日本人と「不断の品質と機能の追求」について考えた話です。
前回の話
前回は、「縮み」志向と日本人について考えた話でした。
『「縮み」志向の日本人』という本の内容を基に、日本の高度成長の背景に「小さいものに美を認め、あらゆるものを<縮める>」という日本文化の特徴が有るのではないかという説について考えました。
結論的には、そういった面も無くはないが、それよりも「不断の品質と機能の追求」を行う点に有るのではないかとしました。
少し補足させていただくと、ここで言う「機能」には「意匠」といったものも含まれていると考えて下さい。
そうしないと一部のもの、例えば「庭園」等、の「機能」の追求とはなんだという事になりますから。
それも含めて、今回はなぜ日本人が「不断の品質と機能の追求」をするようになったのか考えて見たいと思います。
環境の影響
結論から言うと、我々日本人が住んでいる日本列島の環境がその背景にあるのではと考えています。
以前の記事で、日本列島での農耕の始まりについて考えました。
日本列島で独自に農耕社会が発展することはなく、外部からの導入による弥生時代の始まりを待たなければなりませんでした。
この背景には、日本列島の事前の豊かさが有ると考えました。
完全に農耕に移行せずとも、狩猟採集で十分だったのです。
そのような自然環境に農耕が導入された訳です。
農耕による生産性も高かったと考えられます。
この事が、日本人の「不断の品質と機能の追求」という傾向と関係しているのではないかと思うのです。
高い生産性により
別の記事で、農耕と権力の関係についても書きました。
農耕に必要な人員よりも、その生産物で養える人数うが多くなった結果、余剰な人員が生産物をコントロールすることにより権力が発生したと考えました。
しかし余剰な人員が全て権力側になるわけでは当然なく、残りの人々は何らかの仕事をすることになります。(例えば土器の製作とか。)
上でも考えたように、日本列島の生産性は高かったわけですから、これらの権力以外の仕事に就く人々も多かったと考えられます。
仕事に就く人が多いと
多くの人が農耕以外の仕事に就くと、当然同じ仕事に就く人も多くなります。
そうなると、社会はすでに狩猟採集時代のような平等社会ではないので、よりよい生活のために、競争をすることになります。
同じ生産物であれば、品質が良い方が選ばれるでしょうし、機能的にも良いものが選ばれることになります。
それがあらゆる仕事で要求されることになります。
その結果、日本文化に「不断の品質と機能の追求」という底流が形成されることになったのではないでしょうか。
日本列島という豊かな環境に住んでいるのに、今の状況はどうなんでしょう。
ではでは