横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

年を取ると一年が短くなったように感じるのはなぜ

なぜ年を取ると一年が短くなったように感じるのか考えた話です。

 

 

ジャネーの法則

 年を取ると一年が短くなったように感じるようになるとよく言われます。

個人的にも、最近は師走の頃になると、もう一年かとビックリするようになってしまいました。

こういった事象を説明するものとして、ジャネーの法則というものが有ります。

ジャネーの法則と聞いても、あまりピンとこないかもしれませんが、内容的にはそれほど難しいものではありません。

簡単に言えば、人生のある年齢におけるその人の感じる時間の長さは、年齢に反比例するというものです。

例えば、50歳の人にとって1年の長さはその人生の50分の1ですが、5歳の人にとっては5分の1になります。

従って、50歳の人にとっての10年間は5歳の人にとっての1年間に当たるという事になります。

よって、50歳の人には一年が五歳の時の10分の一ほどの長さに感じるので、あっという間に一年が過ぎてしまうという訳です。

もっともらしいが

 聞いた瞬間はなるほどと納得しそうになるのですが、よく考えるとおかしな点のある事に気が付きます。

一番分かり易いのは、日常の時間の感じ方は、年齢とは関係がなさそうだという点です。

ジャネーの法則では、年齢が高くなるにつれて感じる時間の長さが等しく短くならなければなりませんが、明らかにそうではなさそうです。

例えば、筋トレを行っている時の一分とテレビを見ている時の一分の感じ方は、明らかに違いますよね。

加えて、単純にジャネーの法則のように、全ての人が同じように一年の長さを感じているという、客観的なデータがあるという話も聞いたことが有りません。

チコちゃんによると

 年を取ると一年が短くなったように感じるのは、チコちゃんによると「人生に
トキメキがなくなったから」なのだそうです。

子供の頃は初めて体験することが多く、そのたびにトキメキを感じるから時間
が長く感じられる。大人になると、生活の中にトキメキを感じることが少なくな
り、時間が短く感じられるとのことでした。

なるほどと思いますが、トキメキが表しているものが今一つ分かったような分からないような感じで、スッキリしません。

時間の感じ方は心がどのくらい動いているかが重要だという説明も有りました。

この事を指してトキメキと呼んでいるようです。

とは言っても、感動などの喜怒哀楽とも違うようです。

オリンピックやワールドカップで沢山感動した年も、それ程一年が長かった感じはしませんし。

では何なのか

 では、どう考えれば良いのでしょうか。

上の説明の中の、「子供の頃は初めて体験することが多く」という所に注目してみます。

これにトキメクというのを、生きていくために重要な経験を記憶する事だと考えます。

大人になってこの経験が蓄積されると、日常の多くの事柄は、蓄積された経験を利用することで対処出来るようになります。

逆に言うと、新たな経験を記憶することが少なくなると考えられます。

一年を振り返って、この新たな経験を記憶した回数と、感じる時間の長さが比例するという事なのではないでしょうか。

感動も大きく心は動きますが、生きていくために重要だという訳では無いので、感じる時間の長さとは関係ないという事になります。


 記憶に残るような事を多くすると一年が長くなるという事になるでしょうか。


ではでは

chatGPTあれこれ

chatGPTについて考えた話です。

 

 

chatGPT

 ここ最近「chatGPT」というものが話題になっています。

AIの一種で、普通の文で入力した質問に対して、自動的に回答の文を生成するというものです。

その回答文が、かなり人間の書いたものに近い出来という事で話題になっています。

勿論、その中身がどうなっているかなんてのは分からない訳ですが、どうやらインターネット上の膨大な文章を学習させることにより、自然な文章を作り出せるようになったという事のようです。

一番驚いたのは、一部コンピューターのプログラムについても学習しており、ある程度のレベルのプログラムを生成できる点でしょうか。

プログラミングも、単なるコードの打ち込みだけではなく、AIの生成できないオリジナリティが求められるようになるのでしょうか。

色々と恐れられている

 色々驚かされるchatGPTですが、最初に発表されたのは昨年の11月のようです。

最初に私がchatGPTについて見聞きしたのは、フランスのTV局初のニュースでした。

確か、フランスの学校で、宿題にchatGPTを使う例が増えて来て問題になってきているというもので、今年の初めだったと思います。

それ以降は、日本のTVでも取り上げられるようになって、現在ではビジネスへの利用も含めて話題になっているのは、ご存知の通りです。

ビジネスで利用しようという機運が有る一方で、私が最初に見たニュースの例のように、その利用を問題とする論調も多く見られます。

むしろ、問題とする論調の方が多いと言えるかもしれません。

最近では、サミットでも議題に取り上げられるというニュースもありました。

どうなんでしょうか

 問題点としては、偽情報の生成が容易になるとか、インターネット上の文章を使っていることから著作権との辛みはどうななるのかとかいった事が挙げられているようです。

フランスの学校の例のように、学習の妨げになるという意見も多いようです。

偽情報については、今でもいくらでもある訳ですし、著作権も今に始まった問題では無い訳で、何れ落としどころが出来て来ると思います。

学習の障害という点については、その程度で解答出来る問題の方に問題が有るのではないでしょうか。

そういった点も勿論あるとは思いますが、どうも多くの論議を見ていると、その背景には、あまりにも自然な文章を作り出すという点が有るように思います。

人間にしか出来ないと思っていた文章の作成というものを、いとも簡単にこなしているように見えるのが、恐ろしくもあるといったところでしょうか。

この辺りは、最初だけで、そのうち気にもならなくなると思います。

そもそも、chatGPTは、インターネット上の文章から単語の出現頻度や相互関係を考慮して文章を作成しているのであって、その内容を理解しているのでは無いので、人間を超えるものでは全くないのです。

