宇佐神宮付近だという立場を採っています。

実は、その説を展開するにあたって、チョット引っ掛かる2つの懸案事項が有るのです。

1つは、旅程中の九州への上陸地点についてです。

もう一つは、邪馬台国までの距離についてです。

九州への上陸地点

 宇佐説では、現在の壱岐と考えられている一大国から九州に渡る場所を、通常考えられている松浦半島付近ではなく、宗像市付近に上陸したと考えるのですが、その根拠が無いというのが問題となります。

が、この件に関しては、倭人伝の記述から宗像市付近に上陸したと考える事が可能だと分かり、記事にしました。

 

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邪馬台国までの距離

 次に、二つ目の懸案事項の邪馬台国までの距離についてですが、魏志倭人伝には、邪馬台国までの旅程と共に、その距離が一万二千里だという記述が有る事が問題となります。

ここで、魏志倭人伝に記されている、邪馬台国への旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

邪馬台国までの旅程の内、里数が分かる不弥国までの距離を足し合わせると、一万七百里になります。

邪馬台国までが一万二千里ということであるならば、その差千三百里が、不弥国から邪馬台国までの距離の合計という事になります。

これが、宇佐神宮付近までの距離に一致すれば万々歳です。

距離が足らない

 上に書いたように宗像市付近に上陸したとして、その後は、以下の地図に示すような行程で宇佐神宮付近の邪馬台国に到着したと考えます。

f:id:t_arata:20200106210355p:plain

引用元:Googleマップ


しかし、地図に青系統の線で示してある、不弥国以降の行程は、地図上で計ってみるとせいぜい40~50キロ程度しかありません。

一里70数メートルの短里で考えると。千三百里どころか、約半分程度にしかなりません。

誤差で済ますには少しばかり大きな差になります。

これは、宇佐説を採る当ブログとしては、困った問題です。


問題を抱えたまま次回に続きます。


ではでは

禅とひらめき

禅とひらめきについて考えた話です

 

 

今日は禅についてです

 前回までの記事で、お釈迦様の悟り周辺とひらめきの関係について見て来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

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今日は、もう少し身近な(何しろお釈迦様は2500年前ですからねえ)禅とひらめきの関係について考えてみます。

禅宗は基本的

 お釈迦様の悟りに至る話を考えると、現在日本に有る多くの仏教諸派の中では、禅宗がその基本的な教えに最も近いのではないでしょうか。

といっても、その他の宗派が劣っているとかいう意味ではありません。

仏への道には様々な辿り方が有るに違いないのでしょうが、その中でも、お釈迦様がたどった方法に最も近いのではないかという意味ですので念のため。

出家して寺院の中で戒律を守って生活をしながら、もっぱら坐禅という形式の瞑想をするというのが、禅宗の形になるかと思います。

これは、一度このブログの記事でも考えたように、お釈迦様が初転法輪で説かれた、悟りに至る方法論である「八正道」に忠実なものと言っていいでしょう。

 

yokositu.hatenablog.com

 

心身を正した上で瞑想を行うというのは、まさにお釈迦様が悟りに開いた時の状態に近いという事が言えると思います。

曹洞と臨済

 ここまで書いてきた禅の形は、禅宗の中でも「曹洞宗」と呼ばれる宗派のものになります。

それに対して、禅宗にはもう一方の雄(こんな言い方が良いのかどうかは分かりませんが)、「臨済宗」という宗派も有ります。

臨済宗」においても、出家して寺院での生活と坐禅という基本は変わりません(勿論細かい違いはあるようですが)。

話は少しそれますが、通路の方を向いて坐禅しているのは臨済宗、壁の方を向いて坐っているのは曹洞宗と考えていいらしいです。

基本的なところが同じならばその大きな違いは何処に有るかというと、「臨済宗」の「公案」という事になります。

公案

 「公案」とは、修行僧が与えられる問題です。

「両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。」(隻手の声)
 のようなもので、その答えを考える事になります。

お釈迦様が悟った時の事を考えれば、寺院での生活と坐禅で事足りているような気がします。
その証拠に、「曹洞宗」ではそれで完結している訳です。

ならばそれに加える形で存在する「公案」にどんな意味が有るのでしょうか。

公案と考え抜くこと

 私は、この「公案」の存在は、悟りが瞑想の中でのひらめきで開かれると考える事で、理解できるのではないかと思うのです。

デフォルト・モード・ネットワークによるひらめきには、それ以前に対象について考え抜いていることが必要だと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

上記の「隻手の声」のように、「公案」は普通答える事の困難な問題となっています。

考えても考えても答えは見つかりません。

結果、それについて考え抜くことになるのです。

その上で、坐禅の瞑想の中でひらめきが起こるという訳です。

公案」は、ひらめきの起こる条件を強制的に満たすためのものだという事になりそうです。

とは言え「曹洞宗」で修行を行う人も、悟りを開くために出家した訳ですから、その事について考えていない訳ではない筈で、要は程度問題という事になるでしょうか。

やはり悟りに至る道は色々とあるのです。


 とは言っても、ろくでもない考えには、ろくでもないひらめきしか無いのでしょうけどね。


ではでは