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寺子屋と教育

寺子屋から教育について考えた話です

 

 

寺子屋と学校の教室

 寺子屋というと、時代劇でよく見る、筆机をきれいに並べて習字をしている場面とか、先生に合わせて素読(「しのたまわく」が有名な奴ですね)をしたりというのが思い浮かぶと思います。

中にはそういった寺子屋も有ったようですが、多くは違っていたようなのです。

どうも時代劇の中で描かれる寺子屋は、現在の学校の教室の印象に引っ張られているようなのです。

実際にはどうだったかというと

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 引用元:寺子屋 - Wikipedia

こんな感じで、てんでばらばらに並べて、現在なら学級崩壊と言われそうな感じが普通だった様です。

こんな状態で、どうやって授業を行ったのかと思いますが、それがすでに間違いなのです。

どうやって教えていた

 当時の寺子屋では、現在の学校のように、一斉に先生が教えて生徒がそれを聞くという授業は無かったようなのです。(九九の練習や素読は全員で行ったという話もある様ですが)

ではどうしていたのかというと、各生徒が自分の習熟度に従って、別々の勉強をしていたらしいです。

今のようにある年齢に達したら、同時に入学するというような事は無かったので、学んでいる子供たちも、様々な年齢の子たちがいました。

上の絵にもある様に、子どもたち同士でも教えあったりしていたようです。

勿論、子供だけで分からないところは、教えていたでしょう。

先生は、各人の進捗度合いを把握していたことになります。
その上で、適切な教材を適切な時に与えていたという事のようです。

これはなかなか興味深い教育法では無いでしょうか。

何よりも、結果として子供たちが能動的に学習するシステムになっているのが素晴らしいと思うのです。

現在の学校

 それに対して、今の日本の学校は、色々な改革が叫ばれて久しいですが、基本的には、教師による一斉授業の形をとっています。

教師が、生徒を前にして説明するのを、生徒はお行儀よく坐って聞いてノートを取るという形態です。

極端に言うと、これだけとも言える訳です。

教師は各教科の内容を一方的に説明するだけで、生徒各々がどこまで習熟しているかは、テストの時しか分からないと言っても良い状況だという事です。

しかも、テストの点が悪かったとしても、それについて何かサポートが有るかと言うと、個別にはないに等しいと言っていいでしょう。

最近はどうか分かりませんが、少なくとも、私は、先生に何かサポートを受けたという記憶はありません。
親には色々言われましたけどね。

高校になれば、赤点を取ると補習が有りましたが、小中学校ではそれも有りません。

極端なことを言えば、通知表がオール1でも卒業は出来るわけです。
学習内容を習得する事は、二の次のような印象です。

何か足りないと思いませんか。

勉強法は教えてくれない

 それは、各教科の内容を説明はするけれども、それに対してどのように習熟するかは教えてくれないという事です。

勉強の仕方というのを、今の学校では教えません(少なくとも、私は教えてもらった記憶は無いです)。

あくまでも、教室で教師の説明を聞くのみという受動的な教育なのです。

そのため、学習内容の習熟のために、塾に行ったり通信教育を受けたりするという、バカげた話になっているわけです。

寺子屋と現在の学校は、正反対の教育方法だと言えそうです。

こうなってしまったのは、明治政府が、外国の教育システムを取り入れたことに拠るようです。


 どちらが良いのかは意見が分かれるところでしょうが、私は寺子屋に行きたかったです。


ではでは