それが証拠に、よくバラエティ番組で遊ばれているように、文章としては正しくても、その内容が全くデタラメというものが少なくない訳で、まだまだ我々の出番は無くならないでしょう。

欲しいのは

 という事で、chatGPTのようなものは、好むと好まざるにかかわらず普通に使われるようになって行くと思われます。

そういったものを使ってぜひ作ってもらいたいものが有ります(すでに作り始めているとは思いますが)。

それは、おしゃべり相手です。

最近性能向上の著しい、音声認識音声合成と組み合わせれば、自然な会話の出来るシステムが出来そうです。

上に書いたように、内容がデタラメでも、日常会話に厳格な正確性は求めている訳では無いので、それほど問題にはならないでしょう。

これから必要とする人が増えるはずなので、需要は有ると思うのですが。


外見は、タチコマが希望です。


ではでは

自転車用ヘルメットの努力義務化

自転車用ヘルメットの努力義務化について考えた話です。

 

 

努力義務化

 この4月1日より、自転車にのる時のヘルメット着用が努力義務となりました。

努力義務ということなので、つけるように努力しましょうという事で、着けていなくても別に罰則が有る訳では無いようです。

という訳でもないでしょうが、周りを見ても着けていない人が多いという感じです。

ただ、明らかに新しいものを着けている人も、たまに見かけるので、それなりに認知されているというところでしょうか。

ヘルメットの効果

 改めてヘルメットの必要性を調べて見ました。

交通事故統計データによると、2021年の自転車事故による死者・負傷者数は68,114人だったようです。

このうち、ヘルメットを着けていた人数は6,816人で、そのうちの死者数は24人となり、死亡率は約0.35%でした。

一方、ヘルメットを着用していなかった人の人数は60,306人で、そのうち死者数は336人で、死亡率は約0.56%でした。

つまり、ヘルメットを着用しない場合の死亡率は1.6倍も高いということになります。

ヘルメットを着けた方がよさそうです。

効果が有る事は分かるが

 効果が有る事は分かりましたが、それを法律で決めるというのはどうなんでしょう。

勿論、現在は努力義務であり、強制ではないのですが、バイクのヘルメットの例を見ても、いずれ義務化される確率は高いと思われます。

確かに、それによって命が守られるという事は分かりますが、それを法律で決めてもらう必要は無い様に思うのですが。

ヘルメットを着けていないことにより、交通の障害になるとか、着けていない人が悪い事をしがちだとかいった事はないでしょう。

ヘルメットの有用性の啓発は必要だと思いますが、着ける着けないは各個人が決めれば良い事ですよね。

餅で考えると

 上でも書いたように、2021年一年間に自転車の事故で無くなった方は、ヘルメット有る無し合わせて360名でした。

消費者庁の調査によると、65歳以上で餅を含む窒息事故による死亡者数は2019年で363人、2020年で398人で計661人だったそうです。

全数が餅という訳では無いようですが、餅でも少なくない数の人が無くなっている事が分かります。

にも拘わらず、餅を食べる時には、窒息しない様にしなければならない(大きさを制限するなど)義務などというものは存在しません。

メーカーが喉に詰まり難い餅を開発する事は、なんの問題もないばかりか歓迎すべきことですが、それを食べる事を義務にするというのは、おかしいですよね。

自転車のヘルメットも同じことだと思うのです。

将来的には

 大体、こういった事は行くところまで行きがちです。

将来的には、歩行時に事故、事件で亡くなる事が有る事を考えれば、外出する時の安全装備も義務とされるようになる可能性はゼロでは無いでしょう。

具体的には、アメリカンフットボールのプロテクターとヘルメットのようなものの装着が義務化されます。
防刃機能も持たせれば、ある程度通り魔などにも有効でしょう。

橋から落ちたりした時の事も考えて、プロテクターにはライフジャケットとしての機能も必須となります。

同時に、エアバッグのようにな機能も必要でしょう。

関節を守るために、膝、肘のプロテクターも必要です。

足先を守るために、靴は安全靴が、手を守るために刃物を通さない保護手袋も必須です。

最低限この程度は必要とされるでしょう。


 最後は悪ノリしてしまいましたが、歩行時のヘルメット着用は有りそうですよね。


ではでは

憲法記念日

憲法記念日に考えた話です。

 

 

テレビ欄

 昨日は憲法記念日でした。

世間的には、ゴールデンウィーク真っ只中という事なのですが、年中休日のようなもののこちらとしては、あまりピンとは来ません。

いつもと違うのは、テレビの番組が一部通常の平日と違っている事でしょうか。

そう思って新聞のテレビ欄を見ても、見事な程憲法関連の番組が無いですね。

ようやく見つけたのは、NHKのニュースの中で少しという有様です。

まあ、とは言っても、こちらも憲法についていつも気にしているかと言われればそうでも無いんですけどね。

そもそも、憲法を真面目に全文読んだ記憶は無いわけで。

それにしても、Eテレ辺りで有ってもよさそうなものですが。

憲法と言えば

 その憲法についてですが、毎年憲法記念日になると思い出す記憶が有ります。

おそらく小学校高学年の社会の授業だったと思うのですが、その日やった教科書のページにおそらくこんな感じの一枚の挿絵が載っていました。

もっとも、私が小学生の時代ですから、白黒だったはずですが。

 

引用元:大日本帝国憲法 - Wikipedia

明治の大日本帝国憲法発布式の図です。

記憶というのは、この挿絵を初めて見た時の感想です。

初めて見た時の感想

 この挿絵は、大日本帝国憲法発布式の図という事で、欽定憲法である大日本帝国憲法を、時の総理大臣黒田清隆が命じ天皇から受け取っている場面という事になります。

その授業でどのように説明されたかは覚えていませんが、その時に私が思った事だけは鮮明に覚えています。

私は、「どうして天皇から憲法を貰わないといけないのか?」と思ったのです。

まあ、だからといって先生に質問するような生徒では無かったので、そのまま疑問として折に触れて思い出す事になった訳です。

その後、上に書いたような明治憲法に関して知るにつれて、いつの間にか解消していったという事になります。

小学校高学年ですでに

 どうして当時の私がそんなことを思ったのかというと、なぜ国民の象徴である天皇から、憲法を貰わないといけないのか変じゃないのか、と考えたからでした。

その考えをそのまま、明治天皇明治憲法にも当てはめたから、上のような疑問になった訳です。

今考えると当時は、先の大戦を経験した人も多く、軍国主義から新たな社会へという空気の残滓がまだまだ残っていた時代だったと思います。

多分に、教育にもその影響はあったのだと思います。

そんな中で、小学校高学年にしてすでに、「主権は国民にあり、天皇は象徴である」と普通に考えていたのです。


 子供は子供なりに色々と考えているし、何をどう教育するのかよーく考えないといけないよねという話でした。


ではでは

右腕を痛めていました

右腕を痛めたことから考えた話です。

 

 

右肩を痛めていました

 チョット前に、1ヶ月弱ほど右腕を痛めていました。

バランスを崩した時に、とっさに右腕を突いた結果、肩と上腕を痛めてしまいました。

その後、右腕を上げて使うと、肩から上腕が痛いという状態でした。

その結果、いつも痛いという訳では無いのですが、日常の様々な場面で痛みが走るという、いささか不便な事になってしまいました。

高校生の私を褒めてやりたい

 以前にも記事に書いたことが有るのですが、両手で箸を使う事が出来ます。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その為、食事に関しては、ほとんど不便を感じることなく済みました。

夏休みの間に苦闘した、高校生の私を褒めてやりたいです。

残念ながら、目的であった頭を良くするというのは、期待外れなのですが。

意外に出来てしまったものも

 痛めたことが分かった時に気になったものの一つに、このブログの更新をどうするかというものが有りました。

キーボードとマウスが使えないんじゃないかと思いました。

ところが、この2つに関しては、心配したほどではありませんでした。

マウスに関しては、左利き用のセッティングにすることで、比較的問題無く使えるようになりました。

キーボードに関しては、左手の人差し指のみの一本打法で、入力時間は掛かりましたが、なんとかなるものです。

チョットしたことが出来ない

 意外と困ったのが、歯磨きと髭剃りでした。

どちらも、毎日何も考えずにやっている事なんですが、これを左手でやるとなると、途端に困った事になりました。

とにもかくにも、左手の動かし方が分からないのです。

どうしても右手の感覚でやってしまうために、思っているところに動かすことが出来ません。

歯ブラシは同じようなところばかりを磨くことになったり、歯茎に思い切りぶつけたりと、散々でした。

髭剃りは、電動シェーバーを顔の局面に沿って動かすことが出来ません。

何度やっても剃り残しが出てしまい、時間のかかること。

それでも、最後の頃には、普通に出来るようになったので、面白いものです。

WBC

 そんなふうにドタバタとしていたら、WBCが始まりました。

ご存知のように、その試合だけでなく、選手の動向なども詳しく報道されました。

その中で、ダルビッシュ選手が練習で左手投げをしたというものが有りました。
変化球も投げれるようで、さすがというところでしょうか。

遊びでやったのかと思ったのですが、本人曰く、「こっち(左投げ)もすごい練習して、そしたらこっち(右投げ)も良くなるから。右にもいい」という事らしいです。

これは、以前書いた、左手で練習することで、利き手も上手くなるという話そのものじゃないですか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

今回も

 その流れでいくと、今回の歯磨きと、髭剃りはどうだったでしょう。

対象が対象だけに、明確に上達したのかどうかは分からないのですが、それでも違いを感じるところは有ります。

歯磨きは、歯一本ずつを意識して磨けるようになりましたし、髭剃りも、剃り残しが少なくなったような気がします。

やはり、「利き手ではない方で練習すると利き手も上手くなる」というのは使えそうです。


 私的には、次に狙うのは汚い字でしょうか。


ではでは

3月11日(2023)

東日本大震災について考えた話です

 

 

3月11日

 今年も3月11日がやってきました。

もうなのかまだなのか、東日本大震災から今年で12年だそうです。

個人的には、直接被害を受けたという事は無かったのですが、あの時受けた衝撃はまだはっきりと思い出すことが出来ます。

まだまだ自分たちの生きている世界について、知らないことの方が多い事を、思い知らされまた。

先日も、何十年ぶりかで映画「日本沈没」を観たのですが、その地震のシーンを最初に見た時に、これはいくらなんでもやり過ぎなんじゃないかと思った記憶が有るのですが、今回はこんなものだったかなと思ってしまいました。

それ程に、我々の想像力の貧困さをまざまざと見せつけられた出来事でも有りました。

以前の記事

 そんなことも有って、このブログでも、防災関係の記事をいくつか書いて来ました。

全てでは無いですが、思いつくだけ挙げてみると。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

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といった感じで、基本的には地震などの災害に遭った時のための事前の対策、といった話が多いでしょうか。

いくら防ごうとしても

 というのも、特に地震に関して言えると思うのですが、いくら発生確率を計算しようが、巨大な防潮堤を始めとする防災施設を作ろうが、根本的に地震そのものとそれによる被害を防ぐ事は出来ないと思うからです。

例えば、南海トラフ地震については、マグニチュード8~9クラスの地震の30年以内の発生確率が70~80%という事になっていますが、これにどれほどの意味が有るのでしょう。

最近になって、この数字自体の根拠が怪しいという話もあるようですが、それ以前に確率が100%でない以上、地震が起きても、起きなくても間違っていないということですよね。

あの熊本地震の発生確率は、1%未満と見積もられていたようですし、確率に関係なく起きる時には起きると考えておくべきでしょう。

防災施設も、東日本大震災を観れば分かるように、その被害は簡単に我々の想像力を超えてきますから、超えて来た時の事を考えておくべきでしょう。

ところで、東日本大震災の後に作られた巨大な防潮堤は、南海トラフ津波被害が予想される地域には作らないんですかね。
まあ、そんなことをやっていると、日本列島の周りをぐるっと防潮堤で守らなければならないことになりますが。
あまり住みたいとは思わないですが。

という訳で、力を入れるべきは、起きてしまった後にどうするかを、みんなで考えて、みんなで共有するという事ではないでしょうか。


 あの光景は、同時代を生きていた者として、忘れないようにして、活かしていかなければいけないと思っています。


ではでは

思いがけず花粉症と油

花粉症と油について思いがけず考えた話です

 

 

前回までの話

 前回まで2回に渡って、花粉症と油について考えてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

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花粉症の原因として、オメガ3とオメガ6の摂取量の比が怪しいのではないかという話でした。

オメガ3に対してオメガ6を摂り過ぎているのが問題という結論でした。

その為、後は摂りすぎのオメガ6を減らしオメガ3を増やして比率を正しくするぞ、
という事で話は終わりました。

それで話は一旦終わるはずだったのですが、これが意外と大変だという事が発覚したので、今回はその話です。

大さじ一、二杯の筈が

 比率を正しくするためには、先ず適正な摂取量が分からないことには話になりません。

それについては、前回までの2回の記事を書くために調べていた時に、一日に大さじ一、二杯だというのを見掛けていたわけです。

料理している時の事を思い出すと、炒め物などに油を使う時に、大さじ一、二杯などはすぐに使ってしまっているの明らかです。

炒め物などに使うサラダ油やごま油はオメガ6なので、その使用量を大さじ一、二杯未満い押さえ、その分オメガ3をえごま油などで摂れば良いかなと。

油を減らした分は、テフロンに頑張ってもらえば何とかなるだろうと。

そんな風に考えていた時が、私にも有りました。

一日40~60グラム?

 ところが、油の摂取量としては、一日40~60グラムが適正という情報も有る事に気が付きました。

油大さじ一、二杯で40~60グラムという事は有り得ません、せいぜい30グラムというところでしょう。

どちらが正しいのでしょうか。

結論から言えば、どちらも正しかったです。

一日40~60グラムというのが、必要な油脂の量で有り、大さじ一、二杯というのは、そのうちで料理に使う油の量という事のようです。

料理に使う油以外は何かというと、食品に含まれている油という事です。

確かに、冷静になって考えると、オメガ3の含まれているものにサバなどの魚というのが有った訳で、食品に含まれる油というの考慮しなければならない訳です。

食品は食材だけでは無い

 ここで、さらなる情報「見えない油」がとどめを刺します。

「見えない油」とは、料理に使う油のように見て分かるものでは無く、食品に含まれている見ただけでは分からない油の事です。

先ほどのサバに含まれる油も「見えない油」なのですが、それよりも問題なのは、サバなどの食材に含まれる物よりも、すでに食べられる形になっているものに含まれる油です。

分かり易いのは「揚げ物」でしょうか、油で揚げて有る訳ですから、たっぷりと油を含んでいます。

それだけでなく、最近はほとんどの食品に油が含まれていると言っても過言では無い状況にあります。

この事が分かってから、スーパーで食品に表示されている油の量を確認する癖がついてしまいました。

なかなか油を使っていないものが無いのが驚きです。

特にお菓子なども曲者で、手焼きのせんべいなどの伝統的なものの一部にしか、油を使っていないものを見つける事が出来ません。

しばらくは、「見えない油」との格闘が続きそうです。


 この辺りが、オメガ6の過剰摂取を招き、結果として花粉症患者を増やしている原因なのかもしれません。


ではでは

引き続き花粉症と油

花粉症と油についてもう少し考えた話です

 

 

前回の話

 前回は、花粉症と日頃食べている油の関係について考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

食用の油の成分の種類である、オメガ3とオメガ6の摂取の比率が花粉症と関係しているのではないかというものでした。

オメガ6が、花粉症に伴う炎症の原因になる物質を体内で作る際の原料となっており、オメガ3が炎症を抑える効果が有るという事でした。

その為、いくらオメガ3を食べて炎症を抑え込んでも、それ以上にオメガ6を食べていれば、炎症を引き起こす物質が多過ぎて焼け石に水になってしまうのです

そこで対策として、オメガ6を減らしつつオメガ3を増やして、理想的な比率である2:1にしてやればよさそうだという訳です。

コップ理論

 花粉症の発症の機構に関しては、完全には解明されていないようですが、よく聞く説明に「コップ理論」というものが有ります。

花粉症は、ある日突然発症するのですが(私も、てっきり最初は風邪をひいたと思ったんですよね)、それを説明するために花粉にするアレルギーのコップのようなものを想定する事で説明しようというものです。

花粉に対するアレルギーの何かが(これが正確にはよく分かっていない訳です)コップに溜まっていき、有る時にコップからあふれる事で突然発症するという事になります。

コップの中身が分からないので、それを減らす方法も分からず、一度発症した花粉症は直せないということになっています。

従って、医者で貰う花粉症の薬というのは、炎症を起こす物質に対する対症療法という事になります。

結構いい線行っているのでは

 以上の事を踏まえると、オメガ6の過剰摂取による花粉症の発症という仮説は、結構いい線を行っているんじゃないかと思うのですが。

コップという概念は、オメガ3とオメガ6による炎症を引き起こす力と抑える力の差と考えればよさそうです。

オメガ6が過剰になり、オメガ3との差が付いた時に症状があらわれて発症したと認識されるという事になります。

従って、オメガ3とオメガ6の比率を正常にすることにより、対症療法ではなく、症状の発生そのものを抑えることが出来るかもしれません。

他の原因についても

 ところで、花粉症の原因については、他にも色々と挙げられています。

戦後の成長期に大量に植樹された杉が成長し、大量の花粉が作られるようになったから。

車の排気ガス等に含まれる、いわゆるPM2.5などの微粒子物質が影響している。

等が代表的なところでしょうか。

何れも、免疫系を刺激するのは確かなようです。

しかしながら、それだけが原因で花粉症になるのであれば、多かれ少なかれ全ての人に影響があるはずです。

現実には、花粉症になる人もいれば、全く影響のない人も存在します。

その原因が、各人の食生活の違いによるオメガ3とオメガ6の摂取比の違いと考える事も出来そうです。


 色々と理屈をこねて来ましたが、油の取り方を変えるだけなので、体に悪いという事はなさそうですし、やってみるしかなさそうです。
密かに、体重も減らないかなと期待しているのですが。


ではでは

花粉症と油

花粉症と油について考えた話です

 

 

オメガ3

 健康情報番組でオメガ3という油について取り上げられることが有ります。

健康オタクの私としても、最近気になっているものの一つだったりします。

オメガ3ですが、ご存知のように食用に使う油の一種という事になります。

青魚、亜麻仁油、えごま油などに多く含まれているようで、健康のためにこれらを食べるのが良いという訳です、

で、その効果はと言うと、動脈硬化の防止、具体的には中性脂肪や悪玉コレステロールを減らすということだと認識していました。

アレルギーにも

 オメガ3に関しては、概ね上に書いたような認識だったのですが、有る番組でアレルギーにも効果が有るという話をしていたのが気になって調べてみました。

長年に渡って苦しめられてきた花粉症にも良いという話もあったからです。

調べてみると、確かにオメガ3が炎症を抑制する効果を持っているようです。

花粉症による炎症にも効果が有るという事のようです。

ただ、取敢えずオメガ3を食べれば良いという訳では無いようです。
(番組の内容としては、オメガ3を食べましょうというものでしたが)

オメガ6との比率

 オメガ3という名前に、3という数字が有る事から予想出来るように、ほかの数字のものも有ります。

その中で、重要なのはオメガ6という油になります。

食用としては、いわゆるサラダ油、ゴマ油ですね。

このオメガ6とオメガ3の摂取比率が重要なようなのです。

理想的な比率はオメガ6とオメガ3が2:1という事だそうです。

日本人の現状はおよそ5:1という比率 で、オメガ6の食べ過ぎです。

まあ、料理で油と言えば、普通はサラダ油、ゴマ油ですからね。

どうして比率が

 さて、花粉症の炎症を抑えるためならば、炎症に効果が有るオメガ3を摂取すればよさそうですが、なぜオメガ6との比率が問題になるのでしょう。

この辺りを調べていくと、興味深い事が分かってきました。

そもそも花粉症というのは、人体に入って来た花粉に対して、免疫機構が過剰に反応することにより引き起こされます。

具体的には、過剰に反応することにより、有害物質と判断した花粉を排除するために様々な物質が放出されます。

それらの物質の中に炎症を引き起こす物が有り、それらによって引き起こされた症状を花粉症と呼んでいるわけです。

で、それと比率との関係ですが、どうも、オメガ6が炎症を引き起こす物質の原料になっているようなのです。

なので、いくらオメガ3を食べて炎症を抑え込んでも、それ以上にオメガ6を食べていれば、炎症を引き起こす物質が多過ぎて焼け石に水になってしまうのです。

ならばどうするか

 比率が問題ならば、対策は明確です。

オメガ6を減らしつつオメガ3を増やして、比率を2:1にしてやればよさそうです。(オメガ3だけを増やしていくと、メタボまっしぐらになりそうですから)

という事で、今年の花粉症の季節に向けて、オメガ6を減らしてオメガ3を増やす対策を取り入れる事にしようと思います。

これで、長年苦しめられている花粉症が何とかなればいいのですが。

ところでこれで効果が有れば、花粉症の原因の一つは、オメガ6の取り過ぎという事になるのですが、どうなんでしょう。


 やはりTVでは、スポンサーの関係で、オメガ3を食べましょうとは言えても、オメガ6を減らしましょうとは言い難いのでしょうね。


ではでは

太陽と文明レベルの関係から考えると

太陽と文明レベルの関係から考えて見た話です。

 

 

前回の話

 前回の話は、太陽と文明レベルの関係についてでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

人類の文明のレベルが、太陽エネルギーとの関係で説明出来るのではないかというものでした。

先ず、太陽活動の変動による気候変動に対応する、言うなれば能動的な文明レベルが有ったと考えます。

次に、石炭、石油などの太陽エネルギーを濃縮したとも言える資源を活用し始めます。

受動的な文明から、能動的な文明のレベルに入った訳です。

これで、太陽活動の変動による影響を、ある程度相対的に小さなものに出来ました。

しかし、これら資源が有限な事と、気候への影響が問題視されるようになります。

石炭、石油などの使用が、濃縮された太陽エネルギーを解放することと考えれば、気候への影響も当然と考える事が出来るかもしれません。

それに対応するために、太陽光発電風力発電などの継続的なエネルギー源を利用しようとしているのが、現在の状況と言えます。

その先には核融合発電が有り、太陽を自ら作り出すレベルという事になります。

当面の方策は

 核融合発電は、残念ながら実用化までにまだ30年とも50年ともいえる期間が必要なようです。

それまでは、太陽光発電風力発電でという事になりますが、発電量が一定でないという大きな問題が有ります。

太陽光は昼間しかないですし、風力も何時も有る訳ではありません。

これでは全面的に切り替える事が出来ません。

そのために、現実には火力発電や原子力発電に頼らざるを得ない事になっています。

火力発電は、結局石炭、石油などの資源を利用するので問題はそのままです。

原子力発電は、福島の状況から明らかなように、技術的に不完全で問題が多いものだと言わざるを得ないでしょう。

最近になって、新型の原子炉を作るとか作らないとの議論が有りますが、東京に作る事が出来るかどうか考えれば、どういう技術なのかは明らかでしょう。

どこを目指すのか

 ではどうするのかという事になりますが、基本的にはやはり太陽光発電風力発電のような継続的なエネルギー源を使う事になると考えられます。

しかし、上でも書いたように定常的に発電出来ないという根本的な問題が残ります。

その為、発電出来ないときにも電気が供給できる手段が必要となります。(現在は、火力発電や原子力発電を使っているわけです)

それは、現在でも一部で使われている「電池」という事になるでしょう。

もっとも、現在全てがそうなっていないのは、その性能、価格が十分ではないからです。

という訳で、当面の目標は高性能で安価な電池の開発という事になります。

温暖化対策やSDGSといった議論が行われていますが、単純に高性能で安価な電池の開発という目標に世界的な力を傾注する方が、分かり易いし合意も形成し易いと思うのですが。


 欧州の天然ガスへの依存が無ければ、ウクライナの状況も違ったものになった筈ですよね。


ではでは

太陽と文明レベルの関係

太陽との関係で文明レベルについて考えた話です。

太陽活動と歴史

 このブログでは、いくつかの記事で、耐油活動と歴史の関係について考えてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

太陽活動の変化が歴史を動かしているのではないかという立場から、歴史上の出来事を考えています。

太陽活動の変動が地球の気候に影響を与え、それに対応することが歴史上の出来事のきっかけになっているのではないかという訳です。

受動から能動へ

 先ず気候の変動が有り、それに対するリアクションが起こされる訳です。

その有り方は、太陽からのエネルギーに対して受動的だという事が出来そうです。

その後文明は、石炭、石油や、天然ガスを利用する段階へと入っていくことになります。

石炭、石油などははるか昔の時代に生きていた植物などの生物資源化から、長い時間をかけて生成されたと考えられています。

それを採掘し、利用する訳ですから、太陽からのエネルギーを能動的に利用していると言えるでしょう。

有限から持続へ

 受動的から能動的への移行により、太陽活動の変動による気候の変動による社会への影響が、相対的に小さなものになることになりました。

しかし、石炭、石油などは、長い時間をかけて生成されたものであり、残念ながらその埋蔵量は有限で、何れ枯渇することになります。

更に皮肉なことに、その使用量が莫大に膨れ上がったために、一旦その影響から逃れたかに見えた気候の変動を、自らが引き起こしつあるかもしれないという状況になりました。

それに対して現状は、太陽電池風力発電、波力発電などの持続可能なエネルギーで乗り越えようとしています。

これらの特徴は、全て基は太陽エネルギーだという事です。

自ら作り出す

 現状は、以上のような地点に有る訳ですが、ここまではどのように太陽エネルギーに対応していくかというものだと言えるでしょう。

つまり、太陽が有る事が前提になる訳です。

そう考えると、次の段階が見えてきます。

その太陽そのものを作り出せば、太陽の有無に関係なくなります。

太陽を作り出すというのは、核融合ということになります。

核融合が出来た時が、次の文明の始まりと言えるのかもしれません。


 原子力については、福島の事故を見ても、色々な面で袋小路ではないかと思っているので、あえて取り上げていません。


ではでは

窓の寒さ対策

窓の寒さ対策について思いついた話です

 

 

窓の寒さ

 この冬は、結構な寒波が何度もやって来て、結構寒かったなという印象です。

もっとも、前回の冬に比べてどうだったかと言われると、よく分からなかったりするので、いい加減なものですが。

その何度か在った寒波に合わせて、TVで様々な特集をやっていました。

その中に窓の寒さに関するものがありました。

住宅から熱が逃げていく時に、窓からの割合が高いというのは知っていました。

特に日本の場合、窓枠としてアルミサッシが使われているのが問題だという事も。

金属の熱伝導率が高いのが原因ですね。

確かに、冬に窓枠を触ると冷たいですよね。

欧米では、プラスチック製窓枠が使われているようで、日本はどうしてそうならないのか不思議なんですが(大人の事情というやつかもしれません)。

窓枠の話では無かった

 そんな内容かと思ったのですが、番組の内容は窓枠の話では全然ありませんでした。

カーテンの下の端から寒気が入って来るので、それに対処する方法といった感じのものでした。

カーテンの下の端から寒気が入って来ると言っても、勿論窓が開いているわけでは無く、窓とカーテンの間の空気が冷やされて下の端から出て来るという話でした。

これまでそんなところに注意したことも無いので、取敢えず部屋の窓のカーテンの下に手を出してみた訳です。

そうしたら、確かに冷たい空気の流れが有りました。

しかも、その時は外気温が氷点下だった事もあってか、結構冷たい流れが。

気にしたことも無かったが

 これまでカーテンの下からの冷気なんて全く気付いていなかったのですが、知ってしまうとどうにも気になる訳で。

番組で紹介されていた対処法は、大きく分けて2種類でした。

一つは、割れ物の梱包などに使われるプチプチ等の断熱性の物を窓に貼るというもの。

もう一つは、段ボールなどの板状のものを置いて、冷気をせき止めるようにするもの。

 

引用元:窓の防寒対策してみました。|のりパパのブログ|のりパパ R スピリット! - みんカラ

 

どちらも今ひとつ

 どちらの方法も効果はありそうなんですが、取り入れるかと言うと今一つなんですよね。

窓に貼るのはうまく貼れるか心配ですし、冬が終われば外すのも面倒そうで。

冷気の堰止めは、上の写真のような出窓タイプだとそうでも無いでしょうが、普通の窓だと床に置くので邪魔になりそうです。

と、気にはなるけどもどうしょうかなと思っていたんですが、急転直下それなりの解決策を思いつきました。

それは、単純に床まで届く長いカーテンを使うというものです。

床まで有るタイプの窓では難しいですが(それよりも長いカーテンが手に入れば可能ですが)、床からある程度上に有る窓で有れば、床までの窓用のカーテンを使えば床まで届いて余ることになります(我が家ではそうでした)。

この程度でも結構防げるようで、私的には満足しています。


 特に、冬のために特別に何もしなくて良い所が気に入っています。


ではでは

不断の品質と機能の追求

日本人と「不断の品質と機能の追求」について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、「縮み」志向と日本人について考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

『「縮み」志向の日本人』という本の内容を基に、日本の高度成長の背景に「小さいものに美を認め、あらゆるものを<縮める>」という日本文化の特徴が有るのではないかという説について考えました。

結論的には、そういった面も無くはないが、それよりも「不断の品質と機能の追求」を行う点に有るのではないかとしました。

少し補足させていただくと、ここで言う「機能」には「意匠」といったものも含まれていると考えて下さい。

そうしないと一部のもの、例えば「庭園」等、の「機能」の追求とはなんだという事になりますから。

それも含めて、今回はなぜ日本人が「不断の品質と機能の追求」をするようになったのか考えて見たいと思います。

環境の影響

 結論から言うと、我々日本人が住んでいる日本列島の環境がその背景にあるのではと考えています。

以前の記事で、日本列島での農耕の始まりについて考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本列島で独自に農耕社会が発展することはなく、外部からの導入による弥生時代の始まりを待たなければなりませんでした。

この背景には、日本列島の事前の豊かさが有ると考えました。

完全に農耕に移行せずとも、狩猟採集で十分だったのです。

そのような自然環境に農耕が導入された訳です。

農耕による生産性も高かったと考えられます。

この事が、日本人の「不断の品質と機能の追求」という傾向と関係しているのではないかと思うのです。

高い生産性により

 別の記事で、農耕と権力の関係についても書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

農耕に必要な人員よりも、その生産物で養える人数うが多くなった結果、余剰な人員が生産物をコントロールすることにより権力が発生したと考えました。

しかし余剰な人員が全て権力側になるわけでは当然なく、残りの人々は何らかの仕事をすることになります。(例えば土器の製作とか。)

上でも考えたように、日本列島の生産性は高かったわけですから、これらの権力以外の仕事に就く人々も多かったと考えられます。

仕事に就く人が多いと

 多くの人が農耕以外の仕事に就くと、当然同じ仕事に就く人も多くなります。

そうなると、社会はすでに狩猟採集時代のような平等社会ではないので、よりよい生活のために、競争をすることになります。

同じ生産物であれば、品質が良い方が選ばれるでしょうし、機能的にも良いものが選ばれることになります。

それがあらゆる仕事で要求されることになります。

その結果、日本文化に「不断の品質と機能の追求」という底流が形成されることになったのではないでしょうか。


 日本列島という豊かな環境に住んでいるのに、今の状況はどうなんでしょう。


ではでは

「縮み」志向なのか

日本人と「縮み」志向について考えた話です。

 

 

「縮み」志向の日本人

 ネットをさまよっていたら、「縮みの文化」という言葉に行き当たりました。

「縮み」という事に着目した日本人論のひとつで、昔話題になったのを思い出しました。

たしか、書籍が話題になり、本屋で斜め読みした記憶が有ります。

調べてみると『「縮み』志向の日本人』という本でした。

幾つかの版が有るようですが、最初の出版は何と1982年で、40年以上も前でした。

いつも思う事ですが、何時の間にそんな時間がと驚くばかりです。

「縮み」志向

 しっかりと当該の本を読んだわけでは無いので、ネットで調べた内容が中心になりますが、主張としては次のようなものです。

1982年出版という事で、それまでの高度成長期を通り抜けて来た日本の発展の理由について考察したものになります。

その高度成長を支えたものが、日本人の意識の底にに共通して流れている「「縮み」志向」だという訳です。

その「「縮み」志向」ですが、「小さいものに美を認め、あらゆるものを<縮める>ところに日本文化の特徴がある」という事のようです。

どんなものが「縮み」志向なのか

  扇子、庭、トランジスタ、折詰め弁当等に「縮み」志向が見られるという事らしいです。

それらを、入れ子型、扇子型、姉さま人形型、折詰め弁当型、能面型、紋章型という6つの型に分類して説明されます。

例えばトランジスタを始めとする半導体を使って、高機能化をしつつ小型化をして行く。

世界を席巻したウォークマンなどが、この代表でしょうか。

これは畳み込むという事で、扇子型という事だそうです。

折詰め弁当型の代表である、折詰め弁当はどうか。

膳で供される食事を縮めて、可動的なものにつくりあげるところに発想の原点がある、と考えます。

「縮み」も有るが

 確かに「縮み」という捉え方で説明出来るものもあるのかもしれません。

しかしそれを志向しているとまで考えるのはどうなんでしょうか。

折詰め弁当は、別に膳で供される食事を縮めて、可動的なものを作り上げているわけでは無いと思うのですが。

それに基となる膳も、どんどんコンパクトになっているという事も無いですしね。

最近では、全国的に巨大な仏像や観音像が作られていますが、どうなんですかね。

これについては、これまでも奈良の大仏を始めとして少なくないものが作られていいますから、昔からそうだったようですし。

「縮み」一本でというのはどうなんでしょう。

ではどう考えるか

 というような事をかんがえていたら、これらのものを支える背景のようなものに気が付きました。

それは、「不断の品質と機能の追求」という事です。

我が国においては、全てのものが対象と言っていいほどに,、常に商品の品質と機能の改善が行われています。

トヨタの「改善」が「KAIZEN」という英単語になったのが象徴的ではないでしょか。

「不断の品質と機能の追求」の結果がウオークマンなのです。

折詰め弁当も、持ち運べるものを追求した結果であり、単に縮めたわけでは無いのです。

結果で有って、それを志向した訳では無いという事です

時に機能の追求が過ぎて、機能てんこ盛りでかえって使い難いという皮肉な事も起こるのですが。


 次回は、なぜ日本人が「不断の品質と機能の追求」をするようになったのか考えてみたいと思います。


ではでは

自動運転とドライバー

自動運転とドライバーについて考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、どんな自動運転車が欲しいのかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

様々な機能てんこ盛りのハイスペックな車ではなく、全自動で走る事に絞り込んだシンプルでリーズナブルな価格の物が欲しいというものでした。

 

引用元:自動運転の「Waymo」が初の大型外部投資を受け入れ - EVsmartブログ

こんな感じので、近所のスーパーに行って帰ってくることが出来て、雨風が防げればいいのです。

ナイト2000

 自動運転と言えば、昔(今調べたら1980年代始めの番組で、40年程前でした)「ナイトライダー」というアメリアのテレビドラマが有りました。

ナイト2000という自動運転の車に乗って、様々な事件を解決していくというものでした。

 

引用元:ナイト2000 - Wikipedia

もっとも、ナイト2000(21世紀にはこんな車が有るだろうという事で2000だったのでしょうね)は、自動運転なのは間違い無いのですが、番組内では人工知能を搭載しているという設定でした。

単に自動で走るだけでなく、人間のように考える事が出来る車だったのです。

そのためにナイト2000はドライバー無しで走るのは勿論、会話することも出来ました。

信用できない

 さすがにナイト2000程では無いでしょうが、自動運転車が実用化された時には、それなりに喋るようになるのでしょう。

ナイトライダー」を見ていた時にもそうだったのですが、この車が喋るというのはまだしも、誰も居なくても走るというのが気持ち悪いんですよね。

自動運転でも、当然ドライバーが居なくても勝手に走ります。

理屈の上では、自分がドライバーなのですが、全自動になれば基本的に何もしないという事になります。

ハンドルに向かっていなくても良いわけです。

これは、私が車は誰かが運転している物としてこれまで生きて来たからなのか、何か信用できない。

ドライバーが居た方が

 やはりドライバーが居た方が安心出来そうな気がするんですよね

とはいえ、その為に座席をひとつ占めるのはバカらしいので、マスコット的なものを乗せるというのはどうかなと思うのです。

少し前に「けものフレンズ」というアニメが話題になりました。

その中に、「ラッキービースト」というキャラクターが出て来ます。
 

引用元:けものフレンズプロジェクト

非常に高性能なガイドロボットという設定になっています。

接続することで、車の運転も出来てしまいます。

 

引用元:けものフレンズプロジェクト

これだと運転席が必要ですが、ダッシュボードの上でも良いはずです。

現実の自動運転車でも、こんな感じのものを入出力インターフェースとするのも有りじゃないかと。

これなら喋ってもいいような気がします。

外から見ても何かが運転しているように見えるので、いいのではないでしょうか。

こんなの作ってもらえませんかね。


スマートスピーカーなんかも、こんな形にしてくれませんかね。


ではでは